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63.エステール・ダヴィッド『ラケルの書』 Esther David, Book of Rachel, published in Viking by Penguin Books India in 2006.

david+002_convert.jpg エステル・ダヴィッドの『ラケルの書』は
まず ベネ・イスラエルの料理について
楽しく歌いだす
料理の話には罪がない
そして 海浜近くの倒れかかったシナゴーグを
ラケルひとりが支えている
息子や娘は「約束の土地」に去っていったからだ

しかし 誰も訪れることのないこの土地にも
ビーチ・リゾートという開発の圧力が迫ってくる
ラケルの抵抗は 機智にとみ エネルギッシュで気持ちが好い
事件は ばらばらになった人々を
もう一度 結びつける
家族の絆と 人々が手をとりあうことの暖かみが
蘇ってくるのだ

しかしラケルが気をもむのは シナゴーグばかりではなく
娘や息子の あるいは若い人たちの
結婚のことなのだ
社会の礎として 男と女の自然なあり様として
結婚という仕掛けが おおきな困難に直面している
とラケルは感じている

数百年にもおよぶインドへの同化と
それでもなお墨守されるユダヤ教という
ベネ・イスラエルの歴史の壮大な不思議を
この本は想像させる
そして ふと ベネ・イスラエルの人々にとって
「約束の土地」イスラエルへの帰還とは
何なんだろうと考えはじめるのだ


   イラン系越境英語作家、マーシャ・メヘラーンの『柘榴(ざくろ)のスープ』(白水社、原著 2005年刊)には、各章にイラン料理のレシピが書いてあって、故国の料理へのきめ細かな愛情が、なにか読者をつかのま幸福にさそうような小説だった。この本『ラケルの書』も、各章の初めに、ベネ・イスラエル(インド亜大陸に住むユダヤ民族の末裔、イスラエルの子の意味)の料理のレシピーが紹介されている。食べたことのない料理というものは、どうもピンとこないのだけれども、そのレシピの印象はほとんどインド料理だ。ただ、羊の肉、魚やココナッツミルクをふんだんに使用するところが、僕のもつインド料理のイメージと異なるところだろうか。・・・『ラケルの書』は、メヘラーンのレシピ付き小説と同様、何か人を幸福感につつむような小説だ。この小説におけるベネ・イスラエルの料理は、人々に幸福の感覚を思い起こさせ、人々の絆をつくり、ユダヤ教の儀礼を盛りたて、また、この小説の主役ラケル(Rachel)にとっては、連続する小さな創造の喜びなのだ。

   ラケルは、海岸に近い家に一人で住んでいる。夫は、すでに亡くなり娘や息子は「約束の土地」イスラエルに移住していった。ラケルの生きがいは、好きな料理を作ること、そして家のすぐ近くにある倒れかかったシナゴーグの面倒を見ることなのだ。ラケルは孤独な老人ではない。犬や山羊や鳥たちが一緒に暮らしているからだ。というより大きな自然との対話のなかで生きている。そして、とても元気な老人なのだ。そんな落ち着いた、心豊かな生活を送るラケルのところへ、地域のユダヤ人協会の幹部があらわれ、シナゴーグをリゾート開発業者に売却することになった、と告げるのである。ラケルの闘いがそこから始まる。

