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87.ニッコロ・マヌッチ『摘録・ムガルの歴史』、A Pepys of Mongul India, 1653-1708; Being an Abridged Ed. of The Storia do Mogor of Niccolao Manucci, Tr, by William Irvine (Abridged Ed. Prepared by Margaret L. Irvine)

無題

   この『摘録・ムガルの歴史』を通読しても、私は何も理解することができなかった。とても難解な本なのだ。たとえば、272頁から275頁にかけてある挿話は、そこに一体どんな意味があるのだろう。

   アウラングゼーブ(ムガル朝第六代皇帝、在位1658-1707)による統治の初めの頃、デリーにいた私(マヌッチ)は、郊外のクトブディン公園へよく馬乗りにでかけた。公園に集う人々、時々の祭り、公園の新鮮な空気を私は好んだのだった。ある日、公園からの帰り道、一台の馬車が眼にとまった。その馬車には十数人の従者がついていて、また馬上の者もつき従っていた。馬車の一行は、私に気付いたのだろう、私を避けるように道をはずれ野のなかへ馬車を進めた。馬車にのっているのは踊り子(public dancer)であることは、分かっていた。まだごく若かった私(マヌッチ)は、いたずら心と少しの冒険心から、あるいはちょっとした金品をまきあげられるかも知れないと思い(これらは私の解釈である)、こん棒を手にすると馬車の方に突き進み、従者たちを打ち怒声を浴びせた。従者も、馬上の者も馬車と踊り子を残し逃げ去った。私は、簾を上げ踊り子を見ると悪態を吐いた。彼女が助けを請うかと思ったのだ。少しすると、馬上の者が仲間をともなって戻って来た。私は、剣をいつでも抜けるようにつかさを握った。しかし、彼らは行動を起こそうとしなかった。馬上の者が、慇懃に話しかけてくるが黙っていた。彼の横顔は、年老いて見えた。私は、静かにその場から退散した。
   同じことが翌日も起こった。ただ、念のため槍を携えていった。例の馬上の者が話かけてきた。丁寧な物腰で、彼らの散策を邪魔しないようにと言うのだった。私は、他の車と識別できるよう深紅の覆いを掛けることを条件に了解の旨をのべた。
   彼は、ミズラ・アルジャニといった。実は、アラーウィルディー・カーンの弟だという。アラーウィルディー・カーンは、シャー・シュジャー(ムガル朝皇子)をアウラングゼーブに売った裏切り者だ。
   ミズラ・アルジャニは、その踊り子を本気で愛してしまったのだ。王は怒ったのだろう。二百余名の騎士と俸給の大部分をとりあげた。それでも彼は、踊り子を諦めきれなかったのだ。彼は、私と親しくしたいと言うのだったが、私は取り合わなかった。

   このような逸話が数多く繰り出される。その意味するところは必ずしも分明ではない。この世の物語には思えない。それがマヌッチの境界性なのかも知れない。夥しい固有名詞を(マヌッチはどのようにそのように多くの人物の名前や地名を、さらには年号を明確に記憶し得たのか、几帳面にメモをとっていたとは思えない、異常な能力としか言いようがない)追い切れない。……それが、この本の総体についての印象である。

   以下は、境界性のトリックスターとしてのマヌッチについての私の接近の試み、その悪戦の断片的記録である。なお、『ストリア』を理解するうえでの補助的知識は、S. スブラフマニヤムの『異人となる三つの道』Three Ways to Be Alien (Brandeis University Press 2011)を参照した。

1. インドへの道

   マヌッチは、ベネチアっ子である。1651年*、マヌッチが十四歳(あるいは十三歳)のときスミルナ(エーゲ海沿岸のトルコの港)に向かう船にもぐりこむ。その船で、いささか伝説的に過ぎる出会い、ベルモント子爵にひろわれる。ベルモント子爵は、清教徒革命の迫害から逃れてきた片腕の人物で、亡命中のチャールズⅡ世のペルシャ宮廷における使節であると自称していた。

   *マヌッチをめぐる西暦年代は錯綜している。1.マヌッチが『ムガルの歴史』で書いている年代があり、そして2.およそ100年前の英訳者ウイリアム・アーヴィン(1907~8にかけてインド行政官職ICSにあった)の訂正した年代があり、3.また、その他の近年の研究者による訂正年代がある。ここでは、S. スブラフマニヤムの上記の『異人となる三つの道』にある年代を概ね用いた。

