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83.サーダット・ハッサン・マント『ほんとの名前はラダ:マント精選短篇小説集』、Saadat Hasan Manto, My Name Is Radha: The Essential Manto, translated from the Urdu by Muhammand Umar Memon, published by Penguin Books India 2015.

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1.マントにおけるフェティッシュなるもの
   この世における幸福は、「フェティッシュなものと密接にかかわる」ことがマントの基本的な感覚なのだろう。フェティッシュは、個における欲望と個における王国の表象(宇宙の中心に自分がある)を形づくる。この表象とともに、充実した過不足のない時間をしばし人は生きる。フェティッシュなるものとの幸福の時間は、ムラの掟からも生存競争からも遠く、うつろな存在を実のある存在へと変換する。
   この短篇集において、マントのフェティッシュなるものは、また一層の広がりを見せる。“空っぽの瓶、空っぽの缶”Empty Bottles, Empty Cansは、すべての独身男は、空き瓶と、空き缶を集めるのだという作家の見立て・偏見についての物語なのだ。独身の、ちょっと風変わりな映画俳優、ラム・サロウプも例外ではない。シヴァージ・パーク(ボンベイ)の俳優のフラットには、空き瓶と空き缶専用のスペースがある。そのような俳優がさえない女優と結婚する。それは作家にとってとても意外な成行きなのだが、結婚の祝いに彼のところを訪ねた作家は、花嫁をみた瞬間、花嫁が「まるで空き瓶のようだ」と納得する。・・・空き瓶という形象は何とも明るく空虚である。明瞭に無価値である。何かが充填される可能性もあるが、そう言うよりも抜け殻だ。廃墟に魅了される魂があるように、からっぽに心が癒される。

2.異常でなく、フツーの声にも欲望する
   マントのフェティッシュの対象は、何か特別に異形なもののみを扱うのではない。ごく普通のありふれたものも多い。マントは、フェティッシュなるものを概念化、もしくは形式化することなく、何か心地よいものの在りかを求めている。“王国の終わり”Kingdom’s Endという作品で主役のマンモハンは、謎の電話の声に恋をする。留守を預かる事務所にかかってくる女(性)の声を聞くことがひたすら心地良い、というのだ(ただ、声以外のものは切り捨てられる)。男にとって、このような空間(誰もいないオフィス)と正体のない美しく心地良い声が、王国となる。マントの夢想する幸福感が湧出する。

3.平凡なものについても書くマント
   マントはフェティッシュなるものについて書く作家、こだわりのなかに人間の十全な存在の感覚を確かめようとする作家である。しかし、他方で、マントはひどく平凡なるものについても書いている。マントは、つねに例外を追求していっているわけではない、ようだ。マントは、むしろ率直で自然なのだ。人間の一生という時間が、例外的なことだけで構成されるわけがない。マントは、退屈で稔り少ない時間についても書く。
“金の指輪”The Gold Ringにおいて、妻は夫にしつこく髪を切りに行けと言う。ただ、金の指輪は話のオチだ。
“凍結”Frozenでは、毎晩帰りの遅い夫に、相手の娼妓の名前を明かせと、ながながと苛む妻。妻は夫を罰する。
“かぶ”Turnipでは、馬とトンガ(荷馬車)を売ったこと、そして夫の鼾を妻は非難し続ける。夫は、とにかく腹が減ったので昼飯を食わせろと言う。
   マントの書く平凡なるものは、負のエネルギーを貯えてゆく。その負のエネルギーは物語の「落ち」を準備する。またある場合、負のエネルギーは破壊・暴力にも繋がる。“凍結”は、平凡な、ありふれた負のエネルギーが生命を奪うにいたる物語である。

