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81.ヴィジャヤナガルの旅  2015年11月

   駆け足で、ヴィジャヤナガルの遺跡(ハンピ)を訪ねてきた。
   今年(2015年)の南インドは雨が多く、アンドラプラデシュ州の街は水にあふれ、タミルナドゥ州では堤防が決壊し、チェンナイはサイクロンに直撃された、と人々は話していた。少なくない犠牲者が出て、農民は天を仰ぐ、十一月半ばだというのに、いまだモンスーンが明けない、と。
   ホスペット(遺跡から北へ12km、列車駅がある)に着いた朝も曇りだった。
   列車を降りた人々は、家路を急いでいるようだった。観光客は多くない、と思った。
   迎えの車は遅れてやってきた。渋滞なのだと運転手は言い訳を言う、いつもは渋滞しないのか、そうは思えない、と言い返した。
   道は砂埃をもうもうと上げる、道端にはゴミが散乱し、動物たちは交通を阻害する、補修の進まない凸凹道(もしくはバンピング)に車が大揺れする、インドにやってきたのだなー、と思った。

   ガイドブックや書物の写真で見るヴィジャヤナガルは、日差しの強い青い空と褐色の石塊と乾いた大地であるのだが、初日から四日間、天気は曇りがちだった。ぽつりぽつりと雨も降ったのだ。

   ふと思う、ヴィジャヤナガルへの興味は奇妙なものだ、と。ヒンドゥーの楽園を幻視したい気持ちがあり、それに、イスラム勢力によるヒンドゥー中世都市の徹底した破壊への感傷が入り混じる。ヴィジャヤナガル(勝利の国)は、私にとって、ヒンドゥーの繁栄の記念碑である以上に、ヒンドゥーの敗北の記念碑である。ヴィジャヤナガルの繁栄は敗北によって彩られている。

   せせらぎのある細い道を通って、グロテスクに変形し肉塊となった物乞いを傍らにやり過ごし(直視できない)、ナラシンハ像(ヴィシュヌの化身)を眺める。ひとつの巨石から彫像されたという像の、その幼児的な愛らしい表情を楽しむ。像の顔は、子供の描く怪獣の絵のようだ。この無垢で大らかな姿がヒンドゥー美術の愛おしいところなのだ、と思う。しかし、ここでも、すぐさまその破壊の傷跡を認めなければならない。膝に乗っていたラクシュミー像は、今はない。なぜ、どのようにして無くなったのかを考えてみなくては。

   この楽園の破壊の歴史について思い起こしてみる。
   簒奪などにより四つの王朝が入れ替わる。その第三王朝において摂政ラーマラージャは、名目的な王サダーシヴァを擁し、敵対するムスリム五王国の反目・抗争を煽る外交を進める。しかし、それが裏目にでるのだ。1565年のターリーコータの戦い。1月、クリシュナー川北岸で、ヴィジャヤナガル王国軍はムスリム五王国による連合軍に大敗北を喫する。摂政ラーマラージャは落命し、名目の王サダーシヴァは、南に遁れる。そして楽園の略奪と破壊が始まる。
   ヴィジャヤナガルの破壊は執拗なものだった。デカン高原のムスリム勢力によるこの中世都市の破壊は、五か月、あるいは一年を要した。これはV. S. ナイポールが強調するところだ。ナイポールは、ムスリム勢力の破壊の執拗さと、ヒンドゥーのヴァルネラビリティ(攻撃を待ち受ける性格)という絵を描こうとする(ついでに言えば、そのムスリム勢力も、やがてムガール帝国に滅ぼされる)。
   南インドには、北インドに比較してより純粋なヒンドゥー文化がある。北インドはあまりにイスラムに浸潤されすぎた、と。さらにイスラムの影響・圧力を嫌った北インドのバラモンが、本来はドラヴィダの土地である南インドに数多く移住した歴史がある。そしてヒンドゥー文化を洗練させてゆくのだ。しかし、南インドのヒンドゥーもイスラムと無縁ではありえなかった。南インドのヒンドゥー遺跡を訪ねるたびに、ムスリムによるイコノクラスムの傷跡に直面することになるからだ。レリーフにある神々の顔が削ぎ落とされている。そしていつも感じるのは、その破壊のエネルギーのことだ。

   都の大通りハンピ・バザールを歩いてゆく。ここは、嘗て金持ちたちの邸宅のあったところのはずだ。そして、祭では、ダンサー=遊女を乗せた山車が引かれたのだ。この通りの端には、ナンディ像があり、アチュタラーヤ寺院につづく見事な石段(まるで映画のセットのようだ)がある。

