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64.ジャック・ル・ゴフ 『聖王ルイ』(岡崎敦、森本英夫、堀田サト弘訳、新評論社刊、原著1996年刊)、

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難破を予想していた
ジャック・ル・ゴフの『聖王ルイ』への私の冒険は
いつしか楽しい 充実した
心にさざ波がたつような
週末の読書となった 
ページの余白に書き込んだ
幸福な夢想のいくらかを
散乱する破片のまま
見渡すほど遠い中世の違和のかなたへ
いささか大袈裟な言葉で
無知と誤読の怖れをパロディ化し
投げいれてみよう
これは 私の向学心という
純粋で初歩的な覚書である


歴史(学)の急進派のためではなく国民のための書

   『聖王ルイ』という書物は、本質的にフランス国民の書である、と私は思う。普遍性を追求する歴史(学)の放棄である、というよりは、歴史(学)がもともと、国民のものである―一国の民が読み、楽しみ、勇気づけられ、内省し、学習する―という思いがこの本から伝わってくる。

   『聖王ルイ』が、国民の書、なによりもフランス国民の書であるのは、この本で論じられている聖ルイについての各項目に明瞭に見てとれる。例えば、美食を遠ざける王については、フランス国民の美食への愛着と反発を、また、王のセックスの制限については(教会が取り決めていた「抱擁の時」を王は守ろうとした)フランス国民の性への欲望と禁欲への憧れをよく表している、ように思えるのだ。

   『聖王ルイ』は、国民の書であって、歴史(学)における急進派の書物ではない。急進派とは、「実証手続きによって復元される客観的現実など存在しない」というような歴史(学)の叙述に関する主張を行う者達をさす。しかし、ジャック・ル・ゴフの場合、聖ルイの生きた時代においては、ルイ九世など存在しなかった、というような巧妙なパロディになる。なぜなら、中世はあだ名で王を呼んだ時代であるからだ、と言う。このパロディは前衛的でなく、まったくもって国民的である。・・・あるいはまた、王の存在は、王の時間に立脚する、といささか哲学的に考えるとき、王は、複数の時間を生きた、とル・ゴフは語りだす。それらのうちでもっとも重要なのは、聖ルイの生命の時間が何か重みのあるものに捧げなければならない、と考えていたことだろう。捉えどころのない、あえて言えば「殉教者になりそこなったキリストに倣う王」なのである。ひどく曖昧な時間と存在が漂いはじめ、これもまた、フランス国民のうちで、思弁を楽しむ者への恰好の贈りものではないだろうか。

聖ルイの豊かな時代を私たちはどう受け止めることができるのか

   聖ルイが生きた時代が(1214~1270)、私を何よりも驚かすのは、豊かな時代だった、ということなのである。王の国庫は蓄えが充分で、人々は少なくとも飢えていなかった。そういう豊かな時代がフランスの中世においてあった、のだ。飢饉も大規模な疫病の流行もインフレもない、戦争が終結してゆく(英国との戦争を終え、南部諸侯の反乱を鎮圧する) 時代だった。人々に生の極限状況を強いるような恐るべき貧困は、この本のどこにもない。のちの歴史家さえも「聖ルイ王のよき時代」と呼ぶ。時代の雰囲気は、「死をおもえ」(メメント・モリ)から「生をおもえ」(メメント・ヴィヴェーレ)に確実に変化しつつあった。

   この豊かさを導いたのは誰なのだろう。農業における生産性の飛躍があったのだろう、という予測は容易だ。しかし、この本は農業の生産性についてほとんど言及しない。私たちの安易な仮構を、ジャック・ル・ゴフは巧みに拒む。ル・ゴフは、言葉少なに、聖ルイを支えていたのは農民である、と言う。農業の革新と言わずに、農民が聖ルイの豊かさを支えていた、という言い方に私は深く魅了される。さらに、ル・ゴフの注釈「それらの農民が聖ルイをどう思い描いたか分からない」という言葉を聞くと、歴史(学)とは、なによりもまず「時との戦い」なのだとあらためて感じいってしまうのだ。「時との戦い」とは、私たちの現代への思いを中世という時代に接ぎ木しない、まさに中世という時代の異形な姿をなるべくそのままに、私たちの眼の前に現出させる努力なのである。現代に生きる私たちの思考の枠組みに遠ざかりつつ、少しく中世(史)を旅しようとする試みなのだ。