4.マントの個へのこだわり
   マントの個人であることへの執着は際立っている。だから、戦争や宗教対立のような問題は、その個人を消してしまうことに集中する。・・・・・・極論すると、死が問題なのではなく―生命の途絶ではなく―個人が消されてゆくことが問題なのだ。
   マントがカラチに遁れる体験に材をとって短編“サーハエ”Sahaeでは、一人の親友との別れを語る。親友を見送る私にとって、港でごった返す群衆=難民は、それぞれの事情を抱えてここに集まってきているにも関わらず、ひとつの風景でしかない、と思う。
“別れの言葉”The Last Saluteという短篇では、幼なじみがカシミールで敵味方に分かれて戦う。顔見知りとの戦闘に、凄惨な絵が思い浮かぶ。しかしマントはそこに有無を言わさず個としての人間を持ち込む。戦争も個という顔をもって戦われるのであれば、人間的な何かを表現しうる、とでもいうかのように。マントは戦場における逆ユートピアを描く。
   マントが描く個人は、個人を飲み込んでゆく大きなうねり、社会的な、あるいは歴史的なマクロに徹底的に齟齬する人間である。

5.マントにおける「らしくない」ものの勝利
   この短篇集は、「らいし」ものと「らしくない」ものとの転倒のメタファーについて、豊かである。
   マントの場合、「らしい」ものがむしろペテンに近く、「らしくない」ものの方が、本物である。
“シャルダ”Shardaにおけるポン引きは、正真正銘の正直者である。マントとの友情を裏切らない。むしろマントの方が子狡く立ち回る。いずれにしても、マントの小説では、真の友情は、ポン引きや娼婦の間に成り立つ。
“1919年の物語”The Tale of The Year 1919におけるデモ隊のリーダは、娼家の息子であり、姉妹は人気の娼妓なのだ。ハンサムな息子は圧政の弾丸に倒れる。
“五度目の裁判”The Fifth Trialにおけるカラチの判事は、職務遂行よりもマントの文学を評価する。これは、マントの願望というよりは、実際に起きたことで、判事の回想文が、この作品集に収録されている。
逆に“進歩主義作家”A Progressiveにおけるプログレッシヴ文学運動の有名作家は、たかりの常習者である。マントは、その有名作家をあしざまに描く。
 “神-人間”God-Manにおけるイスラムの導師は、信心深い男の一人娘を騙し、誘惑する。
 「らしくない」は、ある種の不調和に生きることだ。人間の美質は、マントにおいては、調和のなかにではなく、不調和になかにより鋭く顕れる。「らしくない」は、文学の、表現行為の、調和や定型化への抑制に対する反撃である。

6.特長づけるマント
   マントの物語は、ある典型を生きてゆく。生を特長づけるものを、読者はマントの物語のなかに読み楽しむ。それらの特長を、この世の生の、何らかの意味に野合させてはならないと思う。
“黒のサルワール”The Black Shalwarという作品は、行きずりの二人の物語だ。ラワルピンディのトラックの運転手は、逃げた女(性)を追ってゆくなかで、サルタナという別の女(性)に出会い、一緒に暮らすようになる。女(性)は、娼館の売れっ子になるのだが、新天地デリーにゆき娼館を立ち上げると、まるで客が寄り付かない。何週間も、何か月も客が寄り付かず、宝石やらを売って食いつないでゆく。そのような時、サルナタは新年の晴れ着がどうしても欲しいと思い悩む。この拘りは愛おしい、と思う。結末は、ある偶然が別の偶然を呼び黒いサルワールを手にする。小さな奇跡のようだ。この小説において、二人は何ら人生の真実と係りあわない。目的のない生に徹底している。つまり二人の生を特長付けているだけなのだ。風景のようであり、風の香りのように儚い。客のこないサルナタが、通りの賑わいをただ茫然と眺めている。それは、二人の生の途方もない空虚を表しているようだ。何か成功めいたもの、または破滅するしかないその時間から、二人は逃走し続ける。

