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49.藤木久志『戦国の作法』(平凡社ライブラリー、初版1987年刊)

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西も東も分からない僕の中世史の旅は続く
今回も暗中模索の取っ組み合いとなった
この本を読むきっかけは
黒田日出男『境界の中世 象徴の中世』に
非常に感心した と書いてあったからだ
それで『戦国の作法』を読みだすと
今まで読んできた中世史の本とは
また一味違った感覚があって面白い
明るい中世を強調しすぎるのではなく
地に根をおろしたしたたかな農民のリアリズを
あるいは村の知恵と政治と決断を
僕は感じ取った
黒田日出男『境界の中世 象徴の中世』を読み
僕は何だか故郷の村を出て
開拓農民になった気分を味わった
この『戦国の作法』では
村の作法をいろいろと学習しながら
村のリーダたる 庄屋となって
領主権力と対峙する自分を
想像してみたくなった


  藤木久志『戦国の作法』は、夢想がちなロマンチストではなく、苦労人のリアリストが書いた本に思える。何故なら、争いごとを、紛争処理の観点から論じているからだ。中世の村々における、あるいは領主との争いごとを、そのよってきたる原因や背景ではなく、争いごとはつねにどこにでもあるという前提から、それをいかに収拾するかの知恵・習俗・方法・技術の再現とその特長・個性について語っているのだ。ケンカを始めるのは勢いだ。しかし、それをおさめる技術こそは、中世の惣村の社会的な力量を示す。ケンカの終わらせ方に注意がいくのは、まぎれもないリアリストの感性だ、と僕は思う。

  この本の入り口は、故郷の村の回想から始まる。電燈もなく、馬車も通わず、雪に埋もれる深い山あいの村、と著者は書く。じつは著者の歴史認識、あるいは研究のテーマは、著者のそんな村の生活に基本的な認識の枠組みをもっている。それは素晴らしいことに違いない。歴史資料を生き返らせるのは、人であり、もっと言えばその人のオプセッションだ。歴史研究は、客観的で科学的な歴史資料の操作・整理であろうはずがなく、その人のオプセッションの解釈であり、変形であり、延長拡大であるからだ。

  それにしても下手人の入れ替え、という中世惣村における作法には、奇妙な感覚を覚える。違反の主体を置き換えてしまうなんて。しかし、より抽象化して言えば、置き換えの作法は、より普遍的であるようにも思える。昔から、人々は、一番大切なものを、あるいは切羽詰まると置き換えるのだ。例えばサクリファイスにしても、人から動物へ、あるいはものへ、さらには現代における芸能者・有名人へと置き換えられてゆく。あるいは、フロイトの夢判断では、男根や女陰はありとあらゆるものに置き換えられてゆく。置き換えは、文化の本質であるかも知れないのだ。

  僕たちは、罵詈雑言の文化を失って久しい(と僕は思っている)。日本の今を思うと、この本の「言葉戦い」の章には、期待が高まる。「軍記」における言葉争いについては、良く知られている通りだ。興味深くも難しいのは、戦国期に至って、領主・大名が軍事行動に際し「言葉戦い」を禁止してゆくことだ。それも極めて厳格に、場合によっては死罪をもって臨んだ、と言う。その理由は、「言葉戦い」という情報戦による兵の動揺・戦意喪失を大名が恐れたこと、および足軽・雑兵に「言葉戦い」の主役が移っていったことが挙げられているが、それでは、総じて「言葉戦い」が抑制・禁止されていく理由にはならないのではないか。いずれにしても霊性をもった言葉の自由な跳梁を抑制していくなかに、近世が始まろうとしている、ように感じられるのだ。

  近世の始まりは、神々の呪縛から少しずつ自由になってゆく過程かも知れない。著者は、折口信夫を援用しながら、「言葉戦い」の源流を言問・言技にむすびつけ、呪いの言葉がもともと神の言葉であったことを示唆している。言葉の呪力からの解放もまた、近世への道であったのかも知れない。

