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109. アヌラグ・マトゥール『奇妙なアメリカ人』(1997年刊)、 Anurag Mathur, The Inscrutable Americans, First published by New World Library California in 1997.

inscrutable americanアヌラグ・マトゥール『奇妙なアメリカ人』
という小説は
インドの 田舎の 優秀な青年の
一年間の アメリカ留学の記である
それは おどけた表情で始まった
だが アメリカでの人々との交流が
とりわけ女(性)との行違いから
深い孤独の迷路に入ってゆく
マトゥールは 非常に通俗的なものを
丹念に書き込みつつ それとの批評的距離を
築くことによって
真実なるものの姿に迫る
それは インドの現代小説の得意とする
ある種のリアリズム つまり
超通俗リアリズムの完成形に近い


 V. S. ナイポールは、英国留学への旅の途上、何を食べたらいいのか、つまり食物についての禁忌に触れぬように神経をすり減らす。ナイポールは、ガンディーの『自叙伝』におけるある種似かよっ経験に言及しながら、その経験を繰り返し書いて来た。ナイポールは、アイスクリームしか喉を通らなかった。そこまで激しい食物への恐怖、強固な禁忌が存在するのか、とそれを読んで私は驚いた。…アヌラグ・マトゥールの『奇妙なアメリカ人』という小説も、アメリカに渡る留学生のゴパルが、飛行機の中で供される機内食には手がつけられず、代わりに37杯ものコークを飲むのだ。37杯ものコークのおかわりは、スチュワーデスを怒らせた。ナイポールやガンディが至極まじめに悩んだ食への禁忌の物語を、マトゥールは喜劇として書いている。ところで、この小説の導入部は、インドの田舎からやってきた箱入り息子のバカげた挿話であるよりも、インド人であることの強い表現のように見える。インドのある階層の人々にとって、食物のタブーは、人の生き死ににかかわるような重大事なのだ。

 ゴパルは、二十歳で、アメリカ のエヴァーズヴィルというところの大学で工業化学を一年間勉強することになった。実家は、ヘアーオイルを作る会社を経営している。彼は、インドの化粧品工業会における最優秀学生で(数学部門)、業界の推薦と何某かの学資援助を受けているのかも知れない。……ヘアーオイル会社とか、化粧品工業会の優秀学生というのは、多分にギャクやユーモアが入っているのだろう。しかし、喜劇の理解は本当に難しい。ずいぶんいろいろな笑いの種を、この小説を読んでいるようでいて、実は、見過ごしている気がする。何で笑いをとるかは、文化的な背景がわからないと厳しいからだ。

 笑いだらけの『奇妙なアメリカ人』で、やはりランディの存在が面白い。ランディはゴパルの留学中の世話人だ(同じ大学の学生)。ランディは、すべてを茶化してしまう。冗談でしかものを言えない。「メリル・ストリープとデートの約束がないなら、今すぐここに来い」と電話をかけてきたり、「お前が俺の娘とやりまくっているのは分かっている、すぐにこの扉をあけろ、この黒んぼうめ」と叫んだりして朝の来訪を告げる。……良く分からないが、何かこの種のアメリカ人が居るような気がする。そして、私の思い込みでは、この種の冗談しか言えない人々は、先進国に特長的で、逆に、途上国においては、シリアスな人種がまだ多く存在している、ように思うのだ。都会的なセンスと田舎者との対比かも知れない。

   この小説は、喜劇として始まる。ゴパルは、アルコールには手を出さない(ガンディが外国人女性とは決して交わらないと母親に誓ったように)。ゴパルは、コーラを飲み続ける。それが、初めてのデートでビールを飲み、宿酔を体験するのだ。徐々に、女の人との交流を通して―ひどい肥満の彼女や大学でもう一度勉強しなおしたいと思っている美容師、離婚を経験したあとつましい生活をしながら学位取得に励んでいる心優しい女(性)等々、また、ぼったくりマッサージパーラーの挿話もある、相手の女(性)はどうもキャンパスで見た顔なのだ―この小説は、喜劇の雰囲気がひいていき、現実味のある苦悩に変わってゆく。……この小説の最後のページは、自由を経験してしまった者が、しきたりのなかで幸福に暮らしている故郷で、これからどうやって生きていけばいいのかと、ゴパルは煩悶する。

   この小説の最後のページにおける結論(しきたりからの開放と自由の試練)は、いささか唐突であり、その内容は平凡な気がする。というより、この結論も、またクリシェー(紋切り型の慣用表現)を用いた、すなわち批評意識に裏打ちされた小説を終わらせるための便法であるように見える。この小説が豊かで楽しいのは、しきたりからの開放と自由の試練を暗示する結論にあるのではなく、ウブなインド人青年が、アメリカの現実の人々と接触した時の火花のような現象の報告の方にあるのではないか。その報告は果てしなく続く。……インドの市場では、客は、店主や店員と価格交渉するのは、習慣という以上に文化だ。だが、その値引き要求を、エヴァーズヴィルのショッピングモールで繰り返せば、事態は紛糾する。愛想のいい女性店員は、怒りで頭が混乱し、店長に助けを求めなければならなくなる。それを、ゴパルは、一度ならず繰り返すのだ。また、バーに飲みに行った帰りの駐車場では、暴漢に襲われかかる。「お前らはお前らのクニに帰りやがれ、気にくわねんだ」とナイフを突きつけら脅される。これもアメリカの一つの典型を描いている、ように見える。レストランのボーイに連れられてカルトがかった教会にもゆく。この世は悪魔に充ちている、と説く牧師は、ゴパルが悪魔であるかのように睨む。あるいは、クリスマス休暇に世話人のランディの故郷へ招かれたのはいいが、ランディの母親の作るインド料理がゴパルの喉を通らないのだ。このように異文化接触の火花の物語が続くのだ。

   この小説は、インドの青年にとっては、実用書の側面があるかも知れない。アメリカにこれから渡って勉強しようとしている者(もしくはそういう望みを持っている者)は、アメリカではどう行動し、注意しなければならないのか、を小説仕立てで教えてくれる。その最大の教訓は、孤独だ。孤独に耐える修養を訴えているのだ。インドの大家族主義から遠く離れて、何でも自分の好きなようにできる自由があるが、それは途轍もない孤独への迷路に彷徨うことを避けられない。…この孤独のそばにはアメリカの自由な恋愛があるのだが(とうぜん故郷ではまったく想像もできないことだ)、ゴパルは、ぽつり呟く、アメリカの女(性)は、フランクに恋愛を楽しむが、わがままでひどく気難しい、と。恋も苦い孤独の味がするのだ。

   ゴパルの物語を読んでいて、終始頭を離れなかったのは、英語の問題だ。ゴパルは、アメリカ人の喋る英語は、英語ではない、という感想をほんの一、二回漏らすが、特に言葉のうえでの苦労をしている風には見えない。インドで高等教育を受けていれば、それは当然ほとんどが英語でなされていて、英語の能力は高いと見るべきだが、アメリカで英語で全然苦労しないところは何とも羨ましい。漱石がロンドンの下宿の女中に、ストローを指さされ、これは英語で何というかとからかわれた屈辱とは、ゴパルは無縁なのだ。いくら英語を勉強しても、いくら難しい言葉を知っていても、相手の言っていることが分からなければ、アメリカでは友達もできない。インド・ヨーロピアン語族という言葉が思い起こされる。では、外国語の苦手な多くの日本人は、どうやって世界に伍していったらいいのだろう。世界との闘い方を、考えなければならない。ゴパルの苦悩に私は到底近づけない、のだ。英語とは違う何か違うものを鍛えていかなければならない。
2018, 11

