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91.田辺明生『カーストと平等性』(東京大学出版会2010年)、長田俊樹『新インド学』(角川書店1998年)

カーストbbb
インドに関する二冊の本についてのノート
『カーストと平等性』は
オリッサ州のある村における
ラーマチャンディ女神祭を通して
各カースト間にわたる「補完と矛盾を含む相互作用」
としての「存在の平等性」を浮き上がらせる
『新インド学』は
サンスクリット語と『ヴェータ』による
西欧におけるインド研究を振り返りつつ
それとは違う 多様なインドの魅力を語る



   アミット・チョウドリーの小説などを読んでいると(たてえば、A Strange and Sublime Address, 1991)、家族と下働きは、仕事・生活の領分は違っていても同じ家族の一員であるかのように分け隔てなく遇していて、とても穏やかで暖かく、カーストとはどこの国の話なのだろう、としばしば考えさせられる。最近は、カーストを差別と抑圧の装置と考えるのは慎重でなければならないと思うのだけれども、『カーストと平等性』という本を手にとってみたのは、そのような問題関心があったからなのだ。
  『カーストと平等性』という本はとても面白い。
副題に「インド社会の歴史人類学」とある。この本は、歴史人類学というものを、歴史学への人類学的視点の導入というようには限定しない。歴史研究と文化人類学におけるフィールドワークを、実際に、同時に行ってしまうのだ。勇気と実行力に驚嘆する。オリッサ州クルダー地方の近世史を、つまり一次資料にあたる歴史研究(貝葉文書の解読)と、その地におけるフィールドワーク(オリッサ州ゴロ・マニトリ村、人口3552人、1992年現在)を実地に行う(著者の当地でののべ滞在年数は5年におよぶ)。

   貝葉文書の「発掘」の記述が気持ちをそそる。
   その貝葉文書とは、18世紀、クルダー王国の会計官僚が、マニトリ村落について記録したものだ。その後、一族は貝葉文書を大切に保管した。現在も秋の大祭で人々がこれを礼拝する。だが今、それら文書の内容を村の人は知らない、という。筆者によるその読解の手つきは「きつく絞った濡れ布巾で、貝葉にこびりついた汚れを丁寧に取り除(くと)……、鉄筆で刻まれた文字が青く浮かび上がる。それでもなお読みにくい書記文字(karani)を、郷土史家の助けを借りながら何とか解読し写しとった」(91頁)というようなことなのだ。それは、膨大な時間と根気のいる仕事だった、ようだ。

   それらの貝葉文書の解読は、マニトリ村のカースト別人口表などを明らかにしてゆく。18世紀におけるオリッサ州クルダー地方のカースト制のあり様を、たとえば戦士カーストの流動的な動態について、つぎのような結論を得る。戦時におけるカースト間の協力(391頁)、つまり職分はカーストのみによらず軍事労働市場によって(114頁)、地域共同体が役割分担して兵力を維持した(88頁)、と考えるべきなのだ。

   植民地政府と近代化が、カースト制から柔軟性を奪いそれをひどく固定的なものにした。植民地政府は、支配のために上位カーストを優遇した。18世紀におけるクルダー地方の真の支配者は、ジャガンナータ神であったにもかかわらず、である。そして植民地政府は、土地測量に多大のエネルギーと時間をそそいでいくのだ。土地を、供犠を中心にした奉仕と分配の土台ではなく、租税徴収の目的に矮小化してしまった。

   ラーマチャンディ女神祭祀の記録と読解が圧巻である。
ゴロ・マニトリ村では、9月、10月の頃、17日間ものあいだをかけこの秋の大祭を執り行う。「おおいなるものに仕える」協業のあり方と「殺し分けて食べる」ことの供犠の進行とが鮮やかに語られる。トライブ民(先住民)や不可触民が、はじまりの供犠獣・鶏の命をたつ。だが、雨乞いの儀礼においては彼らの姿はない。また驚くべきことに、ムスリム住民の参画も仕組まれているのだ。

   著者は、おもにデュモン(『ホモ・ヒエラルキクス』みすず書房2001年がある)や新ホカート派(ダークス、ラヘンジャ、クイグリーとある)のカースト解釈を、このラーマチャンディ女神祭祀における供犠をつぶさに記述しながら、検証する。そこに見えてくるのは、デュモンのバラモンを最上位とする硬いヒエラルヒーでも、新ホカート派の宇宙の中心にある王の権力に根ざす支配構造でもなく、各カースト間にわたる「補完と矛盾を含む相互作用」としての「存在の平等性」なのだった。「存在の平等性」とは、ここではいわゆる哲学テクストにおける存在論の抽象的な平等ではなく、供犠儀礼に象徴的に表されている協業のあり様・存在の仕方における平等性である。

