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15.アミタヴァ・クマール『正しきことだれもなさず』、Amitava Kumar, Nobody Does the Right Thing, Durham 2010, Duke University Press, First published in India 2007 under the title Home Products.

主人公ブアといとこのラビンデルはボリウッド映画への愛を語る
そのラビンデルの収監中に不倫相手の政府高官の夫人が惨殺されるのだ
ラビンデルはそんなことに構うことなく
自らの夢である映画を完成させる
デタラメとしか言いようのない今のインドの現実を
深くクールに描く何とも不思議な魅力に充ちた小説だ

  主人公のジャーナリスト、ブアにはいとこの悪党、ラビンデルがいる。ラビンデルは、ドラッグの支払いに窮し強盗を企て、州政府高官の夫人と不倫を恣にし、ネットカフェでポルノを密売し、幾つもの誘拐事件に係り、人も殺しているかも知れない。ラビンデルは、今、二度目の収監中だ。しかし、何故か、主人公のブアとは気が合うのだ。二人の共通項は映画へ情熱だ。この小説の筋をかいつまんで言うと、ラビンデルが刑務所から出所したあと、ブアの紹介でボリウット映画のディレクターになってゆく物語なのだ。

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▲『正しきことだれもなさず』の表紙写真
駅舎の映画看板の右端には、英語で「テロリストの恋物語」(LOVE STORY OF A TERROSIST)というキャッチが目につく。
今のボリウッド映画では、テロリストもテーマになりうるのだろうか。
写真 Catherine Karnow


  この小説には何とも不思議な味わいがある。ラビンデルという悪党に対して、家族を始め皆が寛容であるばかりでなく、皆がラビンデルを愛しているようなのだ。それは、悪のもつ魅力というほど鋭いものではなく、成行きのようでもあり、何かいい加減な感じもするのが面白い。陰惨で暗くじめじめした犯罪ではなく、犯罪が、人がサヴァイヴァルしようとするとき誰もが行使しうる権利でもある感じだ。

  ボリウッド映画への寸評がいい。本当に、ヒンドゥ映画を堪能したいと思うならビハール州の小さな街の映画館に行かなければならない、と。人々の熱気と失意のなかでしかヒンドゥ映画は分からない。そして、主人公のブアは、映画を見ながら、社会における公明性、正しいことを学んだと、回想している。ヒンドゥ映画は、人々の夢に忠実で、インドの現実を暴こうとする現代小説とは裏腹の関係にあるようだ。

  インドの現代小説が好んで取り上げる主題に、結婚(式)と葬儀がある。この小説もそういう伝統を引き継いでいて主人公の結婚(式)のくだりと、父の死と葬儀のくだりは実に念入りに描かれていて読み応えがある。
結婚(式)については、見合いのいきさつ、新婚旅行と暴動の勃発、セックス、離婚などと、伝統的な主題にあっても時代の変化をこうむっていることが伝わってくる。
父の死および葬儀、そしてワーラーナシーへの散骨の旅については、実は、ラビンデルの不倫相手の惨殺(というよりは死体遺棄)を前段にもってきて、いわば動と静、聖と俗とでも言いたくなる絶妙な物語展開になっている。そのシーンが、僕にはこの小説で一番面白かった。ラテンアメリカの小説におけるマジックリアリスムに繋がるような新しいインド文学のリアリズムを感じた。

  州政府高官の夫人でラビンデルの不倫相手のローマ(ロマーラ)が殺害され、四肢を切断の上、麻袋に詰め込まれパトナ鉄道駅の近くの線路脇に放擲される。のら犬やらがその死骸を食いちぎり、蝟集してきた禿鷹が飽食に与かるのだ。たらふく食にありついた禿鷹が線路の上で食休みをしていると、列車が通過する。食べ過ぎて動けなくなった禿鷹を列車が頭からちょん切ってゆく。禿鷹の胴体がとある高官の家の庭に飛び、首のない禿鷹がラインダンスを踊るのだ。

  この後に続く、ブアの父の死・葬儀・散骨の旅もいい。父の死に際して、平凡に、しかし人間存在の根源にふれた感覚をブアが静かに表現している。しかし、僕がそんな場面に浸っていると、クマールはワサビを効かした別の挿話を用意してくる。電力不足で火葬場の電気炉が停止しかけるのだ。電力を差配しているギャングと電力代の交渉が始まる。

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▲『正しきことだれもなさず』は、インドでHome Productsとして出版された本を約3分の2に縮小し、アメリカの読者むけに改題した本だ。この手の話は比較的よく聞く気がする。つまり、アメリカの読者にとって、Home Productsでは意味をなさない、と。ところで、『正しきことだれもなさず』がインド版の縮小版であることに気付いたのは、迂闊なことに、アメリカ版をかなり読み進んでからだった。

  インドの現代小説を読んでいくと、良識家なら眉をひそめるような淫らで、でたらめで、極悪非道な人々、アンチヒーローに出くわす。そういう人々や現実に拘っている小説家達がインドにはいるのだ。たとえば、アキール・シャルマ、ウパマニュ・チャタルジー、それにクシュワント・シンもその仲間に入れてもいいかもしれない。
  彼らの小説が面白いのは、実は、小説で書かれているでたらめさ加減がインドのある現実を表現しているからではないのかと僕には思える。僕のなかで、小説への興味とインドの現実の面白さが繋がっているのだ。
  V. S. ナイポールは、小説を理解するには、その小説の舞台である社会を知らなければならない、と言う。そうかもしれないが僕の場合、インドの社会が謎に充ちた魅力を秘めていて、その謎と魅力の正体を知りたくてインドの現代小説を読んでいる、ところがある。インドという風景の向こう側にある人々の生活と願い、社会の仕組としきたり、価値観、シンボリズムを見出すために、インドの現代小説を読むことが一つの有効な手立てだと、僕は思い始めている。

  誠実で優等生であったであろう主人公のブアが何故か寂しげで元気がない。他方、前科者で家族にとっての問題児のラビンデルは、元気で皆に愛され、映画作りという夢を実現する。この二人の間のどの辺に、実際の作家クマールがいるのだろうかと僕は考えはじめる。それは良く分からことだけれども、僕はこの小説『正しきことだれもなさず』が、今のインドのある種の現実を、非常にうまく魅力的に伝えていることは確かだと思う。

テーマ : 洋書
ジャンル : 本・雑誌

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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