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88.アイェシャ・ジャラル『分離独立の悲しみ―サーダット・ハッサン・マントの生涯・時代・作品』、Ayesha Jalal, The Pity of Partition: Manto’s Life, Time and Work across the India-Pakistan Devide, Princeton University, New Jersey 2013

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   著者アイェシャ・ジャラルは、サーダット・ハッサン・マントの親族(マントは著者にとっての伯父)である。そしてアイェシャ・ジャラルは、アメリカの大学で教える現代史家なのだ。この本は、サーダット・ハッサン・マントの伝記ではない。インド・パキスタンの大きな歴史のうねりと、マントのマイクロ・ヒストリーについて書かれた歴史書なのだ。
   マントの作品を知らなくとも読める。作品紹介にかなりの頁がさかれている。親族であるためか(著者は幼いことこの伯父さんをマント・アバジャン[父]と呼んでいた)、マントに対する親密な雰囲気が濃密だ。それはマントの猥雑な魅力に立ち入ることを妨げているようにも見える。
   ところで、背景にある現代史への注釈は込み入っている。それは、南アジアの人々の、分離独立についての、心の屈折と真実への強い希求があるからだろう。
  この本 は、近代のインド・パキスタンにマントという偉大なウルドゥ語作家がいたのだと、主張している。それはまた、欧米の読者へのアピールでもある、ように見える。逆にいうと、この本は、マントのどこまでも怪しく危ない魅力、この世のシステムを根底から疑うようなラディカルな価値転倒の魅力とヒントにはあまり立ち入らない。むしろ、はっきり言えば、そのようなマントの読み方は、間違いだとさえ言っているのだ。

   マントとは何なんだろう。カシミールの言葉で、それは約3ポンド(1,362グラム)を意味する。そう、マントの家族はカシミールからやってきた。祖先はサラワット・ブラフマン(ある種の地主カーストか)であり、パシュミナストールを商う商人であった。19世紀の初めパンジャーブに移住、その後一家は法律家を多く輩出してゆく。
   サーダット・ハッサン・マントは、1912年5月11日ルディヤーナの郊外で生まれる。母サルダールは後妻だった。彼女は、パターン人の血をひいていた。激しい気性をもつ血だ。先妻の息子たちは、とても優秀で外国に留学し法律家、あるいは技師となる。父親は、マントが医師になることを期待した。
   少年のマントが屋上で凧をあげていた。階段を上ってくる父親の足音を聞くと、マントは屋上から飛び降りたのだという。少年マントは、厳格な法律家の父を怖れていたのだ。率直で自由な後のマントを思うと、この父の存在と勉学の強要は、意味深長である。マントはその父親から英語を学ぶ。
   少年時代、七歳のマントは、反英運動の象徴的事件であるアムリトサル虐殺事件(1919)を肌身で感じた。マントが青春 期を過ごしたアムリトサルは革命の坩堝のような街だった。ガンディーのアヒンサー(非暴力抵抗主義)による反英運動ではない。暴力的で過激な革命だ。警察高官の殺害、爆弾闘争を行ったバーガット・シングが英雄だった。

