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37.ムドラー・ラークシャサ『捕われて』、Mudra Rakshasa, The Hunted, Translated from the Hindi by Robert A. Heuckstedt, published by Penguin Books India 1992, first published in Hindi, New Delhi 1987.

 北インドの大地に生きるダーリットが
ネズミを捕食し苛酷な自然を生き延びている
不気味なオカルトをあやつるパンディット(祭司)は
不可触民の未亡人をものにしようとしている
地主の嫁は発狂し未亡人は撲殺され
いくつもの物語が折り重なりながら
暴力・レイプを繰り返す堕落した地主たちと
下位カースト民との対立は
ナクサライト運動へと姿を変えてゆくのだ
その闘いは 手製の銃で武装しているとはいえ
どこか滑稽で茶番劇のようだ
無意味に多くの人が死んでゆくなかで
野原を歩いてやって来た旅芸人の歌と踊りが
とりわけ美しい輝きを放っていて
それは 村人を狂喜させるばかりでなく
地主達の娯楽でもあるのだ
この小説全部が、独特で強烈なにおいを湛えている
しかしそのなかにある種の優しさが伝わってくる
それはナクサラトという運動・暴力・事件に傷つき
倒れたすべての人々への鎮魂と再生を
それでもなお 社会改革への
ひたむきな願いを語っているからであるかも知れない


   独特な香りのする酒やチーズを思ってしまった。口当たりの良い万民が好む味覚ではない。がしか、初めは馴染めないのだけれども、馴れてくると味わい深い。その一口に、その生産地の風景や人々の姿が浮かび上がってくるような味わいがあるのだ。この小説は際立った個性、あるいは強い癖をもつ酒や食べ物に近いのだ。 

mr+003_convert_DDD.jpg    「肌をも脱ぎ捨てたくなる」北インドの炎熱の大地、細民の小屋住まいを根こそぎ破壊してしまう大嵐、日照りのあと、モンスーンの雨は一旦降りだすとたちまち洪水となる。ネズミを捕え、食する人々。また、ネズミが蓄えた小麦で作るチャパティは、彼らのご馳走だ。ネズミを食べるダーリットの話は聞いていたが、この小説はなかばネズミを捕食するウッタルプラデシュ州の貧しい人々(貧困という言葉すら入り込む余地のない何もない生存と物質条件)の物語である。

   上位カーストに属する偏屈者のラム・チャランも強烈な存在だ。父が死ぬと、決まりかけていた縁談が壊れ彼は外の世界に対して怨恨を強くもつようになる。そのエネルギーは彼をタントラ・オカルトの研鑽に向かわせる。気持ちの悪いことに、彼の家はトンネルで焼き場(斎場)に繋がっているのだ。強盗団に襲われ半殺しの目に合うが、生き延びた彼は、下位カーストに属する美しい未亡人をものにしたいと思っている。

    へーゲルは、インドは物語の宝庫であるけれども歴史がない、と言っている(『歴史哲学講義』)。この小説『捕われて』もいくつもの巧みな物語が折り重なっていて(圧巻は、精神に異常をきたした地主の嫁が、撲殺された未亡人の亡骸と同じジープに同乗するはめになるシーンだ)、まさしく物語の宝庫インドならではの小説だと思えるのだが、いつの時代の小説なのか、つまり歴史が明瞭でない。勿論、ナクサライトという言葉が飛び交い、下位カーストによる上位カーストへの攻撃があるのだから1970年代以降のある時期だと言えるのだが、不良ブラフマンを襲おうとして手製の拳銃が暴発し、致命症を負うところやその後の何ともゆったりとした逃走劇を読んでいると、いつの時代の話なのか分からなくなる。ある種とても古風な雰囲気が漂っているのだ。

   上位カーストの地主は、進歩派の教師ボーライ・ラル率いるグループ(ある時点から武装化する)をナクサライトと呼ぶが、そして彼は、「資本主義封建制」なる言葉を持ち出すが、上部組織を持つナクサライトのオルガナイザーではなく、反乱や襲撃は、いささか衝動的で無計画だ。農村部で展開していたナクサライトと総称される運動・反乱・攻撃が実は未組織の多分に情緒的な現象であったのではないか、とこの小説を読むと思ってしまう。

   この小説は、ナクサライトという現象が一体何だったのか、と問うているという風にも読める。しかし、その問いの陰影はプロパガンダからは遠い。進歩派の教師ボーライ・ラルを理想化することも過渡の期待をもたせることもしない。また、地主グループのボス、ジョゲシュワルについても、決して善良な人ではないとしても、レイプや暴力を恣にする上位カーストの輩とは違って、現実的で適切な判断を、厳しく課してゆける人物として公正に描いているのだ。