   マヌッチを題材にしたスディル・カカルの小説『深紅の玉座』Sudhir Kakar, The Crimson Throne ( Penguin Books India 2010)では、マヌッチは、ベネチアの港の荷役労働者の息子でひどく貧しかったように書かれている。ペストで母を失い、父親は、飲んだくれの乱暴者なのだ。東方帰りの船員から話を聞いたことが、マヌッチをベネチア脱出・東方への雄飛に駆り立てる。

   この本『摘録・ムガルの歴史』(以下『ストリア』と略す)では、親族に貿易商を営むものがいる。そこらあたりにマヌッチにとっての海外の、東方についての情報源があったのではないか。マヌッチは、ベネチアをでるとき、イタリア語だけではなくフランス語も少しできた。マヌッチの家庭は、中産下層階級と考えるのだが妥当だろう。

   ベニスを発った船は、アドリア海沿岸を進む。ラグーザ(ドゥブロブニク)に寄港し、そのことを現代の歴史家は注意を喚起するが、摘録の『ストリア』では触れられていない。
   スミルナで上陸、エルズルム、タブリーズ、カズウィーン、ホルムズへ、バンダル・アッバース、そこでまた船にのり1654年スーラトに着く。2年数か月の旅である。旅の安全のこと(宿泊中のキャラバンサライで強盗団に襲撃されるが、その一人を生け捕り強盗団と交渉する)、現地王侯貴族との交流、寒さ、食料のこと、水の確保といったことがら、つまりその基調は、英国人の翻訳者ウイリアム・アーヴィンは、および縮約版編集者マーガレット・エル・アーヴィン(ウイリアム・アーヴィンの娘)の好みなのか、冒険譚の趣が強い。マヌッチは勇敢で、才気があり、精力的である。
   ところで、アルメニア商人という者達が、インドへの途上においても、またインドに到着してからも、いたるところにいる。アグラ滞在中には、仲の良いアルメニア商人と馬乗りを楽しんでいる。インドには、少なからぬユダヤ系の商人たちもいたはずだが、この本で広い地域を結ぶ商人というとアルメニア人ということになるのだ。小アジアからインドにまたがる地域を商売して歩いていたアルメニア人の歴史とはどのようなものであったのだろうか。

   インドに着いたマヌッチをまず驚かせたのは、婦人が、トルコやイランのように頭部をスカーフで隠していないこと、そして、口蓋を真っ赤にそめるパーン(檳榔樹[びんろうじゅ]や消石灰などを葉に包んだ軽い麻酔作用のある嗜好品。清涼剤、健胃の効用もある)なのだ。その時代からパーン嗜好の習慣があったのか。また、インドを訪れる現代のインド初体験者がまず驚くことにマヌッチも驚いたのだ。

2.ムガル朝皇位継承戦争

   『ストリア』のⅠ部は、ダーラー・シュコー(第五代ムガル朝皇帝シャー・ジャハーンの第一皇子、皇位継承戦争においてアウラングゼーブに敗れる)の戦いに費やされている。それは、ベルニエの『ムガル帝国誌』(岩波文庫)の記述に相当に近い、という印象をもつ。とくにサムガルの戦いにおいて裏切り者カリールッラー・カーンがダーラー皇子を像のうえから奸計により降ろすところは、同じひとつのテクストに思える。マヌッチは、自分がベルニエに情報提供したのだと『ストリア』で述べている。そうかも知れないが現代の歴史家は、マヌッチがベルニエの『ムガル帝国誌』を所有していたのは確かで、熟読していた形跡もあると見ている。どちらが何を剽窃したのか(あるいは本当の情報源は別のところにあったのかも知れない)、本当のところはよく分からない。

   サムガルの戦い、そしてその後のダーラー・シュコーの敗走の物語については、そのいくつかの場面にマヌッチは帯同した、ことは確かなようだ。

   ベルニエは、話がうまい。伝聞をうまく整理し、アクセントをつけ、ヨーロッパの人々に受ける本を書くことができた。ベルニエの本は、後にK. マルクスに「アジア的専制」のイメージ・ヒントを与えた。マルクスが「アジア的専制」と呼ぶことになるムガル朝の統治システム―王が土地その他すべてを所有し、臣下の生殺与奪の決定権をもつ―についてマヌッチもさらりと触れている。が、ベルニエの本の記述の方がずっと分かりやすい。ベルニエの『ムガル帝国誌』が当時(初版1670年パリ)のベストセラーだとすると、マヌッチの『ストリア』は、実に陰影豊かな紆余曲折をへて現在に至っている。正系と異端の見事な非対称なのだ。

