FC2ブログ

44.黒田日出男『境界の中世・象徴の中世』(東京大学出版会1986年刊)

kuroda+003ccc.jpg黒田日出男『境界の中世・象徴の中世』における
中世の黒山開発についての境界論は
中世社会をとりむすぶ道の境界
つまり地名として中山の考察へとつながり
また黒山における黒の色彩象徴の分析は
古地図における色彩表現の考察に
あるいはまた境界争い
さらにまた黒船の考察へと
章を分けて発展してゆく
著者の関心と興味は 
つまり境界・色彩象徴・身分象徴・皮膚感覚やらについて
中世史を可視化するというやり方で
中世史における穢れと清浄
病と差別といった中心テーマに
自由に発展し結びあう
それは何とも言えない知的なゲームの様相なのだけれども
僕は冒頭の論文「『荒野』と『黒山』-中世の開発と自然-」で
僕の歴史に対する想像力はもっとも自由に遊んだ
それを読みながら
僕は開発に携わった中世の農業浪人になったような気になった
農具を携えて放浪する中世の農業者の夢と汗を
ごく近いところまでゆき感じ取った気になった


   近年における商業地区の開発などは、どれも同じ顔をしていてワイルドな魅力に乏しく、開発という言葉自体が嫌らしく疎ましく思える時もあるのだけれども、この本の中にある中世の開発は、より冒険と野心に溢れていて、面白いなーと感嘆した。実は「『荒野』と『黒山』-中世の開発と自然-」を読みながら僕は何だか、細民の見る夢と、思うようにはいかない現実を、あるいは惣に発展してゆく開発部落の自治の萌芽を、入会をめぐる争いを、僕は開発に携わることで体験したかも知れないと思うのだ。
 
   中世は、開発の時代だった。誰もが機会あれば開発に手を染めようとしていた。下級貴族・寺僧・神官等が新たな中世における土地所有に意欲を燃やしたのだ。そんな時代の雰囲気のなかで、毎日の百姓仕事に飽き、土地のしがらみを嫌い、生まれ故郷を離れていく者は少なからずいたはずだ。食い詰めた者だけが故郷を後にしたわけではないのだ。他国を見てみたい気持ちと、開発に携わる利得の噂を信じた。もし僕がそういう時と場所に生きていたら、開発浪人となって故郷を離れていったのかも知れないと想像する。

   この論文の後半に、中世の焼畑についての説明があって興味深い。そうは書いてないのだけれども、焼畑農業の普及が、中世における農業生産性を飛躍的に高めた、と考えていいのではないだろうか。そして、中世を開発の時代にした背景には、焼畑による生産性の向上があったのだ、と。・・・この本の主調音は、中世のヴィジュアルな象徴と境界についての考察にあるのだけれども、この論文「『荒野』と『黒山』-中世の開発と自然-」にとりわけ強く僕が惹かれるのは、社会ファンダメンタルとしての生産諸力についても目配りを忘れていないことなのだ。もっぱら社会の表層に現れたしるしの研究もスリリングであるけれども、農業生産の革命、富の拡大も中世社会の根本条件であり、そういう意味でこの論文は、両者をバランスよく保っている。

   開発を支えたのは近隣から「境を超えてやってくる」浪人でなければならなかった。彼らは、農具を携えてやってきた。開発領主は食料を浪人達にあてがうのだった。面白いことに浪人たちは、やってきた本国に逃げ帰ることもできた。浪人は、開発領主に隷属していたわけではないのだ。・・・ところで、浪人たちは、個々人で、あるいはグループをつくり移動したのだろうか。僕ならば、気のあう奴と二人ぐらいで村を出たいと思う。村をでる時点で、だいたい行き先は決まっていたのだろうか。移動中の寝泊りはどのようなものであったのか。炊事は。また、浪人を開発領主に斡旋するプロの手配師のような輩が存在したのだろうか。

   開発の特権は、数年の地利と雑公事の免除で、国家の利権に抵触しない開発と土地所有を国衙(こくが)は承認した。・・・多くの者ががめつく開発の機会を求め、投資する中世の風景を僕は好ましく思う。他方、現代の開発(といってもいろいろな開発があるのだけれども、・・・)に対する不満、物足りなさは何なんだろう。開発が、ほとんどゼロから出発する荒々しさが隠されているからか。開発が、人間の欲望を拡大してゆかないところか。開発が、人の生き方に驚きを与えないことか。

   中世における開発は、荒野と黒山の開発に分かれる。荒野は、農民によって放棄され、自然に戻りつつある嘗ての耕作地であり-背景には逃散や飢餓、疫病による大量死があった-黒山は、いまだ手の入らない自然、「天然樹林のうっそうと生茂った山地」ということになる。・・・ここで一つの仮説を考えたい。荒野の開発は開発農民・労働者にとってたいした利得をもたらさない。しかし、黒山の方は、より困難な開発であったとしてもおおくの利得を得ることができた。黒山開発の進展が、開発領主間の取り決めにも係らず容易に解決されない堺相論を引き起こした理由は、その少なくない利得に理由があったのではないか。

   荒野は中世の初め(十世紀後半)になると広く姿を現すようになる。荒野を象徴するのは荊棘(けいきょく)と猪鹿だ。そういう荒野が至る所に出現する。全耕作地の五割、六割にたっする国もあった。眼を凝らすまでもなく、いたるところ荒野あり、だ。ゴースト・タウンにも似た、放棄された耕作地が広がっているという光景は、かなりすさまじいものがあると僕は想像するが、どうなんだろう。もうひとつ、これだけの荒野が拡大することは、中世という時代が慢性的な労働力不足の時代であったかも知れない、と思うのだ。開発農民・労働者にとって売り手市場であった、とも言えるのではないのだろうか。だとするならば、開発領主としても横暴でがめついだけの開発は、多くの場合うまくいかなかったはずだ。 