7.なによりも率直であるマント
   マントの短編小説は流れてゆく。雲のように気まぐれに動いてゆく。
“シャルダ”Shardaという短篇小説は、妹の娼婦は若くて初々しいのだがつまらなく、姉の方にのめり込んでゆく。だが姉の方にもやがて飽きてしまう。姉の娼婦は、語り手を―マントに近い―本気で愛し始める。シャルダ(姉の娼婦)は、切々たる手紙を語り手ナジールに送る。
   娼婦との純愛でまず驚かされ、またその純愛が面倒になるところでまた驚かされる。
   ナジールは、己の感情の動きにとても素直なのだ。それはマントの一種傑出した能力のように見える。社会的な通念や偏見を相手に、無理して自由に振舞っているのではない。通念や偏見を知らないわけでもない。しかし、現にあるもの、現に起きていることをマントは、偏見をもたずにまっすぐに見、感じることができる。

8.抽象的観念の悪
“殉教作り”Martyr-Makerは、マントにおける個への愛着、観念的な図式への嫌悪を、明瞭に言い切っている作品だ。この短編は、似非科学のような抽象的な公式で人間を見てゆくときのあほらしいほどの悲喜劇を嘲笑するように書いている。
   不思議に金儲けがうまく、またハード・ワークを信条とするカティアワールが、「世のため、人のため」になることを始める。独立の混乱のなかで発生した大量の難民に、物質的・金銭的な援助を行う。しかし、その慈善行為は、大量の人間を怠け者にするだけだと悟る。つぎに、慈善家は、この世の苦しみは病気なのだという思いに捕われ、病院を建設・運営してゆく。しかし、医療は人々を延命させ、結果、人口過剰という事態をまねくだけなのだ、と考えるようになる。これもどこかで聞いた台詞だ。人口過剰を支える、作物を稔らせる土地も雨を降らす空も有限なのだ、と。信仰こそが人々を救済する、というような発想からモスクづくり精をだすが、それは宗教上の分派対立を引き起こすだけだと考えるようになる。絶望に打ちひしがれたにカティアワールは、メッカへの巡礼を考える。ちょうどそのような時、メッカで事故がおきる。神殿に向かう巡礼者の群れがなぎ倒しになり、三十名もの巡礼者が死亡したのだ。カティアワールは、この事故を新聞が殉教と呼んでいることを発見し小躍りする。無価値でありふれた生が殉教によって崇高なものになるからだ。カティアワールは、事故による殉教の舞台(大量死の場面を仕組む)を用意する計画に今生きがいを感じているのだ。
   マントは、生の具体性を捨象した抽象的な観念が嫌いなのだ。マントの物語は、フェティッシュなるもの、あるいは生の具体性についてのオマージュであるからだ。そして「殉教作り」は、抽象の威力に引きずられてすぐに具体性を一般化して考える性癖を笑う。

9.マントにおける惨殺とその肉片化
  マントは、分離独立の惨劇=虐殺に毅然と抗議する。その根拠は、個としての、フェティッシュな志向をもつ人間の否定に対する、嘔吐するほどの嫌悪なのであろう。しかし、マントの感覚・関心は無限に開かれている。驚くべきことに、マントは惨殺された人間の、切り刻まれた肉片を想像しようとする。切り刻まれた肉片とは何なのだろうか。あるいはそれらの肉片とそのもとの人間とはどのような関係があるのだろうか。
 
“葦の小屋”Behind the Reed Stalksでは、妻は、夫の愛する善良な娼婦の親子を殺し切り刻み、夫にその肉片を料理し、食してみろと迫る。
“恐ろしい女”(未詳)Recite the Kalimaは、夫を扼殺し愛人に夫をバラバラに解体させる。そして次には愛人を殺そうとする。この短編では、殺した肉体は、必ず切り刻まれねばならない。
“ギルギッド野郎”Gilgit Khanでは、大好きな足萎えの犬タンタンを、愛しているがゆえに、列車で轢き殺そうとする。肉片と化すためにだ。
   一体として人間の体を分割する、とはどういうことだろうか。人格・魂の終了と物質化の過程、というようなことを考えてみる。よく分からない。ただ、マントの物語には猟奇趣味というレッテルを超えて、その根底にあるひからびた生の死とその再生の劇を想像させるものがある。