   ヴィジャヤナガルへの興味は、私の場合、ナイポールから始まった。ナイポールは書いている、中世都市ヴィジャヤナガルの繁栄を特長付けるのは奴隷市場であり、寺院付きの娼婦(遊女)、そして人身供犠(サティ=寡婦殉死も含む)であったのだ、と。歴史の本で読むサティ=寡婦殉死はまことに壮絶(凄惨というべきか)なもので、焚死のみならず生き埋めも行われた、とある。死んだ者が高位高官の場合、何十人、何百人もの女(性)が殉死した(サティについてはバラモンの古典にその起源はなく、逆にその猖獗は、イスラム勢力との緊張のなかにあったとする興味深い説もある)。・・・・・・ナイポールは、繁栄の底に澱む退廃・堕落を暗示する。ゆきすぎた文明における自傷行為のようなものを感じる。ただ、往時の奴隷、娼婦(遊女)、生贄は、現代人の感覚では容易には捉えきれない気もまたする。

   アチュタラーヤ寺院への丘の道にある祠で西洋人のカップルが、背筋を伸ばし座禅のような姿勢で瞑想していた。それをインド人家族の幼い娘が、何か奇妙な動物でも見るように凝視していた。岩山の上の展望の良さそうな祠からは、屈託のない若者が何かを叫んでいた。ヴィジャヤナガルの観光は長閑な時間のなかにあった。

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   その日も、ヴィッタラ寺院への川添いの道を一人歩いて行った。まるでパゾリーニの映画にでてくる古代の道を歩むような感覚に酔いながら。そこで二人組の少年に声を懸けられる。何か要領を得ない物言いがつづく。年端のゆかない男娼なのだった。中世の遺跡の陰で、男色に耽ることを望む者がいるのか。男娼は生活のためなのか、それとも蛇の道は蛇というべきなのか。
       インドでは、ホモセクシュアルは今もって違法である。だが、他方で、同性のカップルにおける遺産相続をめぐる裁判が争われもする。
   インドの名もない街をめぐるパンカジ・ミシュラの旅行記『ルディヤーナのバターチキン』Pankaj Mishra, Butter Chiken in Ludhiana (1995)にも、欧米人を相手にする少年達が登場する。彼らが客からプレゼントされたジーンズや海水パンツをミシュラは複雑な気持ちで眺める。今もインドは、西欧に犯し続けられている、という痛みを告げているかのように。・・・・・・そう、私に声をかけじっと私の眼を見つめてくるハンサムな少年も、身なりが良かった。ただ、靴を履いていたかどうかが思い出せない。どうも裸足であったような気がする。

   ヴィッタラ寺院への花崗岩のスラブの道で、インド人の観光客が、大岩の間の奥へ吸い込まれていくのを目撃した。何なんだろう、その時は分からなかった。今から考えてみると、あれは一種のグロットー(聖化された洞窟)なのだ。・・・・・・伝説は語る、ラーマ王子は、魔王ラーヴァナに誘拐された愛妻シータを救出に向かう途中、この地に留まった、とされる。そして、シータが落としていった装身具が隠されている洞窟が今も存在するのだ。きっと、大岩の、奥の、暗いところにシータから王子への徴(サイン)が隠されているのだ。

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   長い時間をヴィッタラ寺院で過ごした。
   ヴィッタラ寺院の石造の山車を見ていると、その愛らしくおどけた表情と踊るような生が、見えてくるようだ。       
   しかし、その生の横溢には血の匂いがする。中世のヒンドゥー的な流血の祭りが見えてくるのだ。
   この石造の山車と同じ木製の山車が、当時の寺院にはあって、それが祭礼では使われたのだと言う。そして、その重い山車の車輪の下に身を投げ出す者がいたのだ。また、身体を山車に縄で結わえもした、つまり流血の生贄を山車は引いて回ったのだ。・・・・・・何のために、自らを生贄として寺院に捧げるためだ。もしそれがバクティの信仰(中世の南インドで隆盛した下層民をも巻き込むヒンドゥー教の潮流)に根ざすものであるなら、身を投げ出す者は下層民に決まっている。それらの人々は、神への絶対帰依によってのみその身は浄化されると信じるからだ。そして祭は、流血によってその興奮を最高度に増幅したのだ。
   ヴィッタラ寺院の叩くと音を奏でる石柱は、血の興奮とは逆の、極度の静謐を求めている。血の興奮と静謐の両方が、ヴィッタラ寺院にはある。・・・・・・ここに見学に来ている修学旅行生たちは(すべて英語でやりとりしている、いわゆる良家の子弟が通うイングリッシュ・メディアム・スクールの生徒たちなのだろう)、どのようなことを教えられて帰って行くのだろう。