   聖ルイのなかには、農業の生産性の革新により国を富まそうという発想はあり得なかった、とル・ゴフは言う。王の経済における闘いは、純なる貨幣のための闘いであり(良貨を作ること)、正しい徴税であり、高利貸しへの禁制なのだ。


人間性の登場  

   この本は、人間性という問題について、つまりフランス国民は人間性についてどう考えてゆくべきなのかについて、歴史の教訓を開陳している。
   驚くべき報告がある。この大著におけるたった二ページに満たない記述が(921~922頁)、私を捉えて離さない。そのページの一行一行が、私に歴史のかなたへの旅を促す。要点を絞れば、聖ルイの妹イザベルは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世の息子との縁談を、イザベルの意志によって拒絶する。イザベルは、キリストへの祈りの毎日を選択する。また、兄聖ルイは、その結婚をイザベルに無理強いしなかった。個の意志への尊重は、神への、あるいは超越的なるものへの理念との関係において是認されなければならない、とでも言うかのように。王国の利害、王の思惑は、信仰者の祈りの前で、差し控えなければならないのだ。フランスにおける、あるいはヨーロッパにおける人道主義の淵源を、垣間見る思いがする。ヒューマニズムとは、神、すなわち地上の人どもを超越するものとの関係において、犯すことのできない約束であり、それを王は表徴行為によって示してきた。王が、人道主義の長い形成の時間のなかで、核心となる働きを演じてきたのだ。 

   誤解をおそれずに言えば、今私は、西欧におけるヒューマニズムは、キリスト教(その実体は、王権と教会)に起源をもつ、と言わなければならない。ある人にとっては自明のことがらを、たったこれだけのことのために、私は、随分寄り道をしてきた気がする。

   (しかし、この二ページにおいて、真に考察されなければならないのは、ヒューマニズとともに王権というもののあり様を、また別の仕方で示しているよう思われる点だ。つまり、イザベルは、フリードリヒ二世の息子との結婚を望まなかったが修道院にはいるのではなく((修道女として誓願を行わなかった))、俗人のまま修道女のような生活を終生送ったのだ。それは、聖ルイの生き方に非常に近い、あるいは聖ルイの行おうとしたことをイザベルも共有していたのだ。聖ルイは、神の国を願いつつ、現実政治に取り組み、死んだ後聖人となる)。


十字軍

   聖ルイの十字軍は、終わりから始まる。それは、十字軍の歴史が、聖ルイの十字軍をもって13世紀後半に終了する、ということだけを意味するのではない。聖ルイが感じていたノスタルジーによって、つまり「あとのこと(家族・領民・領土)」を心配しながら遠征にでた嘗ての十字軍参加者の心情を聖ルイは追体験しようとしているからだ。また、聖ルイの遠征についてまわる後ろ向き(終末に向かうような)雰囲気、そこには祖父フィリップ・オーギュストの早すぎるオリエントからの撤退に対する贖罪の意識があった。いずれにしても、聖ルイは、オリエントにキリストを、美化された死を探しにゆく。

   きわめて豊かな時代における後ろ向きの王について、ジャック・ル・ゴフは語っている。ここで、私は現代世界における指導者の姿を(あるいは哲人の姿を)聖ルイに投影してみたくなる。しかし、投影ではなく対話を、時との戦いを、この書物は読書に要求してくる。

