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14.ムルク・ラージ・アーナンド『不可触民』、Mulk Raj Anand, Untouchable, London 1940, Penguin Books, First published in the UK 1935.

『不可触民』の語り手は一体誰なのかという疑問を感じる
ムルク・ラージ・アーナンドの捉える
生活の細部は素晴らしいけれども
それは主人公バカーの口からでる言葉ではないからだ
寒さに震える夜明けに始まり
輝く朝、そして暑い一日のなかに入っていき
パンジャーブのハリジャンのコロニー、駐屯地の街、路地、丘をめぐり
ガンジーが街にやってきて
議論のなかで長い一日を終える


   昨年(2011年)マイソール近郊の遺跡観光をしているとき、ローカルバスの乗換え駅ではっとするような美しい乞食を見た。褐色の肌をしたその若い乞食は、ひどくエキゾチックな顔立ちをしていた。僕から金をせびれると思ったのだろう。激しくバスの窓を打ってきた。・・・その乞食の娘が、ハリジャンなのかそうではないのか僕には分からないけれども、1僕にとってショックだったのは、その乞食がかなり魅惑的に思えたことなのだ。インドの乞食、あるいはハリジャンは、幾世代もの抑圧と貧困によって、すなわち重労働・栄養失調・劣悪な住居によって正常な生育を妨げられ、いびつな容貌、委縮した容姿に変形させられているのではないか、といったような思い込みが実は僕にはあったのだ。必ずしもそうでないことを体験的に知った。非常に魅惑的な容姿をしたものも少なくないのだ。

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▲ペンギン・クラシック版の表紙
足下の箒とかごは、この男が清掃カーストに属していることを示している。このようなあからさまな注釈は、西洋絵画におけるイコノロジーの文化・手法を思い起こさせられる。この男は、かなりハンサムだ。頑丈そうな体躯をしている。しかし、鼻の下のちょび髭は、上位カーストによる下位カーストへの抑圧を表してはいまいか。


   そんなことを思い出したのも、この小説『不可触民』には、ヒンドゥ寺院の僧侶が、不可触民の娘(小説の主人公バカーの妹ソーヒニ)をたぶらかそうとするくだりがあるからだ。・・・僧侶は、共同井戸に水汲みにきた美しい娘に眼をつけ親切を装いながら「寺院の掃除に来なさい」と誘う。そして、誘惑が発覚しそうになると「穢れてしまう、穢れてしまう」と大声で叫び騒ぐのだ。娘を誘惑するエピソードを、僕は単なる反ブラフィイズムのプロパカンダとは思えない。バス停でみたあの魅惑的な乞食を思い出すと、なお一層ありうることだと僕は思う。2

   ところでU. R. アナンタムールティの小説『サムスカーラ(葬儀)』(U. R. Anantha Murthy, Samskara, 1976)においても、敬虔なアーチャリヤ(導師)と破戒ブラフマンの不可触民の情婦との交情が妖艶に描かれていた。カーストの閾を超えた不可触民の女との魅惑に充ちた交情は、インドの現代小説における一つの重要なテーマに思えてならない。そのような例を、これからもインドの小説を読んでいくと出てくるような予感がする。

   しかし、この小説『不可触民』において、非常に気になったのは、次のような展開なのだ。自分の妹が寺院付きの僧侶にたぶらかされそうになったのを知った主人公バカーは、怒り復讐の言葉を口にし、-そこまではいい-そのあと自分の妹がもっと醜ければどんなに良かっただろう、と考えるのだ。自分の妹が美しいことに誇らしく思いつつも、世界一の醜女であってくれればブラフマンにてごめにされることはないのだ、と。バカーの思いは、純情で人間としての尊厳、思いやりに溢れているけれども、美がもつ悪しき魅惑についてイノセントに過ぎやしまいか。バカーの怒りは、正義であっても表面的で単純だ。ムルク・ラージ・アーナンドは、少なくともこの小説について言えば、社会正義の観念を強くもった作家なのだ、と言い切れる。

   この小説は、不可触民が強いられている人間以下の悲惨を、「これでもか、これでもか」と繰り返すような小説ではない。そういう差別の現実を、主人公のバカーは、この日しこたま経験するけれども、この小説の主調音は、むしろ不可触民の側の人間的尊厳・思いやり・連帯にあるのだ。とりわけ、若い不可触民たちが、インド人連隊の居留地の子供たちとホッケーの試合をするくだりは、読んでいて爽やかだ。また、その時、怪我した少年を家まで送りとどけるバカーの行動もまっとうである。上位カーストの少年の母親に侮辱されることになるが、主人公バカーの思いと行動は正しく、卑屈なものがない。一度盗みの誘惑にかれるところは、僕には微笑ましく読めたし、親友からもらったホッケーのスティックを家に持ち帰れないで藪のなかに隠すところは、僕にも似たような経験があったことを思いださせてくれた。