   マヌッチは、砲兵としてダーラー・シュコーに仕えていた。当時(17世紀中葉)においてインド諸王国では、砲兵をヨーロッパ人の傭兵で賄うことが多かった。だが、マヌッチが、砲兵としてどのような働きをしていたのか、はっきりしない。『ストリア』を読むと、マヌッチは軍における一種の名誉職、もしくはマスコットであったのかも知れない、と想像できる。マヌッチは、砲術についての理論も実技も身に着けていなかった。ダーラー・シュコーはマヌッチの何をとりたてたのか。……マヌッチは、ダーラー皇子との謁見に際し、ムガル朝の宮廷語であったペルシャ語に不自由しなかった。マヌッチは、通訳なしにダーラー皇子と会話ができたのだ。マヌッチのペルシャ語が(ムガル朝の宮廷言語である)、他のヨーロッパ人(ポルトガル人、フランス人、オランダ人、英国人など)からマヌッチをきわだたせていたのだろう。

   『ストリア』で明言されてはいないが、マヌッチの多言語運用能力は、異形というほど豊饒である。ベネチア出奔の時に(十四歳、もしくは十三歳)、イタリア語とフランス語ができた。かれの母語はベネチア訛りの強いイタリア語であった、と言う。インドに向かう旅の途上で(約2年数か月を要した)トルコ語とペルシャ語を学んだ。マヌッチのペルシャ語については、整理がつかない。インドに着いてから、あるイエズス会士にペルシャ語を習ったという記述もある。現代の歴史家スブラフマニヤムは、マヌッチが「ムガル朝年代記」を読み、かつポルトガル語への翻訳を試みたという記述を取り上げる一方で、マヌッチのペルシャ語を会話向きのものだった、と断定している。
   そもそも『ストリア』が何語によって書かれたのか、という問題が横たわる。マヌッチは『ストリア』をイタリア語で書き始めた。だが障害を感じすぐに断念した。長いインドでの生活がイタリア語を忘れさせた、というよりはマヌッチのベネチア訛りの強いイタリア語が、十四(三)歳でのベネチアを出奔において書き言葉として未熟であった、と考えられる。『ストリア』は、フランス語で、やがてポルトガル語で書かれたのだ。『ストリア』の巻数によって(一応Ⅰ部からⅣ部ということになっているが、Ⅴ部もありⅥ部も構想されていた)両言語の比重は変わる。マヌッチのフランス語は、わずかに文法的な問題があるにしろ几帳面な文章なのだと言う。マヌッチは独学でフランス語の書き言葉を学んだのだろうか。ポルトガル語で書いた理由は、当時のポルトガルのインディア領、つまりヨーロッパ人の主な生活の場における共通語がポルトガル語であったためだろう。つまりマヌッチはポルトガル語を解する読者を期待した。ところで、マヌッチの『ストリア』は、通常、Storia Do Mogorと表記される。それは、およそ100年前の英訳者、ウイリアム・アーヴィンが発明したタイトルで、何とイタリア語とポルトガル語の合成語なのだという。ウイリアム・アーヴィンは、マヌッチの『ストリア』を再発見するとともに、『ストリア』の奇妙な魅力を一般の読書にアピールするための不思議なタイトルを考えだした。アーヴィンは、アイディアのある人なのだ。ところで、マヌッチの綴りだけれども、これもまた紛らわしい。Manucciではなく、Manuchy、Manouchyでもなく、Manuzziが正しいのだとスブラフマニヤムは考証している(あのカルロ・ギンズブルグに相談したのだと言う)。……マヌッチについては、そのハイブリットな読解への期待がうごめく一方で、基本的なことがあまりにも茫漠としている。
    いずれにしても、十三四歳で家出し冒険に出た少年が、それまでどのような知的な訓練を受けていたというのだろう。17世紀の庶民の識字率も高いとは思えない。マヌッチには、異才の風がある。マヌッチは、旅が人に学びを与える、と言っている。マヌッチは、旅の刺激から多くを学び始める例外的な知性をそなえていた。