   ところで、開発領主をもたない農民の自主的な開発はあったのだろうか。限定的ではあったがそのような開発があったように論文は触れている。しかし、開発の発進と現場の管理が開拓農民の自主性にあったとしても、領主は厳然と存在したわけで、まして農民の解放区であろうはずがない。いや、そうとも言えない。この論文「『荒野』と『黒山』-中世の開発と自然-」では、いささか唐突に、中世農民の逃散の場として、山野・山林をとりあげている。黒山の開発の現場は、支配・被支配の関係においても境界であり、ある種の従順でない人々を惹きつける吸引力をもっていたかも知れないのだ。僕も、その時代に生きていたならば、荒野の開発で知り合った人のつてで黒山開発に参加していたかも知れない。父親は、うまい話は危ない、と反対したかも知れない。

   黒山、つまり未開墾の自然を対象とする開発には別の困難があった。人間が境界を超える困難だ。黒山には、暗黒の穴・洞窟があって地獄の入口があると当時の人々には観念されていた。黒という色彩が示すように、黒山はタブーの土地なのであった。
僧湛慶は、黒山を刈掃って別所を作った。古代以来タブー視されてきた黒山を中世的な浄土へと転換させたのだ、著者はいう。

   黒山の開発に携わることは、古い観念を脱ぎ捨て新しい何かに挑戦する冒険にも似たところがあった、のだろう。挑戦には、黒山というタブーのイメージがまず克服されなければならない。タブーへの挑戦は、経済的な利得を背景にもっていたはずだが、宗教者が先鞭をつける。そしてまた、この冒険には、社会階層の組み換えを招来したはずだ。論文では、そこまで言っていない。
 
富田荘 
尾張国富田荘絵図
中世的開発は黒山の共同観念としてのタブーを克服して活発化した
タブーの解消は黒山の自然的境界を打ち消した
やがて経済利害としての境相論が立ち現われてきた

   日本古代の色彩シンボリズムは、白と黒を聖なるものとした。平安時代に入って時代がすすむにつれ、白だけがその聖性を強めてゆく。黒は、逆のコースをたどる。背景には、律令体制の動揺や、陰陽五行思想やら浄土信仰やらのさまざまなイデオロギーの影響があった、という。そして中世の開発行為の展開において黒の色彩象徴はふたたび動揺し始めたのだ。

   色彩は、区分し識別し際立たせるためのすぐれた道具だ。中世における支配・被支配、富の分配と秩序には、色彩象徴が巧みに用いられた。しかし、黒山の黒は、タブーであるとともに未知の宝をもたらすチャンスを象徴するのだった。中世に生きる人々は、その黒が意味する境界性に気付きはじめていたのだ。

   開発に投資する下級貴族・寺僧・神官などと、開発のための労働力となった農業浪人を、幾重にも織りなされる支配・被支配の一コマとも考えられる。黒山に対する投資の後ろには、国衙というより上位の支配機関が存在した。そういう支配・被支配の構図を思い描きながらも、僕が驚いてしまうのは、そういう単純な構図からはみでてしまういくつもの仕掛けが中世社会にはあったことだ。逃散は、一味神水という儀式を通して連署した申状・起請文を幾度も領主に提出し、そのうえで逃散が実行される合法的な闘争手段であった、という。その場合のもっとも一般的な逃散の場が、山野・山林であったのはごく自然に頷ける。しかし、その逃散をさらに具体的に見てゆくと、妻を残して(見捨てるわけではないらしい)実行される逃散の例や、家のまわりに柴をひいてその家に閉じこもってしまう場合など、その闘い方には何とも形容しがたい豊かな表情が読み取れる。

   じつは支配・被支配という関係をもたない社会を僕は想像しづらい。その強度・ゆるさを別にすると、それは人間社会の本質であるかもしれない、と僕は思い始めている。しかし、この論文「『荒野』と『黒山』-中世の開発と自然-」を読んであらためて思うことは、支配・被支配という抜きがたい人間社会の特性にも、それを時にうまく回避するさまざまな仕掛けや事業があって、興味をひく。歴史は、支配・被支配の二項対立の全面的な展開のなかで抵抗が形づくられるというよりも、様々な支配・被支配に寄生するかたちで、あるいは巧みにそこから逃れる形で、別の回路(それもまた支配・被支配のスキームをもつ)によって進歩を獲得してゆけるのかも知れない、と思うのだ。そういう支配になびかない別の選択肢がたくさんある社会の方が、多くの人を生かし、富ますのではないだろうか。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

39.網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』(岩波書店1984年刊)

amino+002_convert_tate.jpg  網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』は
中世史研究の隆盛のひとつの記念碑的著作なのだろう
中世における海民・山民・商工民・芸能民が
自然という「大地と海原」を媒介にして
天皇に強く結びついていたさまを
具体的な細部の検討を通して
知ることは戦慄的ですらあった
相論(係争)のために偽造された職人の由緒書のなかに
鵜飼として鮎を漁する桂女(かつらめ)の
遍歴する商人・遊女・巫女の商権と交通権に
天皇との結びつきがあったのだ
現代にいたる「歴史の力」が消し去ってしまった
厳しくも逞しく くっきりとした特長をもち
また 時に非常に美しい人々と文物を
この本は蘇らせてくれる
しかしそれらを排除し扼殺した者は誰なのかも
問う本なのだ
この本を読んでいると
学問という狭苦しい枠を超え 
多くの人々のものの見方・考え方に影響力をもつ
人の心を豊かにしてくれる種類の
最高の読み物に出会えた気がしてくる


   不覚にも、またしてもすごい本に手をだしてしまった。網野善彦には、一般の読者むけに書かれた読みやすい本がたくさん出ているのに、よりにもよって大著『日本中世の非農業民と天皇』(本文591頁)の読破に挑戦したのだ。史学科の学生でも、相当に勉強熱心でなければ手にあまる代物だろう。この本を読む資格は僕にはないと思う。どれだけ理解できなのかというと三~四割がいいところだろう。しかし、『日本中世の非農業民と天皇』の読書が、退屈だったかというとまったくそうではなく、読んでいて面白く、時には目くるめくような感興をおぼえた。非常に豊かな読書体験だった。