   ヴィジャヤナガルが素晴らしいのは、道だ。ヴィッタラ寺院から王宮区への長い道を歩く。傍らには石の回廊が続く。ヒンドゥー寺院や会堂、貯水槽などの遺跡が散見される。見るべきものは無限だ。ただ、それらをひとつづつ見てゆくと一向に距離が伸びないのでやり過ごす。歩き疲れ、オートリクソウに乗り、王宮区に向かう。遺跡めぐりは疲労する、精神を集中するためか、この遺跡というものが、何か特別に高い密度をもった空間であるためか。遺跡ではなくヴィジャヤナガルの、あたり一面に転がる巨岩とそれを数多く頂いた丘をいつまでも眺めていたい、とも思う。

   王宮区は、もっとも観光客に人気のあるところなのだろうが、人はまばらだ。王妃の浴場からマハーナヴァミー基壇への道は、荒れている。世界的な遺跡遺産・一大観光資源のであるにもかかわらず道の補修は進んでおらず、車やオートリクソウは、慎重に道の穴凹を避けて通らなければならない。この無頓着・商買っ気のなさは、無責任な旅人には嬉しい気がする。そんなことを考えながら歩いてゆくと砂塵の中から、巨大な石の台座、マハーナヴァミー基壇が姿を現してくるのだ。

   この石の巨大な基礎構築物を一見すれば、王とバラモン司祭による宗教的な儀礼の場所を想像したくなる。天空・宇宙に開かれたこの石の高台で、占星師が、トランス状態の呪術師が、戦い(侵略戦争もしくは防衛戦争)の勝利を祈った、というように。
   しかし、マハーナヴァミー基壇について語る往時のポルトガル人の説明は少し違うことを伝えてくる。
      今はない館は、宝石をちりばめられていた。日の暮れとともに松明がともされるとそこは昼間のように明るかった。そこで賓客に対する饗応のダンスが、豪奢な食事が供されたのだ。マハーナヴァミー基壇は、王の祭礼の場であるとともに、交易を促進するための外国人賓客の饗応の館でもあったのだ。宗教儀礼のみに没頭する王の姿よりも、国を富ますための実利的な交易の発展に勤しむ王の姿も見過ごすべきではない。



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   ヴィジャヤナガルは、ヒンドゥーの古の都の雰囲気を醸し出しながらも、大航海時代における国際的な都市の貌ももつ。王国の最盛期には数百人ものポルトガル人傭兵を抱えていたというし、また、まことに驚くべきことに、当時のポルトガル王マヌエルⅠ(1945-1521)   は、ヴィジャヤナガル王との両家における婚姻関係の構築を模索していたのだとも言う。異教徒との婚姻という障害をものともしないポルトガルの王、交易の発展により国を富まそうとするヴィジャヤナガルの王、ともに宗教におおいに深く拘束されながらも(一方においてレコンキスタの記憶が新しく、また他方はヴィシュヌ派信仰の聖地ティルパティを篤く保護していた)、来るべき世俗的近世の実利の世界の到来を予知するような感覚につき動かされていた。


   マハーナヴァミー基壇の周辺では石の導水管を見ることができる。それは、実利的な施設というよりは、現代美術におけるオブジェのように逞しく美しい。それらの導水管は、トンガバトゥラー川をせき止め、都市とその周縁部に水を引き込む、大掛かりな灌漑施設の一部なのだ。退嬰的な王のなせる事業ではない、と思う。ナイポールは、中世都市ヴィジャヤナガルにおけるこの水利施設の完備についても言及しない。

   ロータス・マハルや像の厩舎のある後宮地区に向かって歩いてゆく。途中のハザーラ・ラーマ寺院に寄る。ここには、『ラーマーヤナ』の物語に因んだ壁画があることで有名な寺院なのだ。ただ、これも極めて奇妙なことなのだが(美術史家ヴィディア・デヘージアの指摘による)物語は入口から始まらず、建物の背後に進まなければならない。物語はひっくりかえって始まる。この物語のズレを確認したくてしばらくレリーフを見て回るが、残念ながら、ハヌマーンの姿の他には物語の筋を追うことはできなかった。

