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24.U. R. アナンタ・ムルティ、『バーヴァ/あることとなること』U. R. Anantha Murthy, Bhava, New Delhi 1997, Penguin Books India, Translated from the Kannada by Judith Kroll with the author, First published in Kannada, Karnataka 1994.

南インドを走る列車の一等コンパートメントで
シャストリ老は、黒装束のアヤッパ巡礼者の首に下がっている
スリチャクラに目がとまる。
シャストリはそのペンダントに見覚えがあるのだ。
嘗ての妻がしていたものにひどく似ているからだ。
老人は、体の中に悪霊が入っていくのを感じる。
シャストリは妻のサロージャを殺し埋めたのだった。
そのペンダントはサロージャのものに違いなく、
殺したはずの妻は生き延びて、ここにいる男は、
妻を殺害したとき孕んでいた子なのだろうか、と恐怖する。
 

   学校の教科書で言うと、三大発明とは、羅針盤・火薬・印刷ということになるが、僕は前からそれにはちょっと物足りないものを感じていた。要は、もっとすごい―罪深くも、あまりに人間的で非人間的な―発明が人類にはあるではないか、と思うのだ。僕の三大発明を言うと、キリスト教における処女懐胎・広く世界で採用されていた宦官・インドの古代思想に起源をもつ輪廻という考え、ということになる。これは本当にすごいことで話し出せばえらく長い話になるが、とりわけ輪廻については、最近インドの小説を良く読むようになってから、この思いがことさら強い。キリスト教において処女がイエス・キリストを懐妊するというフィクションの創造もすごいが、また、生きていくために人間は何でもやらかすという意味で宦官もすさまじい(一説では、後宮の管理に手をやいていたペルシャ王に困窮していたユダヤ人が考え出したアイディアであるようだ)。それに比べると輪廻は、何やら思想的で高級な観念のようにも見えるが、必ずしもそうではない。輪廻という考え方が、極論すれば差別を醸成し、社会変革を退ける現状是認の根拠にもなる、またある時は殺人をも容易にする凶器なのだ。ところで、なぜ三大発明としての輪廻などということを言いだすかというと、今回読んだU. R. アナンタ・ムルティの『バーヴァ/あることとなること』は、まさしく輪廻についての小説であるからなのだ。『バーヴァ/あることとなること』は、生まれ変わり、死に変りの錯綜する輪廻転生に関する形而上小説だと言える。・・・しかし、それにしてもインドの作家は輪廻を描くのがうまく、また、インドの人々は輪廻についての話が本当に好きなのだなー、と僕は思う。
 
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   南インドを昼に走る一等列車のコンパートメントから小説は始まる。シャストリ老人は、隣合わせた黒装束のアヤッパ巡礼者の首に下がっているお守りのペンダント(スリチャクラ)に目がとまる。シャストリはそのペンダントに見覚えがあるのだ。嘗ての妻がしていたものにひどく似ているからだ。老人は、そう思うと悪霊が自分のなかに入っていくような恐怖にとらわれる。シャストリは妻のサロージャを殺し埋めたのだった。そのペンダントはサロージャのものに違いなく、とすると殺したはずの妻は生き延びて、ここにいる男は、妻を殺害したとき孕んでいた子なのだろうか、と恐怖する。
  アヤッパ巡礼者は、レンズ豆を―神々の食物であるかのように―口に運び、窓のそとを静かに眺めている。老人は、巡礼者に自分の豆をすすめる。巡礼者は、カンナダ語を解する様子はないが、すすめられた豆をとる。共食の儀礼は、洗練の極致を示しているようで、妻の殺害・悪霊の侵入・死者の生き変わりを嫌がおうにも盛り立ててゆくのだ。
  ジーンズ姿の陽気な乗客が巡礼者に声をかける、「お名前は」と。巡礼者は、「スワミ」とすげない返事をする。「いやいや、あなたが有名人で著名人にインタビューをしているテレビ番組を知っていますよ」と言葉を返す。その乗客は、ボンベイからマドラスに生地を仕入れにいくところだと言うが、老人は「ミート・イーター」(ノンベジタリアン)だと、蔑む。「あとでサインを下さいね。いい土産になります」と洋装の乗客は要求を告げる。彼らはシャストリに何度か食べ物を進めるが、「夕食まえなので」とか「外で買った食事は取らないことにしているのです」と拒む。

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▲スリチャクラ
表紙のイラストは、スリチャクラを図案化している。
スリチャクラは、内側で接した九つの三角形によって成り立っている。
「スリ」は、女性神の意味で実際にはヴィシュヌの伴侶ラクシュミーを指し、繁栄と幸運を表徴する。英訳者ノートより。


   僕は、このコンパートメントの中のやり取りを描く最初の章が素晴らしい、と思う。十ページに満たないこの章が、この小説全体の展開を暗示している。逆に言うと、あとの小説はこの章で語られている謎のすべてについての注解である、と言ってもいい。なぜ、シャストリは身籠の妻サロージャを殺害したのか、なぜ、殺害し埋めたはずの妻が生き延びることができたのか、その後のサロージャの生活のこと、また、スリチャクラのお守りを首に下げている巡礼者は今までどのようにして生きてきて、これからどうしようとしているのか、等々の疑問についての回答、ある場合はヒントを読者に与えてくれるのだ。