   この本がすごいのは、半端な姿勢・知識では到底歯が立たないという意味だけではない。中世における非農業民、すなわち海民・山民・商工民・芸能民などの人々の生態とその歴史変化を、膨大な資料の精彩な読み込みから「間違いない」と言える僅かの事象・意味を浮かび上がらせてくる知的な迫力とともに、はからずも非農業民の影に浮かび上がってくる天皇、あるいは天皇制という大問題に、決して声高ではないにしても、真正面から向かいあっていることだと思う。天皇による保護・特権付与がなされた人々が、賤視の対象に変化してゆく歴史を、ごく控え目に、しかしこれだけは言えるという真実が記述されている感じだ。

   非農業民と天皇の結びつきについての問題意識を、この本は通奏低音のようにもつ。そして時間をかけて僕なりに考えてみたい論点をこの本で知った。それはのちに入会権の争いとしてより明瞭に顕在化するのだが、「大地と海原」は誰のものかという問だ。荘園制という土地所有とは別の次元で、「草木獣鳥魚類海藻等」は領主のものとうよりは、そこに住む人々のごく自然な環境、それとともに生きる「人民」が活用できる本源的な権利であったはずだ。その環境と権利を最初に特権化しある限定した人々に与えたのが天皇であった。少なくともこの本を読む限り、「大地と海原」を支配する天皇の影響は絶大であり、その自然の恵みと天皇の結びつきは、さらに言えば、日本列島に住む人々の意識の根底に刷り込まれたある種の自由と不自由を、開放と拘束を表現しているのかも知れないのだ。

   僕は、歴史への柔らかく型にはまらない著者の感受性・想像力に何度も唸ってしまった。そういう意味で、この本の秀美は、中世の商工民をめぐる偽文書の考察だろう。
    網野善彦は、中村直勝(1890~1976)がその多くを偽とした文書のなかに真正のものが少なくとも含まれているということを検証する。さらに、中村が「変な」「気味の悪い」「落ち着きのない」と形容した文書に積極的な意味を読んでいくのだ。つまり、それら偽文書のなかに天皇と供御人の歴史的な淵源を辿れるとする。偽物についての考察によって真実の姿を浮かび上がらせる逆説の方法に僕の心は揺れた。また、女性の商業・金融面での当時の活躍を中村が偽作と断定した粟津橋本供御人(クゴニン)の文書に見出してゆくのも面白い。

    海民をめぐる話、鋳物師の話も、ディティールにつぐディティール、厚みがあり味わい深い。しかし、桂女(カツラメ)という女達の何と艶かしくも逞しく、またときに妖しくも魅力的なことか。桂女とは、遠く中世においては鵜飼を生業とする女性の集団であったようだ。桂女という鵜飼は、鮎を漁るばかりでなく、鵜船を操り水上を行き来した。彼女達は、鮎を売る商人であり、遍歴する遊女であり、呪術的な力をもつ巫女でもあったのだという。富貴・権勢の人々が彼女らと遊び、彼らの宴席を賑わした。僕も、その時代に生きて彼女らと遊んでみたいものだと想像する。それが叶わぬ望みなら、道行く桂女を見とれていたいと思うのだ。
    桂女をめぐっては、興味深い事実が多い。現代にいたる花嫁の角かくしは、鮎鮨を入れた桶を、白布を巻いた頭上にいただいて諸国を経廻した習俗の名残であるとか、彼女らの集団が女系相続であったとか、興味が尽きない。柳田國男には、近代の彼女らについての美しい文章があり(“桂女由来記”)、また、江馬務は彼女らの起源を朝鮮に求めたという。桂女の生業であった鵜飼についても、僕はテレビで見る長良川の観光名物でしか知らなかったのだが、南アジアにまで視野を広げて考えるべき、生活に密接した漁法なのだということを教えられた。
   桂女という特異な女性集団について、このような重厚な史書にある地味な記述によってではあってもいろいろと想像してみたくなるのは、何だろう。著者が言う「歴史の力」というものを僕が感じるからかもしれない。天皇から特権と保護を受けていた桂供御人(くごにん)=鵜飼であった(隷属していたのではない)彼女らが、天皇の支配権の弱化とともに、桂女は大きな変貌をとげることになる。他方、鵜の首をしめて漁をする鵜飼にたいする仏教思想に基づく殺生禁断の圧力があった。彼女らが賤視・差別の対象となってゆく、背景がそこにある。それでもなお近世の桂女は、元祖を伊波多姫と宣言し、安産を祝い婚姻に際しては祝言を述べてきたのだ。僕は、夢想するのだが、自由に遍歴し逞しく、また艶めかしく生きる桂女に変貌を強いたのは「歴史の力」であるとともに、僕ら現代につながる日本人であるかも知れない、と。変貌は、言葉を変えれば排除し扼殺したのだ、と。現代における角かくしと桂女の習俗は、何とも皮肉なめぐり合わせである、と著者はこの章の結びで付け加えている。

     この大きな本のごく短い「あとがき」で、著者は霞ヶ浦四十八津の滅亡にいたる歴史を辿ったその論文を小ノートと呼び、謙遜しながらも特別な思い入れを込めて回想している。著者が日本常民文化研究所で働いた六年間のささやかな成果であると述べ、また、それはおそらく著者の公刊された処女論文であるのだろう。しかし、僕の好みでいえば、この論文が最高の読み物に思えるのだ。近世の文書の読解からおぼろげに浮かび上がってくる事件やら時代の変化が、霞ヶ浦四十八津に生きる海夫たちの生きた姿をじつに豊かに想像させてくれるからだ。入会の湖をめぐって、中世における鹿島社、香取社による影響行使、鈴木という豪族の台頭があり、そして徳川の時代、入会の湖が水戸の「御留川」となりさまざまな相論をひきおこすことになる。霞ヶ浦四十八津の入会で生きる自立した村々の連合体と水戸の領主との対立という構図に収斂させてしまうとつまらなくなるが、事態はそれほど単純ではなかった。たとえば「あぐり網」の使用に端を発する訴訟において四十八津側は勝訴した。そして、霞ヶ浦の漁業の古くからの慣習を連判をともなう規定八箇条(たとえば、鯉の漁期を定めている)として奉行に公認させるのだが、それは同時に自然権への自らの手による拘束でもあったのだ。

