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52.横井清『的(まと)と胞衣(えな)』 (平凡社ライブラリー、初版1988年刊)

ena+005_convert.jpg 的と胞衣』という本は
中世における「いのち」のあり方に近づこうとする
たとえば
殺生の罪行というイデオロギーのあたりに
「殺生の愉悦」もまたあったのだという

敵を殺害する武士の
鮮やかな「いのち」の昂揚をうたう
またそのそばで
賤民は「いのち」に付随する穢れをきよめる
「いのち」をめぐる至上と穢れの同心円を
著者はよく練り上げられた文体で描きだす

しかし この本の内容が深くて難解なのは
じつは システムを拒む一見ランダムな
断章の繋がりにある のではないか
つまり横井氏の自由な連想 問題意識にそって
歴史のエピソードが
奔放に つぎつぎに繰り出されてくることだ
まるで中世における暗号化された
呪詛文書のように それは
新しい歴史記述のあり方を
戯れながら 実演しているのかも知れない


   『一遍聖絵』にある「はすかいによじ登って遊んでいるふたりの子供」に横井氏は注目する。「人はなぜふとしたはずみで『あそび』だすのだろう」と問うのだ。僕は、これを読んで、上階の踊念仏の熱狂と子供との関係を楽しく想像する。つまり、大人の熱狂に感応して遊ぶ子供というよりは、大人の熱狂に退屈して自らの遊びを始める子供を、あるいは、その子供の遊ぶ姿が踊念仏の熱狂を突き放して見ている、相対化しているようにも思えるのだ。

   この本には、実に刺激的な解釈が満載されている。一例をあげると、謡曲『鵜飼』を、殺生の罪行ではなく、狂言『靭猿』(うつぼざる)などと接ぎ木することによって「殺生ほど面白いことはない」という驚くべき読解に導くのだ。しかし、僕はそれら多くの興味深い指摘・読解とは別に、冒頭の「的(まと)と胞衣(えな)」という文章を一番強く応援したい。

   「的と胞衣」は、講演のような語り口で、一見脈絡のない独立した考察が、ランダムに物語られてゆく。形式的なシステムへの拒否の感覚を感じ取ったのは読み終えてしばらくたってからだけれども、読みだせば、通常の歴史エッセイとも、無論学術論文とも違うスタイルを直ちに読者は感じ始まるはずだ(出典についてはしっかりとした注がついている)。

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   「的と胞衣」は“弓矢の技芸”における的の話から始まる。なぜ人は、的を射ることに夢中になるのか、と。そして「突然妙な話題に転じ」(保元の乱、『太平記』における公家と武士が意見対立した軍事会議)、さらに頼朝の十二歳の長男頼家が初めて鹿を射止める件となる(頼朝の喜びようと鎌倉の政子の冷淡な反応の対照が面白い)。鹿狩りについて、当時における鹿狩りの社会的機能となぜ鹿なのか、という問いも興味深い。しかし、僕が立ち止まり少しく考え込んでしまったのは、名のある弓使いの大鹿を射止めそこなう物語だ。工藤影光という老武者(おいむしゃ)は、頼朝のまえで大鹿を射損じたあと「あの大鹿はきっと山の神の乗り物なのでしょう。わたしの人生も縮まってしまった」と言い、発熱し床に臥す。武士としての誇り、名のある弓使いの恥辱を読みとるのではなく、横井氏は、ここでも深く心に沁みる生命についての洞察を明かす。「精魂こめて狙い定めた相手の『いのち』を『山神』が己に賜らなかった、そのことを歎じた」に違いない、と。 

   「犬追物」という犬を騎射する武芸と「胞衣」(胎児を包んでいた膜)の処分の仕方についての論説が、この文章のハイライトなのだろう。この二つの歴史事象に共通するのは、実は賤民だ。彼らが、イベントを下から支えるべく犬を集め世話しゲームの段取りをする、また生命の誕生に付随する穢れとしての胞衣をきよめ処理する。武士とその影にある賤民が、同じ「いのち」をめぐって陽と陰の働きを演じている。差別と支配の向こう側に、「いのち」をめぐる円環が形づくられていて、役割を違えても、同じ「いのち」に対峙し支えあい、息を吹き込み、またその役割において生活していた人々がいたのだ、と思えてくる。

   しかし、それでもなお僕にとって問題なのは、この文章がそんな生半可な感想・要約にはおさまりきらない迫力を感じることなのだ。つまりこの文章には、このテキストを統一的・全体的に、あるいは抽象化して理解することを拒む力が働いている。そういうことよりも「この耳では一度も聞いたことのない」中世武士たちの声、馬のいななき、蹄の音を聞こうと囁き、また彼らの雄姿の影に従う賤民の息遣いに耳を傾けてみよう、という誘いが聞こえてくる。それは、ひどく捉えるのが難しい遠い時代の「いのち」に近づいて見てみようという試みだ。

   いずれにしても、講演風な装いを持つこの文章は、一見とっつきやすい印象とはうらはらに、深く、とても難解だ。いくつもの魅力的なエピソードと型にはまらない解釈が、著者の自由な連想によって次々に繰り出されてくるからだ。それはある時は謎めいていて、ひょっとすると横井氏自身が本来の意図を隠しているのではないかとさえ思えてくる。横井氏がいくらか興奮してこの本で紹介している中世における暗号化された呪詛文書(三浦圭一郎氏の解読による)のようにも見えるのだ。

   中世史という研究領域に魅力を感じつつも、その歴史記述の方法について僕は何となく不満を感じてきた。つまり歴史の記述は客観的で、不変の、科学であるべきだ、あるいはありうるとする信仰に対して、違和感をもつ(まるで戦争責任への批判として歴史学が存在しているかのように)。そうではなく、歴史の記述を、歴史的事実という迷宮から救いだし、豊かに膨らむ読者の想像力を期待しつつ、過去との対話、死者との対話を語ってゆくことこそを遊び楽しみたい。ごく控えめに言って「的と胞衣」は、歴史科学のむこうにあるより豊かな歴史記述への実験を含んでいるはずだ、と僕は考えたくなる。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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