26.赤坂憲雄『境界の発生』(講談社学術文庫、原著1989年刊)
表情に乏しい現代という時代は
ありとある境界の排除、あるいは消失に
由来するのだと著者は考える
杖立伝説の読解においては、国家の起源
その秘密に立ち至ろうとする著者の意欲が眩しい
供犠について、そのさまざまな見方について
僕はノートをとって勉強した
古代と中世における穢れ観の相違は
予想していたとはいえ、
輪廻転生・浄土思想の闇を再確認させられた
のっぺりとした現代にいて境界を幻視し
まれびととしえて現場に立つ勇気を
著者はひそかに念じている
現代がのっぺりした平均化の時代だという感覚は、多くの人がもっているのだろう。モノがあふれ便利になった割には、いつも疲れていて苛々しがちだ。いろいろな気晴らしに時間と金を使い、あれもこれも飽食してみるが、深い心の充足は得られない。何となく生きているだけで、生を強く感じることができない。存在の希薄な感覚だけが、かろうじて確かなものに思える。
この『境界の発生』は、現代ののっぺりした平均化の時代を、「境界のすべてが曖昧に溶け去ろうとする」時代としてとらえる。「男/女・大人/子供・夜/昼そして想像/現実・・・・・」等々の境界性の消失が、のっぺりとした平均化の時代の特長、あるいは淵源であると説くのだ。
この本は、今では失われえしまったが、嘗てはより明瞭に存在した境界についての復権の試み、あるいは境界の始原へ向けての旅の敢行なのだ。
この本は、杖の話について詳しい。
杖の社会的機能について、その呪術力について、また実用品として杖について、著者は、『記紀』や『風土記』、『一遍聖絵』などの絵物語、説話等々の古典テクストを用い読解してゆく。
論旨はそれほど単純ではないけれども、僕自身の覚書として書いておくと、杖は、境界を差し示す、杖は、境界を示すことによって混沌に枠組みを(ある場合は国家の成り立ちを)与える、杖は、天(神)と地(人々)を結びつける、あるいは分ける、また、杖は境界に生きるもののしるしでもある、というようなことになる。
大嘗祭において用いられる杖は、“遠方よりの来訪神”、“降臨した神”を指し示しているという解釈が紹介されている。しかし、杖を携えて各地を巡幸した古代の王の姿にむしろ杖本来の役割を著者は感じている。著者が国家論に肉迫しようとする意欲を感じとったが、僕はむしろ旅する人々(遍路・行商人・乞食・琵琶法師さらに死出の旅立ち)が携える杖の方に親しみを覚えた。また、杖を携えた「貴種の流離」についても、十分な事例・テクストが引かれていて読み応えがあった。
供犠(Sacrifice)という宗教的儀礼に発する概念が、非常に重大な意味をもっているように段々思えてきた。僕の好きなインドの小説を読む上で非常に参考になるし、現代における毎日の文化現象を見るのにも役立つ。それで、供犠に関する本にも幾つかあたってみたが、実はあまり良く分からなかった。
この本は、供犠について現在の論点のありかを縦横に、分かりやすく、かつ知的緊張感をもって提供してくれている。興味を引いたところをランダムになるが挙げてみたい。
穢れをめぐる問もすごく興味がある。そういう意味で、「穢れの精神史」という一章も大変面白く参考になった。とくに、中世と古代の卑賤観にはかなり明確な相違があることを教えられた。
著者は、中世においては仏教、とりわけ浄土思想の影響・浸透によって穢れがいわば内面化されていくのに対して(例えて言えば、前世の悪行の結果としての病魔、横井清の『中世民衆の生活文化』による)、古代における穢れは、ハラへやミソギによって浄化されうる外面的なものにとどまっていた、と結論する。『古事記』における高天原を追放されるスサノオ、黄泉の国へのイザナキの訪問譚を取り上げて著者は言葉をつくしている。ところで、その際、高取正男『神道の成立』という本が批判的に検討されているが、赤坂氏の誠実な文章はその『神道の成立』という本を僕も読んでみたくなるような趣がある。