   戦争は、ひとつの交通形態であると言ったのは、マルクスか。というよりは、戦争には交通を拓く、という側面が確かにある、と私は考えてきた。そして、交通の拡大は、人々の、文物の交流を作ってゆく。戦争は、それらの出来事の倫理的裁断とは別に、新たな交通の創出によって、異質な世界の交流と歴史の進展を加速させる、・・・というように私は考えてきた。
しかし、ル・ゴフの十字軍についての叙述は、交通形態としての戦争(観)にほとんど顧慮しない、というよりはこの戦争は何も伝えない、と断言する。十字軍がヨーロッパに持ち帰ったものは、あんずのみであった、と。戦士は、敵の文化を理解する必要はない。むしろ敵視すべきなのだ。軍隊とは、自らの文化の延長線上にしか移動できない(・・・軍隊が、あるいは兵士が、戦争という異文化の現場で、異文化にたいして何を感じ、何を故国に持ち帰るのか私は注視しつづけなければならない、と思う)。

   聖ルイのオリエント理解は僅かなものだった。聖ルイの知識はキリスト教に関係する場所や建造物に限られていた。聖ルイの戦争目的は、オリエントにキリストを、美化された死を探しにゆくためなのだから、『聖書』にある知識で充分だった。聖ルイが十字軍に求めたのは、一種精神的な事業の完成であって、王国の拡大でも、経済的な利得でもなかったのだ。

   聖ルイの十字軍を考えると、観念的な、信じることとのほうが―聖ルイは、オリエントにキリストを、美化された死を探しにゆく―より重要な役割をはたすものと理解すべきように思われてくる。戦争は、経済的な利得と強く結び付き展開する、という私の考え方に再考を迫ってくる。中世という時代において人々を大きく動かすものは、経済ではなく、人々の信じる作用・力なのか、と私は何度も考えてみなければならないのだ(戦争から経済的合理主義を差し引くと、やはり残るものは熱狂あるいは狂気か)。

   そもそも十字軍の狙いは何だったのか。この本では、教皇庁がキリスト教同志の戦争を終わらせるために、オリエントにおける聖地奪還というフィクションを作りだしたものだと言う。そして、十字軍を終わらせたのも、軍事費という途方もない浪費に対する教皇庁の貪欲だった、と言う。教皇庁の合理的な発想・計算と、聖ルイのノスタルジーの濃い動機とが鮮やかな対照を描く。もっと言えば、教皇庁は、きわめて実際的であり、豊かな時代の王、聖ルイは、ひどく観念的なものの影を追う。豊かで幸福感のつよい時代のなかで、聖ルイはひどく暗い歌を歌っていた。

   この本を読んでいて私にとり今ひとつ分明でない点、それは十字軍の経済のことだ。軍資金のおもな出どころは、人頭税、国庫、聖職者である、とこの本はごく簡単にしか触れない。あるいは、聖ルイの十字軍は、祖父フィリップ・オーギュストの潤沢なる貯えを使いはたした、と言うだけなのだ。十字軍の経済についての詳細な検討、あるいは大胆な推論は、この本にはない。・・・逆に、聖ルイにとっての、あるいは十字軍にとっての地中海・海についての論述は豊かで奥深い。中世人の夢と恐れが迫ってくる。聖ルイにとっての海から『聖書』の隠喩をひとまず脇におくと、何とも形容しがたい恐怖の闇が浮かんでくる。

   全体史という極めて不分明な考え方が歴史(学)の領域で徘徊しだしている。ただ、この本における全体史への志向は、明晰である。当然のこととして全体史は、その時代のすべてを追うということではない。その時代を豊かに思い描かせると私たちに思われる符牒のひとつひとつの発見の営みのように思えてくる。現象学的な注視により、私の迷妄は、明らかなものへの道筋を示しうる。・・・ル・ゴフの十字軍についての叙述を興味深く辿りながらも、聖ルイを迎え撃ったサラセンの側の記述がほとんどないことに、当初私は戸惑った。現代の歴史(学)ならば、相当なまでに、サラセン側の事情を収集し整理できているだろう。しかし、ル・ゴフは、聖ルイの側からしか、十字軍について語らない。聖ルイの時代の、時間と空間の広がりが重要なのであって、なによりも聖ルイとその時と場所を生きていた多くの人々にとって、攻められるサラセン側のことは「ゴクとマゴクの民」(182頁)以上のものではないのだ、というところに帰ってゆく。