     この大きな本を読み終えてぼんやりと考えていると、さまざまな問題が頭をかすめてゆく。いろいろと考えてみたいことが少なくない。しかし、ふと変な思いが頭をよぎる。著者網野善彦は、随分おおくの人から、とりわけ後進の人から批判をうけているなー、と思うのだ。それへの反論も時には激しい物言いになっている。そして僕は思うのだが、後進の者にとって網野善彦は批判をまともに扱ってくれる先輩に写っているのかも知れない、と。それは著者の学者として良心という以上に心の広さ・温かさを僕は感じる。この本がそういう著者の心の温かさをどこかで伝えている。591頁のこの学術書は、読んでいると学問という狭い領域を超え、人の心を豊かにしてくれる種類の、世間に影響力をもつ最高の本であるにように思えてくる。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

36.横井清『室町時代の一皇族の生涯―「看聞日記」の世界』(講談社学術文庫2002年刊、原著1979年刊)

祖父に崇光天皇をもち
子に後花園天皇を持つ貞成親王(さだふさしんのう1372年ー1456年)の
『看聞日記』(かんもんにっき)を読み込む本書は
見慣れぬことば 難解な漢語で
初め読者を面食らわせるかも知れない
しかし とっつき難い最初の扉を思い切って開けてみると
実に面白く 楽しく遊べる世界が広がっていた
歴史書とも文学作品とも言い難い本書は
貞成親王という好奇心旺盛な個性と
一筋縄ではいかない著者の個性がないまぜになって
中世の夢幻世界を
伏見庄の四季と生活から京の噂話まで
また 生の厳しい現実を
虚名(濡れ衣)や計会(資金繰り)に苦しむ
貞成親王のきわめていきいきとした姿を
現代の私たちのもとに届けてくれる
そこに仄かに見えてくるのは
人の一生の時間の流れとは多くの障害に充ちているけれども
幸福もまたさまざまであるという
実に凡庸な結論なのだ

 
   これも一種の覗き見趣味なのか、僕は他人の日記や書簡の類を読むのが結構好きで、荷風の『断腸亭日剰』は今でもたまにページを開くし、一時期随分熱心にエリアーデの『日記』(未来社)も読んだ。また最近の収穫では『中江丑吉書簡』(みすず書房)が非常に面白かった(中江丑吉は、兆民の息子で古代中国政治思想の研究家)。だから皇族の日記を読み込むこの本も随分前から気になっていて、一度は読破を試みたのだけれども、ディティールにつぐディティール、馴染み少ないことば・漢字に気押しされて読み通すことができなかった。しかし、本とは不思議なものだ。一度ダメでもある期間をおくと読めるようになる。今回もゆっくりこの本を読み始めると、スーと内容が入ってくる感じなのだ。日記の細かな記述を通して中世の人間の姿が(『看聞日記』の綴った貞成親王ばかりでなく、代々の足利将軍、取り巻き、文化人、さらには将軍家の作庭に携わる河原者など)、また、中世という時代や文化が仄見えてくることに強い感興を覚えた。横井氏自身は「こんなにも地味な中味の史書」と謙遜して言うが、ちょっととっつき難い最初の扉を思い切って開けてみると、実に面白く、楽しく遊べる世界が広がっていた。

sadafu+002bbb.jpg
千数百円でこのような味わい深い読書ができるとは
書物とはあり難いものだ

   『中世民衆の生活と文化』(講談社学術文庫)で横井氏は、山城の国一揆に関連する起請文に触れて中世における責任ある大人を十五六歳ぐらいからだ、と論じた。
   ところで、この本で最初に眼をひくエピソードが、『看聞日記』を綴った本人・貞成(さだふさ)親王(1372年ー1456年)の元服の式なのだけれども、何とこの時、貞成親王はすでに四十歳なのだ。浅学の身としては、四十歳にしての元服は驚きだ。とりわけ、『中世民衆の生活と文化』で取り上げられた成人の下限十五六歳を思うといかにも遅い元服が妙な迫力をもって迫ってくる。祖父に崇光天皇をもち、子に後花園天皇を持つとはいえ、無位無官で過ごした若い年月、部屋住まいの窮屈、計会(金の工面)の苦労、さらには薙髪(ちはつ)を免れたい気持ちなどを考えると、この遅い元服式が何とも言い難く同情の念が湧いてくる。

   元服式の記述は具体的で詳細だ。さらに読み進むと、式の執行・進行がよろずに「略儀」「左道(さどう・粗略)」であると貞成が不満をあらわにしていることを知り、僕は今一度驚く。皇室が儀礼を粗略に扱うものかという驚きもさることながら、それもまた現実であるなら貞成親王が粗略な儀礼に苛立つのもまことに人間らしく、さらにそれが親王の不遇と重なって、貞成親王への思い入れを感じないではいられなくなってくる。

   応永二十三年(1416年)は、この本にとってひとつの区切りを示す年だ。つまりこの年、貞成親王は『看聞日記』を書き始める。また一つには、父栄仁(よしひと)親王が閉眼する。しかし、この本を読む楽しみはそのような目印になるような出来事とはべつに、繰り返しになるけれども、さまざまな出来事の具体的な記述に触れ得ることなのだ。たとえば将軍義持への痛憤、突然の難聴(亀の尿を使った薬を耳に点滴し快癒を得る)、所領の安泰のために家宝の名笛「柯亭」(かてい)を後小松院に進呈しようとする策など、じつに自分が中世という時代のなかにいて、皇族の噂話を実際に聞いているようなリアリティに酔いしれることができるのだ。

   歴史の大きな流れからみると些細な出来事の繋がりのなかで、この本にとっては第二の読みどころとなる兄治仁王の急逝(応永二十四年、1417年)の段に進行してゆく。
   治仁王の急逝の前段がまたいい。治仁王は、「博奕(ばくえき)の会」(ギャンブル)を繰り返し、弟貞成親王は、「まずいな」と思うがじっと我慢する。「日次記(ひなみき)で記されることばは『不可全歟』(しかるべからざるか)というわずかな文言なのに、治仁に対する非難の底意地が、さながら炙(あぶ)りだしのように浮かんできている」と著者は書く。