   この小説の語り手は、誰だろう。主役は、不可触民のバカーだが、彼の思いは、この小説の語り手によって表現される。バカーは、どういう言葉をもっているのだろうか。この小説は、不可触民の生活を生き生きとした細部によって描写しているけれども、それはバカーの口からでる言葉ではなく語り手の言葉だ。バカーの内面の動き、心情についても語り手が説明していくわけだが、それもバカーの言葉ではない。腹の減ったバカーは、「おなかのなかをネズミが駆けまわっているみたいだ」と空腹を表現する。それは、なにかバカーの言葉にすごく近いものを感じる。しかし、パンジャーブの自然の美しさを表現する段になると、語り手は、バカーが、それらの美しい花の名前を知らないのだ、と注釈する。・・・語り手の言葉があるときは、バカーの思いを侵食し、また、ある時は、バカーの言葉が、語り手の表現に加勢する。

   小説の終わりの方で、ガンジーが街にやってきて演説をする。ガンジーは、スワラージ(自治権獲得)よりは、ハリジャンの地位向上について語っているようだ。バカーは、ガンジーに、もっと分かる話をしてもらいたい、と思う。そんなところで会議派のシンパや詩人らによる議論が始まる。それをバカーがよこの方で聞いている。インテリの詩人は、水洗便所になればハリジャンは汚物を処理の仕事から、つまり穢れた仕事から解放されるはずだ、いう。・・・この箇所を問題視して多くの人が取り上げているようだが、僕にはどうでもよい挿話に思えた。アーナンドも真剣にその機械文明の導入を願っているようには読めない。なぜなら会議派のシンパが、ガンジーのチャルカ(糸ひき車)の運動を、国際競争のなかでなぜチャルカに拘るのか、まったくナンセンスであると極めてバランスのとれた発言をしているからだ。おっちょこちょいなインテリの思いつきをむしろあてこすっているのではないか。

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▲ムルク・ラージ・アーナンド
1905年ペシャワール生まれ、2004年プーネーで没(98歳)
ケンブリッジ大学で学び、その間ブルームズベリグループと交流
スペイン市民戦争にも後方支援員として参戦
インド独立後、故国へ戻る


   この小説におけるムルク・ラージ・アーナンドは、社会正義の信念をもった作家だ。しかし、小説における不可触民たちの姿・生活は、観念的な図式からは遠く、具体的で細部が生き生きと輝いている。読者を飽きさせない物語がもつスリルとともにパンジャーブの明るく爽やかな空気を想像してみたくなるのだ。さらに、語り手は、ときに不可触民のバカーの思い・意識を侵犯しながらもアーナンドの滑らかで繊細な知性を伝えている。・・・E. M. フォスターは、この小説の前書で、不可触民とよく遊んだアーナンドの少年期の体験に触れている。それは、この小説の真の豊かさ、不可触民にたいする暖かい思いの由来を語っているように思える。また、そのことはアーナンドには不可触民についての小説を書く理由があったのだ、ということでもあるのだろう。


  1. あまり良く考えているわけではないけれども、不可触民と乞食はかなりの部分で重なりあうのだと思っていたが、乞食のすべてが不可触民ではないと思っていた。たまたま『南アジアを知る事典』(平凡社、1992年)を見ていたら、「こじき|乞食」というコンパクトに纏められた項目があって興味深く読んだ。1971年の国勢調査によるとインドの乞食人口は75万人で(案外少ない、0.1%を切る?)、・・・というようなことが書かれていて、乞食のカースト構成についてはきわめて多様であり「バラモンから不可触民まであらゆるカーストが見られる」「ヒンドゥー教寺院の門前の乞食のなかにムスリムが混じっていた例も報告されている」ということのようだ。
  2. もともとハリジャンという呼称自体が、寺院に住む僧侶と不可触民との間に生まれた子供の呼称であって、ガンジーが不可触民一般をハリジャンと呼ぶのは、かなり問題含みだということを、何かで読んだ記憶がある。そういう問題があるということと、僧侶と不可触民(その場合、寺院付きのダンサーなどに限定されるのか)との交情・出産がハリジャンという言葉を生むほど、伝統的でごく一般的であったとするなら、実に驚愕すべきことだと思う。

テーマ : 洋書
ジャンル : 本・雑誌

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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