   この本における歴史とは、ある時間と場所に制約された叙述なのであって、その時間と場所には境界があり、それは容易に超えられない。容易に超えてはならない境界をより際立たせることが歴史(学)の使命なのである、と私は思う。
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王の捕囚

   1250年4月、王はエジプトでサラセン軍の捕虜となる。
   一か月の虜囚の経験ののち、聖ルイが大きく変わっていくことにル・ゴフは着目する。大きな悲嘆、ウツ状態を経て、聖ルイは贖罪行為に激しく傾いていくのだ。
   聖ルイの贖罪行為とは、王侯的な奢侈の意図的な放棄(料理をわざと不味くして食する習慣)、自らの肉体を苛むこと(ひと目を避けて告白し鞭打った)、倹約と施しへの執着(レプラとともに食事をし、病者の足を洗う王)というようなことだ。

   聖ルイは、虜囚の屈辱について一日たりとも忘れさることができなかった、に違いない。だから、王はいつも祈っていた。王は、悲しむのではなく苦しみに耐えていた。イエス・キリストは、苦悩が天国における喜びへの道であると諭し、苦しみの昇華に勤めるよう王に命じた。

   贖罪とは、誰にたいする行為なのか。聖ルイは生涯最大の不幸の償いをイエス・キリストとの関係によって修復しうる、と感じていた。聖ルイが攻撃し、またその手に捕えられたエジプトのサラセン勢力との関係ではなく、イエス・キリストとの関係において一生の恥辱を聖ルイは堪え得る、と。

   聖ルイにおける決定的な失敗は、大いなる者のしるしであるとともに人間的な者の印象を私たちに与える。虜囚について王は隠さなかった。遠くて近い存在としての王の姿が現れてくるのだ。王の失敗は、人間的な印象を私に齎し、生涯の屈辱を隠さない王は、偉大さ、王の存在の大きさを私に示す。

ユダヤ人

   ジャック・ル・ゴフのこの本におけるユダヤ人の扱いは曖昧に見える。聖ルイの、ユダヤ人への抑圧を、現代的な倫理観で(アウシュビッツ以降のヨーロッパ知識人の責務として)、例外的に裁断している。つまり聖ルイのユダヤ人政策は、行き過ぎであった、と。中世の、聖ルイの時間と空間におけるユダヤ人たちではなく、その内的な論理性、考えかたからではなく、ホロコーストとアウシュビッツに到る人類の闇にたいする総括を踏まえ、聖ルイのユダヤ人政策を批判するのだ。ル・ゴフの中世史へのアプローチの仕方からすると、これは矛盾だ。ル・ゴフは、聖ルイがいかにユダヤ人を恐れ、嫌っていたかをできるかぎり当時の資料と言葉と考え方で再現しなければならなかったはずだ。しかし、ル・ゴフは、聖ルイは、より過激な反ユダヤ主義の勢力に後押しされていた、というような弁護をふともらす、のみなのである。

   このユダヤ人問題に対するル・ゴフの言述は、彼の歴史(学)の方法論的観点からするとひどく曖昧である。しかし、ル・ゴフが勇気をもって責任ある立場を表明している、ことは明らかだ。ル・ゴフは科学的で客観的な真理という一種の責任回避に逃げ込まないところが私には新鮮だ。あるいは、本書が歴史(学)の記述であることの本質的な境界(歴史学とイデオロギーとの)についてより明確であろうとしていることが、新しい。