   そして父亡きあと二月にして治仁王が、痛風の病で頓死するのだ。

   治仁王の急逝の段が盛り上がるのは、今述べた連夜のギャンブルの会だけでなく、異様な医師の突然の来訪、体調の急変に一人貞成が立ち会う間の悪さ、侍医がなかなか到着しないもどかしさ、貞成が異様な医師が持ち込んだ薬を治仁王に呑ませようとしたこと、またとどろき渡る加持祈祷の音声など、推理小説の劇的な一場面を構成するような道具立てがそろっていて読者もその事件の推理に参加することができる。著者は、治仁王の頓死について、暗殺の線も含め三つの仮説を述べているが、読者はその仮説を吟味し楽しむこともできるのだ。しかし、僕がちょっと唸ってしまうのは、むしろ後段の話で、まず一つには治仁王の荼毘についてであり、つまり大光明寺の長老が治仁王を荼毘にふすのを嫌がった。理由はともあれ宮家ともあろうもののこの不自由は一体何なんだろうと僕は思う。そして、僕の想像力を遥かに超えた皇族をめぐる歴史の実相に中世史を読む興味を新たにするのだ。

   さらに貞成親王は僕らの常識からは理解しづらい振る舞いをでた。
   貞成親王の近臣が、治仁王が毒殺された可能性を将軍家へ密告した。貞成親王はその虚名(濡れ衣)を晴らすことができたのだが、問題は、貞成親王がその「野心相存する近臣」を追求することなく、捨て置いたのだ。伏見宮家の新しい主君として逆臣を捨て置くなどあり得ぬことだし、どうにも示しのつかないことのように思える。著者の言葉を借りれば「なんとしても不可思議の一語に尽きる」と。日記には書きづらい事情があったのか、あるいは、現代からは推し量りえない中世という時代における人間性を推し量るべきなのか、僕には分からない。不思議な感興を僕は覚える箇所なのだ。

   貞成親王は、治仁王毒殺という虚名(濡れ衣)によって窮地に立たされたわけだが、この『看聞日記』を通して見ると、治仁王の頓死の場合のみならず何度か虚名に苦しめられた。思い出すままに書くと、称光天皇に仕える女官が懐妊した時、また、後小松院に仕える女官の懐妊についても同様の虚名にさらされたのだ。前者については、事態は深刻で、称光天皇、後小松上皇、将軍義持ら権力者の思惑が絡み合い、貞成親王の破滅の危機でもあったのだ。後者については、バカバカしいほどあり得ぬことなのに「請文」の提出を命じられる屈辱を味わった。これらの虚名に対する対応は、逆臣を処罰することなく捨て置いた貞成親王らしく、天を仰いで「虚名おそるべし」を繰り返すのが主なのだが、当然のこととして情報収集・調停斡旋・交渉があったことを窺わせ、それもまた歴史の実相なのだと納得させられる。要するに、安易なステレオタイプとは違う歴史を味わうことができるのだ。恐るべき将軍義持にしても、風聞を鵜呑みにして権力を乱用するのではなく、自らの政治目的のための事実聴取を行い、事実を確かめているのが印象深い(乱会に及んだとされる伏見での猿楽について、それを演じた「岩頭」を呼び証言させた)。

IWA01bbb.jpg
石清水八幡宮
応永二十九年(1422年)貞成親王は四歳になった彦仁(後の後花園天皇)
を伴って石清水八幡宮を参詣する。・・・この本に見る『看聞日記』には、
父と子の情愛がしばしば感じられてそれが愛おしい。逆に、応永三十一年には
長女あ五々御所(九歳)が知恩院に入室し尼になる。「『家』に無用の男子は僧とされ、
娘は尼にされる」と著書は書く。


   初版の副題が「『王者』と『衆庶』のはざまにて」とあるように、この本は時の権力の周辺での喧噪のみならず、その他の「衆庶」に係ることについても具体的で生き生きとした記述を読者に届けてくれる。伏見の庄といういわば郊外の四季や生活について、また、茶会や歌会、音楽、猿楽についても饒舌だ。京の噂話についても(幽霊や愛宕山の天狗の話)、大旱魃、飢饉の様子についても詳しい(京に飢えた衆庶が流れ込み「乞食充満」、川筋に住む底辺層から発生した疫病は公家の間にも死者を続出させた)。またそんな時代、南朝の残党が御所を襲うこともあったのだ。隣家との垣根をめぐる争いも面白い。そういえば、領地における境界争いも貞成親王を怒らせ頭を悩ませた。
  一行一行が味わい深く楽しく興味深い。ディティールの集積である本書を、僕はあえて要約不可能な魅力と言いたい。本書を読むことで歴史の通念とは違うくっきりとした中世の姿が仄かに立ち上ってくるのが何とも素晴らしいからだ。

   本書のページを閉じてぼんやりと僕は二つのことを考えている。
   一つめは、なぜ貞成親王が、『看聞日記』を書いたのかという疑問。またひとつには、本書は歴史書でも文学作品でもない、という感想だ。
   一つ目の問については、関連情報がいくつかあって、ア、貞成親王は『看聞日記』以前には日記を書いていないと宣言していること、イ、実は、『看聞日記』以前にも日記を書いていて、ただし重要なイベントに関する記述を除き破棄されたようだということ、ウ、貞成親王が膨大なエネルギーを注いで『看聞日記』を清書していること。・・・日記を書き続けたことについていろいろな類推が可能なのだけれども、ここでは「栄仁・貞成らの置かれた境涯は、一口でいうと『不遇』の一語に尽きていた」という著者の言葉を書き添えておきたい。皇族としての伝承すべき重要事項を記録しておくべきだという当為よりも、「不遇」を昇華しようとする本能を僕はより強く感じる。
   二つ目の、本書が歴史書でも文学作品でもない点については、氏の恩師、林屋辰三郎の本書に対するコメント「日記を扱うのに、あんなふうにやったとはな」が如実に本書の性格を言い当てているように思える。つまり、本書は、学問が歴史を扱う通常の手法を大幅に逸脱しており、そのため研究者や先生にははなはだ不評である一方、一般の読者には地味で厳密すぎる。しかし、僕も含め歴史や文学を好むやじうまの中には横井氏が著した極めて個性的なテクストにたいする熱烈なファンが存在するはずだ。その個性とは前著『中世民衆の生活と文化』ではからずも語られている「自分でももてあますぐらい我儘で癖のつよい気性」ということばがそのままあてはまる。一筋縄ではいかない個性とエクリチュールの振幅に読者は存分に戯れることができるのだ、と僕は言いたい。

