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76.アミタヴァ・クマール『狂信者の夫になって』、 Amitava Kumar, Husband of a Fanatic, published in the United States by The New Press, New York, 2005.

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    アミタヴァ・クマールは正義に尽くす作家である。正義を声高に叫ぶ者は信用できない、あるいは何かを隠している、と今では多くの人が思っている。あるいは、何も考えていない、と。しかし、クマールの正義は違う。繊細な感覚(手慣れた類型化した言葉を好まない)と大胆な行為のバランスの上に立ち、時にヒューモラスでいて、痛みを伴いながら、運動し続ける。対立するものを排除する前に、対立するように見えるものの近くに赴き、対話を開始しようとする。

    クマールにとって、正義はすでにある正義判断の追認ではなく、運動(歩き廻ること)のなかにあり、多くの困難事のなかで創造されなければならない。・・・間接的な情報をたよりに、正義であるのか、そうでないのかを判断することは極めて難しい。自分の身体と感覚で確かめられる何かが必要なのである。事件・問題の当事者、あるいは関係者でないとすれば、どのようにそのような直接的な経験に近い判断を手にいれることができるのだろうか。そのような問いとヒントを、クマールのこの本はもっている。

    1999年の夏、ヒンドゥー教徒の家系に属するアミタヴァ・クマールは、カナダ在住のパキスタン出身のムスリムの女性とトロントで結婚する。インド・パキスタン間のカシミールにおける武力衝突が連日報道されるなか、まさしくそのような時に、英国でクリケットのワールドカップが開催されていた。結婚式の前日、クマールは早起きして嫁の家族とともにインド・パキスタン戦をテレビ観戦する。英国マンチェスターにおいて、インドの代表チームはパキスタンを打ち負かす。クマールにとっては心躍る勝利であり、嫁の家族にとっては手痛い敗北なのだった。すでに、インド・パキスタン間の現実の亀裂の痛みをクマールはここにおいて経験する。
    スタジアムの観客が「クリケット和平」CRICKET FOR PEACEと書かれたプラカードを掲げていた。クマールはそのプラカードに眼がとまる。そして夢想するのだ。みずからのムスリム女(性)との結婚は、「平和のための結婚」MARRIAGE FOR PEACEではないのか、と。私は「平和結婚」と書いたプラカードを首から下げて歩けるのか、とクマールは自問するのだった。

  『狂信者を妻にして』において、作家アミタヴァ・クマールは、思想を深化するのではなく行動を深化させる。クマールは、インド・パキスタンの国家間の緊張を、平和への願いを、行動―たとえば、ヒンドゥーの著者のムスリム女性との婚姻―によって新しい現実のなかに入って行くのだ。情報の収集と分析が問題なのではない。ある種の連続する決断によって新たな現実が鮮やかに現われてくる。そしてクマールの行動は、芸術的なパフォーマンスのような香気を醸し出している。苛酷な現実の悲惨に屈服し逃げないこと、そして惨劇をより大きな想像の自由に繋げてゆく。また、クマールの行動・パフォーマンスは、作家という特権と彼らの倫理のありようを統合する試みのようにも見える。南アジアの多くの作家・知識人は、貧しく虐げられた人々との関係を絶って、文学や芸術に専念することはできないからだ。あるいはまた、南アジアの小説を読むことは、個の心地よい迷宮に沈思することを妨げる。クマールの書き方は、青年の文学(社会にあることの責任と自己の生き方の相克を問い詰める)を止揚しようとする試みである。

                                 ☆☆☆

    この本の旅とは、暴動の跡を辿る。あるいは、戦争の現場に立つ。さらに、南アフリカでは、ドキュメンタリー・フィルム制作のための取材を行う。それは、どこか狂った旅である。狂っているのは狂気というより、関節が外れたようなちぐはぐな感じ、切断の感覚である。

    ニューヨークのクイーンズに住むヒンドゥー原理主義者は、クマールの新聞記事「平和のための結婚」を読み、ウェッブ・サイトの敵対分子のリストにクマールの名前を載せる。クマールは話をしたいと活動家に電話をする。活動家、バロティア氏は、クマールをharaami(ててなし児)とヒンドゥー語で呼ぶ。二人は会い、話をかわし、食事をともにする。バロティア氏は、ヒンドゥー原理主義グループとシオニストとの連帯の最近の動きについて言及し、古い友人との再会でもあるかのように、クマールに料理を進める。