王の機能あるいは王のふるまい

   一国の王であることの意味を考えながら本書を読み進んでゆくとき、民衆を支配し、収奪し、自分の欲望充足のために好きに振舞うような王の姿はどこにも見られない。この本は、むしろ人々の前に姿をあらわし、語り、涙を流し、表徴を操作する王について、細部を省略せずに伝えている。さらに、王権のモデルを提供した『旧約聖書』について論述し、また、インド・ヨーロッパ語族の社会における三つの職分・機能(周知のようにジョルジュ・デュメジルの提唱に由来する)についての聖ルイにおける妥当性を検討する。
   しかし、僕をもっとも深く考え込ませるのはフランシスコ会士が伝える次のような挿話だ。
サレットという女(性)が王宮の階段の下で王を侮辱した。「お前は、小さな兄弟の会士、説教修道士会の修道士、司祭や聖職者たちの王にすぎない」と(1041頁)。
   彼女の侮辱に対して聖ルイがとった行動は、真実驚くべきものなのだ。王は、彼女の考えは正しく、自分は王にはふさわしくない、他の者ならもっとうまく王国を統治するであろうと述べ、さらに彼女に金銭を与えた(ならば王は変わればいい、と言うべきではない、王にふさわしくない者がもっとも王にふさわしい、といいう逆説について考えなければならない、この問いについての素晴らしい回答が1042頁の中ほどにある)。
聖ルイは、王自身に対する侮辱にかんして寛容であった。しかし「彼は神を冒涜する者を情け容赦なく罰した」(813頁)のだ。
   聖ルイは優しいばかりの王ではない。王は、自身への侮辱には寛容であったが、同時に厳格でもあり残酷ですらあった。神を冒涜した者を晒し刑にし、ある場合には鼻と唇を焼かせた。
王国の秩序と運行は、王としての自分を最高の権威として、そこを基準に判断されるのではなく、神=イエス・キリストを基準に考えられなければならない、と聖ルイはふるまった。聖ルイは、いつも正義を味方につけて立ち回ろうとした。正しくあろうとするところが王の巧妙なところだとヴォルテールは見做した。一国を率いる王の立場は、神という超越的な存在なしには機能しない。・・・ところで、神が死に、世俗化する現代世界で、金や利潤が組織運行の最上位理念になりうるのだろうか。神に変わる普遍的な倫理をもちうるのだろうか。

王の信心とキリスト教国家

  この本を、自分たちの感覚とはかなり違う中世という世界への一種の旅として読み始めたとき、しらずしらずのうちに、中世のパノラマ世界が、王の信心とかれのキリスト教国家の完成というテーマに収斂してゆくのを、私はあらためて気付く(中世が、キリスト教およびキリスト教教会とのきわめて強い絆によって成り立つ社会であることは、いわば自明の事柄に属するとしても、それを公式としてではなく一種の迫力のある疑似体験として感じ受け止められるところが本書の醍醐味である。公式を理解するふうにではなく、その時を生きるような感覚で、中世とキリスト教が私のなかに入ってくる)。

   ソルボンヌ大学の共同創設者でありながら、聖ルイは、知識人を遠ざけていたようだ。彼が惹かれたのは、当時、新しい潮流である貧者の友、托鉢修道士会士なのだ。知を貯え、操る者に警戒を示し、清貧と奉仕のほうに親近感を示した。しかし、聖ルイは修道会士となったわけではない。彼が、世俗の王であり、かつ貧者の友であろうとしたところが重要なのだ、と私は思う。妹イザベルが、修道女の誓願を行わなかったように。そしてその両義性が、封建制時代の終わりを予告したのだ、とル・ゴフは書く。

   聖ルイにとってのもっとも大きな敵は異端だった。彼は、カタリ派に対する勝利者であるアンリ八世の息子である。しかし、ときに異端と正統との区分は明確でなく、この王自身もまた王らしからぬ王なのだ、とル・ゴフは書く。聖ルイは「サンスへと至る道を埃の舞うなか裸足でやって来る(・・・)鳩の眼をした、背は高いが痩せた美男子であった」とある修道士が報告しているのだ(1129頁)。 世俗の王であり、かつ修道士のような王、という矛盾を生きるところが、魅力なのだ。
   王が「偉大なる人物」(ル・ゴフはためらうことなく聖ルイをそう呼ぶ)であるのは、彼が生きる矛盾のサイズとその数の多さにある、ように見える。闘う王であり(聖ルイの生きた細部を伝えたジョワンビルは、エジプトでサラセン軍に突進してゆく王を軽率にすぎると、たしなめる筆致で綴った)、かつ平和を求め(これについては、王を弱腰すぎる、という批判があった)、そしてまた狩猟を行わないまれな王なのだ(ワインの酔いを忌避したように狩猟の興奮を王は嫌ったのか、あるいは神の掟に背いたわけでもない創造物の生命をたつことを嫌ったのか、これについても私はさまざまに考えてみたい)。