   ロータス・マハルに辿り着く。本で読み知っていた以上の強い衝撃を受ける。イスラム風のアーチの上にドラヴィダ風の屋根・塔が乗っているのだ。ヒンドゥーとイスラムとの文化的融合といえば何かが了解された気になるのだが、そのようなものではない妖艶なものすら感じる。アルカイックで呪術的、ある場合には血の匂いのするヒンドゥー寺院群を、またムスリムによるイコノクラスムを十二分に見知ったあとで見るこのロータス・マハルは、文化の融合という以上のもの、つまり、ヒンドゥー対ムスリムという単純な二分法では割り切れない文化の厚みを、融合というよりはおどけた混交を感じる。あるいは、ヴィジャヤナガルをピュアなヒンドゥー文化の象徴とは決していえない重層した文化のありようを押し出している。

   王もしくは支配階級は、イスラムの新しい文化の息吹に心酔していたかも知れない、と思い始める。往時のヴィジャヤナガルにはムスリム居住区があり、王宮区にはモスクもあった(今もその遺跡が残る)。さらに驚くべきことには、王国の最盛期には、トルコ系の騎士団一万人を擁していたと言う。歴史家はさらに語りかけてくる。王はイスラム風の長衣を着ていた可能性もある、ただ、それらイスラム的なものは、宗教的な信仰の表現ではなく、流行の意匠にすぎない、と。生真面目な思想信条ではなく、支配階級における外来文化のもたらす流行への鋭い感受性を想像し、私の心が躍る。

   ヴィジャヤナガル王国の始まりについても、実は、このヒンドゥー・イスラムの不思議な両義性を語っている。王国の創始者のハリハラ(在位1336-57)は、彼の仕える軍の敗北により(一説にはカーカティーヤ朝の臣下であった)、捕虜となってデリーに連行される。そこでハリハラは、ムスリムに改宗する。ハリハラを信頼するようになったスルターンは、トゥンガバトラー川に(ヴィジャヤナガルはその川の岸に建つ)不穏な状況が生じるとハリハラを派遣する。その後の話がより伝説的である。ハリハラは、ヒンドゥーの聖者の導きにより再びヒンドゥーに再改宗するとスルターンに叛旗を翻し、1336年ヴィジャヤナガル王国を建国する。
   ハリハラのヒンドゥーへの再改宗について、ナイポールは、自身のヒンドゥーのフィーリングで、あり得そうもないと感想ももらす。つまり一度カーストを捨てた者のヒンドゥー教徒への復帰はあり得ない、と。また、近年の歴史家の一人は、捕虜として連れていかれた宰相が王として戻される話はあるが、改宗の話は、資料的に裏付けられない、と論じているという。つまり、この改宗と再改宗の物語には、ヒンドゥー主義の願望が(それもかなり屈折している)表現されているのだ、と。

   ホスペットの宿へは、ローカルバスで戻った。バス代が、ルートによるのか日によって違うのが面白い。13ルピーだったり、16ルピーだったり、21ルピーだったりした。そんなホスペットへの帰り道、バスのなかで、突如ざわめきが起こった。ひどく汚れた身なりの痩せ細った裸足の少年三人がバスに乗り込んできたのだ。バスの車掌は、笑顔で平静を装っているように見えた。バスの代金は払っているようだった。幼児が寝入っている席に行って席を空けろと言っているようだった。また、別の一人は、空いていた隣の席に座るやいなや、とても奇妙に思えたのだが、瞬時に居眠りをはじめた。その少年の顔には疱瘡を患った跡が見えた。緊張からか会話が絶え静かになった。バスの乗客のほとんどが何かに耐えているようであったのだ。このフツーでない少年達は何なんだろうか。スラムの住人なのか。あるいは、指定カーストの者なのか。これが、南インドの田舎町における差別とその解決にむかう道程の風景、ひとつのバナキュラー民主主義到来の現実にも思えたのだ。

   ナイポールの文章に触発され、ようやく実現したヴィジャヤナガルの旅は、あきらかに、ナイポールが書く、敗北を運命つけられたヒンドゥーの栄華・攻撃されるのを待つばかりのヒンドゥー、ムスリムによる都市の執拗な破壊という見立てについて、さまざまな修正を迫って来た。ナイポールの呪いは、ここヴィジャヤナガルに来てみると、驚くばかりに容易に消えていった。妄想が消え去るようでとても爽やかだった。
   あらためて思う、古代が蘇るようなヒンドゥーの文化においても、イスラムはすぐそばにあり、また大航海時代の合理的で実利的、冒険的な進取の気性もあった。そしてムスリム勢力は、すでにある程度イスラムに開かれていたヴィジャヤナガルをなぜ執拗に破壊しなければならなかったのか。・・・・・・破壊のあとムスリムはこの土地を完全に捨て去り、人々もこの地を振り返らなかった。

