FC2ブログ

79.シヴァ・ナイポール『短篇小説集、不思議な男ほか』、Shiva Naipaul, A Man of Mystery and Other Stories, published by Penguin Books in 1995.

21NKYG5WG2L__BO1,204,203,200_

   『蛍』Fireflies (1970)、『潮干狩り』The Chip-Chip Gatherers (1973)、『暑い国』Love and Death in a Hot Country (1983)、およびこの八編の短篇小説が、シヴァ・ナイポールの小説のすべてである。シヴァは、これらの小説と、数冊のエッセイ・ルポルタージュ・旅行記を残して1985年40歳の若さで逝った。

   第一作目の『蛍』は、インドからトリニダットへ移民した家族の物語だ。もとバス運転手の父親は、不倫や写真や庭いじり、小さな窃盗を楽しむフツーの人である。兄はガリ勉で弟は反抗的で暴力的である。母親は、商売好きの頑張り屋、学はないが暖かい。しかし、母親は最後すべてを失う、主人も息子たちも、商売も家も財産も。そして、そこに到ってこの小説の主役が実は母親なのだと分かる。兄のV. S. ナイポールが書いた『ビスワス氏の家』A House for Mr Biswas (1961)が志半ばで倒れた父親の物語とすると、『蛍』は、母親の物語だ。小説前半の父親の馬鹿げた行動、そして弟の一族のボスへの乱暴狼藉を読んでゆくと、母親のつましい願いが際立ってくる。R. K. ナーラーヤンの小説における母親が、家の片隅の暗い場所に生息することを条件付けられているとすれば、シヴァ・ナイポールの母親は、夫や子供達の、つまり男達の身勝手でバケ物のように肥大した観念の傍らに蹲っている。遠い南の島の儚い女の一生というよりは、母親のすべての思いが、願いが、幸福が粉々に砕けてゆく虚無感が不思議な安らぎを与えてくれる。

   二作目の創作『潮干狩り』は、故郷トリニダットの開拓村が舞台である。ラムサランは若くから商才があって(密輸で儲けた)運送会社を成功させた。ラムサランは変わり者で、横暴だ。息子のウィルバートの眼を通して小説は進行してゆく。母親は不器用で、また慎ましい女(性)であるけれども、古雑誌から切り取った雪を頂いた山々の写真(アルプス)を壁に貼り喜んでいるような人なのである。父親の医者嫌いが母を早すぎる死においやってしまう。
   ジュリアンがライバルだ。ジュリアンは、医者を目指して頑張っているのだが、ウィルバートはジュリアンを時に毛嫌いする。これは、作家の自己嫌悪のような気もする。ウィルバートのところにいた謎めいた女(性)の娘、シータはジュリアンと恋仲になってゆくが、受験勉強が忙しくなってゆくとジュリアンはシータから遠ざかる。彼女は、“トリニダット・クロニクル”紙でジュリアンの留学生試験の合格を知るのだ。希望に充ちて出世してゆく若者が美しく聡明な娘を捨ててゆく。その絵は、センチメンタルではなく、世界へ旅立つ者への作家自身の苦い批評を含んでいる。
   主人公のウィルバートは、運送会社の社長の息子という境遇・運命を甘受し、そのなかでクールな判断と周囲への思いやりを示してゆく。知識人としてではなく、実務家として生きてゆく。それは作家の願望・理想のなか。あるいは作家の自身にたいする攻撃なのか。
   シータの母スシーラは父の愛人だったのだろう。また、ウィルバートには腹違いの兄がいて、畑のあばら家に引きこもっている。シータは腹違いの妹ということになるのか。この辺の関係は込み入っている。
   シヴァの小説は、しばしば破滅への願望、死への誘惑が色濃く立ち込めているのに対して、『潮干狩り』は生きていかなければならない意志を表現している、ようだ。『潮干狩り』は、生きていくための一歩を踏み出そうとしている小説に思える。そしてその重い一歩がやがて歩行となってゆくと、そこに現われてくる感覚は漂泊だ。どこの土地にも属さない根なし草の自由と寂寥の感覚がこの小説の魅力だと思う。シヴァのこの小説を読んでいると、漂泊に生きることが、苦しい生と向き合うのには、もっとも居心地がいいのだと、思えてくる。