ル・ゴフが首肯できない聖ルイの姿

   この本を書くためにル・ゴフは15年間、聖ルイとともに多くの時をすごした。時間の経過とともに、研究の発展・深化とともに、ル・ゴフは、聖ルイに称賛とともに友のような親近感をもつようになった。歴史家としては危険な領域に足を踏み入れたのかも知れない。それは、旅や冒険にも似た未知なる輝きとの出会い、その興奮と隠された危険を告げている。ところで、聖ルイとル・ゴフの友情は、ある種歴史家の、あるいはテクストを読むものの、さらには図像を読み解く者の羨むような関係であるけれども、どうもル・ゴフが好きになれない聖ルイの姿もまたあきらかになってくるようなのだ。明言はしていなけれども、聖ルイの説教好き、自らの肉体を鞭打つ苦行、あるいは庶民の楽しみへの無理解(居酒屋、淫売宿など)、ユダヤ人、同性愛者への不寛容、などをル・ゴフは嫌っているようだ。

   聖ルイの説教好きには、笑いばなしがある。王を誘惑しようとした女(性)に、何と聖ルイは説教するのだ(どういう勢力が、何のために、この手の報告を残したのか、という吟味はここでは触れない)。しかし、私としては、王に説教はしてもらいたくなかった気がする。『聖書』におけるイエス・キリストならば、素敵な一言、あるいは意味深長な沈黙で誘惑を躱した、と思う。

   また、淫売窟への出入りの禁止についても、ル・ゴフはユーモラスに聞こえる報告を行っている。つまり、聖ルイが、全面的な売春の禁止を考えたとき、彼の補佐役の修道士たちは、「肉は弱いものであり、原罪は人間がたびたび罪を犯すのを不可避としている」と聖ルイに説き、聖ルイの行き過ぎに反対した。修道士たちは、このような世間知をどこから手にしたのだろう、と私は考えはじめるが、いずれにしても聖ルイは、修道士の説くところを理解し王は修道士の助言に従った。

   ル・ゴフは、中世の王に、現代人には到底なしえない大きさ、強度、ひたむきさを感じ、同時に、現代人には受け入れられない、癖、考え方、振る舞いを発見してゆく。抽象化していえば、きわめて単純で平凡なことだ。しかし、この本は、それらを歴史という肉体をとおして明らかにする。歴史という肉体化された形而上学を、私は一種の喜びをもって夢想する。

いくつもの難しい問題群

  この本は、中世のパノラマ世界を現出させる(サンドニとパリ、王の建築、文書の増大と官僚制の始まり、あるいは個人が書かれた法律とともに姿を現してくる)とともに、非常に難解なテーマをつぎつぎに繰り出してくる。それらの難物のなかでもとりわけ難しく思えるのは、「王の聖別」と「王の聖人化」だ。

   王の最良のモデルは『旧約聖書』におけるダビデであり、それはいくらかシャルマーニュにも似ている。王は、塗油という儀礼をとおして聖別される。この儀礼もまた『旧約聖書』に着想を得ている。そして、人を塗油儀礼によって聖別し、王とするのは教会なのだ。とても不思議な話に思える。人を王とするのは、何なのかという問題と(どういう責任と義務が発生するのか)、またそれがどうして儀礼によって可能になるのか、と思うのだ。王は、人民の搾取のうえに成り立っている、とだけは考えられない。王の、収奪は神への捧げもののようにも見える。すなわち宇宙の運行への仲介を象徴的に演じる姿が浮かびあがってくる。