   鼻をもがれたガネーシャ像を横にみて、坂道を少し上がり、ヘーマクータの丘をハンピ村の方へと下ってゆく。崩れかかった石の聖堂に腰をおろし、眼下にヴィルーバークシャ寺院を眺める。この寺院だけが激しい破壊から免れたのは、理由がわからないとナイポールは言っていた、と思い出す。ラウドスピーカーから、ヒンドゥーの経典の読誦だろうものが聞こえてくる。わが国におけるお寺の読経と違って、明るくメロディアスである。このスピーカーを用いた読誦は、ムスリムのやり方に似ているなー、と思う。東アジア系の若い連れ合いがボルダーリング(岩登り)を試みている。聖域でボルダーリングとは・・・。ドラヴィダ様式のピラミッドのような屋根をもつ寺院群を見ながら丘を下る。ヴィルーバークシャ寺院の塔門をくぐると、そこは現に生きる人々の信仰の世界なのだ。僅かな賽銭で象がその鼻を器用に用いて庶民を祝福している。炊き出しご飯が大鍋から振舞われている。大鍋から蒸気がわきでている。ご飯は、わずかに塩で味付けされていた。食べ終わった後の紙皿が、壁際の隅に無造作に散乱している。そのごみを片付けるのは、ここを参詣する人たちとはまた別の人々なのだ。
   インドの人々の信仰は、世界遺産に登録された歴史的に価値の高い遺跡ではなく、このヴィルーバークシャ寺院に集っている。静謐ではなく、民衆的なエネルギーの現存に心が和む。観光に飽きた心が、民衆の素朴な信仰の姿に感応する。人々は何を祈って帰るのだろう。しかし、この民衆には個人がなく、個人である者はこのような民衆を形づくらない。

  バンガロールへの戻りのハンピ急行では、フランス人観光客の一行と一緒になる。ツアー・コンダクター氏とたまたま隣になったので、「今回の痛ましい出来事には言葉もありません」と言うと、一瞬彼は凍りついた(私が成田を発ったその日[日本時間11月14日]、イスラム国の息のかかった同時多発テロがパリで起きたのだ)。そしてすぐに話題を変え、こんどの夏には、東京、富士山、京都、広島へのツアーを企画しているのだと言う。どうしてフクシマには行かないのですか、と言おうと思ったがやめた。
   バンガロールもまた曇りがちで、激しい雨も降ったのだ。小雨と晴れ間が交互する朝、タゴールのスケッチを現代美術館に見に行く。タゴールは、ベンガルの霞を描いていた。違うなー、と思う。つまり、私がデカン高原で見てきたものとはまったく違うのだ。天心はタゴールのスケッチにどんな感想をもっていたのだろう。

<参考にした本>
V. S. ナイポール『インド―傷ついた文明』(工藤昭雄訳、岩波書店1978年)
ヴィディア・デヘージア『インド美術』(宮治昭、平岡美保子訳、岩波書店2002年)
『世界歴史体系 南アジア史 弟3巻 南インド』(辛島昇編、山川出版2007年)

バイス、ヌーヌス『ヴィジャヤナガル王国誌』(大航海時代叢書Ⅱ-5所収、岩波書店1984年)

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親愛的師兄

前年中はありがとうございました

ヴィジャヤナガル・・・・想像もつかない世界ですが…。
わたしがかろうじて行ったことのある ボロブッドゥールの遺跡をおもってそう遠くないでしょうか?
(わたしにとってヒンズーはまずジャワのサンカンパラニンドゥマデイから吸収したもので・・・・)
おもえば遺跡の破壊。あるいは敦煌莫高窟の奇蹟もありながら・・・・・
東南アジアからアシアマイナーにかけて,敗北と繁栄の歴史をまざまざと目の当りにするような感覚なのでしょうか・・・折も折でしたのですね・・・

ターリバーンやイスラミックステートによる破壊よりも
今の気分では,フランス,トリコロールに反発する思いからアンコールワットのマルローの盗掘,といったものが即座に思い浮かびます。

さらに瘴癘の水。樹木の繁密茂盛による破壊の進行。地球の土のほろび・・・・

暗鬱な色の游行記が今の気分にしっくりきました。
インドのこと何もわからず・・・・じぶんのことしか・・・・ろくなコメント書けませんが。

本年もよろしくお願いいたします。
プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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