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78.サーダット・ハッサン・マント『マント短篇集』、 Saadat Hasan Manto, Manto: Selected Stories, translated by Aatish Taseer, published by Random House India in 2008.

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   マントは今、再発見の興奮の只中にある。あいつぐ英訳の出版、本格的な伝記の刊行、あるいは、小説における登場など(ルーパ・バジワの『お話を聞かせて』Rupa Bajwa, Tell Me a Story, 2013を見よ)を思うと、まさに今という時代が、サーダット・ハッサン・マントを求めている。

   公明正大なものへの不信と確かなフェティッシュのあり様について、この短篇集においてもマントは健在である。“本当の名前はラダ”では、ハンサムで見事な肉体をもつ若い俳優を作家は嫌悪する。見事な肉体と絵に描いたような善良さを、ペテンの人生であると裁断する。ヴァラナーシの娼妓の娘ニーラムは、奔放な欲望を俳優の見事な肉体への接触の衝動へと炸裂させてゆくのだ。

   マントにおけるフェティッシュなるものは、人工的な支配から免れる人間の自然性、欲望の隠れ家、あるいは欲望の代理物、のように考えられる。それは、マントの場合、強度をもって迫ってくることよりも、穏やかに、幸福感にみちて、仄かなものとして立ち現われてくる。

  “ブラウス”という作品は、新入りの家の召使の物語である。彼は、十五歳なのか十六歳なのか分からない。三か月この家で働いている。家の女主人は口やかましい人ではない。とても穏やかな家なのだ。上の娘は映画の歌曲を歌い、下の娘はブラウス作りに夢中なのだ。その召使モミンが、家の娘に恋心を抱いていく。モミンは、下の娘があるポーズで見せるわき毛を凝視する。この短編の場合、腋の下の毛玉というフェティッシュな欲望は、社会制度としての婚姻とは相違して、人を愛する平等の権利を言い表しているようで爽やかである。

   マントは、人間のフェティッシュな嗜好について驚くほどストレートに語ることができる。他方で、インドの惨劇=分離独立とコミューナルな暴力についても、マントはこの重い題材を避けることなく正面から取りあげる。

  “コール・ドー”(Khol Do未詳)は、1947年の分離独立の惨劇についての小説だ。
   老人が(難民)キャンプで意識を取り戻すと、孫娘のサキーナがそばにいない。母親は殺された。しかし、サキーナは守ったはずなのだ。老人のサキーナ捜しがはじまる。・・・この短編には、分離独立の動乱に関する暴力の直接的な描写はない。そうではなく、老人の孫探しにおける希望と絶望が惨劇のリアリティを、統計数字とは違う個における現実を、十分すぎるほど読者訴えてくる。

  “ラーム・キラヴァン”もインド・パキスタンの分離独立に伴う混乱・暴力・惨劇を書いている。ただし、“コール・ドー”が、個にとっての悲劇の実相(行方不明の孫を探す)を捉えているとすると、“ラーム・キラヴァン”は、ムスリム・ヒンドゥー間の憎悪・殺戮の不条理・愚行を、それを引き起こすイデオロギーを、作家のところへ通う洗濯人との長い交流を通して、問う。

   作家が貧しかった時から物語は始まる。支払も滞りがちだが洗濯人のラーム・キラヴァンは日曜ごとに洗濯物を律儀に作家のところへ届けにくる。作家が結婚し妻を交えた交流が続く。ある時は、ひどい下痢に苦しむラームを妻は病院に運び、介抱するのだ。独立が宗教対立を激化させ、日に日に状況は悪化してゆく。妻は、一足先にラホールに遁れる。不穏な状況においてもラームは洗濯物を届けにくる。作家は、身の安全のためにもう来ないほうが良いとラームに諭すが、ラームは作家の忠告を聞こうとしない。いよいよ作家がパキスタンに遁れなければならなくなったとき、洗濯物をとりに、いや最後の別れを告げにラームのところに向かう。「洗濯人のラーム・キラヴァンの家はどこか」、と尋ねているうちに、作家は気が付けば、こん棒を手にもつヒンドゥーの洗濯人たち=暴徒に取り囲まれていたのだ。

   作家のメッセージは、明確である。人間的な交流にムスリムもヒンドゥーも(カーストも)関係ない、それにもかかわらずそのような交流を破壊し対立を煽り立てるものは一体何なのか、という問いなのだ。一コマ一コマの積み重ねとしての人間同士の長い交流ではなく(マントの場合、病に弱った者を心から介抱することは極めて重要である)、大きな括りでムスリムやヒンドゥーと捉えてゆく時(それはおそらく近代の怠惰な観念だろう)、具体的な生命をもった交流を破壊し悲劇をもたらす。

   フェティッシュなるものばかりでなく、巨大な暴力についても受け止め、見据え、書けるところがサーダット・ハッサン・マントの大きなところである。ただ、ここでは、フェティッシュ、というよりは人間のある種のこだわり=オプセッションについてのマントの物語をもう少し辿ってみたい。