3.医術師マヌッチ

   マヌッチは、『ムガル帝国誌』(岩波文庫)のフランソワ・ベルニエとは違って正規の医学教育を受けてはいない。これは『摘録ストリア』にはないのだが、マヌッチは、高価な指輪をベネチアに送り、医学書を送らせた。本のタイトルも指示した。マヌッチは、多言語運用能力の獲得と同様、医学でもその多くを独学で学んだ。だが、ここでも十四歳で故郷をあとにした者の、書物による医学知識の習得という大胆な発想・行動に驚かされる。境界のトリックスター、マヌッチのひとつの特長は、既成の権威にはじかれた独学者であることだ。

   ミルザー・ラージャ・スィングに仕えるようになったとき、自分を医師として売り込むほど自分はあつかましくなかった、と『ストリア』にある。1663年オランダ人医師の力を借りて、最初の外科手術をおこなったと言われるが、それについての記述は、この『摘録ストリア』にはない。ムガル朝皇子シャー・アーラムは、医療技術がたしかなものではないにもかかわらずマヌッチとりたてた。

   なぜ、マヌッチは医師として身をたてようとしたのか。『ストリア』を読むと、それは成行きだった。インドの人々が、彼に医師としてふるまうよう期待したのだ。マヌッチにとってはごく初歩的な衛生の観念が、病人を救うのにおおいに役立った。ここでも、西欧近代の合理的・科学的な知見の優位が見て取れる。

  マヌッチの医療行為とうものが、よく分からない。『摘録ストリア』は、マヌッチの医療技術について充分な記述を提供してくれない。ヨーロッパでは一般的だった瀉血(血液の抜き取り)や、人体の脂肪をもちいる療法(これは悪い冗談なのか)が印象に残るぐらいだ。
   しかし、『摘録ストリア』は、他方でマヌッチの医術に関する両義的な性格について語る。ここでいう両義的とは、医療行為に勉強熱心なマヌッチとウソとはったりで世を渡ってゆくマヌッチ、誠意といいかげんさ、もっといえばムガル朝の文化のなかでともに同じゲームを(危険なジョークを含む)楽しむような広がりだ。マヌッチは、インドにおける異教徒(偶像崇拝者とモハメッド教徒)を、驚くほど信じやすく、またすぐに意見を変える人々と見ていた。

   『摘録ストリア』はマヌッチの医術そのものではなく、医療行為をめぐる両義的なやりとりについて饒舌である。以下は159頁~160頁にある逸話である。

   ダウラトはラホールに住む大変に裕福で高名な宦官であった。主人アリ・マルダン・カーンが死ぬと主人の骨を故郷ペルシャに埋めたのだ。しかし、ペルシャ王シャー・アッバースはその裏切りものに仕える宦官を許さなかった。というのも、アリ・マルダン・カーンは、ムガル朝皇帝シャー・ジャハーンの時代にペルシャを裏切りカンダハールを売ったのだ。ペルシャ王は、ダルラトの鼻と耳を削がせた。
   そんなダウラトが、マヌッチの評判を聞いてその鼻と耳を再生してくれるようマヌッチに懇願したのだ。マヌッチは、切断の箇所が、もはや癒え古くなっているので再生はできないと言う。ダウラトは、傷が新しくなければならないなら、さらにもう一度鼻と耳の古い傷口を切開し、奴隷から切り取った鼻と耳をくっつければいいと言って、大喜びでマヌッチを抱擁したのだった。
  鼻と耳を切断するためにひきだされた奴隷は、恐怖に青ざめていた。マヌッチは、バカげた出来事を避けるために、人間の部位の接合は、同じ人間においてのみ可能である場合がある、うまくいかないことが分かっていて、あなたを傷つけ、奴隷の価値を貶めるようなことをしたくない、と説得に務める。その宦官は、諦め切れない風情で、私は嘗て私の下半身の局部を失い、今また私の頭部を失うところだった、といってしぶしぶ諦めたのだという。

   20世紀初頭のイギリス人女史の道徳観念が、マヌッチのいかがわしさを排除しているように思える。スディル・カカルの『深紅の玉座』では、マヌッチの医療行為は、なにやらマヌッチのカサノヴァぶりとワンセットであるように書かれているけれども、そのような記述は摘録『ストリア』にはない。詐欺まがいの結婚の申し出はいくつもある。マヌッチはそれらの悪巧みを巧みに躱してゆくけれども、無論そこには愛情も友情もない。『ストリア』は、むしろ宦官との交流が多くの箇所で記述されている。宦官は、マヌッチにとって心の友といった感じだ。そしてこの『ストリア』を読んでいくと、医師と宦官のある種の共通項を知ることになる。つまり、手続きの違いはあれ、宦官と医師のみが後宮の奥にまで入ることができたのだ。
   余談になるが、近年のマヌッチの発見・再評価は、『ストリア』における後宮の記述への注目から始まった。


