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9. パンカジ・ミシュラ“ナーラーヤン偉大なり”②、Pankaj Mishra, The Great Narayan, The New York Review of Books, Feb. 22, 2001.

パンカジ・ミシュラのナーラーヤン論を読みながら
ナーラーヤンの小説の意味を マルグディとは 
放浪とは 反英運動とは を考えてみる

   ナーラーヤンは、『スワミと仲間たち』(Swami and Friends, 1935)において警察の上級役人の息子ラジャムとの鉄道駅での別れを思い入れたっぷりに描いている。より大きな世界へ旅立ってゆくラジャムとここにとどまって生きていくだろう自分との対比は鮮やかだ。前の文章で触れたようにナーラーヤンは、外の世界に深く魅了されながら(例えば英文学やロシア文学への嗜好)動かなかった人間なのだ。マルグディという想像上の小さな街に自足した幸福の姿を描きこんでいった。

   しかし、ナーラーヤンの小説においても冒険はあり、それもまた繰り返されるテーマなのだ。『スワミと仲間たち』においてスワミは、学校を放校になったあと夜の街をあてどなくさまよい、人間以下の存在(のら犬ともハリジャンとも読める)に恐怖する。のまた、『学士』(The Bachelor of Arts, 1937)においては、主人公は、恋した相手と一緒になれないことがはっきりすると、修行者として放浪の旅にでる。また『暗い部屋』(The Dark Room, 1938)のサヴィトリにしても夫の浮気を知って装身具を外し夜の街をさ迷う。サヴィトリが河に入って行こうとするとき、こそ泥を副業とするマリに助けられる。

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▲『暗い部屋』(The Dark Room, 1938)。初めて読んだナーラーヤンの本。
僕はこの本を30年前ニューヨークのセント・マークス・ブックショップで買った。
居心地のいいきれいな書棚の本屋だったが今もあるのだろうか。

   V. S. ナイポールなどは、ナーラーヤンの小説における主人公たちの反抗・冒険・帰還が帰るべきところをもった一時的な冒険だといって批判的に見ようとするが、僕などは、ナーラーヤンのその中途半端なところ、徹底性を欠いた優柔不断に惹かれる。とりわけ『学士』の主人公チャンドランは、見合いを勧められるが「今はそんな気持ちになれない」というようなことを言いつつ、一目見合いの相手を見ると惚れ込んでしまい、彼女から手紙が届かないと居てもたってもいられず彼女に会いに行く。僕は、チャンドランの取り乱しかた、青年らしい直情さに一種の憧れに似た気持ちをもって小説を読んだ。ナーラーヤンの小説の主人公は、大方が恋する男たちであり、それもどこか不器用で度をすごしているところが、つまり決してプレイボーイでないところが、僕にはおもしろい。

   それら恋する王子の話で、忘れることのできないのは、『マハトマを待て』(Waiting for the Mahatma, 1995)のシュリナムだ。インド独立を機に出所したシュリナムは、ガンジー派の運動員の彼女と、混乱し荒廃したインドの街をともにガンジー派の活動家として旅する。彼女が忙しく活動しているとき、一人宿屋に残されたシュリナムは、乾してある洗濯もののサリーをまじまじと見つめ、自分はインド独立のために戦い監獄にも入っていたが、一体彼女のためにどんなサリーを買ってやることができるのだろう、と自問するシーンがあるのだ。大義のために生きる男の生き方に疲れ、一人の女を愛しその女を幸せにしてやりたい気持ちが、僕に美しくリアルに伝わってくる。

   ミシュラは、ナーラーヤンが反英運動への直接の参加を、家から堅く禁じられていたことに着目している。ミシュラは、ナーラーヤンがクイット・インディア運動の時代のうねりにたいする興味を感じ共感しつつ、大英帝国のインド植民地運営に組み込まれた家族の立場のなかで自家撞着の感情をつねに抱えていたはずだと言っている。ナーラーヤンの小説における主役たちのクイット・インディア運動へのかかわりは、単線的ではなく、厚みがあって面白いとつねづね思ってきたが、それは、クイット・インディア運動へのナーラーヤン自身の自家撞着、もっといえばコンプレックスと結びついているのだということを、僕はミシュラに教えられた。

   ナーラーヤンの小説における主役たちの反英運動の屈折した関わりの具体例をあげてゆくのは難しくないけれども、やはり特筆すべきはV. S. ナイポール(『インド傷ついた文明』工藤昭雄訳、岩波書店)が読み込んでいる『菓子屋』(The Vendor of Sweets, 1967)のジャガンの例ではないかと思う。はしおってって言うと、菓子屋の主人ジャガンは、反英デモに参加し、気絶するほど警官に叩かれ逮捕される。拘留によって学業を放棄せざるを得なくなる。今は、菓子屋によって生計をたてているが、脱税を生きがいにしているところがあり、それは奇妙なリクツでガンジーの教えに結びつく。アメリカから帰ってきた息子も逮捕されるが、息子の逮捕の理由はウイスキィーの不法所持なのだ。そこには、ナーラーヤンの反英運動に対する肯定と否定、憧れと疑問がおり重なっているように思えないだろうか。さらに、歴史は繰り返す、ただし一度目は悲劇として、二度目は喜劇として、という有名な言葉になぞらえる書き方をしている。

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▲V. S. ナイポール『インド傷ついた文明』を読んで僕は、ナーラーヤンという興味深い作家がいることを知った。ナイポールは『菓子屋』、『サンパト氏』(Mr. Sampath: The Printer of Malgudi, 1949)、についてぐっと唸りたくたるような素晴らしい読解を行っている。 

   ナーラーヤンの小説がインドの歴史、あるいは政治にたしてまともに向き合っていない、というミシュラの指摘、あるいは不満は、僕には少々意外な感じがするのだけれども、どうだろう。ミシュラの指摘に対する僕の途惑いは、主に二つだ。一つ目は、『マハトマを待て』(Waiting for the Mahatma, 1995)では、主役のシュリナムは、反英武装闘争の闘士であるし、『看板屋』(The Painter of Signs、1977)におけるラーマンの行動は、インデラ・ガンディによる非常事態宣言下のインド農村の混乱を充分に伝えている。ナーラーヤンは、大状況を無視しているどころか充分にその時代の問題状況に主役たちを置き、時代や社会変化に対する反応を演じさせている、と僕には思える。二つ目の途惑いは、より直接的に状況に対して発言すべきことをミシュラはナーラーヤンに求めているのだろうか、ということだ(ミシュラがカシミールやチベットの騒擾について発言しているように)。もしそうだとすれば、それは作家におけるスタイルの選択を軽く見すぎているように思えるし、また、小説・物語世界における意味形成の力を軽く見た発言に思えるのだが・・・。というよりそんなことをナーラーヤンに求める方がどうかしている、と考えるのはインドの現実と社会に責任のない僕らの気楽な感覚なのだろうか、と思えてくる。

テーマ : 洋書
ジャンル : 本・雑誌

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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