  “自由のために”も、ある意味、偏執についての物語だ。
   作家はサンダルを買いに街にでると、昔のクラスメイトで活動家・闘士であった友人に偶然再会する。今は、靴屋の店主に収まっているのだが、その店には、奇妙なことにゴム製の履物を置いていない。作家は、もと闘士の店主からゴム製の履物を置いていない理由について長い話を聞くことになるのだ。革命(彼の場合、反英独立運動ではなく革命だった)、政治についての屈折した思いが(屈折とは何と軽薄な言葉だろう、ある孤児の女(性)との恋と結婚、アムリトサルの宗教指導者との交流、等々それは情感に溢れたひとこまひとこまの話が続くばかりでなく、政治に係る者が、普通の生活ができなくなる、あるいは汚辱のこの世に子をもつ罪・心の痛みが語られる)ゴム嫌悪となった経験を語る。革命・政治についての傷心・懐疑・幻滅とゴム嫌悪の結びつきはやはり奇妙であるけれども、マントは、そういう人間の痛みと悔恨の経験を、ゴム嫌悪という固執として語るのだ。若い日々の輝き(自由への夢か)とそれが潰えてゆく幻滅がゴム嫌悪として語られるところがマントの特長であり、リアリティである。

  “自由のために”は、過去の経験が、ある固執(ゴム恐怖)となって男を痛みつける物語だ。この場合、固執は、現在と未来の彼の生存を攻撃し続ける。重い罪を背負った人生だ。
   また、違う種類の固執―どちらかというと否定的な展開となる―についても、マントは書いている。因襲やありきたりの願い(子を授かりたい、というような)が過剰になってゆくとき、マントにおいては、世界は捩れ閉ざされる。マントにおける過剰なものとその逸脱は、ありきたりの願いを強化しようとすると雁字搦めの抑圧に傾く。
   次の二篇は、人間の過渡な願いが暗い不幸・破綻を招いてしまう恐れのようなもの、否定的なケースを語っているように思える。

  “カーレド・ミアン”(Khaled Mian、カーレドは愛する息子の名前)という短篇は,穏やかでごく平凡な家庭を物語の舞台としている。この小説の場合、若い父親が幼子の健康を心配するあまり家の衛生に病的な神経を使うことが固執になっている。その過渡な衛生観念は報われない。固執がネガティブに機能するケースなのだ。
  “シャー・ダウラー寺院の鼠”は、その寺院への参詣・参拝によってやっと男の子を授かる。しかし、最初に授かった子は、「寺院の鼠」に返納しなければならないという(一種の生贄か)。過剰な願いが奇妙なものに憑りつかれ捻じれ、不幸をもたらす運命を描く。マントは、しきたりや迷信への固執を拒む。 

   マントの場合、固執ややりすぎは、それが因襲や法の限界に搦め捕られてゆくと人を押し潰す。だが、固執ややりすぎが、世の常識やしきたり、あるいは法を打ち破り乗り越えていくとき、思いもよらない新たな境地がひらける可能性・夢を物語る。それが、マントの真骨頂なのである。
  “免許”では、仕事は一流だが風変わりなところのある御者が、客の少女にひと目惚れし、拉致し、結婚する。違法行為である。少女の家族の訴えで、御者は逮捕され入獄するが、少女=御者の妻は家に戻ることを拒み、夫の留守、御者となっておおいに活躍する。この短編では、マントは明らかにやりすぎ人間達に声援を送っているようなのだ。ただ、物語の結末は少し悲しい。

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サーダット・ハッサン・マント
1912年パンジャーブのルディアーナに生まれる
家は、カシミールモスレムの法律家の家系とのこと
学業については紆余曲折があった
脚本作家、記者として、マサラ・フィルム勃興期を伴走する
ウルドゥ語で小説を書いた
(ウルドゥ語による小説表現の意味・文化的な背景については
翻訳者Aatish Taseerの冒頭のエッセイに詳しい、それはすごく深い)
1947年、分離独立の混乱のなか、ボートでカラチに遁れる
小説表現に関する猥褻の容疑で六度法廷に引き立てられる
収監と強制労働の恐怖を感じていた
Aatish Taseerは、パキスタンでの生活がマントを破壊した、と言う
パキスタンのイスラム政治の不自由からか
インドへの帰還を模索していたともいう(冒頭のエッセイによる)
1955年ラホールで過渡の飲酒がもとで早世(42歳)

   サーダット・ハッサン・マントを読んでゆく。それはありきたりの正義を疑うこと、人間の固執=フェティッシュなるものへの共感を強めること、あるいは巨大な暴力に抗議すること、それらに近付いてゆくことであるかも知れない。マントは、やりすぎ人間のための文学、実験場である。


(追記)
   先に紹介した『ボンベイストーリー』(記事番号70)との収録作品の重複は、“テン・ルピー”と“匂い”のみ。どちらの選集から読んでも、マントの、柔らかで、優しく、奇跡のように輝く、この世の悪に立ち向かう超越した清潔感、に触れることができる。お節介を承知で言うと、翻訳の英語は難しくない。

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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