108. スリナトゥ・ペルール『月曜日はマドゥライで、パッケージツアーで巡るインド』(2013年刊)、 Srinath Perur, If It’s Monday it must be Madurai: A Conducted Tour of India, published by Penguin Random House India in 2013.

madurai.jpgスリナトゥ・ペルールは
今もっとも注目すべき作家である
とパンカジ・ミシュラが言う
そのペルールがパッケージツアーで
インドや欧州の旅をする
インドの人々の欧州バスツアー
タール砂漠のラクダ・サファリ
ウズベキスタンへのセックス・ツアー
ボンベイのスラム・ツアー
カビール・プロジェクトでは、
カビールを歌いながらインドの村々を旅する
ワリ、パンダープールへの巡礼ツアー 等々
それは憂鬱で、苛立たしく、悲嘆のナイポールの旅ではなく
パンカジ・ミシュラの屈折とユーモア、含羞の旅とも違う
この旅行記は、そうではなく
人々のステレオタイプに寄り添いながら
新しいもの感じ方と見方を開発してゆく
インドの新しい真の現実に迫るのだ



   パンカジ・ミシュラはペルールの何を評価しているのだろうか?何かシリアスなものを思い描きたくなるのだが、実際に『月曜日はマドゥライで』を読みだすと、意外な貌を覗かせる。とてもユーモラスなのだ。そして鋭い視点があり、さらに良いのは、出くわす現実に対して怒りも絶望も拒否も軽蔑もしないことだ。飄々とこの世の可笑しさを冷静に見つめる。新鮮な喜劇精神を感じる。この本の副題「パッケージツアーで巡るインド」(原題は、A Conducted Tour of Indea)がそもそも曲者なのだが、ペルールの感じ方はとても新しいく非常にユニークだ。

★インドの人々による欧州バスツアー
 ロンドンからウィーンまでの二週間のバスツアーのあいだ、毎食インド料理を食べ、バスの中のスクリーンではボリウッド映画を見続ける。マダムタッソーの蝋人形館では、ボリウッドのスターを見る。何よりも大事なのは、ロンドン塔を背景に自らを写真に収めることなのだ。このヨーロッパの旅は、新興の中産階級の人々にとって、ひとつの通過儀礼であることは明らかだった。
ツアーコンダクターは、私が添乗員なので皆さんは大変ラッキーだ、と言う。私がいるから心配はご無用です、と。(参加者は、インドではたくましい生活者であっても、ここでは従順な羊なのだ)。
   ドイツでの500㎞の旅は、わずかに私たちが見たものはカッコー時計を作る工房とハイデルベルグの短い散策だけだった。(ツアー代金とコストのせめぎ合いか)。皆は、宿泊したホテルの部屋、レストランの食事、参加者の誰それについて品評しあう。私と同行の女性カメラマン(!)の存在が彼ら参加者にとっては、しばらくのあいだ謎であり目障りだった。
   チェンナイからきた娘は、まるで北極圏にでもいるような厚着をしていた。ムスリムの女(性)は、故郷では決して容認されない今風の格好を楽しんでいた。とても幸せそうだった。
 旅の苦難は続く。インドの金=ルピーの軽さを思い知る。節約に心がけるがムダだった。パリのホテルの洗濯代はこの衣類の購入代金より高いのだ。それに驚かされたのは、いくつかのホテルで私たちインド人観光客が好まれていなにのが分かったことだ。
   私たちは、ヨーロッパを移動していたが、ヨーロッパにいるのではなかった。ヨーロッパに来て、私たちはヨーロッパの何も見ない、ヨーロッパのイメージを確かめるのだ。このヨーロッパのツアーは、私のなかでは何かとりとめのないバラバラの印象でしかない。むしろ一貫してあるのはインドなのだ。

★タール砂漠のラクダ・サファリ
   ジャイサルメールの歴史は悲劇的なものである。城塞包囲の凄惨な戦いがくり返された。それでも、ムガール帝国に組み込まれると、インドと中央アジアを結ぶ商業都市として栄えたのだ。 
そしてジャイサルメールは、今やバックパッカーにとっての聖地である。
 他方、そこの生活は激変していた。昔は、みんな女(性)が、朝、水運びをしたのだ。今は蛇口をひねれば水が出る。
 近年、『ロンリープラネット』は城塞内の宿泊施設の紹介を自粛している。生活が便利になった。しかし排水インフラは未整備で、レストランやホステルの排水が垂れ流され城塞の基部を浸食し脆弱化させているからだ。それでも、私は城塞内に宿をとった。

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   ジャイサルメールの中心から一時間も外へでると完ぺきな、写真映えする砂漠(タール砂漠)が広がっている。
 ラクダに乗った砂漠のサファリは、ここの観光業者にとってとてもうま味のある商売なのだ。客引きは執拗だ。ツアーをめぐる宿主との交渉は難航しまとまらなかった。街の旅行業者によるグループツアーのサファリに出かけることになった。
ミスター・カーンと自己紹介したガイドは不思議な英語を操った。英語を母語としない様々な国の観光客から英語を学んだからだ。それが面白いのか、アメリカ人の女の子が、ミスター・カーンの英語は素晴らしい、と誉めていた。

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 休息をとった村は、ジープのドライバーの住む村だった。(この種の偶然がインドではよくある)。
 ジプシーの子供たちは、ジープを取り囲み、歌い、踊り、笑い、金をせびるのだった。
 ようやくラクダに乗ったキャラバンが始まる。ラクダに乗るのは、初心者にとっては苦行だ。だが、一時間もすると、ジープが待機している今夜の野営地に着いたのだった。
 アメリカ人のグループは、韓国で英語を教えていた。帰途、インドを訪れたのだ。参加者の一人はロシア人の女(性)だった。数年をインドで過ごしたあと、今、ロシア人相手のガイドで暮らしをたてようとしていた。
 食事がすみ、寝支度が整うと、手伝いの者たちは、ジープで村に帰っていった。眠るために、だ。一体このキャラバンとは何なのかと思う。それでも「砂漠の夜明けは多分美しだろう」と思い直す。砂漠で一人になり、そこにはいない親友に語りかけたくなったのだ。
 
★ウズベキスタンへのセックス・ツアー
(とても難しい題材なのに、この章がこのトラベローグの秀美であることを予兆するように、この章の入り口が傑作だ。ウズベキスタンの首都タシュケントに向かう飛行機のなかでの様子を描いている。雪山が見えると、多くの乗客がいっせいにそちらの窓の方に押し寄せ飛行機が大きく傾く。添乗員が必死になって押しとどめようとするのだが…。)