文化を読み解こうとするとき、異人・境界・供犠は極めて有効な言葉・ツールである。しかし、著者は、そういう便利な道具よりも、「素手で現場に立つ」勇気の方が、より心しなければならないことではないかと最後に問うている。たとえ愚かしくうつろうとも、現場に身を投げだし、感じ、考えることの方が僕も貴いと思う。何よりも生命の香りがするのだ。
「起源としての異人論」は、分量的には少ないが刺激的な論点をもっている。著者のメッセージを煎じつめれば、今こそまれびとよたて、ということになりはしまいか。飛躍を承知で言えば、この本『境界の発生』は、知識の本ではなく、嘗ての青年の読書が求めたような人生論、人の生き方を問う本なのかも知れない。
文庫解説は、赤坂憲雄氏の知的営為を「西に傾いた太陽を追って少しでも日没を引き延ばそうとする試み」に似てはいないかと的確な指摘をしているけれども、僕はそれだけとは考えない。同じ現代化にしても、人間にとって心地よく、かつかけがえのない環境を作るには、失われつつある貴重な遺産―境界の復権―を形を変えて生かすしかない、と思っているからだ。
ありとある境界の排除、あるいは消失に
由来するのだと著者は考える
杖立伝説の読解においては、国家の起源
その秘密に立ち至ろうとする著者の意欲が眩しい
供犠について、そのさまざまな見方について
僕はノートをとって勉強した
古代と中世における穢れ観の相違は
予想していたとはいえ、
輪廻転生・浄土思想の闇を再確認させられた
のっぺりとした現代にいて境界を幻視し
まれびととしえて現場に立つ勇気を
著者はひそかに念じている
現代がのっぺりした平均化の時代だという感覚は、多くの人がもっているのだろう。モノがあふれ便利になった割には、いつも疲れていて苛々しがちだ。いろいろな気晴らしに時間と金を使い、あれもこれも飽食してみるが、深い心の充足は得られない。何となく生きているだけで、生を強く感じることができない。存在の希薄な感覚だけが、かろうじて確かなものに思える。
この『境界の発生』は、現代ののっぺりした平均化の時代を、「境界のすべてが曖昧に溶け去ろうとする」時代としてとらえる。「男/女・大人/子供・夜/昼そして想像/現実・・・・・」等々の境界性の消失が、のっぺりとした平均化の時代の特長、あるいは淵源であると説くのだ。
この本は、今では失われえしまったが、嘗てはより明瞭に存在した境界についての復権の試み、あるいは境界の始原へ向けての旅の敢行なのだ。

この本は、杖の話について詳しい。
杖の社会的機能について、その呪術力について、また実用品として杖について、著者は、『記紀』や『風土記』、『一遍聖絵』などの絵物語、説話等々の古典テクストを用い読解してゆく。
論旨はそれほど単純ではないけれども、僕自身の覚書として書いておくと、杖は、境界を差し示す、杖は、境界を示すことによって混沌に枠組みを(ある場合は国家の成り立ちを)与える、杖は、天(神)と地(人々)を結びつける、あるいは分ける、また、杖は境界に生きるもののしるしでもある、というようなことになる。
大嘗祭において用いられる杖は、“遠方よりの来訪神”、“降臨した神”を指し示しているという解釈が紹介されている。しかし、杖を携えて各地を巡幸した古代の王の姿にむしろ杖本来の役割を著者は感じている。著者が国家論に肉迫しようとする意欲を感じとったが、僕はむしろ旅する人々(遍路・行商人・乞食・琵琶法師さらに死出の旅立ち)が携える杖の方に親しみを覚えた。また、杖を携えた「貴種の流離」についても、十分な事例・テクストが引かれていて読み応えがあった。