   まず、ル・ゴフは、奇跡のない聖人などあり得ないと言う。ルイ王の奇跡は、彼の死後起きる。当時、奇跡は墓に集中した。
   王は、チュニジアへ向かう途上、病死した。遺体は葡萄酒で煮て、内臓はオーストリアの城の礼拝堂に、骨は分散してゆく。
   聖遺物が奇跡をおこす。とりわけ病を(たとえば瘰癧を)癒す奇跡と結びついてゆく。
当時の奇跡観念とは、病の消滅よりも人間の尊厳にかかわるものに違いない、とル・ゴフは注釈する。
   このように聖ルイの奇跡ありようを辿ってゆくと、奇跡というものがすこし私にも理解可能になってくる。奇跡とは、ある点の現象をさすのではなく、ある民衆的な心理の壮大な過程であり、それらをまとめて再現前する「しるし」よりなりたっていたのだろう。

ジョワンビル

   ル・ゴフにこの本を書かしめたひとつの理由は、ジョワンビルの残した聖ルイについての文書が存在したからなのだ。ジョワンビルは、聖ルイの近くでともに生き、聖ルイが死んでから大分たって聖ルイについて綴りだす。ル・ゴフは、ジョワンビルの書き残したものを通じて、王の涙や語り、姿と身振り、あるいは性格と行動を紋切型の表現ではなく細部をもった具体的な語りとして受け止め、味わうことができた。ジョワンビルは歴史家ではないけれども、ル・ゴフはジョワンビルに歴史家の一種の理想を、すなわち後世において真に読まれるべきものは、ジョワンビルが書き残したようなものなのだ、と。その他はすべて解釈であり、その時代のイデオロギーの表現なのだ。資料の様々な検証と解釈こそが歴史家の基本的な任務だとしても、あるいは過去の偉大なテクストを蘇生させるのは歴史家にしかできないとして、歴史家の一次記録者への羨望と嘆息が少し聞こえてくるような気がする。そして、その嘆きのなかには、歴史(学)に真に求められているものは何なのかという問いかけがあるはずだ。

二つの設問

   この本において一度ならず問われる二つの設問がある。これらの主題について私は立ち止まり、何度も考えてみなければならない。

   a. クーシー領主アンゲランに対する王の処分
   これは、領内の森に迷いこんだ三人の貴族の若者を領主アンゲランが裁判にかけず吊るし首にしてしまったことに対して、王がきわめて重い罰をアンゲランに課した事件についての考察である

   b. 王のジョワンビルへの問いかけ 
   ふたつ目は、王がジョワンビルに対して投げた質問、つまり「レプラを患うか、魂の死さえもたらす大罪を犯すかとすれば、どちらを選ぶか」と、およびそれに対するジョワンビルの回答、そして翌日の王の言葉についての考察である。

   王の問いかけに対するジョワンビルの回答は、「私は、レプラを患うより三〇回罪を犯す方を選びます」ということだった。王は、その場では何も言わず翌日、「そなたは、せっかちな軽率者のように、愚か者のように話した」と言い、大罪よりも醜いレプラ患者などいないし、大罪を犯す魂は悪魔なのだ、と忠言する。

   今私は、二つ目の主題、後者について、考えなければならない、と思う。なぜなら、中世という時代における恐怖と救済の問題が集中的に表現されている、と思うからだ。中世に生きた人々は、ある種絶対的な恐怖の現実を生き延びるために、魂の救済の方法を模索していた。

