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12. パンカジ・ミシュラ“ナーラーヤン偉大なり”③、Pankaj Mishra, The Great Narayan, The New York Review of Books, Feb. 22, 2001.

パンカジ・ミシュラのナーラーヤン論から出発し
ナーラーヤンの小説におけるフェミニズムに触れつつ
神秘的で絶対的な他者性を顕現する
「女」について考えてみる 
 

   ミシュラはナーラーヤンの初期の傑作『暗い部屋』(The Dark Room, 1938)についてフェミニズの視点にたった解釈を試みている。ナーラーヤンにおけるフェミニズムを僕もぼんやりと感じていたのだけれども、ミシュラの指摘ではっきり意識することができた。ミシュラは、彼女たちはおおかた家の端っこにいて、つまり台所、寝室、裏庭に位置し、そしてそこはしばしば人が感知できる優しさの源泉なのだ、と言う。

   ナーラーヤンの小説は、ある種「女」への優しさに充ちている。それを指してフェミニズムと言っていいのか、僕には分らない。『暗い部屋』におけるサビトリは、暴君のように振舞う夫のまえで子供をいたわり、守りながら自らの役割を全うしようとする。そこから、「女」の解放・自立という視点は、すごく近くにあると思う。しかし、ナーラーヤンの小説の主人公達と女性性への結びつきは、妻や愛人や恋人のよりも例えば『マハトマを待て』(Waiting for the Mahatma, 1955)のシュリニバスと育ての祖母との関係、『ガイド』(The Guide, 1958)における主人公と母親の関係の方に、より濃いものがあるように思えるのだ(ただ『マハトマを待て』の死んだはずの老婆は生き返り、『ガイド』における母親は、悲しい別れに終わるのだが・・・)。そちらの方に、むしろ僕はミシュラの言う「優しさの源泉」を強く感じる。

   ナーラーヤンの小説における「優しさの源泉」としての「女」は、祖母や母親の方に傾いている。それは、どこかで幼児期・少年期における世の競争からは隔離された幸福な日々の思いでと非常に近い。さらに言えば、マルグディという小宇宙の実験は、その幸福感の追及・拡大と思うようにならない現実を言い表しているようにも思える。逆に、祖母や母親以外の「女」―愛の対象―は、どこか強いけれども優しさに欠け何かに苛立っている。あるいは、『ガイド』におけるダンサーのように人形のように押し黙っているか、『サンパト氏 マルグディの印刷屋』(Mr. Sampath: The Printer of Malgudi, 1949)のヒロインのように自ら身を隠すのだ。

   ナーラーヤンの結婚が、当時のインドでは極めて稀なことに、一目惚れの恋愛結婚であったことは有名だ。多くの反対と障害を乗り越えての結婚だったが、チフスによってナーラーヤンは愛妻を失う。しかし、今度ミシュラのナーラーヤン論を読んで、ナーラーヤンの愛妻との結婚生活が僅か6年間に過ぎなかったこと、そして終生再婚することはなかった、ということを改めて気付かされ僕はすっかり驚いてしまった。「女」の優しさも、「女」の強さも、したたかさも、またある時は愚かさも、浅はかさも、極めてリアルに伝えているナーラーヤンだが、その結婚生活が6年に過ぎないというのは、あまりに短いように思えるのだ。結婚生活における6年など、大方が幸福のうちに過ぎてゆき、まして愛妻が突如病によって失われたのであれば、愛妻を全面肯定のマーヤと化してもいいはずなのに、ナーラーヤンの小説における「女」は、それほどお人よしには思えない。すごくリアルで怖い女も描いているのだ。

   ナーラーヤンの小説をインドにおけるフェミニスト小説の先駆であった、という読み方も可能であるかも知れない。しかし、ナーラーヤンがずっと「女」とはいかなる存在なのかを書いてきたことのほうが僕には興味深い。・・・『マハトマを待て』におけるガンジー派の活動家である恋人は、インド独立の希望をやはり若々しく伝えてくれているし、『ガイド』のダンサーは、「女」における表現者として立ち居振る舞いへの期待を語っているように思える。また、『看板屋』(The Painter of Signs, 1977)における、産児制限に向けた啓蒙教育に奔走する「女」は、エネルギッシュだがある種の寂しさを抱えており、それは、現代における「女」の生き方の難しさを語っているように思える。それに『お喋り』(The talkative Man, 1986 )においては、出奔しただんなを追いかけてくる妻の強烈さは、一体何なんだろう、と言いたくなる。 
  
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▲マイソールのサプナ書店にあるインド人作家(小説)というコーナー
当然ナーラーヤンの小説は、数冊ずつストックされている。ただし、一番下の目立たないところに置かれていた。メジャーなところでは、アミタヴ・ゴーシュ、クシュワント・シン、アルンダティ・ロイが目につく。イスラム系住民の反発を恐れてかサルマン・ラシュディの本は一冊もない。インド人には耳の痛いはずのナイポールの本もノーベル賞効果というべきか一通り揃っている。このコーナーにロアルト・ダール(スウェーデン人の両親をもつこの英国人作家は、たしかカルカッタにいたことがある)が置かれているのは愛嬌というべきか。

   ナーラーヤンの小説における「女」達は、社会学における女性のように分析の対象ではなく、神秘的で絶対的な他者性を顕現する崇拝の対象なのだ。ナーラーヤンにおいては、「女」が激しく活性化するとき、インド神話におけるシヴァ神に近くなる。非合理で破壊的な役割を演じる。「女」の人が穏やかで優しく見えるとき、それは祖母であったり母であったりするが、作家は幼児期・少年期への幸福な日々・幸福な記憶に退行してゆく。ナーラーヤンの小説における「女」達が極めて豊かな表象であって、そこにナーラーヤンを読んでいく楽しみの源泉があるのだけれども、僕はナーラーヤンを読みながら「女」を愛することは、ひょっとすると人生におけるもっとも重要なことであるかも知れないと思えてくるのだ。

テーマ : 洋書
ジャンル : 本・雑誌

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Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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