   『暑い国(暑い国における愛と死)』は、逆に、引きこもりがちの知識人についての小説である。主人公オーブリーは、独立まもない南米のとある国で、最近書店をはじめた。彼の祖先は奴隷農場主であった。彼はそのことに罪の意識をもっている。過剰で倒錯した亡霊のような意識にオーブリーは今も苦しんでいる。彼は逃亡奴隷をテーマにした小説を書いている。乞食やスラムの住民に食べ物を恵み、反帝国主義的な論説を英国やアメリカのメディアに投稿する。オーブリーは真摯に生きようとするが何か的外れなのだ。
   オーブリーが女性の従業員を雇う。彼女はきわめて知性的だが捉えどころのない女(性)だ。ロレンスを愛読しているのも気にかかる。彼女、ディーナはオーブリーのプロポーズを受け入れ結婚する。彼女の頭脳はいつもフル回転しているが、行動は受動的だ。不良少女の召使いとのやりとりは、ディーナの規範意識をスリリングに表現している。ディーナは、ポルトガル系にヒンドスタンの血が入っているという設定からも、作家に一番近い心情をもっているように思える。つまり、インド系移民のアイデンティティと西洋的な教養・知性をもっているのだ。ディーナは子供の頃を回想して言う、街にごくたまに現れるアメルインディアンの空白の表情が忘れられない、と。原始的な自然の調和に近いところで生きる者が間違って文明の只中に引き立てられた時の戸惑い、あるいは思考・感情の停止を言っているのだろうか。さらに、小説の終わり近くでオーブリーは語りかかける「自分の願いは、この現実においてただ人間としてあることなのだ」と。彼女は、子供の頃見たインドネシア系移民の祭祀に触れ、容易に人間が動物に先祖返りしてしまう(トランス状態の謂か)恐怖を語る。この国では、大規模な動物への先祖返りが起こりうるのであり、それは徹底した破壊にしか行きつかないのだ、と独白する。

   ここでディーナの語る「人間の大規模な動物への先祖返り」とは、『蛍』で悩んだ個における破滅=死の恐怖と誘惑とは違う次元の恐怖を語っているようだ。つまり、桎梏でしかないと思っていた人間社会や文明は案外脆く、それはいつでも無に帰する。個における死の恐怖と誘惑というきわめて人間的な感覚は、いとも簡単に、根こそぎ無化されてしまう現実がこの世界にはあるのだ、と。個における破滅願望と死の誘惑に激しく侵されながらも、さらに大きな恐怖、多くの人間が雪崩をうって動物化してしまう恐怖に、シヴァはこの小説で捕われている。人間は、実はカオスには耐えられない、絶対に。そこには個であることの死も、破滅願望も、それについての恐怖や誘惑もない。人間は、そこでは人間であることを止め、動物となる、あるいは、ただの物体としての屍、死の国があるだけなのだ。

   ところで、シヴァ・ナイポールは、南米ガイアナで人民寺院の集団死事件(1978年11月、他殺を含め900人以上が死亡)が起きると、二週間という短い時間で現地に飛び取材している。そして、そのルポルタージュ『黒と白』Black and White (1980)を書き上げた。・・・その本では、集団死を構成する個々の死の痕跡をシヴァ・ナイポールは懸命に辿ろうとしている。つまり、集団死ではなく、人間にとって死はあくまでも個の問題であるはずだ、というシヴァの願いが込められている。それは、『暑い国』における集団的な人間の先祖返り、人間であることを止めてしまう恐怖と本質において繋がっている。

無題
シヴァ・ナイポール
1945年 西インド諸島、トリニダット・トバコの首都ポートオブスペインに生まれる
1985年 執筆中、心臓発作で机にうつ伏し、突然の死だった
ポール・セルーは、シヴァ・ナイポールの小説を兄ヴィディアの二番煎じに過ぎないと見下した 兄ヴィディアの反論もありむしろセルーの評判を落とした感がある
日本語で読めるのは『終わらなかった旅』(工藤昭雄訳、晶文社)のみか  

   『短篇小説集、不思議な男ほか』は1969年から1974年の間に発表された作品が集められている。書誌的なことに触れると、もともとは1984年に出た本『ドラゴン湾の向こうに』Beyond the Dragon’s Mouth: Stories and Piecesに収録されたのち、創作のみを抜出し短篇集として1995年に出版された。

   『短篇小説集、不思議な男ほか』は、“睡眠不足”を除くと小説の舞台は故郷トリニダットである。

“美人コンテスト”
   これは張り合っている雑貨屋が、美人コンテストによって商売仇を打ち負かそうとする物語だ。最後に、美人コンテストで勝利をおさめたのは、ローカル色の強いオリエンタル・エンポリアムなのか、息子を米国のビジネススクールに留学させ、モダンな感覚をもつジェネラル・ストアなのか。いずれにしても田舎街の美人コンテストというだけで、何やら可笑しく楽しい。