 タシュケント1 
   インドはもとよりパキスタンからも韓国からもウズベキスタンに多くの男たちがやってくるのだ、と言う。タイのバンコクばかりが、今や快楽の都ではないのだ。
(私は、ウズベキスタンが性と快楽のメッカだということを、この本を読んで初めて知った。)
   インドの人達は、タイへの買春ツアーで随分評判を落とした。ウズベキスタンでも事情は似ていて、ウズベキスタンの観光省はインド人観光者へのビザの発給に制限をかけていた。私たち一行は、査証では、何とアスリートなのだった。
 現地ガイドはジャビールと言った。ジャビールは、単刀直入に夜の楽しみを斡旋しようとしない。彼は、大統領はいい人だ、と言ったりした。ひとりの観光客が怒って「我々は夜景を楽しみに来たのじゃない」と。ナイト・マネージャーなる者が存在したのだ。ナイトクラブでダンスを楽しんだあと、多くの者は“納屋”Farm Houseという女郎屋に流れた。ラジェシという男は、ホテルに戻り、ブロンドのロシア人娘を指名したが、部屋にあらわれたのはウズベキスタンの娘だった、と翌日話していた。“納屋”に流れた一行は、実はそのあと、さんざんな目にあったのだと言う。警察の手入れがあり、お楽しみどころではなかったのだ。
 タシュケントはシボレーの走る街、街路樹は、降伏のポーズをとるかのように枝葉を空に向けて高くもちあげている。ムガール帝国はこの地からやってきたのだ。ムガール帝国の始祖バーブルは、生涯、故郷ウズベキスタンのメロンの味が忘れられなかった。四方を“スタン”国家にかこまれたウズベキスタン、わが祖国インドよりも現代化が進んでいることが、皆には気に食わない様子だった。
 ホテルの六階の廊下は、それはものすごいものだった。部屋の中で行われていることの順番待ちで行列ができていた。ラジェシは、一人の女(性)と交渉していた。一時間なら100ドル、通しなら       300ドルと女(性)は言っているようだった。少数派(?)の我々は、ナイトクラブに向かった。
(ペルールは一線を越えない((セックスをしない))、慎みのようにも、また、嫌味であるようにも、私は思う。ペルールのこのツアーにおける立場は極めて難しい、書き手、記事を書く者が忍び込んだセックスツアーが居心地が良いわけがない、だが、そういう困難な試みに立ち向かおうとするところが、この本の価値だ。)

 インド・パキスタン和平交渉の立役者シャストリはタシュケントで調印後亡くなった。ジャビールは、記念碑に花を捧げた。
(このセックスツアーでは、ペルールは、よく個人の二面性に驚いている、どう猛なセックスアニマルに見える者が、きわめて信心深いムスリムであったりする。貴重な発見だ。)

 アレクサンドロスが、チンギスハンが、ティムールが、サマルカンドを支配した。ティムールの時代に作られた美しい広場を歩いた。何人かの者が、最初にサマルカンドにくれば良かったと言った。皆、実はセックスに飽きだしていた。サマルカンドは、娼婦にことかかないばかりでなく、どの女(性)も愛想が良かった。パラスは、当地の娘を食事に誘って楽しんでいた。どんな会話をしたのだろう。最後の晩も、女の子の踊りを見ながら夕食をとったのだが、彼女たちがすべて去ると、疲れた男だけになったのだ。

★ボンベイのスラム・ツアー
(アウシュビッツやフクシマを訪れる観光があることは分からないでもない。しかし、スラム・ツーリズムとなると、私は、複雑な気持ちになる。実は、私もスラムがずっと気になっていた。だが、そこはチラッと覗き見するぐらいで、足を踏み入れてはならないところ、と考えてきた。身の安全を言っているのではなく、友人の家を訪ねてゴミ箱をあさるようなことはすべきではない、と思うからだ。それが、今や商業観光のコースになっているとは!)

   今日、スラム・ツアーが随分隆盛だが、その歴史は十九世紀のロンドンにすでにあった。当時の紳士・淑女がディケンズの小説にあるようなロンドンのスラムを訪ねて楽しんでいた。古い“ニューヨーク・タイムズ”をめくると(1884年)、ニューヨークを訪れた英国人紳士は、イーストサイドなどの観光のあとで、君たちの都市は素晴らしいが残念なのはロンドンにあるようなスラムがないことだ、と語ったのだという。

 私はレオパルドカフェの前で待っていた。スラム・ツアーのガイドは、私を一度ならず拾いそこねた。頭から参加するのは、西洋人であると思い込んでいたからだ。インド人がツアーに参加するのはきわめて稀なのだ。
売春窟が軒をつらねるフォークランド通りを過ぎ、世界最大の青空洗濯場として有名なドォービ・ガートなどを見ながら車はダラヴィ・スラムに向かった。ガイドの説明が一段落したところで、ドライバーが唐突に「真実」は一、二年でなくなる、と発言した。なんでここで禅問答を始めなければならないのかと事態を良く理解できないでいると、「真実」とはこのツアーの主催者“真実旅行社”(RTT: Reality Tour and Travel)のことだった。映画“スラムドッグ・ミリオネア”のヒット以来(2008年)、スラムツアーはブームとなり、RTT旅行社は、新興勢力の追い上げで事業が苦しくなっているのだ。RTTには、立派な理念があり、スラム・ツアーの収益の少なからずを、スラムの環境向上に還元しているのだった。その分、興味本位のツアーに押され気味なのだと後で聞いた。ガイドは、だから今から我々らしいツアーを企画してゆく必要がある、例えば、インドの本当の村々を巡るツアー、等々と語気を強めて言った。

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   ガイドの説明は、良心的なものだった。…ここには二十七のヒンドゥー寺院があり、十一のモスク、六つの教会がある 、人々は平和に共存している、ただし、1992~3年のバブリマスジットのムスク破壊のときは、違った、と。
   スラムの狭い路地を歩いてゆく。ヘドロのような排水(ゴミと排泄物との混合物) の悪臭が強烈だ。ただ、そのドブを除けば、ボンベイの裏道を歩いているのとあまり違わない。チャイを商う露天があり、安食堂、ごく小さな売店、そして渋滞なのだ。
廃品回収業の現場を見る。塔のように高く積み上げられた空き缶。廃品回収業はダラヴィの一大産業である。ガイドはスラム全体の経済力を665百万ドル以上だと解説する(700億円、我が国における中堅会社の売り上げ位か)。
   敷居のところでしゃがんで料理の支度をする女(性)たち、隣家どうしで世間話をする女(性)たち、また、ムスリムの居住区では、女(性)たちが家の床にすわり皆でTVを見ていた。…彼女らは、私たちが歩いてゆくとチラッと私たちを見るのだった。彼女たちと私たちの間に一瞥以上の緊張感を醸し出さないのは、私たちが外国人であるからなのだろう(私は、外国人のツアーに紛れ込んだ同類)。つまり、彼女らと私たちの遠い距離がスラムと外の世界の境界を曖昧にしているのだった。

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   私たちは、茶店で休憩をとった。チャイを飲みながら、ドイツからきた娘ウルリカに、「感想はどう」、と聞いてみた。「ここは、まあ、住宅街みたいなものね。ビルもあるし、PCだってテレビだってある、エアコンもね。作業場のオヤジはBMWにさえ乗っている。ここは本物のスラムではないわ」と言うのだった。ウルリカは、コラバ近くのスラムをつい昨日訪ねてきたばかりだったのだ。それは文字通り掘っ立て小屋が軒をつらねる凄まじいスラムだったのだろう。どうやってそのスラムに行ったのかと聞くと、タクシー運転手に案内してもらった、のだと言った。
   スラムには、男はあまり多く見かけない。しかし、とてもおしゃれなティーネイジャーが目を引く。彼らは、色鮮やかなティーシャツに短パンをまとい、スニーカーをはいている、このスラムの環境ではとりわけきらびやかに見える。…そのようなおしゃれなスラムの少年に、学校の制服を着た少年達が、何かを話しかけていたのだ。驚くべきことに、制服を着た少年達がスラムの少年に聞き取りをしているのだった。「電気は通じていますか」、「教科書を入手するのに困難はありませんか」等々、と。彼らは、バンガロールのインターナショナルスクールの生徒だった。授業で、ダラヴィ・スラムの記録映像を見、じかに自分たちの目でスラムを見る必要があると話し合いここに来たのだった。「なぜ彼らはこのスラムから動けないのか、なぜ開発を拒むのか、要するに、僕たちの目的は、彼らのニーズが何なのかを捉えることなのです」と彼らの一人が説明するのだった。
 ツァーは最後に“真実旅行者”の事務所や関連施設のあるところにたどり着く。“真実旅行者”の人々は、ダラヴィ・スラムに愛着をもっていた。ここの環境改善に尽力していることに誇りを感じていた。“真実旅行者”が運営している小さな幼児教室を見学した。教室では、二十人ほどの幼子に英語を教えていた。子供たちは、クリスマスの歌、“ジングルベル”を皆で歌っているのだった。そこの先生は、できるだけ早く英語をこの子供たちに学ばせたい、と言った。英語の歌詞、ヒンドゥー語での歌詞を子供たちは繰り返し声にだしていた。子供たちは、この暑いボンベイで、雪のなかを走るソリのことを、クリスマスを、サンタクロースのことを、なぜ歌わなければならないのか。私は、いたたまれない気持ちになっって教室から出た。