33.「山椒太夫」(『説教節』東洋文庫243所収、初版1973年)

森鴎外の小説「山椒大夫」が消し去った残虐性を
古説教「山椒太夫」で辿りつつ
残虐性を消し去る現代という時代の要請について考えてみる
そして「山椒太夫」を
林屋辰三郎「『山椒大夫』の原像」をたよりに
中世散所民と散所長者の没落譚として
読み返してみる
説教節「山椒太夫」は「中世における部落解放の夢」
を語っているというよりは
邪慳な散所長者への復讐
および散所長者の首のすげ替えが
ずし王という正系の支配者によって代行される
という読み方を提示したい


  森鴎外の「山椒大夫」(1915年発表)では、安寿は弟厨子王を逃れさせてから、履物を揃えて入水自殺をとげる。「これが鴎外の思ったもっとも美しい女性だった」と中学生のとき、国語の授業で教えられた。女とは、そして女の美しさとはそのようなものなのか、と僕は思った。もとの説教節では、安寿は追っ手に捕えられ八つ裂きの目にあうのだということをあとになって聞き、驚くとともに妙に納得させられた。当時の僕は、文豪の書く楚々とした女性像が、近代的なフィクションでインチキであると思った。

SanjyoToyouBBB.jpg
説教節「山椒太夫」は、東洋文庫『説教節』(初版1973年)に収まっている。
古文というほど難しくなく、あまり苦労せず原典を味わえる。

 今度、それこそ数十年をへて説教節の「山椒太夫」を読み、大変に面白かった。安寿は追っ手に捕えられて八つ裂きあう、と人から聞いていたところも、想像していた以上にいろいろと語られていて興味深い。・・・厨子王を落ちのびさせたあと、山椒大夫の屋敷の戻り、戻らぬ厨子王について詰問されるとウソをついて抗弁する安寿もたのもしいし、その時流す安寿の涙についての太夫の言い方もすごい。
 「おうそれ涙にも、五つの品がある。めん涙怨涙感涙愁嘆とて、涙に五つの品があるが、御身が涙のこぼれようは、弟をば、山からすぐに落といて、首より空の、喜び泣きと見てあるぞ。三郎いずくにいるぞ。責めて問え」
 三郎は、十二段の梯子に安寿を縛りつけて「湯責め水責め」やら「錐」やらで執拗に拷問を繰り返すが、「弟が山からもどりましたら、姉は責め殺されたと伝え、弟を可愛がって働かせてやって下さい」と太夫・三郎をさらに挑発するようなことを安寿は言う。三郎は「からこの炭」で庭に火をおこし、大団扇であおぎたて、「熱くば落ちよ、落ちよ落ちよ」と叫びつつ安寿を焼き殺してしまう。

sanjyo toyobook bbb

  考えてみれば、ほとんどすべての近代国家が、残虐な刑罰を改め、より痛みの少ない、また外から見ても穏やかそうな死刑を執行するようになるわけだが、それはどうしてなのだろうか。すぐに思いつくのはマックス・ヴェーバーの、国家の本質が合法的な暴力の保持にあるとする説だが、暴力の合法化のために刑罰における残虐性を、多くの近代国家が払拭してゆくと見るのはひとつの知見ではあっても、残虐性の否定が暴力の合法化としての近代性に結びつく本当の理由が、僕には分からない。そして、第二点として、法制的な残虐性の否定が、あるいは近代化に伴う、多くの人々に共有された残虐性否定の雰囲気・情緒にもかかわらず、残虐性は、時として、あるいは形を変えて事件として蘇ってくることなのだ。

 
  岩崎武夫『さんせう太夫考』(平凡社ライブラリー、初版1973年)は、父・山椒太夫の首を三郎に竹鋸で引かせる残虐な復讐劇を、鴎外の『山椒大夫』が削ってしまったことを問題視している。岩崎氏にとって見過ごせないのは、この残虐な復讐の場面のカットが、ずし王と山椒太夫の和解として写り、またそれは二者の間に厳然としてある「支配するものとされる者の関係」を調和や均衡に置き換えてしまったことだと言う。さらに、和解・調和・均衡は、支配・被支配の実相をうやむやにするばかりでなく、説教節「山椒太夫」に色濃く流れる民衆の情念を消し去ってしまった、と。
  ところで説教節の「山椒太夫」は、この場面も秀逸で僕は読みながら何度も唸ってしまった。つまり、首をだして太夫の埋め、ずし王は実の息子の三郎に太夫の首を竹鋸で切り落とさせるのだ。「一引き引きては、千僧供養、二引き引いては万僧供養、えいさらえいと、引くほどに、百二に余りて六つのとき、首は前にぞ引き落とす」となる。残虐な復讐が、またよりによって「邪慳なる三郎」の口から「供養」という仏の教えが聞こえるのは、説教節ならではのダイナミズムだ。
  実は、岩崎氏は、この残虐な復讐の場面における支配・被支配の実相について『さんせう太夫考』の冒頭近くで述べているのだけれども、あまり深入りせず、説教節が語られる祭りの場の論理(生命の更新と再生としての祝祭)のほうに筆を向けている。この本が出た1973年という時代を考えると、支配・被支配といった階級闘争史観に近いもの言いに傾くのもむべなしだが、問題は、説教節「山椒太夫」におけるずし王と山椒太夫の関係は、明確な「支配するものとされる者の関係」というよりは、もう少し違うニュアンスをもっているように僕には思えることだ。