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アムリトサルのマント

   マントは、社会主義ジャーナリスト、アブダル・バリ・アリーと出会う。それがきっかけで、ヴィクトル・ユーゴーの『死刑囚最後の日』をウルドゥ語へ翻訳出版し(英訳からの重訳)、映画評を発表するようになる。
マントは、師アリーとの出会いがなく、ものを書く人生を歩んでいなければ、強盗になって獄につながれているのが関の山、と言った。
   大学への入学試験に一度ならず失敗する。その傍ら、ハリウッド映画に心酔し、写真に熱中し、フランス・ロシア・英国の小説を翻訳出版していくのだ。いずれにしても、マントは大学に入る前に、翻訳を出版し小説を商業雑誌に発表していた。マントは、革命志向のヒューマニズムとハリウッド映画の申し子だ。また、マントは入学試験よりも革命の祖国ソヴィエトへの脱出を本気で仲間と語らいもする。
   父の死は(1931、マント19歳)は、マントには悲しみよりも解放であったのではないか。ただ、一家を食べさせていかなければならない重圧との引き換えではあったのだが。度を過ごしたアルコール飲酒の兆候もこのあたりから始まる。
   アリーガル(アグラからそう遠くない)の大学に学部登録するも、長くは続かなかった。肺炎を発病(および肋膜炎)、姉の工面でカシミールのバトゥートに療養に赴く。マントはそこで村の娘と恋に落ちる(娘といってもシロートではない)。マントは、長くその純朴なカシミールの娘との恋のことを忘れられなかった。後にマントが書くボンベイの娼婦たちの肖像が、みな純朴なしるしを帯びているのは、そのカシミールの娘との恋に起源をもつ、とは言えないか。
   ラホールは、マントを退屈にさせた。親しい二人の友人および彼の師アリーもマントをラホールにとどめることができなかった。短い期間でマントはラホールを離れボンベイに赴く(1934、22歳)。都会がマントを興奮させた。ボンベイには、マントが憧れる映画産業があり、文人・知識人が集い、そして愛する姉がいたのだ。姉ナシラ・イクバルは、マントの繊細な感性を理解できた。また、ストーリー・テラーの才もあって、マントの作家としての成功をだれよりも願っていた(自分の才能の開花でもあるように)。マントの作家への道を後押しし支えたのは、姉イクバルと母なのだ。マントの最初の仕事は、映画週刊紙(Musawwir“絵描き”)の記者である。
   数年を経て、ボンベイでのマントの生活は落ち着いてゆくように見える。映画週刊紙の記者をしながら、時に映画台本が売れると生活は潤おった。マントは、彼の台本による映画に多くの不満・怒りを露わにしている。だが、実際にそれらの映画を見ていないので、私は何も言えない。大きな空白だ。いくつかの小説で、映画仲間、俳優との交流を読み、活気ある乱調ぶりを想像できるだけ。ただ、この本で知り面白く思えたのは、マントの奢侈品への拘泥(例えば万年筆や高級な靴)と気前の良い散財ぶりだ。マントにおいて貧困は運命だが、吝嗇は悪である。
   1939年(27歳)、姉と母の根回しでマントはカシミール系家族の娘・サフィアと結婚する。結婚がきまるまで二人は会っていない。同じ5月11日生まれという不思議な絆で二人は結ばれていた、とマントは語る。この本『分離独立の悲しみ』の著者は、妻サフィアが、マントをまた別の女(性)性の迷宮に連れ込んだと注釈している。サフィアは東アフリカで育った。父は、ザンジバルで検事だった。住民との争いで、白人と間違われ殺害されたのだ。カシミール人には、色が白い者がいる。
   マントの書く短編小説に妻サフィアとおぼしき女(性)は登場しない。マントの小説における男たちは、しばしば美人よりも不細工な女(性)への好みをいうけれども、写真でみるサフィアは美しく垢抜けている。マントは、自分の書く小説の猥雑な世界から、美しい愛妻をまるで隔離し隠しているかのようだ。
   1940年6月(28歳)に母が死ぬ。母は、マントの作家としての成功を強く願っていた。それは、彼女に風当たりの強い父親の親族に対する意趣返しでもある。母は、マントの作家的成功のとば口で逝ってしまった。
   1940年マントは、ラホールを経由し(親友との旧交を暖める)デリーに赴く。オール・インディア・ラジオに職を得たからだ。そこでマントは良質なウルドゥ語ラジオ放送台本を量産する。しかし、ここでも、私はそれらの作品を何も知ることができない。ウルドゥー語でしか読めない。これもまたとても大きな空白だ。ただ、この本にはいくつかの物語が紹介されている。“スリ”Jaib Katraという物語が興味を惹く。……腕はたしかだが善良なスリ(!)が被害者の女(性)=教師に恋をしてしまう。バッグをとられた女(性)教師は、最後スリの男を利用し、自らを守ろうとする。恐喝しようとしているパンディット(ヒンドゥーの学僧)のポケットから手紙を抜き取ろうとさせるのだ。……法などの社会の規範への侵犯を形式的に裁断することを拒み、より高次の道徳律が存在し、それに生きる者をマントは擁護する。社会的に信用される立場の人間(パンディットや教師)に、よりずる賢い本性をマントは嗅ぎつける。マントは打算抜きの真実高潔な人間性を、スリや娼婦のなかに顕現する瞬間を追い求める。虚しい夢に思えてならない。しかし、それでもマントは奇跡を信じている。マントの小説は、その奇跡を語るのだ。
   ところで、ここでもうひとつマントについての特長に注意を向けたい。それはマントが孤独な作家ではない、ということだ。アムリトサル時代からの友人との交流は続いていく。それも半端ではない。たとえば、アムリトサル時代の親友アブ・サイードゥを数か月も自分のフラットに居候させるのだ。また、ボンベイでもデリーでも、マントはウルドゥーの大物作家(例えば、クリシャン チャンデルKrishan Chander)や大物俳優(例えばアショーク・クマール)にも、臆することなく交遊しているようなのだ。マントは、そういう人々、友人の交流の間をぬって小説を書いた。
   人々との交流が、また、マントの場合ダイナミックである。ワサビ(香辛料というべきか)がきいている。“進歩主義作家”A Progressiveという小説で分かるように、マントは偽善的な進歩主義作家を思い切り悪しざまに描いて反撥・怒りをかった。むしろマントはある種の対立・敵対関係を歓迎しているようなのだ。「友敵」Frenemiesという造語がマントは気に入っていた。抹殺してはならないが、対立しながらも敵を尊重する関係をマントは重要だと考えた。
   1941年4月(28歳)、長男アーリフが肺炎で死ぬ。デリー、野菜市場近くの墓地に葬る。傷心のマントを、インド植民地刑事法に基づく「猥褻」の嫌疑が追い打ちをかける。不起訴となるがマントへのダメージは大きかった。マントは、自分がポルノ作家であるとは夢にも思わなかったのだ。
   1942年8月(30歳)、マントはボンベイに戻る。AIR (オール・インディア・ラジオ)の仕事は、マントをスターにしたが、マントはクリケットのスター選手のような扱いに強い違和感をもった。ボンベイでは、ふたたび映画週刊紙(Musawwir“絵描き”)の編集に携わりながら映画台本を書いた。生活のため映画台本を書き、文学のため小説を書く、という割り切りがマントにはできた。
   1948年初頭(35歳)のカラチへの脱出までの経緯は、そのまま分離独立の惨劇への助走のようである。その頃マントは、ボンベイの街を歩くとき、ムスリムのかぶる帽子とヒンドゥー教徒の帽子とをポケットに忍ばせ、ムスリム居住地区ではムスリムの帽子を、反対にヒンドゥー教徒居住区ではヒンドゥーの帽子をかぶって無用なトラブルを避けたのだという。宗教とは、帽子のようなもの、とマントは考えた。宗教が形式化している、と。また、マントは宗教における偽善を攻撃した。だが、ムスリムという宗教的括りからマントは自由であったわけではない。