4.交渉仲介者としてマヌッチ

   ダーラー・シュコーのラホールへの敗走にマヌッチは追いつき何日かをともに行動した。ここで不思議に思うのは、大きな戦いの後で、敗残兵の追跡、あるいは残党狩りは苛烈には見えない、ことなのだ。むしろ大らかで、いい加減に思える。敗残兵が怖れるのは、偸盗である。
  ダーラー・シュコーは、後を追ってきたマヌッチに感激し「わずかな期間の付き合いにすぎない外国人がこのような忠誠をしめすのに、わが古くからの家臣は…」と言って、マヌッチに大金をあたえ、もうこれ以上自分に帯同する必要はないと任務を解くのだ。
   もうひとりミルザー・ラージャ・スィングも任務を解かれた。彼も、シュコーへの忠誠を最後まで裏切らなかった。運命をともにしようとするミルザー・ラージャ・スィングをダーラー・シュコーはなかば強制的に任務を解いた。これらの奇妙な別れの場面は、ヒンドスタンの流儀なのか、と思う。戦いはその首謀者である王や皇子において完結し、どちらの陣営で闘ったのかという加担の責任にはきわめて大らかである。任務を解く皇子も、任務を解かれる諸侯も、その別れの場面で涙を流す。その涙には、硬くて乾いた哀感がある。その別れの場面を語り聞くヒンドスタンの人々も涙するのだろう。しかし、別れの儀礼の終了とともにそれぞれの道を歩き出す。マヌッチは、皇位継承戦争に勝利したアウラングゼーブからの任官の申し出を拒否し、あやうく獄に繋がれかける。ラージャ・スィングは、アウラングゼーブの有力な人材として、デカン高原で、シヴァジーとの困難な戦い、交渉に臨むことになる。そして、そのシヴァジーやその息子サンバージとの交渉においてラージャ・スィングを助けるのがマヌッチなのだ。
   マヌッチは、ラージャ・スィングの命でマラータの藩王を訪ね懐柔策を展開する。交渉の中身は分からない。ただ、交渉そのものよりもマヌッチはシヴァジーおよび藩王たちとトランプを始める場面が印象的なのだ。そして、シヴァジーは、マヌッチに、お前は西欧世界のどこの国の王なのか、と聞く。

   シヴァジーの息子サンバージは、ポルトガル領のゴアを攻めようとする。その時サンバージに敵対しているのは、後のムガル朝第七代皇帝シャー・アッラム(在位1707-1712)である。この頃のマヌッチは、キリスト教徒としての同胞意識をしばしば言い、ポルトガルの使節として、ポルトガル・サンバージ・ムガル朝との三者間の調停、戦闘の回避、平和への模索に奔走する。この時の働きにより、ポルトガル領インディア副王は、マヌッチを貴族の称号を授与する。そのような物を求めないとするマヌッチの弁明や副王の立場が縷々とのべられるが、後のマヌッチとポルトガルの関係悪化(ポルトガル人を最低であると見做す憎悪)を思うと、その親密さと齟齬の振幅がマヌッチの特長に思えてくる。

   皇子シャー・アーラム (のちの皇帝バハードゥル・シャー)に仕えたときは、さまざまな仕方でマヌッチは試される。医師のマヌッチを病のふりをして誘惑する皇女は、じつは皇子アーラムのいたずらなのだった。マヌッチは、それらのいたずら、悪い冗談をともに楽しむ才覚をもっていた。また、後宮における皇子は、いたずらを才知と気転でともに楽しめる者を受け入れた。マヌッチの覗く後宮は、酒池肉林のイメージではなく思いっきり子供っぽいいたずらを楽しむ空間なのだ。マヌッチは、ムガル朝皇帝の表の威厳と冷酷、後宮におけるおどけた子供っぽさを指摘している。
   他方、ヨーロッパ人の居住区、とりわけポルトガル領のゴアは、詐欺と暴力のうずまく一寸の油断もゆるされない土地なのだ。マヌッチのインドは、その最初から詐欺と恫喝に見舞われた(保護者ベルモント子爵の突然の死の直後、二人の英国人が現れ、子爵の財産を横取りしようとする)。そしてこれもまた良く取り上げられる商業船を購入しようとして騙される話、血筋の良いポルトガル人は、ギャンブルで財産を失い、マヌッチに金を貸せと脅迫する、自分はゴアの有力者のすべてに繋がっているのだ、と。イエズス会士の詐欺師も登場する。彼は結婚詐欺の片棒をかつぎ、布施を自分の懐にいれる。『ストリア』は、ある種マヌッチがインドで蒙ったトラブルの記録である。そして、それらのトラブルをいかにかいくぐったのかの記録である。ただ、そこに自慢癖の臭味はなく、どちらかというと後続のための問題解決マニュアルに近い。