供犠(Sacrifice)という宗教的儀礼に発する概念が、非常に重大な意味をもっているように段々思えてきた。僕の好きなインドの小説を読む上で非常に参考になるし、現代における毎日の文化現象を見るのにも役立つ。それで、供犠に関する本にも幾つかあたってみたが、実はあまり良く分からなかった。
この本は、供犠について現在の論点のありかを縦横に、分かりやすく、かつ知的緊張感をもって提供してくれている。興味を引いたところをランダムになるが挙げてみたい。
- 人身供犠を空想の産物だと考える学者(高木敏雄)がいる。
- 人身供犠譚は、動物供犠がそれを説話化する過程で人身供犠譚へと変化していったとする西郷信綱の説を、著者は批判的に検討している。
- 供犠はつねに<置き換え>を本質とする。『捜神記』(六朝時代の鬼神妖怪小説集)の湯王と同様、天皇における雨乞いでも「天皇→少女→呪文」という<置き換え>が行われる。
- 人身供犠譚は、人身供犠の終焉によって始まる。人身供犠は、否認されなければないと人々は考えている。人身供犠は、顕われつつ隠される逆説を孕んでいる。
- 屍体から穀物はなるとする豊穣神話になぞらえて、供犠は、死を、屍を再演する(エリアーデ)。
- 人身供犠譚は、神話の位相を抱え込む。
- イケニエは、人間/神・内部/外部・聖/俗といった二元的対立項を媒介する。
- 供犠とは秩序創出のための暴力ないしメカニズムである。始まりにおいて聖別された者が周辺に追いやられたあと、ふたたび中心に呼び戻す役割を供犠が担う。第三項(犠牲者)排除説。(今村仁司)。
- 犠牲を破壊することによって確立された神と人間との関係を断ち、自然という連続性のなかに文化という非連続性を持ち込む(レヴィ・ストロース)。
穢れをめぐる問もすごく興味がある。そういう意味で、「穢れの精神史」という一章も大変面白く参考になった。とくに、中世と古代の卑賤観にはかなり明確な相違があることを教えられた。
著者は、中世においては仏教、とりわけ浄土思想の影響・浸透によって穢れがいわば内面化されていくのに対して(例えて言えば、前世の悪行の結果としての病魔、横井清の『中世民衆の生活文化』による)、古代における穢れは、ハラへやミソギによって浄化されうる外面的なものにとどまっていた、と結論する。『古事記』における高天原を追放されるスサノオ、黄泉の国へのイザナキの訪問譚を取り上げて著者は言葉をつくしている。ところで、その際、高取正男『神道の成立』という本が批判的に検討されているが、赤坂氏の誠実な文章はその『神道の成立』という本を僕も読んでみたくなるような趣がある。
文化を読み解こうとするとき、異人・境界・供犠は極めて有効な言葉・ツールである。しかし、著者は、そういう便利な道具よりも、「素手で現場に立つ」勇気の方が、より心しなければならないことではないかと最後に問うている。たとえ愚かしくうつろうとも、現場に身を投げだし、感じ、考えることの方が僕も貴いと思う。何よりも生命の香りがするのだ。
「起源としての異人論」は、分量的には少ないが刺激的な論点をもっている。著者のメッセージを煎じつめれば、今こそまれびとよたて、ということになりはしまいか。飛躍を承知で言えば、この本『境界の発生』は、知識の本ではなく、嘗ての青年の読書が求めたような人生論、人の生き方を問う本なのかも知れない。
文庫解説は、赤坂憲雄氏の知的営為を「西に傾いた太陽を追って少しでも日没を引き延ばそうとする試み」に似てはいないかと的確な指摘をしているけれども、僕はそれだけとは考えない。同じ現代化にしても、人間にとって心地よく、かつかけがえのない環境を作るには、失われつつある貴重な遺産―境界の復権―を形を変えて生かすしかない、と思っているからだ。