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67.ルーパ・バジワ『サリー・ショップ』Rupa Bajwa, The Sari Shop, first published 2004 by Viking.

rp6.jpgシーク教徒の都アムリトサルを舞台にする
『サリー・ショップ』という小説は
はじめは さまざまな人々が買い物を楽しみ
それぞれの人生を生きる店員たちとの
平和に賑わう インドの街のどこかに
ありそうな「サリー・ショップ」の物語に思われる
しかし そこに狂気と呪詛と暴力による事件が
持ち上がってくるのだ
物語は 合理化・効率化に向かう工場と
どこかローカルな暖かみのあるサリー店との
対照において展開していく
そして なによりも この小説を読み
しばらく立ちどまり 考えさせられるのは
安物のガラスのビーズのネックレスを
美しいと思う 心貧しい者
あるいはむしろ 心豊かな者の口から発せられる
呪詛 その呪詛の強度と破壊力にある
のではないだろうか



   アムリトサルというと、“聖者たちの食卓”Himself He cooks (2011)というドキュメンタリー映画が最近日本でも公開され、かの地では、まことに盛大な共食のイベントがシーク教徒の手で連綿と行われていたことを知ることができた。数千人をも超す人々に食事を供するための大鍋にも感激したが、イベントを支えるための人々の協業の姿が美しく(まさしく大いなるものを支える個の働きが横溢している)、食器を洗う金属的な騒音とともに何ともいえない調和の感覚を味あわせてくれる映画だった。ところで、アムリトサルというと、1984年の事件・騒擾を忘れることができない。ブルー・スター作戦と命名されたインド国軍によるシーク原理主義者の(一般市民も巻き込んでいるはずだ)掃討(虐殺?)は、世界を震撼させた。V. S. ナイポールは、この出来事についてシーク原理主義の武装せる指導者ビンドランワーレに焦点をあて、その生の痕跡を追い―「卑しい村の出身の一介の教戒師」がインドでもっとも進取の気性にとむシーク教徒の大集団を振り回し、はかり知れない犠牲を強いた―彼の凌辱された死を書いている(『インド・新しい顔』岩波書店、原著1990年刊)。ナイポールの文章は僕の魂を激しくゆさぶった。
   この『サリー・ショップ』という小説は、僕はまだ訪ねてみたことはないけれども、そのようなアムリトサルというシーク教徒の聖地を舞台にしている。

   “サバク・サリー・ハウス”という店は、アムリトサル旧市街の一番大きなバザールにある。一階と二階の踊り場には、たしかガネーシャの神像(商売繁盛の神様でもある)が置かれていた。店では、男もののシャツなども扱っているが、男もの専門店“レイモンド・ショウルーム”が二通りむこうにあって、大概の人はそちらで男物の衣類を買う。この店のおもな商品は女性用のサリーだ。サリーばかりでなくサルワール・カミーズやいろいろな呼び方の女性用衣類を商っている。店には六人の従業員が働いている。小説の主人公ラムチャンドは、その店のサリー売り場を担当しているのだけれども、彼は今朝も寝坊し店に遅れて来て、マハンジャンにどやしつけられた。マハンジャンは、十五歳のときからこの店で働いている叩き上げの店長で、いつもわめき散らしている。店のオーナーは、ごくたまにしか店に姿をあらわさない。若いハリーは、ちょっとサモサを買いに出ては、しばらく店に帰ってこないような屈託のない青年だ。その他にも働き者のゴクールやベテランのシャームとラジェシュ、苦情受付係りで物まねのうまいスバッシュ、それにのっぽのチャンダールがいる。 “サバク・サリー・ハウス”とはそのような、インドの都市のどこかにいかにもありそうなサリー・ショップなのだ。
   “サバク・サリー・ハウス”は由緒ある店なのだろう、多くの有名人士が買い物に訪れる。裕福な工場主の妻やら、地元カレッジの英語学科長やら、警察幹部の夫人やら、もと美人コンテストで名をはせた慈善家等々が店にやってくるのだ。彼女らのプライド・スノッビズム・妬み嫉みにうまく付き合うことは、なかなかしんどい仕事のように思えてくる。しかし、ラムチャンドは考える、サリーを買うことは、単なる買い物ではなく、美的なセンスを磨き、楽しく心躍る経験なのだと理解している。
   店が引けると、近くの食堂で食事をし、夜遅くまでチャイを飲みながら仲間とお喋りを楽しむ。ちょうど日本のサリーマンが居酒屋で酒を飲みながら仕事の鬱憤をはらすように、彼らはチャイを何杯も御代わりしながら、客を品定めし、店長の物まねを楽しみ、街の噂、処世訓を話すのだ。日曜日には、ハリーがどこからかマサラ・フィルムのただ券をせしめてきてラムチャンドを誘う。映画の話になれば、二人は盛り上がる。ラムチャンドは十年以上も“サバク・サリー・ハウス”で働いているが、身寄りのない一人者で下宿暮らしをしている。

   ・・・とここまでは、インドにおけるサリーを商う老舗とはこのような働き場所なのかというごく普通の、退屈だが忙しい、苦悩といよりは小さな不満をかかえ、同時にささやかな楽しみももつ、つまりどこにでもありそうな仕事場の話に思える。しかし、その平穏な店の風景のなかに少しずつ心にひっかかる異常音が聞こえてくるのだ。なぜラムチャンドには身よりがいないのか、あるいは店員が集う食堂のメニューにはなぜパコア・マサラがないのか、というように。

