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1.ロヒントン・ミストリー『ボンベイの不思議なアパート』(小川高義訳、文芸春秋’91年刊)

ほのぼのと、騒がしく、猥雑で、
生を肯定する笑いが横溢する物語世界!


   “ボンベイの不思議なアパート”とは、なかなか魅力的な題名で、読む前からいろいろと考えてみたくなった。僕が想像したのは、長屋風のアパートに、奇妙な人々が住んでいて-彼らは、家族であるよりは、シングルの変わり者-そうした彼らの悲喜劇についての物語であろう、と。読んでみるとそれは、かなり違っていた。このフィローズシャ・バーグというアパートは、何よりもパルシー教徒たちの住処であり、そしてこの小説はそれら家族の子供たちの成長物語-あるいはディアスポラについての物語-なのだ。

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表紙写真: Bruno Barbay / Magnum Photos

   この小説を読むとパルシー教徒のことが、つまりイスラムの支配を嫌い八世紀にイランからボンベイに逃れてきた人々の現在の生活が分かって実におもしろい。百科事典的な解説ではなくて、彼らの生活・信仰・願いがじかに伝わってくる感じだ。僕などは、パルシー教徒が、魚を好物としてよく食べる人達なのだと分かったことも実に新鮮だった。(今度ムンバイを訪ねる機会があったら、パルシー教徒の食堂にぜひ行ってみようと思う)。また、彼らは、一般に裕福であると言われているけれども、この小説の舞台、フィローズシャバーグの住人は、比較的裕福である人もいれば、ひどくつましい生活をしている人達もいる。本当に裕福な人は、郊外に屋敷を構えている。多くは、もう少し生活に余裕がもちたいと願っている、僕たちに似た気持ちをもつ人々なのだ。例えば、新聞に載った求人広告に繰り返し応募し、毎度落ちてしまう女性のエピソードがでてくる。ついでに言うと、毎度の不採用にもまるで落ち込んだ風がないところが何とも羨ましい。

   ところで、イランの現代小説を読むと、その豊穣な物語趣味にいつも圧倒される。現代小説にもつねに物語への愛がある。ヤスミン・クラウザの『サフランキッチン』(新潮クレストブック、’06年刊)では、娘と母のもとの恋人とのあいだのシリアスなやりとりのあと、もとの恋人がゴゼマールバードのお話を語りだすことによって二人は和解するのだ。この『ボンベイの不思議なアパート』も、イラン人の書く小説と同じに物語の楽しみ、物語への愛に充ちているのが何とも楽しい。1932年製のメルセデスで図書館通いを日課としている“ご隠居”は、アパートの中庭で遊ぶ子供達を相手にお話をする。けったいなクリケット選手やら、トイレの便座の上に“しゃがむ男” の物語を技巧をこらし、自らの演出をまじえ語るのだ。だいたいこの小説が、大きな教養小説という枠組みはもっているにしろ、その中にたくさんお珠玉のような物語がちりばめられていて、ペルシャの物語の伝統をしっかりとひきつでいるようで嬉しくなってくる。

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1952年ボンベイ生まれ、カナダ在住越境作家

   ところで、この本は一体だれが読むのだろうか、と僕は思う。サルマン・ラシュディーなら、それなりの数の読者を欧米にもっているはずだ。ロヒントン・ミストリーは、ブッカー賞候補を含め多くの文学賞を受けていて、プロの読み手に良い評価を受ける物語・哲学・文体を持っていると思うのだけれども、実際の大多数の読者は、パルシー教徒・イラン人・インド人・西アジア系移民ではないかと想像する。この本を読んでいると、自分と同じ時代、似通った境遇にある同胞・仲間の苦難・喜び・焦燥を共有する装置として小説が書かれ、読み継がれていく姿が鮮やかに浮かびあがってきて、小説が孤独とか自我とかの世界に限定し得ない民衆的な精神史のよりどころとしてありうるのではないか、と思えてくる。

   この小説で、奇妙で面白おかしい前半から、フィローズシャ・バーグの子供達が成長するに従い、グッと真に迫ってくるのだ。インドのどこに希望があるのかと吐きすてるように言ってアメリカへ旅立つ青年、農民運動にのめり込んでゆく兄貴、もうこれ以上母親に苦労はさせられないと恋人を振り切ろうとする大学生・・・そんななかで一体自分は何なのかと彷徨する姿が心を打つ。しかし、そういう主人公もカナダに渡ってから、水泳教室に通い始めるのだけれども、そこでは白人女性の水着からはみ出た陰毛を凝視し、「来週も絶対に来よう」と思う人物なのだ。遊び仲間や風変わりな人物についての少年期のほのぼのとした回想からシリアスな場面をくぐりぬけ、結局は笑いによって全面的な生の肯定に行き着くところがすごくいいと思う。

   最後に、ひとつ気になる点を言うと、この小説には、どぎつく猥雑な場面が繰り返しでてくる。しかし、その猥雑さは、隠微でなく開放的で、またひどくスマートなのだ。僕は、ある種の崇高ささえ感じる。別の言い方をすると、人間存在の矮小さを、変態な動物としての人間の滑稽感を表現しているように僕には思えてならない(蛙を敬うゾロアスター教のように)。しかし、その問題については、ロヒントン・ミストリーの別の本も読んだうえで、また、考えてみたい、と思う。

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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