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72.ルーパ・バジワ『お話を聞かせて』Rupa Bajwa, Tell Me a Story, Picador India 2013.

storyBBB.jpgパパジは最近 閉じこもりがちだ
口数少なく ほんの少ししか食べない
物価の上昇で家族の生活は苦しい
数学のテストで落第点をとってしまったラニは
教師に鞭打たれ
もう二度と学校にゆくまいと決心する

彼女は今 美容院で働いている
一日の仕事が終わって疲れていても
小さな甥っ子にお話しをせがまれると
彼女はベッドで 自作の物語を語り聞かせるのだ

兄夫婦と喧嘩別れをしたラニは
アムリットサルからデリーへ向かう
ラニはそこで
女流作家や編集者やらに触れる
彼女の裡に デリーの生活への
デリーの人々への
疑問が渦巻き始める

死を呼ぶ小説は
最後 作家ルーパ・バジワが
理想の半ばを描き込んだラニに
さらに苛酷な試練を課す

心地よさを伝える死と
抗い闘う者の心の痛みが
鮮烈な対照を描く
物語の終わりとも
また 新たな物語への序章とも
読めるのである


   ルーパ・バジワの最初の小説『サリーショップ』The Sari Shopが出たのが2004年、この二作目『お話を聞かせて』の発表までおよそ十年の歳月が流れている。この寡作ぶりをどう考えるべきなのだろう。病気でもしていたのか。『サリーショップ』が、サーヒティア賞を受け大成功した小説であるから、この遅筆ぶりが余計に不可解である。

   前作『サリーショップ』の終わり方がいささか軽かった、という思いがある。主人公ラームの狂暴な行為(サリーショップで暴れまわる)は、一時的な発作行為であった。店主は、アルコールが入っていたのだと決めつけ(実際は、そうではない)、許す。そして平穏な日常が、まるで何もなかったかのように再開される。それを思うとこの『お話を聞かせて』の終わり方が、『サリーショップ』の幕切れにケチをつけた者への復讐のようでもある(おそらくそんな批判的な言辞が当地で渦巻いたのだろう)。『お話を聞かせて』を読み終えたとき、私は打ちのめされたような深い嘆息をついたのだ。

   『サリーショップ』の軽い終わり方を、『お話を聞かせて』の重い終わり方と比べてみると、それは、作家の切羽詰まった、つまり死を回避し再び生き始めるための、ギリギリの選択であったのか、と思えてくる。生への帰還について、周囲は、(私も含めて)物語表現として安易であると思ったのだ。

   ルーパ・バジワはコンプレックスの強い作家である。何に対するコンプレックスかというと、あらゆるものに対して、と言いたくなる。つまり、居直ることのできない、すべてを疑う繊細な魂の持ち主なのだ。彼女の書く小説の主役は、サリーショップの店員であり、『お話を聞かせて』では美容師である。彼(女)らは、知的なものからはじかれている。エリート、とりわけインテリへの嫌悪感は明瞭だ。しかし、そこには英語でものする小説家としての自家撞着もある。逆にバジワの魅力は、成功した小説家という存在にすら疑いをもつその苦悩の深さにあるのかも知れない。

   この小説の主人公ラニは、若い美容師である。数学が苦手で(他人事には思えない)、クラスで最低点を取り教師に鞭打たれ、もう二度と学校にはゆくまいと決心する。父親は、学校だけは出ておけと諭すが、ラニはその忠告を頑として受け入れず、また学校に行かない理由も話さない。・・・ラニは、ヒンドゥー映画の俳優に恋し、ヒンドゥー歌謡をいつも口ずさんでいるようなどこにでも見つかりそうな娘なのだけれども、実は彼女の本当の楽しみは、幼いおいっこに自分の作ったお話を聞かせることなのである。ラニは、お話のなかで生きることのほうが、より生きがいを感じるような娘なのだ。そう、作家はラニに、作家の理想の半分を、仮託している。インテリでなく、手の職で食い扶持を稼ぎ、こよなく物語を愛する表現者を思い描いている。