   まず驚くべきは、ジョワンビルの率直な物言いである。ジョワンビルは、レプラに関する当時の人々の即物的ともいう恐怖の観念を語っている。それに対して、聖ルイは、大罪はレプラよりも恐ろしいという教えを説く。魂の死さえももたらす大罪についての恐怖は、彼の母親、カステイィリア人のブランシュからうけついだ信仰に立脚する、とル・ゴフは強調する (母親ブランシュと聖ルイのただならぬ協業関係については、陰影に富む叙述を私たちはこの本で味読することができる)。ジョワンビルの率直な恐怖の感覚と、聖ルイの大罪に関する恐怖の観念が何と鮮やかな対照を描いているのだろう。ジョワンビルは実務家であり、事態を実際的に処理することができる。というよりは、ジョワンビルはその時、幸福であった。しかし、聖ルイは違う。苦悩する王にとっては、最終的な魂の救済が問題なのだ。中世における多くの人々がレプラへの恐怖を抱いていた。その恐怖に打ち勝つには、聖ルイが示した贖罪が、かすかな救の導きの手であったような気がする。当然、その一連の贖罪は、神の観念なしにはうまく機能しないことは、言うまでもない。

音楽のない文明など存在しない

   今となってはぼんやりとした記憶だけなのである。それは、中世のパノラマ世界を豊かに語るこの本において、きわめて僅かな記述だったはずだ。ジャック・ル・ゴフは、その頁で(あらためて探してみると713頁)、聖ルイの音楽についてはあまり書けないのだ、と断言している。この千頁を超える本において、この寡黙、沈黙への意志を歴史家のきわめて魅力的な声として私は聞く。読者を乗せない、走らせない、調子づかせない抑制が、歴史(学)には必要なのだ。ただ、ル・ゴフは「音楽のない文明など存在しない」とも付けくわえる。時代は、音楽の変革期であった。後のグレゴリウス聖歌とはあきらかに違う音楽の伝統が生まれつつあったのだ、と言う。俗謡を好んで口ずさむ護衛の盾持ちに、聖ルイは、宗教歌を自ら教え(その前に俗謡を口ずさむことを禁じ)、この盾持ちと一緒に歌ったのだという。俗謡を口ずさむ護衛兵と、聖歌を教え込む王、私はこの絵が好きだなー。

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ひとりごと

こんにちは
「聖ルイの生きた時代においては、ルイ九世など存在しなかった。」
記事ののっけから味わい深く,何度も買って読もうかと思いつつ未だ手をだせません。ルイ8世はアルビ十字軍とかカタリ派の彈壓とか事績が多い氣がしますが・・・9世・・・。奇妙な王様があったものです。
書評としてすごくおもしろくブツブツと途切れるなかんじも,慎ましさというか誠実さがかんじられて・・・何度も読んでいます。
聖ルイとはすこし改革志向を持っている感受性するどいファナティックな反動の王だったのでしょうか・・・
おもえば・・・・1250年前後,神聖ローマ,Sacrumと言う言葉が帝国に冠せられたのも ,アッシジの聖フランチェスコなんてのもこの時代で。キリスト教会にとって大きな時代の変革期だったんでしょうね
ビザンツはモンゴルに蹂躙されるは・・・イスラム神秘主義の確かな成立もあり・・・

領土拡大,大航海時代もそうだったと思いますが,鉄道敷設,人の雄図が,文化を破壊したり民族を滅ぼしたり,薬や新しい食物が伝播して人口減少も救われたり,その変遷に正邪はつけられませんが・・・聖地奪還や宗派の凋落の歯止め,伝道のためという動機があっても・・・。そも狂信とは純根なものであるゆえいっそう不可解です12~3世紀の十字軍。とくにそうですね・・・。
サンジャックコンポステラ巡礼やロマネスク教会。異端をめぐる南北のフランスのおそろしいへだたり・・・そして巡礼とレプラ。キリストの聖性とレプラやペストの惡穢は切り離せないもの。
わたしにとってのフランスの中世はなぜかそんなイメージです。
聖者聖女とレプラが入り混じって混沌としているカトリシズム文学って意外と多いです,異端の話が多いことを思います。巡礼の詩情と癩者と“白い神”の錯綜するシュウォッブの「少年十字軍」なんて読み返したりしてました。
とりとめなくすみません・・・

そのうちぜひ読んでみたいと思ってます(が,読破するのはたいへんそうですね・・・!)

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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