    クマールは、カラチにモナ(妻)の実家を二人して訪ねる。パキスタンの婚姻法では、パキスタン国籍のムスリムが非ムスリムと結婚することはできない。モナの両親は「今回の改宗(ヒンドゥー教徒のイスラム教徒への)についてご両親はいかがな感想をお持ちですか」と問い、クマールを困惑させる。クマールは、改宗したとは思っていないし(という以上にヒンドゥー教徒という括りにも異議をもっている)、クマールの母親は、ムスリム女性との息子の結婚を聞き、卒倒しそうなほどショックをうけていたからだ。

    2002年のグジャラートの暴動についても、クマールは難民キャンプを訪ね話を聞いてまわる。暴動の犠牲者の遺族に、州政府から、会議派の運動家をとおして補償金が支払われていた。その補償金が犠牲者家族の次の生活の第一歩を可能にする(だがしかし、暴動とその暴力の現実を、州政府の補償金は是認していることにならないのだろうか、州政府は、暴動を未然に防げなかった責任をとろうとしているのか)。モブ=ならず者は言う「俺たちが痛めつけたお蔭で藁ぶき屋根がトタンになった、また痛めつければ、銀の屋根になる」。逆に、9/11同時多発テロで生き残った南アジア出身の移民労働者は、「俺が死んでいれば、補償金で家族を幸せにしてやれた」と。どこかで論理と価値の転倒が起きているのだ。それは、今の世界のもっともシリアスな場面に共通した印であるかも知れない。

    クマールのこの本は、シリアスな題材―暴動や戦争や分離独立や宗教対立―を取り上げながらも、何か関節のはずれたような、滑稽な意味の切断の味わいがある。・・・再び記憶に蘇ってくる。グジャラートの難民キャンプでは、人間ばかりでなくペットまで虐殺する暴力が語られ、援護組織の幹部が「女性用下着の不足」を訴え、また、ヒンドゥー語でウィ・シャル・オーバーカムの歌声が聞こえてくる。このようなちぐはぐな感覚が、いつもついてまわるのだ。

                                                     ☆☆☆

    この本は、「狂信者を妻にして」、それによってヒンドゥーとムスリムとの「結婚」、あるいは相互乗り入れについて考察・報告を進めて行く。それら相互乗り入れのいくつか場面を、思い出すままに取り上げてみよう。

    不均衡 
    インドでは、ムスリムの男の子がヒンドゥーの娘と恋仲になり大問題になるケースが多いのだという。クマールの子供時代の記憶。ある娘が2階から飛び降り、自殺をはかった。一命は取り留めたが、半身不随となる。ムスリムの恋人は、その後海外に留学した。あるいは、ヒンドゥーの良家の娘が、ムスリムと駆け落ちする。二人は、追跡され引き戻されるが、ムスリムの若者は殺害され、ヒンドゥーの娘は軟禁される。

    相互乗り入れ
    マサラ・フィルムの俳優たちは、なぜかわわからないが、ヒンドゥー・ムスリム間の結婚が多いのだという。また、ボンベイ製のマサラ・フィルムは、パキスタンにおいても人気があるのだ。

    ガンジーの場合
    南アフリカにおける抵抗運動の時代、ガンジーの優秀な助っ人はムスリムであり、かつガンジーの抵抗運動をささえたのはムスリムなのだった。ガンジーの子息の結婚は、ヒンドゥー・ムスリム間の和解の実現の形をガンジーはとりたかった。

    未来形の和解
  クマールは、パキスタンの高校生に、またインドの高校生に、隣国にいる同年代の未知の友人へ手紙を書かせる。そのような手紙の一節、「外国人からみたら、パキスタン人もインド人も区別できない。それなのに、なぜ殺しあうのか」と。・・・クマールは、自らの高校生時代を振り返って、学校でパキスタンについて学んだことは、唯一ジンナー(ムスリム連合の領袖)の裏切りだった。

    もはや分離できない
    バラナシのヒンドゥーの祭りにもちいるハリボテは、ムスリムの職人が作っているのだ。インド人のアイデンティティとは、半分ヒンドゥー、半分ムスリムなのだ、と詩人は語る。もはや、それを人為的に引き離そうとするほうがムリなのだ。

    見えないところで
    グジャラートにおけるヒンドゥー料理屋の所有者の多くがムスリムなのだった。街の人々はそんなことを知らなかったが、ヒンドゥー原理主義者活動家たちが、印を付けていったのだ。その印は、暴動における略奪許可なのだった。