   精神に異常をきたした地主の嫁が、ジープで病院に運ばれようとしている。撲殺された未亡人の亡骸を抱きかかえたネズミとりのベーダナは、そのジープに気付くとジープに亡骸を押し込み「こいつらが殺したのだ」と騒ぎたてるのだ。・・・このシーンは、スリリングに面白いばかりでなく、ユーモラスであり(無論これを読んで怒りだすインド人もいるはずだ)、意味深い(死の穢れへのブラフミンと不可触民の関わり方が興味深い)。・・・この箇所を読んだ時、ガルシア・マルケスのマジック・リアリズムの影響を思った。が、ムドラー・ラークシャサのリアリズムは、マルケスよりもさらに物語の楽しみに充ちている。マルケスのマジック・リアリズムがシューレアリズムの一場のタブローに近いとするなら、ラクシャサのリアリズムは、想像力の飛躍によって民衆的なエネルギーを解き放つ物語に近いのだ。物語は、インドの人々を大笑いさせるか怒らせる、あるいは深く心打つはずだ。そして、インドの土の香り、人々の汗の匂い、さらには人々の願いさえも伝えているのが何とも素晴らしく僕には思える。 

   不気味で死臭漂う側面をこの小説の陰とすれば、陽は、音楽でありダンスだ。旅芸人たちが広い野原を横切って、徒歩で村にやってくるシーンがとりわけ美しい。裸の子供達(ハリジャンと読み取るべきなのか)や女達が、歌い踊りながら、旅芸人の後を追う。自然発生的なパレードとなるのだ。他方、高台の土地に住む地主達(つまり上位カーストの人々)は、「旅芸人はまだ来ないのか」と話ながら、彼らの到着を待ちくたびれているのだ。この場面においては、村人と地主の楽しみ=音楽と踊りは共通していて、居住する場所の区別はあっても緊張した対立は露わでない。

   この小説におけるナクサライトの闘いは、『マハーバーラタ』の世界終末戦争に似て、多くの人が意味もなく死んでゆく。あまりにもあっけなく逝ってしまった屍(しかばね)がいたるところにころがっている感じだ。例外は、旅芸人でありナクサライトグループの急進派でもあったビシャンが、殺し合いを生き延びることぐらいか。・・・彼は、闘いを離れ嘗ての恋人を訪ねてゆく。嘗ての恋人は暖かくビシャンを迎え入れる。ビシャンは、ただ彼女に会いに来ただけで黙して何も語ろうとしない。彼女は、ビシャンからプロポーズされた時、なぜ突然彼のもとから姿を消したのかその理由を話そうとするが、今の彼はそんな話に何の関心も示さない。その暖かく静かな雰囲気は、ナクサライトにおいて傷つき・倒れたすべての者への鎮魂を語ってはいないだろうか。あるいは、闘いや政治に疲れたとき、男と女の愛情がどうしても蘇ってくるのは世の必然であることを語っているように思える。

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ムドラー・ラークシャサ
1933年ラクノウ近郊の村に生まれる。ラクノウ大学で哲学の修士号を取得。
雑誌編集、ラジオ・テレビの台本書き、小説書き、芝居の演出など多才な顔をもつ。
彼のヒンドゥー語の芝居は、非常に人気があるのだという。
ムドラー・ラークシャサは、ペンネームで、古典サンスクリット劇のタイトルからとられているそうだ。

   訳者の解説によると、著者ムドラー・ラークシャサは、民衆芝居の一員となってインドの村々を回っていたのだという。彼の民衆劇がいかなるものなのか分からないけれども、それは僕にさまざまな思いを吹き込む。
   まず、この小説の地に足のついたリアルリズムについてだ。この小説が取材や勉強からできたのではなく、村々を回る移動劇団という実際の体験にもとづいて書かれたのだ。小説の前半は、ナクサライト運動を招来させた北インドの苛酷な現実を、あるいは上位カーストによる下位カーストへの抑圧・暴力を徹底して描き込む。しかし、火のついた運動は、どこか滑稽な茶番劇のようなところがあり、闘士も、民衆も、地主も、警察官も、弁護士も、ジャーナリストもある芝居を必死に演じる馴れぬ役者のようなのだ。このリアリズムは、ムドラー・ラークシャサが組合運動の指導者であるという立場の遥かに超えた真実を僕は感じる。
   また、この小説はナクサライト運動に火がつく北インドの下層民の苛酷な状況に充分に理解を示した上でナクサライトが領導した民衆の暴力に疑問を投げかけている。ナクサライトの直接暴力ではなく、芝居や小説=文化による社会変革への可能性を訴えてはいないか、と僕は思う。陳腐なもの言いになってしまうが、ムドラー・ラークシャサのこの小説は、社会変革における文化の必要性・優位を鮮やかに語る類稀な成功例だと僕は思うのだ。つまり、インドの豊かな物語の伝統とマジック・リアリズムの新しい刺激との結合、またラークシャサ自身の民衆芝居の体験により、表情豊かで、ニュアンスに富む小説によってナクサライトの暴力を止揚する文化による社会変革という命題を訴えかけている。

   V. S. ナイポールの『インド・新しい顔』(岩波書店)には、実際のナクサライト運動に参加し、農民とともに地主を攻撃し、すんでのところで虐殺を免れて生き延びた都市インテリのインタビューが収められている。そういう人々が、あるいは実際の運動に参加したわけではないがそんな時代の雰囲気のなかで生きた人々にとって、ムドラー・ラークシャサのこの小説は、運動の外部からではなく、ごく親しい者による運動の終結にていての報告書のはずだ。いずれにしても、この小説は、ナクサライトの時代を生きた人々の精神史であり、インドの人々が、この小説をどのように読み考えるのか、僕はいろいろに想像してみたくなるのだ。

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Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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