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6.シヴァ・ナイポール『潮干狩り』(1973年刊) Shiva Naipaul, The Chip-chip Gatherers, New York, Viking Penguin Inc. 1983, First published in Great Britain 1973.

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 愛しく温もりのあるものは去っていく
 生きていくために一歩を踏み出さなければならない
 シヴァ・ナイポールは
 安住を拒まれた荒々しい魂の漂白を描く 

  V.S.ナイポールは、ミシシッピ大学から出ている対談集(Conversations with V. S. Naipaul, Edited by Feroza Jussawalla)のなかで、弟のシヴァ・ナイポールについてクソミソに悪く言っている。「どうしようもないない弟で、ヤク中にでもなって野たれ死ぬしかない」と。言葉が辛らつなことで有名なナイポールにしてもちょっと言いすぎではないかと僕は思っていたのだが、パトリック・フレンチの大部な評伝『世界はあるがまま』(Patrick French, The World Is What It Is)を読むと、兄ヴィディアが言っていることは、あながち誇張ではないことが分る。何でもオックスフォード時代のシヴァは、風呂にも入らずつねに異臭を放ち、ドラッグ漬けの問題児としてかなり目立つ存在だった(ついでに言うと、シヴァの専攻は中国の古典研究だった)。

シヴァ・ナイポールにあまり馴染みのない人は、兄ヴィディアとある意味非常に似ているところが気になると思う。オックスフォードへの留学、小説家への道、故郷トリニダットを題材にした小説、第三世界への批判、等々。それについては、『終わらなかった旅』(晶文社)に、自分と兄の関係について語っている短い文章(“兄とわたし”)が収められていて非常に面白い。どこまで本心かは別にして、兄が自分の目標であったことはないし、作家になったのも成り行きとしか言いようがないと書いている。

シヴァ・ナイポールは、兄のV.S.ナイポールと同様に、第三世界の現実を完膚なきまでに批判する。第三世界でシヴァが経験する非効率、怠惰、虚偽、狡猾、無秩序は、旧宗主国の側にだけ責任があるのではない、と表明する(North of South)。しかし、この『潮干狩り』という小説における故郷トリニダットは、同じ第三世界を扱いながらも、故郷に対する作家のアンヴィバレントな感情が横溢しているのだ。
シヴァ・ナイポールは、地理的には同じトリニダットであるとしても、十以上も歳のはなれた兄ヴィディアとは同じトリニダットに育ったとは言えない、と書いている。環境も人々の生活や考え方も違うのだとアクセントを込めて語っているのだ。
シヴァの発言に触れて、兄の書いた『ビスワス氏の家』(A House For Mr. Biswas)とこの『潮干狩り』における故郷のトリニダットがどう違うのか考えなおしてみると、それはそう単純に言えることではないのだけれども、あえて図式化して言えば、兄ナイポールはトリニダットからの脱出について、それ以外にどんな選択もなかったのだとかなり強引に主張しているように見える。トリニダットには、百幾つかの職種しかなく、トリニダットにい続けることはそのいずれかの仕事につき、世界の辺境で世界の動きから見捨てられて生きるしかないのだ、とナイポールは書いている(The Middle Passage)。あるいは、自分の故郷への思いにある曖昧さをあえて振り切ろうとしている。それに対して、シヴァの故郷トリニダットに対する姿勢は、遥かに曖昧なのだ。そしてそのシヴァの故郷に対する整理しきれない気持ちを、極めて率直に表明しているところが僕には好ましく思える。V.S.ナイポールとは違った魅力を僕は感じる。  

シヴァとヴィディア

母校クイーンズ・ロイヤル・カレッジを背景にシヴァとヴィディア
Patrick French The World Is What It Isより  
 
 シヴァ・ナイポールの二冊目の創作になる『潮干狩り』(1973年刊)は、故郷トリニダットの開拓村(settlement)を舞台にした物語だ。多くの文学賞を受賞し注目度の高かった小説だ。
エバート・ラムサランは、幼いときから商才があって(密輸に関わっていた)運送会社を成功させる。いかにも叩き上げの変わり者で横暴だ。息子のウィルバートの眼をとおして小説は進行してゆく。母は不器用で、また慎ましやかな女であるけれども、古雑誌から切りとった雪を頂いた山々の写真(アルプス)を壁にはり喜んでいるような愚かしくもぬくもりのある女だ。父エバートは大の医者嫌いだ。それが母を早すぎる死においやってしまう。
父エバートの友人でありライバルにヴィシヌ・ボーライがいる。幼くして弁護士になるのだと宣言するのだが、今は開拓村で雑貨屋をやっている。妻のムーンが強烈な女で、息子を医者にすべく鬼と化す。息子のジュリアンとウィルバートは、親の関係でつきあう羽目になるが、ジュリアンはウィルバートに読書の楽しみ・効用を話すが、ウィルバートは苛立ち、ジュリアンが大切にしている模型飛行機のコレクションを粉々に壊してしまう。
エバート一家のところに、美人だがワケありのスシーラが、同居している。もともとは遠戚にあたる女となっているのだが、あろうことか私生児の娘を生み、育てていくことになる。
私生児のシータは美しく聡明な娘に成長していく。そして、ジュリアンと恋仲になっていく。ウィルバートは、父の一存で学校を中退させられ、父の運送会社でメカニシャンとして働きだす。学校仲間とは違う人々、大人の世界に入っていく。ジュリアンは、医者となるべく留学生試験の準備が忙しくなるとシータとは疎遠になってゆき、シータは、“トリニダット・クロニクル”の新聞でジュリアンの留学生試験の合格を知るのだ。