   マントが、描く肉片のイメージ、あるいは問題提議は、私をある連想に導いてゆく(アノルドならシロートは何でも関係づけるので困る、と言うところだろう)。それは、宗教学者ミルチャ・エリアーデが『聖なる空間と時間/エリアーデ著作集3』(久米博訳、せりか書房)で紹介している人身御供についての報告との類似点だ。

   エリアーデは、十九世紀の半ばまで行われていたベンガルにおけるドラヴィダ系一種族の人身供犠について紹介している。エリアーデが重要視するのは、切り刻まれた犠牲の肉片が共同体の全員に分配され、儀式をもってその肉片が畑に埋め込まれることなのだ。エリアーデは、供犠の目的を農耕と収穫、あるいは世界についての再生のための儀礼と見ている。エリアーデの解釈は、マントの殺人と肉片化の物語についての理解を深めてくれる気がする。つまり、生命を断つこと(ある場合には殺人だ)とその肉片化が、腐敗し生命力を失った現在の停止と、その豊饒なる生の再出発のための儀式である、と直覚されるのだ。

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マント Saadat Hasan Manto
1912~1955 
ルディヤーナに生まれ、1948年パキスタンに移住
ラホールで死す 享年42歳
ウルドゥー語作家
ヴィクトル・ユーゴーのウルドゥー語への翻訳が
文学的出発点であった
2012年 パキスタン政府よりNishan-e-Imtias
(国民栄誉賞!?)を授与される

10.マントにおける「人情の味」
   インドの現代小説のある種の面白さは、「人情の味」がしないことだ。良い人が情けをかけ不幸な人を救う、という神話に容易に組しない。しかし、マントには-それを「人情」と言って良いかは別にして-弱いもの、哀れな者、苦しむ者への慈しみに溢れている。それはとてもストレートだ。また、その慈しみはマントの弱さに由来するのか。違う気がする。では、マントは充分に強いのか。それも違う気がする。そうではなくて、そこに助けが必要なものがいれば手をさしのべる、ただそれだけなのだ。マントの行動は、あらゆることに開かれていて自然だ。マントを読む楽しさは、その率直さ、自然さ、自由の感覚であり、それは誰もが羨むことだと思える。「ギルギッド野郎」Gilgit Khan では、醜い男が足萎えの犬をペットとして溺愛する。醜さと足萎えのあいだの類まれな濃密な愛情をマントはじっと見つめる。・・・・・・ストレートな人情がいい、人情が人助けにならないのがいい、破滅する人情がいい。

   三冊目のマントを私は電子書籍で読んだ。一覧性および頁への書き込みに難があるのだけれども、持ち運びの便、価格と英語辞書の機能がやはりあり難い。過日、二年ぶりにインドを旅した。バンガロール空港のブック・ショップの棚を見ていたら、この本『ほんとの名前はラダ』が陳列してあって驚いた。まず、その大部の本のピンク色の非常に美しい装丁に心打たれ、また、インド・ビジネスの首都、バンガロールの空港のブック・ショップの狭いスペースにマントの本があることに少なからず戸惑ったのだ。そして、この紙の本を買わなければ、と思った。

<補足>
   この作品集『ほんとの名前はラダ:マント精選短篇小説集』、 My Name Is Radha: The Essential Mantoには、50篇近い短編・エッセイがおさめられている。この作品集が、先に紹介したManto: Selected StoriesやBombay Storiesを分量の上で圧倒している。ただ、重複もあるのでその点について触れておきたい。

My Name is Radha: Selected Storiesに所収
Janaki: Bombay Stories に所収
Mozel: Bombay Stories に所収
Ram Khilawan: Selected Storiesに所収
Babu Gopinath: Bombay Stories に所収
Kushia:Bombay Stories、Selected Storiesに所収
For Freedom’s Sake: Selected Storiesに所収
Barren: Bombay Stories に所収
Smell: Bombay Stories、 Selected Storiesに所収


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Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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