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▲ケララ州サバリマラ寺院
アヤッパ巡礼とは、ケララ州の丘の上にある寺院サバリマラへの巡礼を指す。アヤッパは、シヴァ神と女になったヴィシュヌ、モヒニとの子でシャスタとも言う。英訳者ノートより。


   U. R. アナンタ・ムルティの小説における極度の洗練は、ブラーミンのみが理解するもであったり、カンナダ語という一地方語であったり、また食事の作法であったり、僕には非常に限定されたものに見える。洗練とは、限定された世界にしかありえないことを言っているようでもあるのだ。
   この小説の極度の洗練は、実はその破壊とともに成り立っている。たとえば、調理された食物を夜半には取らない、といった食物の取り方についてのいくつものルールが繰り返されるなかで、ダーリットとの交情、アルコール飲酒、あるいはパーンを咬みながら主人を迎える情婦とセットで小説は語られてゆくのだ。
   図式的すぎるかも知れないが、この小説における極度の洗練とその破壊は、ある種の緊張を、おそらくヒンドゥー社会の変質を伝えているのだろう。その変質によって失ったものと得られたものとのせめぎあいをムルティは生きているように思える。作家は、南インドの限られたブラーミンの極度の洗練を慈しむ者であるとともにその限界に苛立つ者なのだ。

   ところで、V. S. ナイポールは、U. R. アナンタ・ムルティの初めての小説『サムスカーラ』を読んだ感想を、60年代を舞台にした小説にしては非常に古風なものを感じさせる、と述べている(『インド傷ついた文明』1978年、岩波書店)。この小説では、新しい時代の符牒をずいぶんとり込んでいるようだけれども(巡礼者ディナカールは、ウォークマンで『チベット死者の書』の朗読を聴くのだ)、迫力があるのはやはり古風なものなのだ。古風なものとは、伝統社会が長い時間をかけて作りあげてきた洗練なのだ。ナイポールが言う非常に古風なものとは、今になって思うのだが、それは南インドの限られたブラーフィズムの洗練をさしている、と考えるべきなのだ。

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▲U. R. アナンタ・ムルティ
1932年カルナタカ州シモガ近郊の村に生まれる。サンスクリットを習う学校に通う。
マイソール大学で英文学の学士号と修士号をえる。1963年英国バーミンガムに留学。
1965年出版の『サムスカーラ(儀式)』Samskaraが一大センセーションを巻き起こす。
ムルティにとって英語は、議論の言葉であっても創造の言葉ではない、と語る。
U. R. アナンタ・ムルティは、英文学の教授(マイソール大学)であるとともに、カンナダ語作家なのだ。
パンカジ・ミシュラのインドの小さな街を巡る旅の記録『ルディアーナのバターチキン』Pankaj Mishra, Butter Chicken in Ludhiana, 1995にミシュラがムルティの故郷シモガを訪ねるくだりがある。50年代、この地域は土地改革の先進地帯であった。当時の活動家の話にミシュラは耳を傾けながら、アナンタ・ムルティもその熱気をともに体験したのだろうと想像する。そのあとのくだりが僕は忘れられない。当地のカレッジを訪ね、英文科の学生と言葉を交わすのだ。彼らは、英語を実用以上のものとは捉えていなく(学校の教科書しか読まない)、ミシュラがどんな英語の小説を読んだのかと聞いても、容易に答えは返ってこない。ひどく気まずい沈黙のあとに、通俗ロマン小説の名前があがる。ミシュラは、耐えがたい自己嫌悪に襲われ、アナンタ・ムルティという偉大な文学者を生んだ故郷の現実を思い知らされるのだ。


   小説の結語の部分をどう受け止めていいのか、僕は迷う。シャストリの娘は、シュードラのテロリスト(翻訳者の注では、ナクサライトが示唆されている)と学校からドロップアウトし、出奔する。食い詰めた娘は、シャストリの情婦に手紙を書き、父が知ったらチャルヴァック(相手のシュードラ)を殺すだろう、だからあなたに金をせびるのだ、と懇願する。元ボンベイの高級娼婦だった情婦のラーダは金を送ってやり、早く子供を儲けろ、そうすればすべてがうまくいくのだとアドヴァイスするのだ。この話の展開には、僕らの知らない世界のことがいくつも顔を覗かせていて興味深いけれども、子供の誕生が和解を生むという賢明なアドヴァイスは、作家が輪廻転生を肯定的な救いと捉えていると読んでいいのだろうか、と僕は思うのだ。グングの娘、マハマータが聖なる女となることよりは、新しい生命の誕生に作家は希望を見出そうとしているように僕には思えるのだが。

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

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No title

ご無沙汰してます。 いつも拝見してます。参考にしてます。この作品は英訳だそうですが、読みやすさはどうでしょうか?僕はノスタルジーに退化してます

Re: No title

コメント有難うございます。英語の読書への意欲が戻ってきているご様子、嬉しいです。お尋ねの件ですが、僕にはよく分からないところがいっぱいありましたが、クシュワント・シンに較べたら、童話のようなものだと思います。よろしくお願いします。
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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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