(このエッセイは、スラムの悲惨、人間以下ともいうべき厳しい生活環境を非難したり嘆いたりしない。むしろ、ダラヴィ・スラムは、その家々のなかは、インドの中産階級の生活に似たものがある、と驚く。ペルールが主張するのは、このスラムには、少し違った現実があるのだ、ということのようなのだ。ドイツ娘は「ここはスラムではない」と言い、“真実旅行者”の人々はスラムの環境改善を見てくれ、という。このすれ違いが、ペルールの注視したい現実なのではないのか。スラムもまた、何か強烈な現実を突きつけてくるものではもはやなく、虚構(ボンベイでのジングルベル)を弄ぶフィクションに近い、と。いずれにしても、これは、スラムをめぐる今の現実の一端を暴露し、認識の境界((私たちの足を踏み入れてはならないところ))に改変をせまる素晴らしいエッセイだ。)

★カビールを歌いながらインドの村々を旅する: カビール・プロジェクト
(カビールは、十五世紀インドの神秘的詩人であり宗教改革者だ。ヒンドゥー教徒もイスラム教徒もスィク教徒もカビールの詩・言葉を愛唱した。インドでもっとも人口に膾炙した詩人と言われている。このエッセイは、カビールの詩が、現在においてもなお多くの人々に享受されているまことに驚くべき伝統の今を伝えてくれる。なお、カビールについては、私たちは東洋文庫で『ビージャク』(橋本泰元訳、平凡社)を読むことができる。インドらしいアクセントの強い、荒々しい、ある種グロテスクな味わいがあるのが面白い。その味わいを、このエッセイも表現しようとしている。)

 ラージャスターン・カビール・ヤトラ(旅・行進・巡礼)に、私は十年前に参加した。インド中からフォーク・ミュージシャンが集まり、彼らとともに、歌い演奏しながらラージャスターンの村々を巡る。
   出発は、ビーカーネールの列車駅だった。二月(冬の砂漠の街とはどんなものだろう)、お菓子屋がにぎわっていた。菓子の香りに充ちた街、何と言ったらいいのか。オートリキシャでロカヤーンに向かう。オートリキシャは狭い道を疾走する。
   カビール・プロジェクトが始まったのは、2003年のことだ。グジャラートでの宗教対立・暴動・虐殺への抗議と反省が背景にあるのだと思う。カビールは宗教対立やカーストを批判・否定したからだ。
   オウム・ハニは最初から強い印象を私にのこした。彼女はフランスおよびモロッコに出自をもつ元女性オペラ歌手なのだが、ラールという写真家の着ていたティーシャツを問題にした。その銃とバラと髑髏のデザインがアシュラ(悪神)を引き寄せる、と言うのだった。その夜、良く眠れなかった。隣にいた男の騒がしい夢遊病的行動(彼はなかば戦闘中だった)、それにオウム・ハニによる昼間のいさかいの記憶が蘇ってくるのだった。これもカビール的な荒々しくも逆説的な旅の導入部なのかと思った。

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   ママサールでのコンサートは小学校の校庭を使って夜遅くまで続いた。かなり冷え込んだ。バーンワリ・デヴィが歌っているとき、信じられないことが起こった。彼女の名付け親である音楽家が殺害された、というニュースが伝えられたのだ。村の人々は、バーンワリ・デヴィその人が殺害されたのかと私に聞くのだ。その夜、演奏のあとダンスミュージックに繋げたのは、音楽の精神性を損なうのではという議論があった。
   私の見るところ村人は、音楽を楽しんでいた。音楽は啓蒙・教導するものではなかった。カビールの言葉は、村人には理解が難しようだったが、学校の先生が説明していた。
カビールは、ラジャスタン、マディアプラデシ、グジャラート、ウッタル・プラデシそれにパキスタンで良く歌われている。スーフィーの歌い手たちもカビールを歌うことを好む。
   この音楽ツアーへの参加者は、都市部の高学歴で、英語を話す、非宗教的な人々(だが彼らは、精神的なものに深い関心をもっている)が主であるが、外国人のジャーナリストなども多い。
   彼・彼女らの歌を聞くのは、私にとってほとんどが初めてだった。しかし、このツアーで、朝から晩まで、音楽に浸る幸福を私は味わった。彼・彼女らは、もともと生で歌うことを習い性にしていた。そして彼・彼女らの音楽で重要なのは、間違いなく声なのだった。息と喉の震えを感じた。とりわけバンワリ・デヴィの声は迫力に充ちていた。
   オーストラリアの取材チームの依頼で、ムラララの通訳を行った。それで分かったのだが、彼の家族は、10世代にわたってカビールを歌ってきたのだった。…ムラララはある朝、外で歌う女(性)に合わせて歌い始めた。その美しさはたとえようがないものだった。
   村々をめぐる旅の中で、私は、オウム・ハニとの友情を深めていった。彼女は、このプロジェクトの実力のある演者であるばかりでなく、このツアーの間中、会場の舞台の上でのパフォーマンスだけではなく、彼女独特の声楽を気ままに、いたるところで披露した。旅は、このような創造的な遊びの場と化していったのだ。そして、彼ら・彼女らと一緒にツアーをしているうちに、彼らが何を歌っているのか、何をうったえかけようとするのかが分かるようになってきたのだ。
   カカのことも忘れられない。彼は、歌いはしないがスーフィーの歌について愛情豊かな知識の持ち主だった。彼に聞けば何でも教えてもらえた。そういう人たちと旅を続けたのだ。
私は、ヴォランティアでCDやティーシャツをうる売店もやっていた。二重価格で売っていた。村の人々には、安く、都市部からの参加者に高く売った。
私たちは、実にさまざまなところで寝泊まりした。結婚式場、ダラムサラ(巡礼宿)、寺院、学校でマットを広げた。食事は、プーリーに油っこいトマトカレーが定番だった。
パキスタンとの国境に近い街、プガルでは、熱烈な歓迎を受けたのだ。偉大な歌い手のムクティヤール・アリの出身地だったからだ。何ともいい感じだった。警官は、ある村人をさして、「アイツが村の泥棒で、あんたらの持ち込んだ機材を狙っている。機材の半分も持ち帰ることができたら、あんたらは大変ラッキーだ」とぬかした。
   ある村人が「お前のカーストは何だ」と聞いてきた。私は、その質問は、カビールをたたえる催しにふさわしくない、というようなことを言った。私が間違っていたのだ。村人の質問は、カーストによって人を見定め区別するようなものではなく、もっとも親愛の情を込めた挨拶なのだ、とあとで知った。
   南部からは二人の歌い手―ヴェダントォとビンドゥマリニ―が途中参加してきた。彼らは、ギターに合わせてカビールを歌った。彼らの歌は、北インドと南のカルティックの伝統を引きついでいる。ギターの演奏は、アメリカのブルース・ギターそのものだった(BBキングかライトニング・ホプキンスか)。彼らは、ロック調の歌も披露したが、バクティ(神々への絶対的な帰依を特長とする中世ヒンドゥー教における民衆的潮流)の聖なる詩人についての歌には、真実、私は心を打たれた。この時ばかりは、売店での仕事どころではなかった。……ヴェダントォを聞いていると、いい音楽はどこで現れてくるのかが分からなくなる。食事のあと、寺院の横の湖で、何の予告もなく彼が歌いだすとき、それこそ最高の音楽に思えた。夕方のコンサートでは聞けない曲も含まれていた。
   音楽の役割とは不思議なものだ。カビールのこのツアーもその成果を直截に語るのは難しい。……このツアーに参加するまえ、きっと帰ってくるときは、お気にいりの音曲を知って帰ってくるものだと思っていたが、そうではなかった。ツアーで聞いた音楽のことを思い出すというより、しばらくほったらかしにしていた自分のギターをとりだし、思いつくままに歌いだしたのだ。そして、音楽と精神性というものが私のうちで開発されたのだと感じた。