  中世における庄屋のしたたかでバイタリティあふれる活躍につての章が、僕にとってはもっとも心躍った。庄屋は、上の方から送られてくる役人の末端ではなく、村々における百姓の代表だった。彼らは、上からの要求に否応なく従う卑屈さを微塵も感じさせない。ダイナミックに交渉し、場合によっては領主の側を脅すことすらある。・・・秀吉の時代、その絶対的な権力の前で、何と検地役人を庄屋たちが大がかりに買収しようとした事件すらあったのだ。自らの判断で、リスクをおかし、行動を起こす庄屋達の逞しい姿が浮かび上がってくる。民・百姓の側に立って、村の「損免要求の先頭にたつ」のが庄屋だった。それもまた、領主権力の支配と収奪を完成させる一つの機構と見たいむきの人もいるかも知れないが、庄屋の役割の具体相を見てゆくと、より豊かな中世惣村のダイナミックなあり様を、民衆的な抵抗の現実を感じ取ることができる。

  この本のポイントは、「権断」(中世における刑事犯人の検挙・審理・判決を行う手続行為)を自らの判断と力で行うことができる「自力の村」ということになるのだろうか。いちいち領主へお伺いをたてなくとも、村に係る刑事事件についてかなりの程度まで村の判断でことを進めることができる。それは、中世における惣村についての新しい見方を示しているようだ。しかし、そこで僕が面白いと思うのは、解決のための仕掛けが非常に分かりやすい、ということだ。たとえば、盗人・放火・人殺しなどの「大犯(だいぼん)三ヵ条」に対して、落書(らくしょ)・高札(たかふだ)・褒美をもって村は対処する。落書というのは、投票で犯罪人を特定するやり方のようである(それにも色々なルールがある)。高札は、手配書を掲示することのようだ。褒美は、文字通り金銭などによる報酬なのだが、注目したいのは、いずれの仕組みも極めてわかりやすく直接的な効果が期待される、ということだ。

  「自力の村」を作るための「権断」が極めて明瞭な仕組みによって支えられていた。それについて僕が思いつくことを列挙すると、①仕組みの分かりやすさが、村のサイズと良いバランスがとれていた、②仕組みは分かりやすいが、その運用は簡単ではない、つまり村の指導層(庄屋になるのか)の力が問われる、③領主権力による介入の口実を与えないような緊張感が村にはつねにあったはずだ、等々。

  この本において考えてみたいことは実にいろいろある。例えば、中世史研究の台風の目ともいうべき差別の淵源について、この本の記述は極めて控えめである。そのことの意味をもう少し考えてみたい。あるいは逃散における聖と俗についての言及も面白い。さらにまた村の若衆(武力衝突の中心であるがゆえに強い発言力をもつ)を扱った章を読むと、現代の若者のおかれた状況との比較が頭をよぎる。しかし、それらは、藤木久志氏の他の著作をも読みながら考えを深めてゆくべきだろう、と思う。
  ところで、そんなあれやこれやの問題提議を思い浮かべながらも、最終章「村堂の落書き」という短文の異様な輝きは一体何なんだろうか、と僕は思うのだ。それは「郷里越後の国境いに近い、村はずれの神社や仏堂に今ものこる戦国の旅人たちの落書き」についての文章だが、経文からの引用、歌、あるいは旅や出身地の記録、エッチなものいい、さらに男色の風を読み取りながら遠い過去の時間に生きた人々に思いを馳せている。落書きという自発的な表現に触れて著者のリアリストの眼がいささか自由な遊びの世界に動いてゆくのが楽しい。

  この本は、雪深く、深い山に閉ざされた故郷越後の村の回想から始まる。そこでは、むしろ「権断」でなければことがすすまない、と言う。そして、最終章は、「村堂の落書き」を通して、村の外の世界の声を聞こうとする。村のウチ側に村のソト側が接木される。村を始点と終点とした円環において、この本には「自力の村」と中世の村におけるナゾ解きが一杯つまっている。

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Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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