   この小説の主役ラムチャンドは最近仕事帰りに、露店の古本屋に立ち寄り英語の本を求め勉強を始めた。最初、それは『手紙の書きかた』というような本で、「皆でドライブにでかけよう」といった誘いの手紙例文なのだが、ラムチャンドは、それを読むのに丸一日を費やしてしまう。英語の辞書を買い、エッセイ集、偉人の名言集、子供の科学のような本を苦労しながら読んでゆくと、少しずつ世界が変わって見えてくる、とラムチャンドは思うのだ。街の店の看板の意味が了解できるようになった、と。・・・彼は、何のために勉強を始めたのだろうか。ハリドワールへの巡礼行の途上、バスの事故で死亡した父親は、しっかり勉強して私のようなしがない小店主に終わるな、とラムチャンドに諭すのだった。サリーを届けに行った先の実業家の娘が話す英語は、ラムチャンドには良くわからないが、「パラダイム」というような言葉がラムチャンドの耳に残る。
   ラムチャンドの英語の独学はつましく、切ない。それだけに純で輝いて見える。チャンダールの妻カムラのガラスのビーズ玉のネックレスが、安物であるがゆえにそれをきれいだと思う彼女の心が一層美しく見えるのと同じだ。この小説は、貧困という現実を決して美しく語ろうとはしていないけれども、飽食する者ではなく、貧しく生きる者たちでなければ手にし得ない切ない美の輝きを手放そうとはしない。

   事件の始まりは、チャンダールが店を無断で休んだことから始まる。ラムチャンドが店長の命令で様子を見にゆくことになる。ラムチャドは、強い日差しのなか、大汗をかきながら、自分が住んでいるところよりもさらに劣悪な環境のスラム街にチャンダールを訪ねてゆく。寺院の読誦が不気味な物語への導入を準備しているようだ。
   他方で、ラムチャンドは、金持ちの屋敷にも使いにやらされる。結婚の準備に忙しい母親の前に彼はサリーを広げるが、結婚をひかえた娘は、ボンベイのデザイナーズ・ブランドのサリーの方がいい、というような不満を述べる。彼女は、実はサリー・ショップを舞台にした小説を書き、デリーで出版されるのだ。つまり、この小説の著者の立つ場所が、より何に近いかを示している。

   ラムチャンド、あるいは「サリー・ショップ」において持てる者と持たざる者との間に円環ができあがる。その円環における両極をスパークさせるのは、狂気と呪詛と暴力なのだ。半ば発狂したカムラの呪詛は、この小説における注目すべき表現である。そして、ラムチャンドは、その狂気と呪詛と暴力と無縁ではいられなくなる。

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ルーパ・バジワ Rupa Bajwa
アムリトサル在住の英語作家、シーク教徒の家族に生まれた、とのこと
『サリー・ショップ』は、彼女の処女小説で、サーヒティヤ・アカデミー賞
(India’s Sahitya Akademi Award)を2006年に受けている
『サリー・ショップ』はフランス語、オランダ語、セルビア語に訳された
2012年に出版されたTell Me a Storyは、
当地でかなりの物議を醸し出した問題作のようだ

   サリー・ショップは、さまざまな人々が行きかう場所だ。有名人士ばかりでなく殆ど買い物はしない女学生やら、あるいは店員たちもそれぞれの生活・人生を生きている。そう考えてゆくと、この小説における持たざる者達とは、せんじ詰めれば、合理化で首になった工場労働者達なのだ、ということが明瞭になってくる。ノッポの店員チャンダールがそうであり、彼の妻カムラの実家の父と兄も工場の仕事を失職し、生活と家族と生命を破壊されたのだ。自動機械の導入、そしてそれによる余剰人員の首切りは、この小説においては極めてすみやかに実行される。他方、ボンベイのデザイナーズ・ブランドのサリーに較べてあか抜けないと言われてしまう“サバク・サリー・ハウス”ではあるが、店長はいつも従業員に怒鳴りちらしているけれども、実は温かい。無断欠勤したチャンダールを一方的に見捨てるようなことはしない。ラムチャンドに、首に縄をつけてでもひっぱってこい、と言うのだ。たたきあげの店長は、うるさく従業員を怒鳴りちらすが、従業員たちの生活の現実、かれらの感情、夢と怠惰を身体的な記憶として理解しているばかりでなく、従業員がどうにか生活していけるよう、道を踏み外さないよう引っぱってゆくのだ。

   この小説は、近代的な生産様式と合理的な判断を呪い、バザールの、人々が集い、人々の体温を感じさせる賑わいを慈(いつく)しむ。それは、時代に取り残されてゆくものへのノスタルジーというよりは、狂気を引き起こし、呪詛の言葉へと昇華してゆくほどに激しい。本当に美しいものは、飽食する者ではなく、素朴な貧しい心の中に宿るのだ、と言う。グロウバライゼイションという競争に打ち勝つためだけの合理化・効率ではなく、人生を豊かに過ごするための温もりのある緩やかなシステムを求めたい、というメッセージがこの小説から聞こえてくる。この小説を読み終え、本のページを閉じようとするとき、これは、一種のアナキズムというユートピア小説ではないかと、僕は考え始める。小説を読んで僕は久しぶりに泣けてしまった。

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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