   ラケルの行動がさわやかで、また、敵とわたりあう機智にとむ弁舌も楽しい。しかし、この小説が、インド学芸賞(Sahitya Akademi Award)に輝き多くの人に読まれるとすれば、その理由は、若い人たちの結婚について(恋愛ではなく)、真正面からいろいろ気をもみながら書いているからではないだろうか。例えば、こんなエピソードがすぐに思いうかぶ。・・・ラケルは、シナゴーグ売却を画策する人々に抵抗するために遠戚にあたる弁護士の助力を請う。ボンベイで開業する若い弁護士は、親身に相談に乗りながらも、自分への成功報酬はどのくらいか、とラケルに問う。これといった財産をもたない彼女は、冗談半分に娘を嫁にやる、と言い返す。しかし、この言葉は、若い弁護士を傷つけ怒らせるのだ。彼は―ジュダ(Judah)という―怒りボンベイに帰ってしまう。ラケルは、その時、結婚観についての世代間ギャップをあらためて悟るのだ。・・・その後の展開は、キブツ(イスラエルの農業共同体)にいた娘ゼフラ(Zephra)が一時帰郷するに及んで、あり得そうな二人の結びつきの道を辿るが、それでいて小説は二人の結婚の難しさを予兆させてもいる。
   ラケルは、結婚が社会制度のもっとも基本的な礎であると率直に語る。ある人は、なんとも古臭い考えだと反発するかも知れない。がしかし、ラケルはそんなことは気にしない。ささいな行き違いが二人の結びつき(婚姻)を阻害するのは、今も昔も変わらない、とラケルは語る。ノミの夫婦だとか、痩せすぎだとか、・・・それは半分冗談だとしても、他方、イスラエルでのアシュケナージ(イエディッシュ語を話す西欧・東欧系ユダヤ人、およびその末裔)によるブラック・ジューへの差別の現実をラケルは娘に語らせる。それはベネ・イスラエルの問題であると同様に、インドにおけるカースト制度への抗議を含んでいる、ようにも思える。さまざまな困難、社会の変化が婚姻のあり方に揺さぶりをかけている。一人で元気に生きるラケルは、それでもなお婚姻のもたらす豊かな果実から眼をそむけるべきでないと主張し続けるのだ。

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ベネ・イスラエル
インド独立時(1947年)には20,000人ものベネ・イスラエルがボンベイ・コーチン・カルカッタを中心に居住していた。当時イスラエル政府は、あまりに現地との混交の進んだベネ・イスラエルをユダヤ民族とは公式に認めることを渋ったようだ。1960年代に入り、イスラエル政府は方針を変更した。そのことによって大量のベネ・イスラエルがイスラエルへの帰還をはたした、のだという。・・・ところで、ベネ・イスラエルの人々は、インドにおける社会の枢要な立場で活躍してきたのだ、と言う。面白いのは、ボリウッドにおける影響も―プロデューサーから俳優にいたるまで―極めて強いのだという。米国のハリウッドがユダヤ系の支配する帝国であることは周知だけれども、インドでも事情は似通っているようだ。

   『ラケルの書』は、料理や婚姻について語る本であるとともに、ベネ・イスラエルにおけるユダヤ的なるものを語り、問いかける本でもある。この本における、ユダヤ的なるものについての符牒をあげることは容易だ。たとえば倒れかかった海浜のシナゴーグ、ベネ・イスラエルの料理と過越しの祭り、日常の会話のなかに登場する預言者ユリヤへの信仰、そして縁戚の弁護士と同族のリゾート開発業者等々、それら一切がユダヤ的なるものの何かを示唆しているように読める。そのような舞台の道具だてには、何かエキゾチックな興味を覚えるが、実際には食べたことのない料理について聞かされているようでもあり本当のところは分からない。
   ユダヤ的なるものの僕のイメージは、むしろ、娘ゼフラの夢の中の囁きのなかに膨らむ。・・・ゼフラは夢のなかで語る。身体は、約束の地に軽やかに飛んでゆこうとする、しかし、身体の根は生まれた国の大地に埋まっている、と思うのだ。
   倒れかかったシナゴーグとその土地を離れようとしない母親は、先祖代々、異郷のインドを故郷としてきた。異郷が故郷となり、幾世代もの時が流れ、またそこから「約束の土地」に旅だってゆこうとする息子や娘の夢と寂寥感が、ユダヤ的なるものと言えないだろうか。そしてイスラエルに戻ってゆくゼフラの思いは、海外に流出してゆく南アジアの多くの人々の感情にもうまく訴えかけている言葉のようにも聞こえる。

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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