  『ストリア』におけるマヌッチはいつも揺れている。ムガル朝にしばらくいると嫌になりヨーロッパ人の居住区にのがれ、またそこにしばらくいるとムガル朝に戻ってゆく。晩年のポンジシェリーでの期間を除くといつもそのような感じだ(というより『ストリア』は、晩年を扱わない)。むしろ、一番心安らぐのは、移動の時、スーラトからアグラへ、あるいはバラナシへ、ベンガルへ、パトナへ、『ストリア』は旅の途上についての記述がとても気持ちがよい。サティで殺されかけた夫人を救う挿話は(その夫人は、情夫と共謀し夫を毒殺したとさる)いくらか勇ましすぎるのだが(ごく少数のヨーロッパ人が多数のインド人を撃破するというコードがここでも追認される)、ひたすら移動するマヌッチの姿が清々しい。マヌッチは、ムガル朝にも、インドにおける西洋人社会にも、所属したくない。

   1702年、アウラングゼーブの命によりダーウドゥ・カーンはマドラスの英国所轄(東インド会社)の聖ジョージア要塞を武力包囲する。英国勢力にとっては、マドラスを失う危機なのだが妙に自信がある。キリスト教の布教について、あるいは英国船の海賊行為へのムガル朝の反発が背景にあるようだが、ムガル朝の包囲の意図は、この『ストリア』においては歴史教科書が説くように明解ではない。相当量の記述にもかかわらず核心を絞りこむのが難しい。マヌッチが、この困難な交渉の仲介にはいる。マヌッチは、英国東インド会社の総督トーマス・ピットの依頼で動くのだが、ダーウドゥ・カーンからも信頼を得ていた。英国へのキリスト教国への同胞意識、またムガル朝における多くの友人の間で、マヌッチは決定的な武力衝突を回避すべく、マドラスとサン・トメの間を精力的に活動する。
   『ストリア』における記述は、交渉の推移よりも、夥しい移動と、プレゼントの応酬と、儀礼の身振りが目立つ。一方でダーウドゥ・カーンの言葉は観念的で抽象的なのだ。つまり「英国人は高慢・無礼であり皇帝アウラングゼーブの秩序を乱している」と言う。そこでのマヌッチの役割は、この場面ではプレゼントを、この場面では抱擁を、この場面では何よりも金銭を、というようなアドヴァイスなのである。マヌッチは、異なる文化における意思疎通のやり方を翻訳し両者を共通の土台のうえにおこうと努めているように見える。マヌッチは利害調整者としての黒幕ではなく、異なる流儀・異なる文化における境界性の仲介者である。マヌッチが異なる文化をなぜ理解できたのか、という問いは意外に難しい。ただ、ベネチア、ムガル朝、インドにおける西洋人社会へのいずれの帰属をも心地よいとは思えないマヌッチの感覚が作用している気がする。

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ニッコロ・マヌッチNiccolo Manuzzi (1638-1720頃)
十四(三)歳でベネチアを出奔
トルコ、ペルシャをへてインドへ
敗軍の将の傭兵 独学の宮廷医師 多言語運用者
ムガル朝およびポルトガル・英国等との紛争調停者
と多面な貌をもつ
資産をベネチアの親族に齎しはするが
再び故国の土を踏むことなく
カプチン修道会によってマドラスで葬られる
『ムガルの歴史』Storia Del Mogol を著すが
その全貌はいまだ明らかでない

5.『ストリア』の原稿とその出版をめぐって

   この『摘録ストリア』の諸言には、編者マーガレット・エル・アーヴィンによる『ストリア』出版の経緯・事情、もっといえば歴史についての説明がある。うまく理解できないところも少なくないのだけれども、粗筋を追ってみる。