  横井清『中世民衆の生活文化』(講談社学術文庫、初版1975年刊)を読んだとき、ずし王と山椒太夫の関係は、中世散所民と散所長者の実態として読みとくべきだという指摘に触れ、強い衝撃をうけた。横井氏の指摘は、林屋辰三郎の「『山椒大夫』の原像」(『古代国家の解体』1995年所収)の趣旨にそうものであり、僕は今回林屋辰三郎のその論文を読んでみた。
  林屋辰三郎の「『山椒大夫』の原像」(『古代国家の解体』1995年所収)は、鴎外の「山椒大夫」の原形を長者没落譚として見、また「山椒」という文字は「算所」とすべきだ、という柳田國男の論点(「山荘太夫考」1915年発表、筑摩文庫版全集9巻所収)の検討から林屋論文は始まる。つまり、柳田國男は、「山椒大夫」の名の由来を、長者の名としてはきわめて不自然だと言い、最初にこの話を語っていた「算所」民のある「技芸員」・「大夫」をその演目の名前と取り違えてきたのだと考えた。林屋辰三郎は、「山椒」が「算所」の民を意味する柳田説を首肯しつつ、さらに「大夫」は「技芸員」ではなく「長者」としての「大夫」だと修正する。説教節の伝播が散所民によるとしても、他の説教節演目があるにもかかわらず「山椒太夫」だけに「算所」の「大夫」(技芸員)という名を付す不自然を指摘しながら、つまり、山椒大夫とは、由良湊のような交通の要衝にあった散所の長者であった、とする。柳田國男が「算所」と表記し、林屋辰三郎が言う「散所」とは、もともとは住所不定の者を指すが、次第に同類が集まり、権門勢家・寺社と結びつきその雑役の担い手となる、ように書かれている。彼らは、耕作農民における田地の年貢をまぬがれそれは一面の特権ではあったが、実態は奴隷としての賤民的境遇を続けなければならなかった。当時の荘園領主は、年貢輸送や手工業生産のために散所民の労働力を必要としていた。そこにもろもろの散所の民を統制統率し管理支配する長者が発生する理由がある。領主は、散所の民を直接管理するのではなく、散所の長者を通してその労働力を活用した。

SanjyoHayashiyaBBB.jpg
林屋辰三郎の「『山椒大夫』の原像」は、
『古代国家の解体』(東京大学出版会1955年初版)に収められている。
外見はいかめしい本だが、文章はきわめて明晰、読みやすい。

  「山椒太夫」における「支配するものとされる者の関係」は、単純ではなくニュアンスに富む。それはまず、ずし王と姉の安寿を酷使しいたぶるのが、もとは支配し酷使される散所の民であることだ。支配・酷使されていたものが、その隷属的境遇から抜け出し、支配する逆の立場になった場合、より苛烈な支配・酷使により支配されるものから収奪してゆくのだ、ということを「山椒太夫」の物語は示唆していないか。
  「山椒太夫」が、散所の民とその長者の物語である点に関連して、林屋論文は、実に多くのことを示唆している。とくに気になるところを引くと、第一点、領主権力を背景に隷属下の民衆を苛酷に駆使し、特権にまもられて富裕な長者が当時多く発生したはずだということ、第二点、「山椒太夫」のような悲話は外部にもれ難いが、それが一旦もれひろがると民衆の共感と同情をよびおこしただろうこと、第三点、山椒太夫が散所内部に対して権力者で抑圧者であるとともに、散所外部の民衆にとっても根深い恐怖と、ある場合には差別意識の対象であったはずだ、とする点だ。
  林屋辰三郎「『山椒大夫』の原像」は、読めば読むほどいろいろなことを考えたくなるような論文だ。散所の内と外、差別意識の問題、いずれもひどく難しいが人間社会の根源、あるいは人間存在の闇にせまる命題だ。しかし、林屋論文が間違いなく素晴らしいテクストであるけれども、この論文の結論が僕には疑問なのだ。つまり、説教節「山椒太夫」は「中世における部落解放の夢」と林屋辰三郎は言う。僕は、そこまでは言えないと思うのだ。なぜなら、説教節「山椒太夫」では、ずし王が太夫と三郎への残虐な復讐をはたすが、山椒太夫に隷属する民を解放したようにはどこにも書いていないからだ(それを言うのはむしろ鴎外の「山椒大夫」だ)。ずし王は、太郎と二郎に丹後の領地を分け与え、散所の隷属民もそのまま彼ら兄弟に受け継がれたと考えるのが素直な読み方だ。さらに、ずし王は、ある時点で浪々の身となりはてたとはいえもとは奥州五十四郡の主の嫡子であり、国家制度の上位に位置する正系の支配者なのだ。
  散所の長者に容赦のない復讐をとげる「山椒太夫」は、支配されるものが支配するものを打倒する単純な物語ではない。本来は、正系の支配者が、一時的に身を落とし隷属的な労働を強いられるが、もとの支配層に帰還したあと、被支配層から、あるいは隷属的境遇から抜け出した中間支配者の散所長者に復讐する物語と読める。
  ずし王の出自を、正系の支配層にしたのは、隷属的境遇にある民衆の淡い夢であり、苛酷な境遇を耐え忍ぶ知恵・願望に過ぎないのではないか。冷酷な散所の中間支配者への復讐とすげ替えが、または散所における隷属的境遇からの脱出の夢が、ずし王という正系の支配層によってはたされるのも、一筋縄ではいかない支配・被支配関係の複雑さをあらわしていて、そこも見逃すことができない。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

26.赤坂憲雄『境界の発生』(講談社学術文庫、原著1989年刊)

表情に乏しい現代という時代は
ありとある境界の排除、あるいは消失に
由来するのだと著者は考える
杖立伝説の読解においては、国家の起源
その秘密に立ち至ろうとする著者の意欲が眩しい
供犠について、そのさまざまな見方について
僕はノートをとって勉強した
古代と中世における穢れ観の相違は
予想していたとはいえ、
輪廻転生・浄土思想の闇を再確認させられた
のっぺりとした現代にいて境界を幻視し
まれびととしえて現場に立つ勇気を
著者はひそかに念じている


