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35.クシュワント・シン『海に葬る』、Khushwant Singh, Burial at Sea, Published by Penguin Books Inc. 2010, first published in India 2004

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 作家老境の作『海に葬る』は
 ぼくが考えられるインドらしさを
 あますところなく表現している
 すなわちガンジー主義と現代化の挫折を
 また犯し犯される植民地主義の経験を
 人々の性への欲求を
 楽しく面白く語り聞かせてくれるのだ
 リベラルで深い問題意識をもち
 好色なクシュワント・シンが書いたこの小説を
 一言で言うと インド小説に万歳三唱なのだ



   佐藤優さんの何かの本を読んでいたら、各国の諜報官は、その国の人々の発想や心性を読む必要から小説を結構読むのだと話していた。あるイスラエルの諜報官は、村上春樹をしっかりと読んでいた、と。村上春樹の小説における登場人物が日本人の代表とは思えないが、村上春樹の小説が今の日本人のもっているある種の深い気分を表現していることは間違いない。そんなことを思い出したのも、クシュワント・シンのこの小説を読んでいて、インドの人々の考え方、感情、欲望がよく表現されている、と思ったからだ。インドへのアプローチは、人さまざまであろうけれども、R. K. ナーラーヤンの小説とクシュワント・シンの小説に触れていると、インドの人々の発想がずっと分かりやすくなるように思う。自分発見の旅にしろ、ビジネスにしろ、あるいは諜報にしろ、ナーラーヤンとシンの小説を読んでいれば、彼らの発想の根にあるものが理解できるはずだ。
 
   しかし、ナーラーヤンにしてもシンにしてもほとんど翻訳がない。僕は、日本人がインドの人々を理解するうえで、日本語で読める十数巻のナーラーヤン選集とシンの著作集があったらどんなに素晴らしいだろうと思う(その点でシンの『首都デリー』[結城雅秀訳、勉誠出版]の翻訳と出版は、recluseさんも言うようにたまげた快挙だ)。古典も重要だし、また小難しい精神世界も結構だが、現代のインド人の発想・好み・こだわりを知るのにナーラーヤンやシンをまず読むのがいい、と僕は思う。

   主人公のビクターは、ガンジーの批判者だ。手紡ぎの糸車ではなく、近代的な紡績工場がインドを貧困から救うと考えている。豊かなインドを作るには繊維工業ばかりでなく、鉄鋼プラントが、自動車工場が、大規模ダムが、国中を結ぶ運河や道路が、より多くの学校・高等教育機関や病院が必要なのだと主張する。多分この視点は、現在のインドのおおくの知識人・指導層が共有しているはずだ。有力弁護士の子息として恵まれた環境に生まれたビクターは、ガンジーに自分の意見をぶつける。マハトマは、忙しい時間のなかで将来有望な少年に返事をするのだ。「君の言うことももっともだ。しかし、君の言う豊かになってゆくなかで人々はあたたかい心を失ってゆく」と諭すように語る。ビクターは英国留学から戻ると次々に事業を起こし大成功を収めてゆくのだが、それは自分のためというよりは人々の生活の向上への願いが強い。しかし、当然のこととして小説はそこでは終わらない。精力的に激務をこなしてゆくビクターだが、彼が中年にさしかかったとき名状しがたい疲労をおぼえ、ガンジーの予言した心の喪失を体験するというよりは、聖と性を操る怪物・魔物・ペテン師にからめとられてゆくのだ。

   ビクターの父は、裕福なやり手の弁護士だ。彼は、ガンジーが率いる国民会議派の独立運動にシンパシーを感じている。インドは、英国の植民地支配から脱しなければならないと考えているのだ。しかし、一人息子のビクターには英国風のエリート教育を授けたいと思う。ビクターの教育のために、英国人女性の住み込み家庭教師が招聘されるのだが、あろうことか父はその家庭教師に「自分ほど孤独で哀れな人間はいない」と哀願し犯してしまうのだ。「四十にしてみずからの子供じみた夢-白人の女を犯す-をはたす」と父親に言わしめる。インドと英国の関係を、つまり植民地と被支配民との関係を、犯し・犯される関係として描こうとするところにクシュワント・シンの真骨頂がある。しかし、それが歴史の真実であると証明するのは難しい。インドと英国の関係を、そのような両方向の侵犯として捉えるのはシンの思想、あるいはインドの人々の深層の気分を表しているようにも僕には思える。

   ぼんやりと思うのだけれども、V. S. ナイポールの小説におけるセックスとクシュワント・シンのそれとは随分違うな、と思うのだ。シンのセックスがより大らかであると言うのとも少し違う。ナイポールのセックスが、例えば『魔法の種』(岩波書店)のウィリー・チャンドランのセックスが何となく屈折していて暗く、どこかに抑圧を隠しているように思えるのに較べ、シンは、より直接的で頻度が高い。何か憎めない人間性の肯定の感覚がある。父親が英国人の家庭教師を犯してしまうのも、ビクターが寒さに震えるコール・ガールに情けをかけ童貞を失い、そのうえ有り金全部を盗まれてしまうのも、マルキストの親友のジゴロに一人娘が処女をささげてしまうのも、世の良識(といよりは日本の良識)からすれば随分無体なことに写るのだけれども、面白いのはそれらを作家は非難したり軽蔑したりする風には書いていないということなのだ。シンは、奇妙で不可思議な人間存在のありようを素直に語っているに過ぎない、と思えるからなのだ。・・・ここで少しばかり飛躍していえば、その性の肯定は、インド神話における性の肯定の感覚に繋がっているように思える。ニロッド・C・チョウドリーの『ヒンドゥー教』(森本達雄訳、みすず書房、原著1979年刊)の一章に描かれたひどくエロティックなヒンドゥーの神々による性の場面がまざまざと思い起こされるのだ。ヒンドゥーの神々の性とクシュワント・シンの性に共通しているのは、性への肯定の姿勢であると言う以上に、性は生のある部分の本質であることを自明のこととして認める。あるいは、フロイトが性を死への誘惑とセットで語るのとは違って、性を人間の生命の根源として語る。槍と虎を携えている怪しい導師は、精神の活力を失ったビクターに、セックスが死の恐怖に抗う最良の解毒剤であると語るのだ。

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クシュワント・シンとナイポールの妻パトリック
   
   楽しく面白く読めるこの小説『海に葬る』をできるだけその物語を迂回して批評しようとした。しかし、それはどうも難しい。すべてのディティールと具体性を捨象して、一言でこの小説についてコメントすると、インド小説に万歳三唱なのだ。

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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