   ラニの父親の姿が痛ましく、しかし同時に何か心地良い。パパジ(お父さん)は、あまり喋らず、ほんの少ししか食べず、日中は、寺院回りで時間を潰し、あるいは部屋の隅っこに引きこもって、新聞や詩を読むかして、家族の者との接触・会話を避けている。家族を幸せにできなかった責任を感じているのかも知れない。パパジは、人生の終わりにおいて不幸である。この世には楽しみも望みもない。しかし、パパジは己の不幸を味わいかみしめている、ようにも見える。・・・パパジの不幸は、食料雑貨店の会系係りを首になったことから始まる(大規模スーパーの進出が背景にある)。ラニの兄は、電気の専門学校を中退し、工場に働きにでなければならなかった。そんな不運!に追い打ちをかけるように、パパジは虎の子の蓄えを、もと同僚の息子の商売(自転車屋)に融通してしまうのだ。同僚には、妻が亡くなったとき、親身に助けられた恩義がある。パパジは恩義を忘れない人なのである。あるいは、金に執着したくないのかも知れない。嫁は、パパジの人の良さを家族の前で非難する。パパジは、それ以来いっそう自分に閉じこもっていく。

   しかし、彼に過ぎたるものがあるとすれば、娘ラニの彼への愛情なのだ。娘は、食の細くなってゆく父親を気遣い、父親のために露店でバナナを買う。また、咳の引かない父親を病院につれてゆき、公立病院の腐れ医師とやり合う。娘は、あえて強者とはならないような父親の生き方を受け入れるとともに、時に激しく闘う。彼女は、戦闘的な優しさをもつ者なのだ。

   『サリーショップ』と同様、この小説『お話を聞かせて』におけるラニの職場、イブ美容院(Eve’s Beauty Parlour)についての話は楽しい。口うるさく従業員を叱咤する女店主(彼女が未亡人の頑張り屋なのもイイ)、キショール・クマールやカリーナ・カプールといった銀幕の男優・女優についての名前が飛び交う。結婚式をひかえたカビータは幸せそうだ(しかし、ここにも一つの罠がある)。客用の女性誌の回し読みし、扉には「微笑むあなたが綺麗」という標語が貼ってある。しかし、この小説は、イブ美容院を舞台にしたヒューマン・コメディーではない。いくつもの早すぎる死が重なりあう、この小説の実相は、死を呼ぶ小説なのである。

   ラニは、兄夫婦と喧嘩わかれして美容院の店主の引き留めるのも聞かず一人デリーへと向かうが、友達の紹介してくれた主人は、あろうことか今人気の女流作家なのである。この女流作家サドゥナは、ルーパ・バジワ本人と限りなく近い、ように私には思える。
   女流作家は足にギブスをしていて、ラニが、ひとまず落ち着くと、どうしたのかと主人に尋ねる。約半ページにわたる説明は、編集者に会いに街にでたとき交通事故にあったのだという以外、何か釈然としない。何か重大なことを隠していることは明らかだ。
   作家は、二作目の小説を執筆中である。主人公の名は、ラジェンドラ・ドゥベャRajendra Dubeyという。彼は、学校の教師で自殺未遂を頻繁に繰り返している、と説明されている。彼は、作家にとっては毎日少しずつ書き込む小説の主人公という以上に、実の兄弟のような存在なのだとまで言う。・・・パパジの引きこもりは、緩慢なる自死に違いない。その引きこもりは、自足していて心地よくもあり、また復讐でもある(希望や欲望への、あるいいは己の生への復讐)。この女流作家は、自死の誘惑に深く侵食されている、と読むのが率直なところなのだ。ルーパ・バジワの発する「死にたい」という声が聞こえてくるようだ。

   女流作家サドゥナの死への思いがどのようなものだかは、実はハッキリしない。サドゥナが、デリーの知的サークルにおける知識人や編集者を嫌っている一方で、自分も同じ種類の人間なのだという自己認識が彼女の存在を攻撃し続ける。

   女流作家の屋敷でパーティが催される。ラニは、懸命にサービスにつとめるのだが、パーティの何かの請求書、18,500ルピーという数字にラニは釘付けになる。パパジにそのような金があれば、パパジは死ななくて済んだ、と彼女は結論づける。水道管破裂にともなう修理代をパパジは支払うことができ、兄嫁の実家から借金をしないで済んだのだ。・・・ラニは、金銭によって多くの悲惨な問題が回避しうると考えている。女流作家サドゥナにおける死への希求は、それとは少し違う問題提議を含む。