  マヌッチは早くて1686年ごろから、マヌッチのマドラスへの移転・居住の時期に『ストリア』を執筆する。その第三部までの原稿をマヌッチは、彼が信頼するフランス東インド会社雇員ブーロー・デランドによってパリに届けさせる(1700)。デランドは『ストリア』を単なる旅行記以上の価値を見出していた。この原稿輸送はいかなるルートをとり、どれだけの時間を要したのか興味深いが何も分からない。『ストリア』は、イエズス会士ペール・カトゥルーによって『ムガル帝国史:創成からポルトガル人マヌッチ氏による(近年の)回想まで』(下線はスブラフマニヤムの原本に忠実な再訂正、マーガレット・アービヴィンは「ベネチアの人マヌッチ」としている)というタイトルを付けられ1705年パリで出版される。しかし、マヌッチはその校正刷りを見て激怒する(スブラフマニヤムは、校正刷りではなく序文原稿だろうと推定している)。マヌッチはイエズス会による改竄・編集が許せない。マヌッチは、イエズス会版への対抗措置としてか、『ストリア』の元原稿とあらたに第四部加えてベネチア共和国の議員で駐パリ外交官ロレンツォ・ティエポロの許におくる。マヌッチはより公正な出版をティエポロに託したのだ。しかし、出版には至らない。その間の事情についてスブラフマニヤムは、外交官ティエポロの西インド諸島(カリブ海域)への赴任をあげている(それにしてもベネチアの外交官が西インド諸島へ赴くことも釈然としない)。マーガレット・アーヴィンに戻ると、ロレンツォ・ティエポロはのちにベネチアのサン・マルコ図書館の職につき、『ストリア』の原稿をその図書館の所蔵カタログに登録する(1736)、と説明する。マーガレット・アーヴィンは、その後、原稿の移動・所有者の変更はない、としている。
   一方、イエズス会の手でイエズス会の意図をもった『ムガル帝国史』を用意させた『ストリア』の原稿はどこにいったのか。ハーグ在住のジェラール・メールマン男爵Gérard Meermanの所有になったのち、トーマス・フィリップス卿などの所有(1824)をへて、最終的には王立ベルリン図書館が購入する(1887)。
   マーガレット・アーヴィンは上の説明に加えてもう一つ重要なことを語っている。つまり、マヌッチが、初めに『ストリア』原稿を送ったとき(1700)、相当量の肖像画をともに送っていたのだ。マヌッチは、それらの絵画資料を銅版画にして本に挿入するつもりだった(この『摘録ストリア』にその絵画資料を見ることができない)。バーブルからアウラングゼーブに続くムガル朝歴代の王、その他ビジャプール王、ゴールコンダ王など、またムスリム風の長衣をつけたマヌッチ自身の肖像も含まれている。これらの絵画資料は、イエズス会の手からベネチアのサン・マルコ図書館に収蔵される(1741)。さらにイタリアに侵攻したナポレオンの軍がこれらの絵画資料・原稿をパリに持ち去るのだ(1797)。それらは現在、パリの国立図書館で所蔵・管理されている。

   以上が、マーガレット・アーヴィンが語る『ストリア』原稿の漂流の物語・歴史である。女史は、1907年英訳の『ストリア』Storia Do Mogorが出版されるまで、マヌッチの本は日の目をみなかった、ということを強調している。稀有な運命をもった書物の再発見と出版を読者に印象づけようとしている。

   ところで、現代の歴史家S. スブラフマニヤムは、上記のマーガレット女史の『ストリア』原稿漂流の歴史を、より詳細に、また、マヌッチのいかがわしさと同時に何か本質的な問題提議を含む『ストリア』について、上記の『異人となる三つの道』で論じている。いささか込み入った論述である。ただ、『ストリア』を読んでいくうえで気になる二・三について書き留めておこう。