                                  ☆☆☆

    この本の少なからずの頁が、インド・パキスタンの戦争について割かれている(分離独立の惨劇と同様に)。実に、さまざまなことが語られている。1971年の武力衝突で(カールギル戦争、13日戦争)で夫を失った未亡人は、クマールの平和のメッセージの求めに対して、戦争ではなくパキスタンが憎いのだと語る。あるいは、インド国軍によるカシミールモスリムへの圧政に対して、突如夫が拘束されその後、行方不明になってしまう夥しいかずの「半分未亡人」について当事者から話を聞く。しかし、それらは比較的容易に想像できる場面である。この本で真実の恐怖の一端に触れたのは、もう少し別のところにある。インドの人々、あるいはパキスタンの多くの人々が、いつ政府が核爆弾の使用に踏み切るかも知れない、という長い不安と緊張の時間を耐えていることなのだ。その恐怖は、まったく抽象的でなく、胃がきりきり痛むような不安だ。

    閑話休題。クマールはV. S. ナイポールを良く読んでいる。クマールは、この本で何度もナイポールのムスリム解釈に異議を唱えている。ナイポールが、非アラブ人のイスラム化は何度にもわたる改宗の一コマなのだという言ったことに関してクマールはとりわけ抵抗をしめす。
   しかし、ここで取り上げたいのはスリナガルのダル湖にあるリワードホテルなのである。ナイポールを読んできた者にとって、リワードホテルは特別な場所なのだ。
    ナイポールは、最初のインド旅行(1962年)で四か月をリワードホテルで過ごす(『インド・光と風』人文書院)。そこで、ナイポールは苛立ち、怒りを爆発させるのだった。とりわけ下僕アジスとのやりとりが絶妙なのだ。そして、二十年をへてナイポールは、再びカシミールを、リワードホテルを訪ねる(『インド新しい顔』岩波書店の最終章)。それは感動的な場面なのである。貧しくとことん狡猾に生きていかなければならなかった人々が、ある種の豊かさを享受しているのだった。アジスの息子は会計学を学びにカレッジに通っている、ホテルは改装され観光客に賑わっている。スリナガルは貧困の轍から抜け出し、豊かになったのだ。嘗てのマハラジャの宮殿はホテルに改装され、庭では、ジーンズをはいた日本人の娘たちが記念写真をとっている。スリナガルは、豊かで平和な世界に変貌しつつあったのだ。
    クマールは、スリナガル滞在の最終日にリワードホテルに向かう。クマールが、リワードホテルで確かめたかったものは何なのだろうか。ナイポールの旅行記はスリナガルといの世界の変化を伝えた。それは、世界が良くなってゆくことがありうるという希望だった。しかし、クマールが辿りついたリワードホテルは、インド国境警備部隊の宿舎になっていた。クマールは、銃をもった兵士に門前払いをくらう。アジスのことも、ホテルの主人のことも聞きようがないのだった。

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アミタヴァ・クマール
1963年生まれ、パトナで育つ
デリー大で修士号を取得後渡米
ミネソタ大で博士号を取得(比較文学)
英語科教授 (Vassar College、New York)
小説家、ルポルタージュ作家、ドキュメント映画製作と
活躍は多技にわたる

                                                           ☆☆☆

   この本も最後の50頁が圧巻である。それは、バーガルプル(パトナの東200km)の暴動とジェノサイド、盲目の犯罪者たちの話で、その暗示は、まるで闇のなかにうっすらと浮かびあがって来る幽霊のようなのだ。

    1992年のアヨーディアにおけるバーブリマスジットモスクの破壊、および2002年のグジャラートのコミューナル暴動については、おもにBJP(インド人民党)の影響下にあった、と見ることができる。しかし、1992年のバーガルプルの暴動は、1000名を超えるヒンドゥー系住民ンが、組織的な動きではなく、マイノリティのムスリムの集落を襲い虐殺を働いたのだ。とはいえ、暴動には必ず半ばプロの扇動者がいる。暴動を主導したのはどのような人間たちなのだろうか。クマールは、暴動の主導者たちを一括してモブ(ごろつき)と呼ぶ。クマールは、それらのモブに触れない。この空白は、この本に一貫していて、とても意味深長なのだ(RSS[民族奉仕団]の活動家育成のシステムについては触れているが、モブはそれとは違う)。

    このバーガルプルの暴動の報告に、もうひとつの異常なエピドードが加わる。80年代の初め、この地では、収監中の犯罪者・囚人に対して、警察幹部、ときには判事までも含めて、眼を潰し視覚を奪うという非合法的な「処置」が繰り返されたのだという。「処置」とは、麻の袋を縫う長い針で眼球を刺し、そこに塩酸を流すのだ。その「処置」の噂は、バーガルプルの人々の支持をうけたのだ、と当時の警察幹部はいう。そして、「処置」によって盲目となった者たちは、極悪人に復帰することはなく、今や乞食となるしかなくなった、と。

    クマールは、「処置」を行った判事や、警察官(長い間公職を追放されたが、最近復帰した)の人々の話を聞き、また、現在は施しを求めるしかない盲目の元「極悪人」に対面する。

    クマールはそのようなことを一言も語っていないけれども、暴動を扇動しマイノリティであるムスリムを殺しまくるモブ(ごろつき)と、盲目の元「極悪人」は、実は重なっているのではないか。

    ここで、クマールの本からは離れるけれども、虐殺に関する驚くべきドキュメンタリー・フィルム“アクト・オブ・キリング”(ジョシュア・オッペンハイマー監督、2012年)に触れたい。1965年、スカルノがスハルトのクーデターで失脚したとき、「共産党員狩り」と称し、100万人規模の虐殺がインドネシアで起こった(通称9.30事件)。このドキュメンタリーが尋常でないのは、虐殺された被害者の側の証言を収めたのではなく、虐殺の首謀者(殺人を行った者)が、当時の虐殺について回想し、ときにその虐殺の再現し、こともあろうにその役を自ら演じる、という映画なのだ。殺人とは人非人・畜生の仕業であるという通常の道徳観念、あるいは抑制がここではほぼ完全に取り払われている。

    この映画においてそのもっとも衝撃的なのは、殺人者たちが、自ら実行した殺人について嬉々として語り演じる、ことだろう(精神に異常を来す者もいる)。人類が長い時間をかけて築いてきた抑制(と思われる)、あるいは国家が戦争と死刑という例外を設けて合理化してきた抑制が、「共産党員狩り」という理由付けにより、また軍や警察の策動・間接的な支援によって、抑制が解除され、人を殺すことの愉悦が噴出してしまったのだ。

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アクト・オブ・キリング

バーガプルのコミューナルな暴動も、ヒンドゥーの美しい国を蝕み奪う敵=ムスリムという気分・理由により殺人の愉悦を解き放ってしまった、ようにも見えるのだ。それは、生命を奪うことの愉悦の感覚を表現している、と考えられるからだ。そして、人類が、歴史が、国家が、懸命に抑制しようとしてきた殺人の禁忌は、そこでは無化される。

    暴動を扇動しマイノリティを殺戮するモブ(ごろつき)と、“アクト・オブ・キリング”において共産主義者(およびそのシンパ)や中国人(中国系インドネシア人)を殺し続けたならず者、そしてクマールが特別の関心を示し取材した盲目の元「極悪人」は、重なって見える。彼らに共通しているのは、社会規範から比較的自由な逸脱的なグループの成員ということになるのではないか。また、ごく普通の人々は、その逸脱的なグループを怖れるとともに、反撥もするし引きよせられもする。
   盲目の「処置」は、暴動や虐殺を引き起こすモブの力をそぐ苦肉の策とも考えられる。そのサディスティックな印象は、他方でインドのヒンドゥー教における犠牲儀礼にこじつけることもできる。つまり、犯罪者を盲目にする(それは紛れもなく一種の仮死だろう)ことによって負のエネルギーを正へのそれへと変換し、共同体の健全な再生をはかる、というように。

    この本において、恐怖の感情をかき立てるのは、コミューナルな暴力と殺人を引き起こすモブの存在だ。モブについて、クマールは何も語らない。ただ、盲目の元極悪人について、語るだけなのである。それらは、規範を逸脱した狂気が出現する時間と空間を、表徴する試みに違いない。

    本で読む暴動や戦争は、ある意味退屈である。きつい責任から、あらかじめ免除されているからだ。また、私はその惨害を肌身で感じていない以上、どのようにも解釈できてしまう危うさがある。確かなこと、何と言われようとかまわぬ確信以上のものがないなら、このような深刻な問題には沈黙しておいたほうが賢明なのだろう。だがしかし、南アジアの旅を大切に思う者にとって、そこがどんなに久遠の神秘の大地であると勝手に思い入れしたとしても、じつは、血みどろのマグマを噴出するエネルギーがいつも地下に横たわっていることを忘れるべきではない、と思うのだ。人を感嘆させる神秘や永遠の風景の向こう側にあるものが私は気になって仕方がない。インドは、生と死の芝居小屋のようなところと、虐殺の血に汚れた大地のようなところをあわせ持つ。

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Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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