   現代がのっぺりした平均化の時代だという感覚は、多くの人がもっているのだろう。モノがあふれ便利になった割には、いつも疲れていて苛々しがちだ。いろいろな気晴らしに時間と金を使い、あれもこれも飽食してみるが、深い心の充足は得られない。何となく生きているだけで、生を強く感じることができない。存在の希薄な感覚だけが、かろうじて確かなものに思える。

   この『境界の発生』は、現代ののっぺりした平均化の時代を、「境界のすべてが曖昧に溶け去ろうとする」時代としてとらえる。「男/女・大人/子供・夜/昼そして想像/現実・・・・・」等々の境界性の消失が、のっぺりとした平均化の時代の特長、あるいは淵源であると説くのだ。

   この本は、今では失われえしまったが、嘗てはより明瞭に存在した境界についての復権の試み、あるいは境界の始原へ向けての旅の敢行なのだ。

境界

   この本は、杖の話について詳しい。
   杖の社会的機能について、その呪術力について、また実用品として杖について、著者は、『記紀』や『風土記』、『一遍聖絵』などの絵物語、説話等々の古典テクストを用い読解してゆく。
   論旨はそれほど単純ではないけれども、僕自身の覚書として書いておくと、杖は、境界を差し示す、杖は、境界を示すことによって混沌に枠組みを(ある場合は国家の成り立ちを)与える、杖は、天(神)と地(人々)を結びつける、あるいは分ける、また、杖は境界に生きるもののしるしでもある、というようなことになる。
   大嘗祭において用いられる杖は、“遠方よりの来訪神”、“降臨した神”を指し示しているという解釈が紹介されている。しかし、杖を携えて各地を巡幸した古代の王の姿にむしろ杖本来の役割を著者は感じている。著者が国家論に肉迫しようとする意欲を感じとったが、僕はむしろ旅する人々(遍路・行商人・乞食・琵琶法師さらに死出の旅立ち)が携える杖の方に親しみを覚えた。また、杖を携えた「貴種の流離」についても、十分な事例・テクストが引かれていて読み応えがあった。

   供犠(Sacrifice)という宗教的儀礼に発する概念が、非常に重大な意味をもっているように段々思えてきた。僕の好きなインドの小説を読む上で非常に参考になるし、現代における毎日の文化現象を見るのにも役立つ。それで、供犠に関する本にも幾つかあたってみたが、実はあまり良く分からなかった。 
   この本は、供犠について現在の論点のありかを縦横に、分かりやすく、かつ知的緊張感をもって提供してくれている。興味を引いたところをランダムになるが挙げてみたい。
  1. 人身供犠を空想の産物だと考える学者(高木敏雄)がいる。
  2.  人身供犠譚は、動物供犠がそれを説話化する過程で人身供犠譚へと変化していったとする西郷信綱の説を、著者は批判的に検討している。
  3. 供犠はつねに<置き換え>を本質とする。『捜神記』(六朝時代の鬼神妖怪小説集)の湯王と同様、天皇における雨乞いでも「天皇→少女→呪文」という<置き換え>が行われる。
  4.  人身供犠譚は、人身供犠の終焉によって始まる。人身供犠は、否認されなければないと人々は考えている。人身供犠は、顕われつつ隠される逆説を孕んでいる。
  5. 屍体から穀物はなるとする豊穣神話になぞらえて、供犠は、死を、屍を再演する(エリアーデ)。
  6. 人身供犠譚は、神話の位相を抱え込む。
  7. イケニエは、人間/神・内部/外部・聖/俗といった二元的対立項を媒介する。
  8. 供犠とは秩序創出のための暴力ないしメカニズムである。始まりにおいて聖別された者が周辺に追いやられたあと、ふたたび中心に呼び戻す役割を供犠が担う。第三項(犠牲者)排除説。(今村仁司)。
  9. 犠牲を破壊することによって確立された神と人間との関係を断ち、自然という連続性のなかに文化という非連続性を持ち込む(レヴィ・ストロース)。
 
   穢れをめぐる問もすごく興味がある。そういう意味で、「穢れの精神史」という一章も大変面白く参考になった。とくに、中世と古代の卑賤観にはかなり明確な相違があることを教えられた。
   著者は、中世においては仏教、とりわけ浄土思想の影響・浸透によって穢れがいわば内面化されていくのに対して(例えて言えば、前世の悪行の結果としての病魔、横井清の『中世民衆の生活文化』による)、古代における穢れは、ハラへやミソギによって浄化されうる外面的なものにとどまっていた、と結論する。『古事記』における高天原を追放されるスサノオ、黄泉の国へのイザナキの訪問譚を取り上げて著者は言葉をつくしている。ところで、その際、高取正男『神道の成立』という本が批判的に検討されているが、赤坂氏の誠実な文章はその『神道の成立』という本を僕も読んでみたくなるような趣がある。

   文化を読み解こうとするとき、異人・境界・供犠は極めて有効な言葉・ツールである。しかし、著者は、そういう便利な道具よりも、「素手で現場に立つ」勇気の方が、より心しなければならないことではないかと最後に問うている。たとえ愚かしくうつろうとも、現場に身を投げだし、感じ、考えることの方が僕も貴いと思う。何よりも生命の香りがするのだ。
    「起源としての異人論」は、分量的には少ないが刺激的な論点をもっている。著者のメッセージを煎じつめれば、今こそまれびとよたて、ということになりはしまいか。飛躍を承知で言えば、この本『境界の発生』は、知識の本ではなく、嘗ての青年の読書が求めたような人生論、人の生き方を問う本なのかも知れない。
   文庫解説は、赤坂憲雄氏の知的営為を「西に傾いた太陽を追って少しでも日没を引き延ばそうとする試み」に似てはいないかと的確な指摘をしているけれども、僕はそれだけとは考えない。同じ現代化にしても、人間にとって心地よく、かつかけがえのない環境を作るには、失われつつある貴重な遺産―境界の復権―を形を変えて生かすしかない、と思っているからだ。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR