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11.バーラタ・ムーカジ『ミドルマン』(遠藤晶子訳、河出書房新社1990年刊、1988年原著刊)

インド由来のイディオムを駆使し
さまざまな姿の故国喪失=エグザイルを物語る
もっとも苛酷なときにこそ
どんなかたちであれ希望を持ち続けることが必要なのだと
バーラタ・ムーカジは毅然とした姿勢で語りかける

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   前に『ジャスミン』(Jasmine, 1989, Grove Press, )という小説を読みだしたのだけれども、英語が難しくて30頁ぐらいで投げ出してしまった。でも読めなかった本というのはふられた相手のように何か気になるもので、今度は『ミドルマン』を翻訳で読んでみた。実は翻訳でもそう分かりやすくなかった。短編集なので、場面が頭に浮かんでくるまでは気がぬけないし、その上、ところどころ理解できないところがある。例えば、次のようなところに、僕は引っかかった。
「芝居がはねたあと、イムレと一緒にブロードウェイに向かう。彼はときどき手を握ってくる。でも戸口のあたりに気違いや酔っぱらいがたむろしているという以上の意味はない」
僕は、このところを読んだとき変なことを言うな、と思ったのだけれども、ちょっと考えて思い当たることがあった。念のためここのところの英語を見てみたら、原文はそんなに難しくない。

  After the show Imre and I make our way toward Broadway. Sometimes he holds my
  hand; it doesn’t anything more than that crazies and drunks are crouched   
  in doorways.

  誤訳というわけではないのだろうけれども、この日本語は何か苛々させる。
そこで考えてみたのだが、「戸口のあたりに気違いや酔っぱらいがたむろしているという以上の意味はない」というところを、「戸口のあたりにたむろしている気違いや酔っぱらいほどありふれていて下らない」と解釈すればすんなりと入ってくるのだ。
それで、バーラタ・ムーカジの文章の難しさ、分かりにくいところ―『ジャスミン』が読めなかったことも合せて―をちょっと考えてみた。
   僕は思うのだけれども、「戸口のあたりにたむろしている気違いや酔っぱらいぐらいに下らない」は、もともとはインドまたはムーカジの故郷ベンガル地方でごく当たり前に使われているイディオムなのではないか、と。ただし、「気違いや酔っぱらい」は、これも僕の類推だけれども、おそらくもともとは「乞食」なのだと思うのだ。つまり「戸口のあたりにたむろしている乞食」と言えば、いささか鬱陶しいがどこにでもいるどうでもよいもの、というイディオムになるのだろうと思った。
   そういうインド生まれのスパイスの効いた表現をアメリカの文脈―80年代のアメリカの都市部には、アル中のバムがどこにでもいた―に置き換えてバーラタ・ムーカジは小説を書いていった、と思える。つまり、日本人にとっては馴染みのない「戸口にたむろしている気違いやアル中のバム」と、インドに起源をもつ「戸口のあたりにたむろしている乞食」というスパイシーな表現の二重の迂回によって、ムーカジの小説は僕たちにとって難解になっているのだ、と思った。
                                         
                                                          §

   故国喪失=エグザイルについての実にさまざまな姿をムーカジはこの『ミドルマン』で表現している。彼女には、さまざまな故国喪失=エグザイルの姿を描くことによって自らのインド人・ベンガル人の枠からつきぬけ、より普遍的なエグザイル小説の新境地を開きたいという野望があるのではないか、と僕は勘ぐりたくなってしまう。
その志は多くの場面で成功しているのだろう。たとえば、トリニダットからデトロイトに密入国してくる娘は(“ジャスミン”)、不倫相手の分子生物学の教授から「君は本当にすばらしいよ。トリニダードの花だ」と言われて「トリニダードではなくてアナーバーの花よ」と返すところが格好よかった。またアフガニスタンからの難民である彼氏は(“軌道にのって”)、恋人のホームパーティで故国脱出の経緯を得意になって語りだし、「監獄」、「賄賂」、「偽造」という言葉に恋人の父親は「一体何の話なんだ」と怒りだす。アメリカの平凡な家庭に第三世界の現実が入ってくるさまは、実際に他人事ではなく、刺激的な挑発的ですらもあり、南アジアの小説世界とつきあうことがお気軽な面ばかりでないことを思い起こさせてくれる。いずれにしても、ムーカジが表現したいと思っているメッセージは、アメリカで眼にする多くの移民の現実であり、彼らの胸の内にある思いだろう。ステレオタイプと化したインドやトリニダッドに再考のヒントを、あるいはショックを与えたいとバーラタ・ムーカジは考えているに違いない。

                                            §

   エドワード・サイードは、故国喪失=エグザイルについて「それについて考えると奇妙な魅力にとらわれるが、経験するとなると最悪である」(『故国喪失についての省察1』みすず書房)と言っている。この『ミドルマン』は、サイードの言う「奇妙な魅力」に充ちたたくさんの姿の故国喪失の物語を提示している。この多様な故国喪失の物語を読むと、バーラタ・ムーカジの才能と物語を巧みに語り物語が大好きなインドの伝統を思わざるをえないのだけれども、もう一方の、サイードの言う「最悪の経験」としての故国喪失=エグザイルの面については、ムーカジはどう表現しているのだろうかが、気になりだしてくるのだ。

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▲バーラタ・ムーカジ 1940年 カルカッタ生まれ
裕福なブラーミンの家庭に生まれ、学校へは運転手付の車で通っていたという。
大学の教職を投げ打ってカナダからアメリカへ移住すると苦しい時代が続いた。

   最終章の“悲しみの管理”は、カナダに住むインド人の若い母親の物語だ。何か途方もない惨事がこの家に起き (おそらく爆弾テロによる航空機事故)、知人が家に集まってきている。夫と息子を一瞬にして失ったのだ。悲劇の現場におけるインド系移民の労わりの雰囲気がすごくいいのだけれども、この短編はそれだけでは勿論終わらない。同じ事故で息子を失ったインド系の老夫婦は、外界との接触を断ち、また、あらゆる書類にサインすることを拒んでいる。市の移民援護局の女性職員に頼まれて若い母親・シャイラがその老夫婦の説得にあたるのだが、説得はうまくいかず二人は帰路につく。女性職員は、「あの人たちがいい人たちなのは分かるけど、あの人たちの頑固さと無知には気が変になりそう」と愚痴をこぼす。シャイラは、心のなかで<私たちの文化では、希望をもつのが親の務めなのよ>と呟き、彼女に別れをつげる。・・・バーラタ・ムーカジが「最悪の経験」としての故国喪失=エグザイルにたいして、希望を持ち続けるしかないのだ、と言っている。このメッセージは、甘すぎるだろうか。僕は、厳しくも美しいと思う。

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ジャンル : 本・雑誌

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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