★パンダープールへの巡礼ツアーに参加する
 マハラシュートラ州を旅していると道路の傍らを歩く白装束の巡礼者たちをよく見かけた。彼らがパンダープールを目指していることは知っていた。それらの巡礼が、その目的地の参詣よりもその道行を大事にするのだということを聞いて、一度はこの巡礼を経験してみたいと思っていた。
 自由気ままにワリ(パンダープールへの巡礼)に参加することもできる。だが、グループツアーなら仲間もできやすいし、いくぶん快適な巡礼になるかも知れない、と思った。
 プネーに向かった、いや、プネーがむこうからやってきたのだ。今回の旅だけは、母も喜んでくれた。
 わがマウリ(小集団)は二十名でそのうちの五名がサポートのスタッフだった。荷物を積んだトラックは朝の三時にたち、私たちは四時半に歩き始めた。
 この日プネーからは二つのマウリが、それにアランディやデフ(ともにマハーラーシュートラの街)からも大規模なマウリが出発した。それぞれのマウリがさまざまなルートを設定しているが、最終的にはパンダープールで一緒になる。

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   マウリから聖人扱いを受けている老齢の医師によって出発が宣言された。私は、初めの日、Rに離れずについてゆくように言われた。みんな鈴のついた小さなシンバルを鳴らしながら歩く。巡礼の道のそばに住む人たちは、食べ物を巡礼者に捧げる。巡礼中は、穀類はもとより玉ねぎ、ニンニクも禁じられているので、バナナや飲み物が供されるのだ。巡礼者に食物を供することはとてもご利益があると考えられてきた。小学校の校庭で地域の人々に朝食を供された。ある女(性)は、私の足もとにぬかずくのだった。私は、驚き後ずさりした。
 (信仰の修行途上にある者への尊崇の念は、どこからやってくるのだろう。私の見方はこうだ。そういう修行を成し遂げた者によりこの世は浄化されてゆくのだから、彼らを助け励ます必要がある、と。)
 巡礼者の多くは、ごく普通の農民だった。モンスーンが来て雨が降ると農民たちは種を撒き巡礼にでる。しかし、今年のモンスーンは遅れ農民達は不安をかかえながらの巡礼なのだった。また新聞は、百五十人ものIT技術者がこの巡礼に参加したのだと伝えていた。
 昼食は私たちのトラックのところでとった。トラックが私たちより朝早くたったのは(午前三時)、昼食場所の確保のためだった。年々、サポートのトラックの数は増え、適当な場所取りが難しくなってきている。
 Rと、プネーからサスワドへ歩き続けた。途中からRの父親とおばさんが加わった。
 現代に繋がるワリ(パンダープールへの巡礼)は、1831年に始まった。ハイバトHaibatという信心深い者がワリのやり方を決め、聖者の行進の伝統が現在まで引き継がれてきたのだ。
 丘の上に上がると聖人のような雰囲気をたたえている男がいた。「どうです、調子は」と聞くと「ヴィトハラ、ヴィトハラ」(ヴィシュヌ神のことか)と言うのだった。そこから広い野原にでて休んだ。すると一台のヘリコプターが近づいて来た。一人の男が立ち上がり、「一緒にお茶を飲もう」とヘリに向かって声を張り上げた。
 サスワドに着いた頃には暗くなっていた。35kmのこのワリでもっとも長い道のりだった。工科専門学校の敷地に泊まった。女(性)は、屋内に泊まった。スタッフはトラックに泊まった。
 プネーから一緒に歩いてきたRも若いエンジニアだった。Rは、ワリの経典、“グニヤンネーシワリ”について私に語った。「耳で聞くことがあ大事なんだ」と言う。私は、何が書いてあるのかをたずねた。「私たちに理解できるレヴェルではない」と言う。あとで“グニヤンネーシワリ”についてスマホで調べると、それは『バガヴァド・ギータ』の注釈書であることが、すぐに分かった。その第一章では『ギータ』を引用し、「一族の崩壊は、古の世界の終焉である」すなわちヴァルナの意義が説かれ、ヴィタラ神への帰依、肉食と麻薬の禁止が強調されている。
 ダーリット(不可触民)のワリへの参加は長い間禁じられてきた。しかし、今ではバラモンも指定カースト(不可触民の今日の呼び方)の人々もワリでは一緒に食事をする。
 神への捧げものを行う役目が回ってきた。しきたりで、新参加者がその役目をになうのだった。…人々が、私の足首に触れようとして押し寄せてきた。私は、聖人を演じることに戸惑った。
 サスワドからジェジゥリに向かって歩いた。最初の雨が降り出した。それは期待を裏切る雨だった。すぐに止んだしまったのだ。
 ジェジゥリの土は、サフラン色に染まっていた。
 Wさんは、六十九歳の小さな男で、十一回目の巡礼だった。Wは、カルナタカとマハラシュートラの州境からやってきた。彼は、ワリに参加し、アルコール依存症から抜け出せたのだ、と言う。…みんな、それぞれの物語をもって巡礼に参加していたのだ。遺産相続の争いで死ぬほどに目にあった者、入試に失敗した者、昇進を願って参加した者、等々さまざまな話を聞いた。そして農民たちは雨期の到来の遅れを心配していた。
 ワリには、多くの露天商が巡礼についてまわる。ひと昔前の軍隊のようだ。
 ワルヘでは、街はずれで私たちは野営した。そこは、さながら村祭りのような賑わいだった。多くの露店がたっていた。しかし、ワリがばら撒くゴミが年々問題になってきている、と聞かされた。また、ある医師は巡礼のあいだ、毎日二~三人もの人が心臓病などで亡くなってゆくのだ話してくれた。
 ワリのなかでしばしばヴィタラ神についての講釈を聞いた。バラモンのGさんは、ワリの真の価値を多くのものが見過ごしている、と嘆いていた。彼は、霊魂の活動について説明し、神の名を繰り返し唱えることによって神に近づくのだと語った。
 女(性)たちによるディンディ(小集団)もよく見かけた。
 女(性)といえば、私達のディンディの女(性)たちもじつに良く働く。彼女らは、料理と清掃に忙しく働いた。彼女らは、私の洗濯ものを取り上げていった。私の洗濯ぶりが見ていられなかったのだ。

 wari2.jpg
   私達の巡礼団は、徐々によりおおきなグループに吸収されていった。
 それでも、すずめそうなところを見つけると、うたた寝をしたのだ。
 チャンドラバーガ河には、パンタリクの祠がある。伝説では、この者がヴィタラ神をパンダ―プールに案内したのだ。パンダ―プールはもうすぐだ。私は、皆から離れ、河につかり、目を閉じ、河に浮かんでみた。私は、巡礼の終わりを確かめていた。すると、そんなところで何をしているのだ、と仲間が声をかけてきた。
 ワリからバンガロールに帰って二か月が過ぎた。親族の一人が亡くなったのだ。葬儀のためにラクシュミー寺院に皆して向かった。なん百回、何千回もこの寺院の前を通りすぎたのに、寺院に入ることはなかった。寺院には付属の祠があった。そこにパンドゥランガ神が祭られていたのだ。名状しがたい親しみの感情がこみあげてきた。昔の親友に再会したような感情に私は包まれたのだ。このとき、巡礼という経験の思わ効験を私は知ったように感じられたのだ。
 (インド人のヨーロッパへのパッケージツアーで始まった本書は、最後、ワリ((パンダープールへの巡礼))で終わる。それは何というべきか、スリナトゥ・ペルールの策略にいつし乗ってその策略を楽しんでいる自分にと気付くのだ。軽いものから重いものへ、と単純化はできない。そうではなく、ペルールは、読者の既成概念によりそいながらそれを全部こわしてゆく。紋切り型によりそいながら、それを批評してゆく。そのぶちこわしのあとに見えてくるのが、インドの新しい現実なのだ)。

107.ヴィヴェク・シャンブハグ『ガチャール・ゴチャール』(2017年刊)、Vivek Shanbhag,, Ghachar Ghochar, translated Srinath Perur, published by Penguin Random House, New York in 2017.

ghacar bookつましく暮らしてきた一家に
新しく起こした会社のすみやかな成功は
幸福というよりは何か不気味な不調和を
家族にもたらした
コーヒーハウスで多くの時間を
過ごすだけの無気力な主人公は
家族が豊かになってゆく現実に
違和を感じているようでもあり
終始 傍観者のようでもあり
捉えどころがない 
だが 家族の今の繁栄を妨害する者が
あきらかになると 無意識にその者を
抹殺したのかも知れないのだ
この小説は豊かになっていくインドの
深い不安を表明しているに違いない


   この小説は何か不気味な通奏低音をもっている。その不気味な靄を除くと、ある一家に起きたごくありきたりの物語なのだ。リストラによる父親の失職、叔父の会社ソーママサラ(香辛料の卸業)の立ち上げとそのすみやかな成功、姉マラーティの離縁と実家への出戻り、幸福だったアニタとの結婚と軋轢など、ごくありふれた出来事が続く。しかし、何かが不気味なのだ。南インド、バンガロールの街や通りに降り注ぐ日差しはキラキラ輝いているはずなのに、薄い靄がいつもかかっているように見える。

   小説はこのように始まる。
「私」はコーヒーハウスと皆が呼ぶ店のテーブルに腰かけ、ただ通り過ぎる人々を見ているのだった。そこのウェイター、ヴィンセントとのちょっとした会話が「私」には何よりも心の慰めだった。その日は、前の恋人チットラとしばしば座ったテーブルに女が座っていた。その女のところへ男が現れると、女はその男をいきなり殴りつけた。二人に何があったのか、と「私」は訝る。チットラのことを思い出す。チットラも、さっきの女のように、「私」を良く厄介払いした。チットラは民生委員の仕事をしていて、夫の暴力や横暴に苦しんでいる女たちの話を「私」にするのだった。「私」は、その男たちの罪を、自分が負わなければならないような気持で聞いたのだ。彼女との最後の会話を思い出す。姑に深夜家を追い出された嫁、夫もその虐待に加担したのだ、と。
 
 なぜこの「私」は、日がな一日、コーヒーハウスで暇をもてあましているのだろうか、と疑問が湧いてくる。この男は、遊んで暮らしていける裕福な家の子息なのだろうか、少し違うように見える。というのは、遊んで暮らしていける結構な境遇以上に、この男につきまとっている暗い影が気になる。深い喪失感がこの男を包んでいる。この語り手はまるで死人のようなのだ。そして、民生委員の彼女の虐待の話を、どうして自分の責任と考えなければならないのかが、分からない。何か調子が狂い、安定を失い、底知れない不安に主人公は苦しんでいる。

   学校を卒業すると「私」は叔父のヴェンカタチャラに勧められるままにソーママサラに入った。しかし、その叔父の会社で「私」は働くことはなかった。「私」の一日は、朝起きてシャワーをあび、コーヒーハウスに行き、それからソーママサラの事務所にゆき、新聞を端から端まで読み、またコーヒーハウスに立ち寄り、ヴィンセントと会話を交わし、家に帰ってくる、その繰り返しだった。……「私」の最初の給料で、母は、新しいサリーを買うことが夢だったが、ソーママサラの成功が母のそんな夢を忘れさせたのだ。

 ヴェンカタチャラの会社ソーママサラの成功には、ある種非合法な雰囲気がある。その秘密のノウハウを叔父は一人占めしていて、家族の者にも明かさない。叔父に退職金を出資した父も、初めソーママサラで働きだすのだが、何かを嗅ぎ付け身を引いた。叔父は、家族のものに給料を存分に支払うが、会社で働くことを好まなかったのだ。叔父はいい人ではなく悪人なのだ。だが、叔父はきわめてまともな精神のもちぬしだ。苦しみ、精神のバランスを崩しているのは、その悪のビジネスの当事者ではなく、そのおこぼれに与っている傍観者の「私」のほうなのだ。この構図が、この小説に不思議な味わいを与えている。

 いくつもの読み応えのあるエピソードが続く。だが、それらのなかで、とりわけ印象深いのは見知らぬ女が家に訪ねてくる場面だ。彼女は、家の外で、叔父を待つ。家の者は、彼女が家の中を覗っていることに気付いている。長い時間がたってとうとうその女は、家のドアをノックし、叔父がいるはずだが会いたいので取り次いで欲しい、と母に言った。母は不承不承取りつごうとするが、叔父に来客をつげると、叔父は、会いたくない、居ないと言ってくれと言う。あからさまな居留守だ。母は、叔父はいないというと、女は抗弁するが母はとりあわない。女は、叔父の好物のレンズ豆のカレーを持って来たのだと、差し出す。姉のマラーティが「この売女」と罵り、そのカレーをはねのける。地面に彼女の手作りのカレーがぶちまけられる。「私」は、彼女の叔父への愛情は、本物だと思う。その愛情を足蹴にするこの家の女達を「私」はどうすることもできない。妻のアニタはこの事件に深入りせず遠くから見ていたが、家族の非道をのちになって非難するのだ。そして、叔父の商売についても、警察にすべてを告げなければならない時が来る、と言うのだった。

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ヴィヴェク・シャンブハグ
カンナダ語作家
カルナカタ州アンコラに生まれる
マイソールで工学を修める
パンカジ・ミシュラが近年もっとも
注目すべきインド人作家という

 妻のアニタが里帰りすると、家の雰囲気が少し違ってきた。昔のように皆してお茶を飲み世間話に盛り上がった。水入らずということか。昔住んでいたところに住む教師のムンジャナトゥの話に及ぶ。ムンジャナトゥの女房は、若くて元気だったのに突然の死んだ、とても不自然だ、と。すると、夫に殺された以外に考えようがない、と母は言う。その殺された女と妻のアニタの不在が何か重なりあって行くようなのだ。
そして小説は、ウェイターのヴィンセントに「お客様は手洗いが必要かと存じます、手についた血液を洗い流した方が宜しいかと」と言われ、主人公がはっと我に返るところで終わる。
 
   叔父の商売の成功が一家を狂わせた、と考えるのは慎重でなけれなならない。つまり、貧困を美化してはならない、と思うのだ。しかし、この小説は、豊かになってゆくことで(あるいは慎みのない豊かさ中で)失われてゆく何かとても貴重のものについて執拗に語りかけてくる。あるいは、人の道を外れた過剰な豊かさに、底知れない不安を感じているのかも知れない。……この小説は、豊かになりつつあるインドのある現実について、その不安と疑問をストレートに問いかけている、と私は考える。愛を繋ぎとめようと心を込めて手作りしたレンズ豆のカレーを突き返すような怖ろしい時代にインドは入りつつあるのかも知れない。

   ところで、小説のタイトル“ガチャール・ゴチャール”は、この小説を読めば明らかになるのだが、それには何の意味もない、二人の、幸せの符丁なのだ。それもまた、ものに溢れた豊かさでではない何か、あるいは汚辱を知らない慈しみを、作家は呼び戻そうとしているように思える。

106.ニール・ムケルジー『自由の国』(2017年刊)、Neel Mukherjee, A State of Freedom, published by Vintage, London in 2017. (first published by Chatto & Windus in 2017)

images_20180327123128a61.jpgまた、すごいインドの作家を発見した
作家はニール・ムケルジーという
『自由の国』という本を読んだのだ
この本には、シュールレアリスム的な作品や
いささか難解なモノローグ小説も収められている
だが、放浪する熊使いの物語や
両親の家の料理人の物語は
分かり易いばかりでなく、抜群に面白く
とりわけ熊使いの物語は傑作に違いない
にわか旅芸人の無一物の旅と、
ささやかな子熊との心の通いあい(のように思える)に、
真実泣けてしまったのだ




   それはどこからやってきたのか、どうしてそこにいるのか誰にも分からない。あれは何なのか?犬なのか?犬にしては大きく、鋭い爪をしている。それが小熊だと分かるまでに少し時間がかかった。…というようにその物語は始まる。母親が魔女であると噂のあるラクシャマンは、その小熊に芸を仕込んで旅にでて金を稼ごうと思いつくのだ。焼き鏝(ごて)で鼻に引き縄を通す穴をあけ、牙を打ち砕いた。この場面は、民俗誌でも読むように詳細に、客観的に描かれる。しかし、小熊は容易には踊りをおぼえない。ラージゥ(小熊の名前)を連れて村の道を歩くと、村の悪童は石を投げ、犬は吠えるのだった。ラクシャマンは、小さな声で小熊に語りかける、「踊れ」と。叩き棒と人参でダンスを仕込もうとするのだが、それを木の上の猿がずっと見ていて、ラクシャマンは、猿が人参を狙っているのだと用心する。
 どうにか小熊にダンスを仕込むと、ラクシャマンは大きな祭りを待った。
 五十三匹の羊を犠牲に供する祭りの進行についての描写がまた見事だ。羊の頭は、一太刀で切断されなければならない、さもなければ、十三年にも及ぶ厄災が村を襲う、と人々は信じている。この祭礼が、この小説の筋を忘れたかのように、生き生きと描かれる。ラクシャマンも、ここでどう金を稼ぐのか、というよりも祭りの興奮で頭が一杯になってしまう。
 ラクシャマンとラージゥは、腹をすかしながら旅を続けた。ラクシャマンは、子熊の他には何の持ち物も持たないようなのだ。着替えも洗面道具もなく、それは一種人間の生存の極限を描いているようでもあり、また、何物にも拘束されない自由でもあるのかも知れない。……道端の店でビスケットを買うのだが、子熊を見せ値切ろうとラクシャマンは思いつく。ラクシャマンは、子供を熊にのせて稼ごうとか、商売のコツを少しづつ考えだしてゆく。
 村に入ると、熊がめずらしいのか子供達の列がすぐできた。生意気そうな少年が前に進み出て、子熊のダンスを見るにはいくらなんだ、と聞く。ラクシャマンが決めかねていると、お前は値付けもできないお貰いさんか、と嘲笑う。そして、その子供はそれは熊ではない、犬だと叫び、石礫を投げ付ける。その一つがラクシャマンのすねを強打する。ラクシャマンは、子供らを追い払うと、途方もない疲れをおぼえ、こんな遠くまで来て、オレは一体何をしているのだろう、と嘆息するのだ。
 ひもじく厳しい放浪が続く。暑い空気は、炎のように感じられた。夜になると、少し涼しい鉄道線路のところで休んだ。ラクシャマンは思うのだった、この熊と自分は何ら区別するところがない、と。ふと気が付くと、不思議なことに、ラージゥが彼の後ろからついてくるのだった。言葉少なに語られる、ラクシャマンと子熊との親し気な関係がとても心に響く。
 モンスーンが近ずきつつある頃、二人はとある門前町(ヴァラダプル、カルナータカ州?)に辿りつく。寺院の司祭は、ラクシャマンとラージゥを見ると侮蔑の表情を顕わにするのだった。だが、司祭は子熊のダンスを所望し、金曜日の朝に参詣の人々が多く来るのだとラクシャマンに言うのだった。参詣の人々は、神々へ祈るとともに、珍しいものを見て楽しむ。ラクシャマンも今度ばかりは首尾よく商売に成功し安堵していると、司祭がお布施を要求してくるのだった。シヴァ神への捧げものを拒むのかと司祭に詰め寄られラクシャマンは司祭に大枚を吸い取られてしまう。ラクシャマンの呪いの言葉がいい、司祭の頭を砕いてそれをシヴァ神に捧げたい、と。
 雨が降り出した。二人は、旧国営企業の今は廃屋となった社宅にもぐり込んでいる。雨漏りで水たまりができ、ネズミが走り、また、別の潜入者もいるようなのだ。ラクシャマンは、稼いだ金をとられないか心配でたまらない。郵便局で金を送れるということを聞いたことがあるが、どうすれば郵便局で金を故郷の村に送れるのか分からない。
 晴れ間をねらって、二人は、大道芸ができる場所を探して当てもなく歩く。とある学校に行きつく。そこでは、何かのイベントが進行中だった。スピーカーからはヒンドゥー映画の流行り歌が流れ、菓子売り、風船売り、飲みもの売りが露天をかまえ、舞台では着飾った少女がリハーサルなのか、ちょっと躍ると笑い転げている。少女達が、先生達が、警備院が忙しくたち働いている。子熊のラージゥも異常なほどの興奮している。そこで、ラクシャマンは随分儲けることができた。金をとってキュウリやピーマンを子熊が食べるところを見せたのだ。皆がそれを見て拍手喝采したのだ。コールドドリンク売りから、これは学校の創立記念行事なのだと聞かされる。
 この喜ばしき祝祭の終わりには、二つの喜ばしからざるオマケがつく。三日間ラクシャマンがしっかり稼いだ家(廃屋)への帰り、ラージゥに芸を仕込む時に手ほどきをうけたプロの動物使いがどこからか現れ、手ほどき料の残金を払わされる。そして、四日目にこの学校をラクシャマンと子熊ラージゥが訪ねると、わずかに後かたずけをする者だけの寂しい校庭を見るのだった。祭りの後のこの何もない感じが、私はとても気になる。

無題
ニール・ムケルジー
1970年ベンガルに生まれる
ジャダプール(カルカッタ近郊)大学卒業後、渡英
オックスフォード、ケンブリッジ、東アングリア大学などで
高等教育をうける
複数の文学賞を受けている
現在、ロンドン在住

   結局のところこの物語に感動し、語りかけてくるものは何なんだろう、と考える。ラクシャマンの無一物の放浪は、少し心が通う生命がそばにあれば(子熊のラージゥ)それ以上のものはすべて余剰のものであり(それは愛と呼ばれるものの原型か)、長い人類の時間の流れにおいては、人は腹をいつも空かしてほっつきあるくことしかしてこなかった、とも思えてくるのだ。ラクシャマンの無一物の厳しい放浪の生活にあって、便利で贅沢な暮らしのなかには無くなってしまったものが確かにあり、この小説はそういう厳しいが自由な生への郷愁なのか、とも思う。安全や安心を求めているうちはいい、しかし、それがかなりの確度で手に入った場合、さらなる安心や安全を求めることにどんな意味があるのだろう。厳しい毎日とたまた出会う祝祭の興奮と幸福感、それが人間の生を根本において条件付けているものかも知れない。この小説における祝祭は、即物的な過酷な生にとってのみ輝いている。
   だが、他方で、贅沢な暮らしを当たり前と思って生きている者が無一物の放浪にもどることはできない。もうそこには戻れなとすると、何とも不幸な贅沢を人々は耐えて生きていかなければならないのか、とこの小説を読み終えて考えるのだ。人は安心を何より願うが、安心だけでは充実した生は得られない。
(H30,3/31)

105.U. R. アナンタムールティ『ヒンドゥー至上主義かガンジー主義か』(2016年刊)、U. R. Ananthamurthy, Hindutva or Hind Swaraj, translated from the Kannada by Keerti Ramachandra with Vivek Shanbhag, published by Harper Perennial, India in 2016.

hindutva or hind swaraj
これは、カルナタカの大文豪U. R. アナンタムールティ
によるモディとヒンドゥー至上主義に対する抗議の書
である。ここで言う抗議とは、この言葉のもっとも深く
て重い意味にとらなければならない。つまり、
アナンタムールティほどに、ヒンドゥーの極度の洗練と
問題点を描きつきつめた作家はいないからである。
ヒンドゥーの深いところからの、いわゆるヒンドゥー
至上主義への批判の書なのだ。以下は、この本についての
幾分私的なスタイルの要約と抜き書きである。
括弧(……)内は、私の意見・感想、あるいは補足説明である。 
                 
                
 

 モディの選挙結果について、どう見るべきか。悲劇ではあれ、一家族によるインドの支配から解き放たれた。
 グジャラートの暴動で殺された者たちは葬儀もされなかった。にもかかわらず幽霊となって誰にとり憑くこともなかった。暴動によって引き起こされた死者は、車にはねられた子犬のようなものだ、とモディは発言した。暴動は、勝手な振舞をする者への手っ取り早い教えなのだ、と。
モディの勝利は、ガンディーを殺害したゴドセ的なものの再来である。サヴァルカール(1883-1966)、ゴドセ、モディの系譜はあまりに明らかだ。
 モディは、今のインドの中産階級の欲求を代弁している。
 モディは、メード・イン・チャイナをメード・イン・インディアにしたいだけ、なのだ。
 グローバリゼーションとは、インドが安い労働力を提供すること。しかし、それよりも重大なことは、グローバリゼーションが場所性の喪失となることだ。(ヒンドゥー至上主義が大好きな)シバージーは、終始、地域の人、田舎者であったのだ。そして、さらに開発は過去の記憶を抹消する。
                   *
 ガンディーの暗殺者ナードゥラム・ゴドセは女の子として育てられた。(私の知るインドは過渡に男子を有難がる。それなのに、なぜ、ゴドセは女の子として育てられたのか)。
 ゴドセの最終弁論は注目に値する。ゴドセは言う、自由に考え多くを学んだのだ、と。マルクスもガンディーも読んだ。ガンディーの非暴力は、あまりに宗教的な理想である。ガンディーは、あらゆる宗教が欠陥を免れない、のだと考えた。だが、ゴドセはガンディー殺害の正当性を言い張った。
                   *
 ゴドセ、モディの源流を作ったのは、サヴァルカールだ。
サヴァルカールは、血のつながったヒンドゥーがヒンダスを作ると言い張る。ヒンダスは、土地に結びついた人々ではなく、血のつながりなのだ。
 サヴァルカールは、古代への称賛を繰り返す。真理を求めるブッダの生涯が、苦悩に満ちたものだったのと反対に、陶然と古代に埋没する。サヴァルカールは、英国植民地下において現に生きる人々の苦しみを見ず、インドの古代の栄光で現実を糊塗する。
                    *
 イスラームの侵入は、この国の民衆にはほとんど影響を及ぼさなかった。だが、サヴァルカールはヨーロッパにおける国民国家に似たものを夢想する。
 サヴァルカールはヒンドゥーの本性(Hindutva)を1923年に提唱した。BJP(インド人民党)がサヴァルカールの説くヒンドゥー・ナショナリズムを受け継いだ。会議派自体が、サヴァルカールの考えを薄めたものだった。ジャワハルラル・ネルーは、ガンディーのヒンドゥー・スワラジ(自治自立)に批判的だった。ネルーは、ガンディーのアシュラムで生活するのはごめんだと言った。(私もガンディーのアシュラムでは生活したくない。しかし、ガンディーは、少なくとも、アシュラムでの生活を他人に強制はしていない)。会議派は、ガンディーのストイックな自然主義からの解放を願い、ガンディーのエコロジー思想も厄介払いしたかったのだ。会議派がもてあましていたガンディーを、サヴァルカールに心酔していたゴドセが消したのだ。ガンディーがもう十年生きていたら、会議派はさまざまな現実についての選択の苦悩を味あわなければならなかった。だが、今、モディが、ガンディーを最終的に始末したのだ。
                    *
 ガンディーは、ナショナリズムに対して非常な警戒心をもっていた。ガンディーの最後の断食は、ナショナリズムに対する抗議だった。ガンディーとタゴールは、国民国家という考えを受け入れなかった。他方、会議派のネルーは、ナポレオンを称賛し、モディの口癖は国家利益だ。(国益の前で個人は何が言えよう。だが、国益に反しても個人は発言し続けなければならない。それが逆説的に国益になる。国益による個人への締め付けは愚かなやり方である)。モディの勝利は、インドの連邦制の理念の放棄に他ならない。インドは、インドという国家体制を必要としない。ガンディーは、村々が武装するような国を考えていたのだ。発電所のために農民の土地を取り上げてはならない、少数部族民を食べさせているのは森である、とガンディーは考え続けた。
                    *
 自分の足で歩いて旅をする者はもういない。我々の祖先は、自然との調和の中で生きる謙虚さをもっていた。原初、人々は食べるものに事欠かなかった。それをためこむことによって変化が生じたのだ。ガンディーの理想の追求を、モディは完全に打ち砕いた。会議派の腐敗が、モディ躍進の背景にある。
                    *
 我々は、善なるものと悪なるものとの闘いを自らのうちに認めなければならない。その意味で『罪と罰』におけるラスコーリニコフは忘れがたい人物だ。
 (ラスコーリニコフは、悪を処断することは悪にはならないはずだという仮説を実地に試してしまった。しかし殺人は違う。殺人はその理由によって正当化されえない領域を含む。そのような正当化してはならない試みにインドは、今入りつつあるのかも知れない。ヒンドゥー教は、それらの殺人を含む魅力ある悪の試みを、むしろ代替する装置であるのだが)。
 繰り返しになるが、我々自身のうちにある悪が問題なのだ。ヒンドゥー教における罪は、個人的な ものではなく、すべての生けるものの罪なのだ。非暴力の日常を送るインド人が暴力を求めている。今、そのような状況に私たちは立ちあっている。
 (暴力を求める人々の願望がモディの選挙を勝利に導いた。アナンタムールティは、我々自身が持つ悪は、根源的であるがゆえに宗教が取り組むべきテーマと考えている。だが、モディは、それとは知らずに、その制御されなければならない願望・衝動を政治のパワーに変換してしまった)。

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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