   この500頁をこえる学術書は、綿密で労を惜しまない研究書である以上に、希望の書なのである。それはオリッサ州のある村の人々の希望であるとともに、何か物足りない今の日本に向けても希望である。つまり著者は、均質性と近似性という調和を求め続けてきた近代国家のモデルに対して、差異を認める「カースト・イデオロギーの創造的変容」(ヴィーナー・ダース)を対置させる。……これは、インドの魅力そのものを言い当ててはいないか。

   『カーストと平等性』と『新インド学』とは、具体的な内容のうえで共通項をもたない。しかし、同じ志、方向性をもつ本なのだ。インドへの新しい、というよりは多くの人々がインドに惹かれる素朴で衒いない感性の側にたっている。『新インド学』は、そのことを気付かせてくれる本なのだ。とても貴重な認識なのだと思う。

新インドbbb

   ヨーロッパとインドは特別な絆で結ばれている。バクトリアのいにしえのギリシャ人植民国家ばかりではない。言葉においてもそうなのだ。
18世紀におけるインドの古典語、サンスクリット語の発見は、ヨーロッパの偉大な作家・文人たちを興奮させた。彼らはサンスクリット語による経典や物語に魅了された。サンスクリット語にヨーロッパの諸言語の故郷を夢想したのだ。ヨーロッパでのそれらの知的なうねりをオリエンタル・ルネサンスと呼ぶ。ヨーロッパにおいて多くの偉大な作品が、オリエント・ルネサンスの息吹のなかで創造されたことを、もっと意識しなければならない。E. サイードならば、それを帝国の幻想の側に収めてしまうかも知れないが…。

   インドについての研究は、長いことサンスクリットによる文献の研究に他ならなかった。我が国でも仏教研究がサンスクリット語によるインド研究を後押しした。しかし、『カーストと平等性』も『新インド学』も、サンスクリット語の文献ではなく、インドの多様な言語のなかに全力で入ってゆく。『カーストと平等性』においてはオリヤー語が重要であり、『新インド学』ではムンダ語(東インド、ジャールカンド州域に広がりをもつ)なるものが紹介される。彼らはサンスクリット語の呪縛から自由である。

  『新インド学』は、それでも第一章から第三章までは、ヨーロッパのサンスクリット学の話である。それは、ウイリアム・ジョーンズ(1746-1794)によるカルカッタのアジア協会の設立から始まり、西洋の東洋への憧憬が語られる。アジアに係ったパイオニアたちの知的興奮、情熱、個性、伝記を知ることは実に楽しい。

  「アーリヤ人侵入説」に関する章は、よりアクチュアルな問題を提議する。それは、ヒットラーの第三帝国におけるアーリヤ民族の優性のデマゴギーに結び付く。また、「アーリヤ人侵入説」への反論は、現在のヒンドゥー・ナショナリズムと相性がいい。このような問題状況にあって、この本から初学者が学びうるものは少なくない。

   結論だけを要約する。「アーリヤ民族のインド征服」は、現在の考古学はそれを認めない。「征服」についての証拠―あるいは痕跡でもいい―がないからだ。例えば、遺跡から発掘された人骨や栽培植物は何らの非連続・事件も明かさない。マックス・ミュラー(1823-1900)が語った「征服」、殺戮破壊をともなう一斉大挙の侵入はなかったのだ。だが、その一方で、現代の言語学は、インダス文明から現代にいたるまでの南アジアの言語・文化の非連続を言う。ひとつには、古代インダス文明の言語はドラヴィダ系言語である可能性が高いからだ。インダス川から北インドに広がるインド・アーリヤ語族の話し手の存在と繋がらない。著者の結論は段階的な小規模の移住はあったのだろう、ということだ。
   ところで、ここで興味深いのは、異なる言語の遭遇と混交状態は比較的短くて数十年と考えられる、と著者はいう。戦闘ではなく、手振り身振りをまじえたやりとりがバイリンガル状態をつくり、やがてあらたな形の言語による地域ができあがる。それはつねに平和的ではなかったかも知れないが、たとえばヒンドゥー語の始まりに言葉が通じない人々の暗中模索の姿を思い描いてみることは、「アーリヤ人の侵入」よりは、遥かにリアルで豊かだ。いずれにしても、アーリヤ語族(人種ではない)による南アジアへの侵入、先住民族の征服についてのイメージは、大幅に修正されなければならない。

   こみいった議論はさておき、今、この二冊の本についてあらためて考え始める。この二冊の本が、心を打つものであるのは、そのまっすぐな実践遂行力が土台にある、ことではないだろうか。『カーストと平等性』でいうと、著者は夫婦でオリッサ州の村に住みフィールドワークを行った。『カーストと平等性』には、夫婦で取り組んだ、なんとも言えない落ち着きがある。また、『新インド学』の著者長田俊樹氏は、ムンダの人を妻にした。やはりそれはすごい。未知なるものへの探求・愛がもっとも貴い、という魂を感じる。

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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