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左が妻のサフィア、隣がマントが可愛がった妻の妹ザキア

   ボンベイの街が、ムスリム・ヒンドゥーの緊張・対立を先鋭化してゆく。大俳優のアショーク・クマールとボンベイの街をドライブしていると、いつしか道がブロックされていて、身の危険を感じるようなこともあった。   そのような雰囲気のなか、爽やかエピソードが紹介されている。マントは親しい女流作家イスマト・チュグタイIsmat Chughtaiのフラットから外をぼんやりと眺めていると、春の祭り、ホーリー祭のざわめき・喧噪が耳に入ってくるのだ。フィルム・スタン映画会社の労働者、見知ったプロデューサー、女優やらが、色水やパーティで使う死者の装いをもって大騒ぎしている。その種の騒ぎにブツブツ言っていた女流作家も、またマントの妻サフィアも祭りの熱気に徐々に感染してゆく。二人は、彼らに合流してゆくのだ。一向は、ゴーデゥバンダル通りをとおって、青・黄色・赤・緑・黒の染粉を通行人に撒き散らしながら、今や女流作家が先導役となって、有名俳優ナーシーム・バノの家につく。彼女はおめかししていた。誰かが「着替えてきて」と言うにもかかわらず、その姿のままで染粉サイケデリックな色水をあびるのだ。女優は魔女になったのだ。……赤い水をかけあう春の祭り。赤が象徴するのは、血液であり犠牲だ。歴史家アイェシャ・ジャラルは、その祭りの光景を何かとても心温まる光景として描いている。しかし、それは1947年の分離独立の惨劇の予兆でもあるかのようだ。祭の犠牲と分離独立における流血は、勿論ちがう。しかしある種の共通項が暗示されている。つまり祝福されるべき独立が、どこかで祭ではなくなり現実の惨劇へとスイッチを入れ間違えたのだ、と。

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シークの国からのムスリム達の移住
イスラム・ヒンドゥー間の争いで40万人の生命が奪われた