   金銭については、また別の視点から、この小説を読むことも可能である。すなわち、女流作家の家のパーティにおける金銭の蕩尽と、ラニの兄嫁の、占い、および加持祈祷(ヒンドゥーのパンディットによる清めの儀式)への出費を比較してみることもできるのだ。富める者のみが無駄遣いをしているのではなく、貧しい庶民も愚かに散財し希望を託す。

   閑話休題。この小説のなかに登場してくる本について復習してみよう。この本のエピグラフにチェーホフが引かれている、「笑われてしまうことを怖れずに書ける作家のみが自由に思考する」。作家は、自由を行使する勇気を宣言しているかのようである。パパジが部屋の隅っこで読んでいたのはカビール(14~15世紀の詩人・宗教改革者)の詩、パパジは、知的な人なのである。召使が掃除をしているとき作家がソファーに寝転がって読んでいたのが、ソール・ベローの『ハーツォグ』。小説の引用があり、その中で主人公も(『ハーツォグ』を読んでいないのでこれは類推)、ソファーに横になっている。ルーパ・バジワになぞらえる作家が、ソファーの上で小説を読んでいる、その小説の主人公も何か悶々としてソファーに横になっている。作家は、また『不思議の国のアリス』も夢中になって読んでいる。この小説は、物語論としても読めるはずだ。ムンシ・プレームチャンド『ゴーダーン』Munshi Premchand, Godaan(The Gift of a Cow、1936)は、作家にリアリズムと正義の感覚を伝えているのかも知れない。また、嬉しいことにサーダット・ハッサン・マントSaadat Hasan Mantoの短篇も読んでいる。女流作家サドゥナはマントの何に惹かれているのだろう。マントは、私の知るかぎり、死の誘惑からもっとも遠い作家、あるいはどんなみじめな境遇に対しても生を謳歌し続ける作家なのだが・・・。

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ルーパ・バジワ Rupa Bajwa
アムリトサル在住の英語作家、
シーク教徒の家族に生まれ、一児の母、とのこと
処女小説『サリーショップ』(2004)は、サーヒティヤ・アカデミー賞ほか
多くの賞をさらう
『お話を聞かせて』(2013)は、当地でかなりの物議を醸し出した
記事を読んでもらえば分かるように、この小説が
デリーの作家、編集者、知識人たちの
俗物性を辛辣に描いているからだろう

   インド版“エル”の書評子は、この小説の主人公ラニを「小さな街の英雄(女)」と呼んでいる。彼女は、気分がいいとヒンドゥー歌謡を口ずさみ、ダシャラー祭のページェントに興奮するごく普通の、庶民的なインド人の娘として描かれている。しかし他方で、彼女は、兄嫁や作家のもう一人の召使に対して、その愚鈍・無知蒙昧を激しく憎悪する。そのスタイルは、きわめて知的で鋭く颯爽としている。さらに彼女は、女流作家の贅沢で知的な生活をも容赦なく批判する。ラニは、批判と否定に燃え上がる小さな英雄(女)なのだ。彼女の現生否定が、物語作りと結びついている時は気が和む(生存が他者を踏み台にしてあることの寓意のような物語)。庶民の無知蒙昧や作家や編集者の欺瞞を批判するところまでは、実は危険はない。この小説が厳しい問いを突き付けてくるのは、彼女の行動が取り返しのつかない破局を用意してしまうことなのだ。ルーパ・バジワは、インテリ臭くない、物語作成能力にたけた理想のヒロインを作り上げ、そこに生存の希望を託したように見える。しかし、彼女の毅然とした知性と行動が、力のない心優しい男をさらに追い詰め、将来ある人生をも(力ない男の息子)決定的な危機に晒す。ルーパ・バジワは、自分が理想とする娘を最後に奈落に突き落とす。・・・この小説を読み終えて本を閉じようとするとき、ルーパ・バジワの自死・突然の訃報が飛び込んでこないとも限らない、という考えが頭をよぎった。・・・しかし、それは違う。この小説を読んで深刻ぶった感傷に浸っている読者を、ルーパ・バジワは実は笑っているかも知れない。つまり闘うことをやめた人間は死んでゆく。それは心地よさそうである。しかし、ラニは、闘う者であり、すごく心地よくない。心地よい死ではなく、闘うものの痛みをルーパ・バジワはぶちあげているのだ。いずれにしても、この小説『お話を聞かせて』は、前作『サリーショップ』と同様に、その終局は問題含みなのである。

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Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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