   1708年から1712年にかけて、『ストリア』のイタリア語への翻訳が、パドヴァ大学の法学部教授の親子二代の仕事として完成する。彼らは、『ストリア』の出版物として価値を認めていた。しかし、これをひきうける出版ギルドが見つからなかった。出版を困難にしたのは、絵画資料の扱い(絵画資料を銅版画におこすコスト?)だったようだ。このイタリア語翻訳原稿の行方・所蔵についてスブラフマニヤムは何も言わない。
   絵画資料については、二つの束がある。一つが最初の原稿送付(1700)に付けられたもので、赤色本Ribro Rossoと呼んでいる。六十四葉とスブラフマニヤムは数えている。アーヴィン女史が言及しているのももっぱらこちらの資料で、ムガル朝の歴代皇帝などの肖像絵画などが入っている。もう一つの束は、ベネチア外交官ティエポロへ送付されたもので(1705)、こちらは黒色本Ribro Neroと呼んでいる。六十六葉の絵画資料の内容は、主に異教徒gentile (実際には、偶像崇拝者のヒンドゥー教徒を指す)についての民俗誌的な絵画資料なのだ。つまり、絵画資料のモチーフは、ヒンドゥーの苦行・修業者であり、サティ(寡婦殉死)であり、ティルパティ寺院なのだ。
   スブラフマニヤムは、マヌッチのインド滞在における目的を財産形成であったと断定している。それは極めて通俗的で明解であるのだが、マヌッチの奇妙なところは、財産形成とは関係ないこうした習俗にじっと見入ってしまうところなのだ。異形なマヌッチが、ヒンドゥーの文化にあるある種おどろおどろした異形性に惹きつけられている。マヌッチは、後進(伝道師、商人、外交官等々)のために、インドの人々、インドの諸社会とわたりあってゆくために『ストリア』を書いたのと述べている。そうかも知れないが、マヌッチは往時のムガル朝とポルトガル領インディアでの油断もすきも許されない生き方とどこか楽しんでいるようにも思える。マヌッチの人生の目的は単純だが、その道程は豊かに錯綜しスリルに充ちている。

   スブラフマニヤムはさらにシロートを眩暈するようなことを仄めかす。
   マヌッチは、ベルニエの『ムガル帝国誌』が自分の体験談を剽窃しているとベルニエを非難しているが、マヌッチの直接経験の向こうに、第三のテクストも想定できる、と言うのだ。例えば極めて資料的価値の高いインドの異教徒(ほぼヒンドゥー教徒)についての論述は、ポルトガル人宣教師の手になる数十ページの文書に酷似している、と。その敬虔で該博な知識をもつポルトガル人宣教師はポルトガルへの帰国の途上で病死した。瀕死の宣教師はその原稿をフランス人ユグノーの医師シャルル・デロンに託した。彼が時をへてフランス語に翻訳し発表したのだ。

   1658年のサムガルの戦いについても、ベルニエは戦場にはいなかった。他方、マヌッチはダーラー・シュコーの砲兵(顧問)として戦闘とそう遠からぬところにいた。マヌッチは、『ムガル帝国誌』のベルニエ同様、サムガルの戦い、その裏切りの戦いについて『ストリア』で詳細かつ生き生きと物語っている。しかし、考えてみれば、マヌッチがその現場のいずれかの地点にいたとしても、戦い全体を、または戦いの焦点を一人で掌握することなどあり得ない。情報は、つねにセカンド・ハンドであり、ものいうのはその情報収集とその処理・編集能力なのだ。旅の途上で病死したポルトガル人宣教師、フランソワ・ベルニエ、ニッコロ・マヌッチを並べて考えてみると、直接経験の優位、それでもなお経験という迷宮が存在する、というエドワード・サイードの言葉が思い起こされる。

   この英訳『摘録ストリア』を通読して、その感想を素直に語ると、困難を勇気と才知で切り抜ける冒険譚の趣と、信心深いキリスト教徒のマヌッチの姿が印象にのこる。それは、インド行政官職にあったウイリアム・アーヴィンの植民地運営に関する思想・信条にぴったり調和しているようにも思える。……しかし、それは私の感想である。そうではなく、スブラフマニヤムはすこし違うことを『ストリア』から嗅ぎとっているのだ。つまり、往時のヨーロッパ人の多くがムスリムに改宗し、ムガル朝にもぐりこんだのと同じ事情がマヌッチになかったのか、と。スブラフマニヤムは、マヌッチは自己のアイデンティティを語るとき、もってまわった言い方をしている、と言う。このようなことが気になりだすと、マヌッチのより信頼できるテクストの欲しくなってくるのだ。
            
   スブラフマニヤムによると、マヌッチのオリジナル・テクストは1986年ようやくその前半部分がミラノで出版されたに過ぎない、という。ウイリアム・アーヴィンの4巻本の英訳は、使い勝手は良いが信頼できるテクストとは言い難い。出版の紆余曲折はそのままその時代、その翻訳者の立場と微妙に共鳴しているようにも思えるからだ。

   真のマヌッチに近付く道は険しそうだ。いいや、真のマヌッチなどなく、偽装をすこしばかり剥がしてゆけるだけ。大なたを振りかざすような真実ではなく、それは違うと言える否定的・媒介的真実に辛抱強くつきあいたい。マヌッチが表現するしるしの解釈を楽しみたい。

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Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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