   1948年1月7日もしくは8日、カラチを経由してラホールに着く。ラクシュミーマンションズ31にどうにか
落ち着く。それから1955年1月18日のマントの死にいたるまでの短い歳月を彩るのは、アルコール飲酒、その治療のための入退院、二度の裁判、進歩主義作家同盟による締め付け、等々であろうか。未成熟なラホールの映画産業は、マントに仕事を作れなかった。それは予想どおりであった。それよりも、進歩主義作家同盟による文学雑誌からの追放が、マントから小説を発表する場所を奪ったのだ。
   マントのアルコール飲酒は、ある種緩慢な自死のように思える。進歩主義作家や新生のパキスタン政府への妥協・歩み寄りは、マントがその気になればそれほど困難ではなかったはずだ。だが、マントは、そうしなかった。マントは、ぺてんやいんちき、偽善から本能的に身を躱す。マントは政治的なもの(力と利害を計算する)から遠ざかる文学だ。マントは、ガンディーが映画を見ないように、自分は政治に興味がない、と言ったという。マントが飲酒したローカル・ウィスキーは恐ろしいしろもので、飲んで酔えば地獄を彷徨うようなもの、さらにそれは毒薬なのだと著者は言う。猥褻なものの価値を認めない進歩主義作家とも、パキスタン政府ともマントは妥協できないとすると、マントに残された道はわずかだったのだ。
   パキスタンにおけるマントの生活は痛ましい。しかし、マントは、その時期にいくつもの優れた短編小説を書き(分離独立、ボンベイの俳優達、カシミール紛争などについての小説が思い浮かぶ)相当な量のエッセイを書いた(こちらはごく一部しか英語で読めない)。マントは生き急ぐように書いては飲み、飲んでは書いたのだ。
  『アメリカのおじさんへの手紙』(英訳、パキスタンで出版されているようだLetters to Uncle Sam, translated by Khalid Hasan, Islamabad 2001)というマントの創作は、パキスタンにおけるマントの痛ましさを良く表しているように思える。
  『アメリカのおじさんへの手紙』は、著者が紹介しているところから想像してみると、ひどく屈折した悪い冗談、破滅的なモノローグようだ。思いだすままに書いてみる。英国はタジマハールをアメリカに売却しようしているという街の噂、途方もない原稿領でアメリカが発行するウルドゥ語雑誌に何かを書けというアメリカ政府工作員、アメリカがパキスタンの共産化を怖れているのであればハリウッドの女優とダンサーをパキスタンに送ってくれればいい、「僕らは」アメリカ文化が大好きなのだから、と。あるいは、「僕らは」弔いの経帷子も買えないほど貧しく、衣類もままならない、ゆえにヌーディスト・クラブを始めようと思うが、問題は何で食べてゆくかなのだ、と。あるいは、小さな原爆を送ってくれればカシミールで戦争をする、そうすればアメリカの景気は良くなり、パキスタンもインドもなくなって世界は平和になる、と。

   マントは自らの墓碑銘を、死の数か月前に書いた。その一節には「彼は、輝く太陽を嫌い、暗い迷宮を好む。また、彼は何物でもなくとも、ただ慎みという美徳を疑い、裸形とその無恥の感覚に酔う」、あるいは「彼は、清流に赴かず、ぬかるみを裸足で歩く」とある。この墓碑銘は、彼の墓に刻まれなかった。

<補足>
   この本を読んでいると、マントへの理解・人気の世界的な広がりのなかで、日本語の翻訳もあるように書いてある。今まで、本屋や古書店の棚で見たことがなかったので翻訳はないと思いこんでいたのだ。
   今回調べなおしてみると東京外国語大学の紀要に、かなりの量のウルドゥー語からの翻訳があるのが分かった。今、それがネット上で公開されていて読めるのだ(東京外国語大学学術成果コレクション>現代インド研究センター>ウルドゥー文学)。私が数えあげたところ、26篇のマントの短篇小説が読める。数編未読の短篇も含まれているようなので、改めて通読して感想・批評を書いてみたい。
   筑摩書房から出ている『悪の物語』にもマントの“殉教者製造人”が収められているようだ。また、こちらは非売品だが大同生命国際文化基金から出ている『インテザール・フサイン短篇集』に、“グルムク・スィングの遺言”と“黒いシャルワール”が収められている。

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こんばんは!っわーお!日本語で読めますね。正直めちゃ嬉しいです。こちらの書評の魅力とその描き出される相貌,ずうっとマントという作家に興味持ってましたw,なにぶん英語で読むというのは,・・・・・以前よみやすい英語初心者には適宜だと書いていらっしゃいましたが相当努力が必要だな・・・無理だなと。あきらめてました。

Frenemies,ですか素敵ですね
プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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