“不思議な人”
   高等教育を受けた人物が、シンプル・ライフへのこだわりから靴修理屋をやっている。女房はブラジルの農園の監督人の娘で一緒に駆け落ちしてきたのだ。しかし、生活苦から娘を女房の実家に戻すしかなかった。女房は本好きで、つまり知的なところがあり、また絵を描くのが趣味なのだ。なぜか嵐に漂う船の絵ばかり描いている。彼女は、フツーの生活に飽きたらない心をもっている。靴修理屋は、子供好きで近所の子供達を引き連れ、動物園や植物園にでかける。極貧も大金持ちも通りには無縁だった時代が過ぎ、あばら家の靴屋を残し、商業開発で街の様子が変わってゆく。ある日、靴屋はしたたかに酔って死んでしまう。確信犯のような自死だ。

“クラリーサ・フォーブスと政治教育”
   黒人のフォーブス氏は、政治的に立ち回ることで今は議員に収まっている。彼の娘クラリーサは、甘やかされて育った感じだ。娘は、騒ぎを起こし、冒険にでて失敗を重ねる。通っている高校を中退し、夢をみてポートオブスペインに出て召使となるが、そこでも女主人とケンカ、英国にもゆくが長続きせずに戻ってくる。何をやっても中途半端で、最後は軽蔑していた父のところに身をよせる。夢見ることの冷酷さを知ることが「政治教育」ということなのだろうか。作家は、クラリーサの生き方に対して批判的なのか、あるいは何か認めなければならないものを感じているのか、実は曖昧だ。

“人形の家”
   衛生局の職員が、三人の子供と女房を残し、「大きなこと」を夢見てアメリカに旅立ってしまう。残された妻クララは孤軍奮闘する。彼女の相談相手は、怪しい巡回牧師だ。・・・街の噂・エピソードを聞く楽しさがある。庶民の夢と逸脱とその代償を語りかけているようだ。

“ソーコー氏のクリスマス合唱隊”
   トラック運送業を営むオヤジが、小学校の校長を騙し、子供達を使って合唱団を作り、クリスマス募金をせしめようとする。詐欺を早々に見破る聡明な子がいて、逆にこの詐欺師にたかるところがおかしい。小さな世界の愛おしくなるほどケチな詐欺の話だ。

“父・子そして三位一体の聖霊”
   誰が本当の赤ん坊の父親なのかをめぐる喜劇。これもカリプソのような街の噂に材をとっているのか。

“借家”
   少年院あがりの不良青年が、宝石商という天職を見つけ(これはあり得そうなことだ)真面目に生き始める。妻を娶り、子供も授かるのだが、そこに不吉な女(性)が介入してくる。もと不良青年の金銭への無頓着、天職への献身、女房が逃げ出したあとの不吉な女(性)との関係は、読んでいて味わいがある。フツーの生き方から逸脱した者の宿痾か。

“睡眠不足”
   老いと死への予感を、イギリスの郊外を舞台に語られる。雪が残る街に一人下宿暮らしをしている老人が、バーで意気投合した娼婦を下宿に連れ込み、下心も虚しく、なけなしの5ポンドを巻き上げられる。下宿の女将に知れたらただでは済まないと怖れながら、自分はもうすぐ死ぬのだと思う。若い作家が、老人の死への心境をなぜ想像してみなければならないのか。・・・シヴァにとって、ロンドンが表徴するのは、死臭漂う老人なのかも知れない、と唐突に思う。それは、シヴァにとって必ずしも居心地が悪くない。

   これらの短編には、シヴァが繰り返し呻くように語る秩序嫌悪のアナーキズム、死への凝視、死をどこかで待望する雰囲気を通奏低音のようにもっている。だが、他方でカリプソが歌う街のゴシップのようなユーモラスな調子も楽しい。それはきわめて民衆的で、明るく逞しい。シヴァは故郷トリニダットを懐かしんでいるようでもあり、トリニダットの人々をも愛してもいるようだが、もうそこには戻れない寂寥感―乾いていて、鉱物のように硬い感覚―も見てとれる。シヴァの奏でるカリプソ小説は、世界の果ての街角の夢・欲・退屈・笑い・失敗・不幸を語りつつ、自分がどこにこれから向かおうとしているのか分からない漂泊の感情を表現している。シヴァのこれらの短篇は、この世界に居場所を持ちにくいと感じている者に優しい。あるいは、フツーの生活にいたたまれないと感じている者の心の痛みを癒す。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR