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113.ナタリー・ゼーモン・デーヴィス『トリックスター・トラヴェル』 Natalie Zemon Davis, Trickster Travels: A Sixteenth-Century Muslim Between Worlds  

trickster travels book2
1518年夏、フェズのスルタンに使えるアル・ワッザーンが
チュニス沖でキリスト教徒の海賊に拿捕される
アル・ワッザーンが長年怖れていたことがおきたのだ
奴隷として売り飛ばされるかわりに
アル・ワッザーンの知力が彼を救った
法王列席のもとキリスト教の洗礼をうける
ローマでの旺盛な翻訳や著述活動
たとえば『ラテン語・ヘブライ語・アラビア語辞書』を作成し
『パウロ書簡』をアラビア語訳し、
『コーラン』をより正確にラテン語に訳し
また有名な『アフリカ誌』も書き上げる
そして1527年ドイツの新教の軍隊によるローマ劫奪
の混乱のなかアル・ワッザーンは、
ふたたびチュニスに船で逃れるのだ
波乱万丈の生涯と言うよりは、ムスリムのジハートにも
改宗したキリスト教にも一定の距離を保ち
その両者を自由に行き来するトリックスターとしての
アル・ワッザーンにナタリー・デーヴィスは着目する


1.レオ・アフリカヌス;キリスト教に改宗したムスリムの物語!
ラテン語名、レオ・アフリカヌス、通称アフリカ人ジャン・レオン、もともとはハサン・ブン・ムハマンド・アル・ワッザーン・アッザィヤーティと言う。スペインのアンダルス地方グラナダに生まれ、15世紀後半のレコンキスタの圧力でモロッコのフェズに逃れそこで育つ。法学と修辞学を修める秀才だった。だが戦争がアル・ワッザーンの勉学を支えていた学資基金の存続を困難にした。治療院で働くかたわら、学友との交流で独学に励む。
アル・ワッザーンはよく旅をした。役人のおじにつきしたがって、北アフリカやサハラ、またチンブクまで足をのばしている。アフリカの王朝について記録するばかりでなく、その土地のゴシップも収集している(たとえば聖人のスキャンダルなど)。ところで旅は、多くの場合、ムスリム達の得意分野なのだ、ということを思い出す。
やがてフェズのスルタンの外交をになう使者となる。外交官と一言では言えない気がする。なぜなら、アトラス山脈の寒村に赴けば、判事の役も引き受けるからだ。…カイロのマムルーク朝では、正式の接待を受けられなかった。マムルーク朝の関心は、紅海とインド洋のポルトガル勢力にむいていてマグレブはさほど重要ではなかった。イスタンブールにゆくと、セリムはシリアでマムルーク朝攻撃の準備中だった。オスマントルコの高官がアル・ワッザーンを迎えた。アル・ワッザーンは、船でカイロにもどりジャニサリー(オスマントルコにおけるキリスト教徒子弟による最強近衛師団)による略奪の後を自分の目でみる。アル・ワッザーンは奇妙な、割り切れない感情に捕らわれる。
1518年夏、事件はチュニス沖の島の近くで起きる。アル・ワッザーンは、ずっとロドス島のホスピタル騎士団など、キリスト教徒の海賊を恐れていた。海賊に捕らわれたアル・ワッザーンは、スペインの支配するトリポリに連行された。身代金を要求できる人物なのか奴隷として売るのか、訊問をうける。アル・ワッザーンのもつ情報が重要であると、トリポリの訊問官(!)は判断する。アル・ワッザーンは奴隷として売り飛ばされる不安を感じながら多くを語り、もしかすると自分を売り込んだのかも知れない。
アル・ワッザーンは、バチカンのサンタンジェロ城に移送される。メディチ家出身の人一倍好奇心旺盛だった教皇レオ5世がアル・ワッザーンに興味をもつのだ。

2.バチカンに移送されたアル・ワッザーンがキリスト教徒に改宗する
1518年夏、アル・ワッザーンは、チュニス沖でキリスト教徒の海賊に捕らわれる。彼は、トリポリで調べをうけたあと、彼の並々ならぬ知識・情報が高く見積もられたのか、バチカンに移送されるのだ。往時のローマは、オスマントルコの圧力、ルネサンスの熱気、ルターの宗教改革に揺れていた。
アル・ワッザーンが捕らわれていたサンタンジェロ城には、ボナベントゥーラもいて、彼についての言及の証拠はないけれども、ボナベントゥーラの噂を聞いていたに違いない。著者のナタリー・デーヴィスは、その同時代性がとても気になるようだ。サンタンジェロ城におけるアル・ワッザーンの扱いは緩やかで一定の自由もあった。バチカンの大図書館のアラビア語本も借りだし読むことができた。
教皇レオ5世との謁見は印象的だ。アル・ワッザーンは、教皇の対トルコへの姿勢を見誤らなかった。レオ5世のトルコへの強硬姿勢に、アル・ワッザーンの影響があったかもしれない。
長引く勾留のなかで、アル・ワッザーンは、自分の行く末を何度も考えたに違いない。ベネチアとチュニジアとの連合で、それに自分が加わることで、自分はもう一度故国に帰れるかも知れないと思った。また、囚人のままでいるのか、奴隷となるのか、という重圧がつねにあったのだ。
1520年、アル・ワッザーンは、洗礼をうける。ソウソウたる名士が証人となった。以降、アル・ワッザーンの強力な後ろ盾となるのは枢機卿エジディオ・ダ・ヴィテルボEgidio da Vitelboだった。彼は、教皇の浪費・放蕩を可能にした財務官だった。
解放されたアル・ワッザーンは、ローマの路上にでた。ローマを歩き、自分がこれまで見知っていた街とくらべてみた。また、さまざまな言語が飛び交うローマに彼は驚き興奮した。そして、彼は翻訳の仕事に勤しんだ。外交文書の翻訳ばかりでなく、『パウロ書簡』をアラビア語訳し、より正確な『コーラン』のラテン語訳も行っている。
アリストテレス学者のアルベルト・ピオAlberto Pioの屋敷を舞台とする当時の知識人との交流が感動的だ。ルネサンス人文主義はアラビア語文献の助けを借りてギリシャの古典の再発見に至ったのだとは、よく聞く話だが、この本を読んで、その実相、具体的ディティールに初めて触れることができた。アル・ワッザーンは、イスラムにおけるイエスキリストのメシアとしての意義を説いた。ピエリオ・ヴァレリアーノPierio Valerianoとは、動物に関するシンボリズについて議論を行った。歴史家のパオロ ジョヴィオPaolo Giovioとは、オスマン朝のスルタン、セリムについての情報交換を行った。ただ、ヴァレリアーノは、アル・ワッザーンとの交流は明らかであるにも関わらず、彼への言及を行っていない。アル・ワッザーンのキリスト教への改宗には、信頼にもとるところがあると判断していたのかも知れない。知に関する同志であっても、信仰上の同志ではない、と。

reo africanus
■1483年頃のスペインのアンダルス地方で生まれ
1555年頃チュニスで没
通称レオ・アフリカヌス
ナタリー・デーヴィスはキリスト教への改宗後、
イタリアで用いていた名、アル・ワッザーンをは好んで用いている

3.アヴェロエスやマイモニデスの翻訳の手助けをする
1524年には、また異人が現れキリスト教徒とユダヤ人による反トルコ連合を提唱し、ローマの人々を騒がせた。ティルベ川の河口で、チュニジアの海賊が教皇庁の船舶を拿捕する事件なども起きた。
アル・ワッザーンは、他のムスリムと接触することは極めて危険だった。
ただ、当時のローマには元ムスリムの奴隷が数多くいた。家事を担う奴隷は、例外なくキリスト教へ改宗させられたのだ。そして、アル・ワッザーンとは異なり奴隷の洗礼は簡単なものだった。ただ、そのような改宗が制度化するのは1520年代のことになる。また、驚くべきことに(いや、当然起こりうべきことに、と言うべきか)、ローマの上流人士の中には、元ムスリムの奴隷との間に子をもうけることが少なからずあった。実際、アル・ワッザーンが住む界隈には有色人種の女主人の家が稀にあり、それは何を意味するのだろうか。
1523年、アル・ワッザーンは、ボローニャを訪れている。絹製品、工芸品が溢れる豊かな街を見て、彼は北アフリカの諸都市を思い比べた。また、アル・ワッザーンはボローニャの大学を見て感激している。伝統ある知の壮大な構築物をアル・ワッザーンは想像したのだろう。だが、ボローニャがアル・ワッザーンに特別な意味を持つのは、ユダヤ人の医師マンティーノとの出会いだ。マンティーノとは、まずペルシャ医学への興味を共有することができた。アル・ワッザーンは、ローマを超え彼のアラビア学を深く豊かにする契機を掴んだのだ。
マンティーノは医師であるとともに占星家であり、そして何よりもアリストテレス哲学を研究する哲学者だった。マンティーノは、アリストテレス理解のためにアヴェロエスやマイモニデスの著作の重要性をひしひしと感じていた。マンティーノは、アル・ワッザーン助けを借りて(アル・ワッザーンは、マラケーシュで、アベロエスの墓を訪ねている)、アヴェロエスのアラビア語で書かれたアリストテレス論を読み、ラテン語に訳したのだった。
アヴェロエスもマイモニデスもアンダルス地方コルトバ出身のユダヤ人だ。生きた時代も重なる(12世紀)。ただし、現代の史家は、二人の交流の可能性を否定する。イスラム圏で抜きんでた知を誇るユダヤ人学者が、アラビア語で著述し、それがルネサンス期のイタリアで研究される。本来はラテン語のテキストも、欧州ではその多くが失われアラビア語の翻訳でしか読めなくなっていた。今では考えにくく、私には錯綜してみえるが、実は、ダイナミックで何とも輝かしく見える。それは、この本『トリックスター・トラヴェル』の重要な主題の一つである。
マンティーノは、アル・ワッザーンを、『ラテン語・ヘブライ語・アラビア語辞書』作成の仕事に招く。アル・ワッザーンは、その仕事を喜んだ。『辞書』は大変興味深いものであったが完成をみなかった、とナタリー・デーヴィスは書いている。だが、より意味深いことは、その多言語比較の研究を通じて、アル・ワッザーンが彼自身による著作(例えば、『アラブの傑出せる人物達』)を書く根本のモチーフを探しあてたことなのだ。   

4.アル・ワッザーンのアフリカ
アル・ワッザーンは、アフリカについての草稿をチュニス沖での拿捕の際にも、肌身はなさず持っていた。アル・ワッザーンのイタリア在留時代は、気の滅入るつまらない仕事も多かったが、それらをこなしながらあの偉大な『アフリカ誌』をものしていった。
アル・ワッザーンは、自ら『アフリカ誌』の原稿を書いていった。イブン・バトゥータの『大旅行記』が聞き書きであったように、イスラム世界では、長いこと、書物は筆耕による聞き書きが主流であった。1526年に彼は少なくとも2部の『アフリカ誌』をつくりあげた。
10世紀の著名な地理学者アルマスーディにとって旅は極めて重要な情報源であった。しかし、彼の関心は、言語・人々・イスラムに限られていたのだ。それとは反対に、アル・ワッザーンの『アフリカ誌』は、地誌であり、歴史書であり、旅行記であり、逸話集などによる混合物なのだった。
興味深いことに『アフリカ誌』には、西欧流の地図はついていない。場所は、ある土地からの旅程であらわされているに過ぎない。西欧の地図は、アル・ワッザーンには馴染めなかった。彼にとって旅が重要なのは、証拠だてるものではなく、彼の人生そのものであり、山と砂漠は、聖なるものと出会う場所だったからだ。
アフリカは、アラビア語でイフキリアという。本来は、チュニスのあたりを指す言葉だった。他方、マグレブは、アラビア語で西の意味だ。ある全体をアフリカと呼ぶようになったのは、ヨーロッパの側からだった。逆に、アウルーファというアラビア語はあったが、当時誰もヨーロッパとは言わなかった。ヨーロッパやアフリカと呼ばれるようになるには、16世紀になってより広い世界なるものが意識されてからなのだ。
アル・ワッザーンは、アフリカとヨーロッパという語を用いて彼の地誌を書き進めた。
彼にとってのアフリカとは、バーバリ(チュニスからアトラス山脈を含む北アフリカ)、ナンビア、リビア、そして黒の土地とを指す。エジプトの捉え方は議論のあるところのようだ(ナイル川と紅海のどちらがアフリカとアジアの境になるか、という問い)。
アル・ワッザーンは、アフリカに住む人々の特長を描く。ベルベル人の源は、地中海岸の白色人種であり、その方言にも言及する。コプト人や、エジプト人について、さらに興味深いのは、北アフリカのいたるところにいたユダヤ人についてアル・ワッザーンが言及することだ。その場合のユダヤ人とは、遥か昔にユダヤ教に改宗したベルベル人や黒いアフリカの人々も含まれる(ユダヤ人とは、ここでは血のつながりではなく同じ信仰をともにする人々の呼称になっている)。
それらアフリカの土地と人々の多様性をアル・ワッザーンは語りながら(たとえばエジプトやコプトやナンビアの乱れたアラビア語について論じる)、他方で、アフリカの統一性を主張する。彼は、それらの人々のすべてがノアの末裔だと言うのである。イタリア人の読者の前で、アフリカの人々の肌の色、隷属性をアル・ワッザーンは直截には語らない。ただ、彼らの祖先がノアであることを言うのだ。彼はアフリカの差異への関心をしめしつつ、最終的にはその統一像に向かう。
未開で野蛮な人々も預言者の教えで、文明化していった。ムスリム特有の「神の祝福がありますように」といった呼びかけや、長たらしい神への祈りを避けながら、預言者への信仰がアフリカを統一する、と言う。これは、イスラムの教えを直接もちださないで、イスラムの教えの卓越を説いてはいないだろうか。いずれにしても、アル・ワッザーンのアフリカとは、ムハマンドの教えによって結ばれた大地なのである。

5.近世初頭の北アフリカにおける宗教の閾を超える性的逸脱について
イスラム教の発生の地、西アラビアの言葉は、非アラブ圏の言葉と接触し変質していった。諸言語の混交は、必ずしもイスラムの文化を破壊しなかった。そしてアル・ワッザーンの取り上げるもうひとつの混交は、性に他ならない。ナタリー・デーヴィスは、性の混交にとりわけ注目している、ように見える。
イスラム法では性的交渉は正式の結婚、あるいは合法的な奴隷との場合を除いて罪となる。ただし、ムスリム男性は経典の民である自由民のユダヤ人女性、キリスト教徒の女性を都合4人の妻のうちにもつことができた。また、自らが所有するユダヤ人の奴隷、キリスト教徒の奴隷との性的交渉を持つことも罪には問われなかった。異教徒の奴隷との間にできたこどもは、自動的にムスリムとして育てられた。他方、ムスリムの女性は、同じムスリムの男性としか結婚できなかった。また、ムスリムの女性は、奴隷との性交渉は許されなかった。ムスリム法とは対照的に、ユダヤ人とキリスト教徒の法では、性交渉の境界は厳格に閉じられていた。ラビによる法では、結婚、および性交渉はユダヤ人に限られるのだ。キリスト教聖典および教会も、非キリスト教徒との結婚・性交渉を例外なく禁止した。
しかしながら、それらの境界は、実際には流動的なのだと、ナタリー・デーヴィスは言う。とりわけ宗教の閾を超えた性行為は、例えば、キリスト教王国であるアラゴン王国では、キリスト教徒やユダヤ教徒の男達は、マイノリティであるムスリムの女たちと交渉をもった。その女達とは、奴隷、娼婦であり、自由民もいた。さらにそこでは、自由民のキリスト教徒とユダヤ教徒の女達が、ムスリムの情夫をもつこともあったのだ。無論、この「性的逸脱」は、処罰の対象である。
アル・ワッザーンは、ムスリム統治時代のグレナダやフェズでの日々を回想する。そこでは、ムスリムの夫がキリスト教徒やユダヤ人の妻をもつことは決して珍しいことではなかった。そして、イスラム教もユダヤ教も禁止していたことだけれども、ユダヤ人の男達は、ムスリムの娼婦のところに通った。ところで、アル・ワッザーンは、北アフリカおよびイタリアにおける梅毒の感染・猖獗は、ユダヤ人の娼婦がキャリアーになっていたと見ているようだ。
ナタリー・デイヴィスは、分かりやすい結論を書いてはいない。が、シロートから言わせれば、要するに、人間の性的な営みは、宗教という枠組み・対立・掟を軽々と越えてしまう、そして、深刻な偽の宗教対立に喘ぐ現代において、人間の根源的な営みである性を歴史的に見つめなおすことは、人類の和解、寛容、再生にむけた重要な視点を提供しているはずだ、と思えてくる。

6.トリックスターとしてのアル・ワッザーン
アル・ワッザーンは、友人をむち打つ話と住みかを変えて税を免れる鳥の話を好んだ。
友人をむち打つ話というのは、ある男がむち打ち刑の判決を受けるのだが、そのむち打ち刑の執行人が実は友人で、男は友人の執行人に同情を期待する。友人の執行人は、情け容赦なくその男を打つ。男は、鞭打たれながら叫ぶ「友よ、お前は友にこのような仕打ちをするのか」と叫ぶのだ。それに対する執行人の言葉が面白い。「友よ、我慢してくれ、私は行うべき義務をはたさなければならないのだ」と答える。
また、税を免れる鳥の話はこうだ。
「昔一羽の鳥がいた。その鳥は丘でも海でも生きていけた。鳥たちの王がくるまでは、空で仲間とともに暮らしていた。王が現れ税の支払いを求められると、その鳥は即座に海に飛んでゆき、魚にこう語りかけた。『私を知ってますよね。いつも一緒だったのですから。あの怠け者の王は、税金を払えと私に言うのです。』魚は、その鳥を歓迎して受け入れた。鳥は、魚たちと快適に暮らした。すると今度は魚の王が現れて税の支払いを鳥に求めた。鳥は、すぐさま水の中から飛び出し、鳥たちのところに戻ると、同じ話を語った」
上記のふたつの寓話について、ナタリー・デーヴィスは、その変遷やルーツやらの込み入った考証をおこなっている。彼女の結論は、それこそがトリックスターとしてのアル・ワッザーンの本性を語っている、と言うのだが、少々分かりにくい。ここでは、ナタリー・デーヴィスの論を離れて、アル・ワッザーンがこのふたつの寓話を好むところを私なりに想像してみたい。第一番目のむち打ちの話は、義務は友情に優先する、と解釈できる。この場合の、義務とは、職務への義務であり、アル・ワッザーンの場合の職務は、学識の追及であるから真実を語ることへの義務と考えられる。真実を語ることが非常に重要で、それは友情にも勝るものだ、と。
税を免れる鳥の話は、土地やそこの人々に固着する義務は、二次的な義務である、ということだと考えたい。アル・ワッザーンは、『アフリカ誌』において、アフリカの人々の徳と悪徳を語る。その際、アフリカ人の悪徳については、自分はグラナダ生まれなのだといい、グラナダの人々に良からぬ点があれば、自分はそこで育ったのではないと言う、のだ。
むち打ちの寓話と税を免れる鳥の寓話のふたつを結び付けると、土地に縛られず、すなわちそこの人間関係に流されず、真実を語ることの重要性が浮かびあがってくる。土地とその人々への関与を免れながら、真実を語ってゆく、あるいは行動してゆくところにアル・ワッザーンのトリックスターとしての特性があるように思えてくるのだ。
ところで、以上のいささかこじつけに過ぎる解釈はさておき、もっと単純にその挿話を味わいたい。とすると、鳥が税を免れる話には、もっと違った面白さがある。つまり、義務を免れる弁解そのものの物語、あるいは何ものにも属さない自由の感覚がそこにはある。なんだかんだと屁理屈をいって義務を免れる輩、それはある共同体にとって敵かも知れないが、しかし、そういうものが明かす真実があり、また共同体にとっても逆説的に有意義な存在となる場合があるのだと思えるのだ。
ナタリー・デーヴィスの論に戻ると、アル・ワッザーンは、実に自由にヨーロッパと北アフリカの間を、キリスト教とイスラム教の間を行き来する。ただ、アル・ワッザーンは、どうちらの側にいても、一定の距離を保ち過渡の関与を避ける。北アフリカのスルタンに対しても、イタリアの教皇勢力にも一定の距離を保ちつづけた。彼は、反コンキスタドールの戦いに参加したことはあるが、ジハートという観念に熱狂したふしはない。そのような相対的な立場の取り方がユニークなのだ。そしてそれは何に由来するのだろうか、ということを考えてみたくなる。…ナタリー・デーヴィスは、アル・ワッザーンが義務を放棄し、相対的な位置取りをつづける彼の姿勢について、彼が三度の侵略・虐殺を目撃している、ことを強調する。一回目は、1517年、イスタンブールからの帰途カイロに敢えて立ちより、オスマントルコ帝国によるカイロ略取、とりわけジャニサリー(キリスト教徒子弟による最強近衛師団)による住民への略奪を目撃する。二回目は、1527年ドイツの新教の軍隊によるローマ劫奪(こうだつ)(このどさくさの後にアル・ワッザーンは、チュニスに船で逃れる)、最後は(これは、証拠はないのだが)、1535年の神聖ローマ帝国カール5世によるチュニスの攻撃と略奪だ。
アル・ワッザーンのトリックスターとしての本性には、侵略や略奪や虐殺に結びつく深刻さがない。悪知恵や悪企み、するりと責任や義務を躱してしまう狡さはあっても、究極の惨劇には向かわない。硬直した対立や憎しみとは無縁な、ある種楽天的な駆け引きがあるのだ。

natarie zemon davis
■ナタリー・ゼーモン・デーヴィス
1928年米ミシガン州デトロイト生まれ
『帰ってきたマルタンゲール―16世紀フランスのニセ亭主騒動』
(平凡社ライブラリー)ほか

7.アル・ワッザーンの沈黙
歴史(学)は、想像するヒントを提示してもらえれば十分であって、あまり説明をしてもらいたくない、と思うことがしばしばである。そのような考えに似て、歴史(学)における沈黙が魅惑的に思える時がある。ナタリー・デーヴィスのこの本も、きわめて明確に、アル・ワッザーンの沈黙に注視する。
まず、アル・ワッザーンは、1518年夏の、キリスト教徒の海賊による身柄の拘束について沈黙する。彼は、ずっとロドス島のホスピタル騎士団など、キリスト教徒の海賊を恐れていたがこの事件について沈黙するのだ。ついでに言うと彼の拘束については、オスマントルコのスレイマンのところに届いていた。また、改宗・洗礼についても、すぐにベネチアに伝わった。彼が、身柄の拘束について沈黙するのは、恥辱と感じたためだろうか、あるいは身の安全のためだろうか、分かるようで良く分からない。
アル・ワッザーンは、クリスチャンとしての自身について何も語らない。彼のキリスト教信仰への沈黙が、彼の改宗が偽装であることの証左である、と言うのは容易だが、それをいくら言っても、アル・ワッザーンの実態の本質は明らかにならない。
アミン・マアルーフの小説『レオ・アフリカヌス』(服部伸六訳、リブロポート)では、ドイツ人の青年がマルチン・ルターの教説をアル・ワッザーンにぶつけ、意見を引き出そうとするが、そこでもアル・ワッザーンは、新教への興味を示しはしない。
アル・ワッザーンは、アフリカはトンブクトゥまで、東はメッカを超えて中央アジアまで、欧州ではフランスまで行っている大旅行家である。しかし、バルトロメウ・ディアスの喜望峰(1448年)の発見には沈黙する。ポルトガルがバチカンに贈ったインド象がローマの街をねり歩いたのだから、ポルトガルのインド洋侵出を知らないわけがないのだが彼は沈黙するのだ。
アル・ワッザーンは、多くの女(性)たちについて語った。白い服を着た母、アフリカの女(性)、ユダヤ人の娼婦、アトラス山地の女(性)、また、女(性)たちのつけるヴェールについても言葉を費やした。ただし、フェズに残してきた彼の妻については何も語らないのだ。
そしてアル・ワッザーンにおける最大の沈黙は、1527年のチュニスへの帰還以降のことだ。帰ってきた背教者の立場は非常に厳しいものだったことは容易に想像される。なにしろ彼は『コーラン』をラテン語に訳したのだ。つまり神の言葉を異教に売った。ナタリー・デーヴィスは、17世紀フランス人旅行者の記録を引いて、アル・ワッザーンの難しい立場を推し量っている。結論は、もしアル・ワッザーンに有力な後ろ盾がなければ、斬罪されていただろう、と。他方で、1535年、カール5世によるチュニスの攻略では、アル・ワッザーンが通訳として働いた可能性がある、とナタリー・デーヴィスは推測するが証拠はない。また、ナタリー・デーヴィスが残念がるのは、アル・ワッザーンが予告していたヨーロッパとアジアについての本はついに世に出なかった、ということだ。いずれにしてもイタリアにおける多産な知的活動と、チュニス帰還以降のアル・ワッザーンの沈黙の意味するところは極めて興味深い。
この本の終章は、アル・ワッザーンをラブレーに引き寄せて、論じている。それは、暴力によって分断された現代を、ふたたび多様性ある寛容な秩序を取り戻す探求のように見える。
2019, 5/11

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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