この小説の主役ウィルバートは、運送会社の社長の息子という境遇・運命を甘受し、そのなかでクールな判断と周囲への思いやりを示してゆくようになる。ウィルバートは、従順というわけではなく時たま爆発するが、父親との対決、父親を否定しそこからの脱出にエネルギーを注ぐのではないのだ。他方、ジュリアンについていえば、本が好きで留学試験に合格する優等生であり、著者のシヴァに良く似たところがあるのだが、愛しいものへの別離をある種合理的に処理できる分軽薄だ。シヴァ・ナイポールは、自分に似たジュリアンを母親の意にそって動く優等生として描き、自分とは違う世界に生きていくウィルバートを、荒々しくも繊細な魂をもつヒーローに近い者に描いていく。著者シヴァの筆致は、あきらかに自己否定的であり、自傷的で自己分裂を引き起こしている。自分が愛しく思うものはつねに奪われていく、という思い込みをぬぐえないのだ。他者を発見してゆくことはなく、自分がつねに大きく立ちはだかり、経験に曳きずりこまれていくなかでどうにか判断の辻褄を合わせてゆく。後ずさりしながら生きていくことを自分に課しているようだ。
 
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  妻ジェニーと。兄ヴィディアは、二人の結婚に怒り式への出席を拒否する
 シヴァは、ジェニーの献身で作家修業に専心する 
 Patrick French The World Is What It Isより  

   シヴァ・ナイポールが描くトリニダットのインド移民の世界は、ほのぼのとした幸福感からは程遠い。せせこましく、運命づけられた悲しみに溢れ、また喜劇的ともいえる生存競争があり、ある種の過酷さを伝えている。シヴァの曽祖父は、ウッタル・プラデーシュ州の村から年季契約労働者としてトリニダットにやってきた。移民第一世代にとってトリニダットは出稼ぎの場であり、いつかはインドに帰るべきものと信じていた。世代が変わっても、トリニダットが根をはるべき故郷であったかどうかは疑わしい。『潮干狩り』のなかで生きる人々も、仮の世界に生きているような危うさをつねに醸しだしている。しかし、そうは言っても故郷は故郷なのだ。小説の最後の章における潮干狩りの美しい情景は、僕らに何を語っているのだろう。・・・この『潮干狩り』は、馴れ親しんだ故郷から、何度も引き剥がされていく人々についての物語なのだ。


  この小説でどうにも分かりにくいのは、運送会社の社長エバート・ラムサランとワケありの美人スシーラとの関係だ(小説の冒頭部分で縁戚にあると説明されている)。そして、さらにその息子ウィルバートと私生児のシータとの関係が分らない。
スシーラは、娘のシータを置き去りにしてサン・フェルナンドに出て行くのだが、やがてエバートのもとに戻ってくる。それからのスシーラは、エバートの秘書のようでもあるのだが、「毎晩同じ部屋のベッドで寝る」という一行がある。しかし、とくに二人の性的な関係を仄めかす言葉はない。スシーラがシータの父親であるという噂のあるムスリムと付き合いを再開していることを知ると、エバートは逆上しスシーラを家から追い出す。しかし、スシーラが再び戻ってくることを願いながらエバートは病に倒れる。
  息子のウィルバートとシータとの関係も不可解だ。ウィルバートはジュリアンと同級なのだから同じ位の年齢であり、ウィルバートがシータに恋しても一向に不自然ではないのに、シータに惹かれる素振りは見せず、一線をこえることはない。ウィルバートは、父親とスシータとの間にある秘密について何となく気付いているような感じだ。
他方、ウィルバートには、腹違いの兄貴がいる。エバートは、荒れた農場にこのかつての隠し子のシンを追いやっている。小金をねだりに現れたシンに、スシーラが罵詈雑言を浴びせかけ、ひどくつらくあたるシーンがあるが、これも僕には不可解だ。スシーラがシンをそこまで憎まなければならない理由が見つからないのだ。
  思いつきで言えば、スシーラは、エバートの隠し子ではないだろうか。エバートとスシーラの分からなさは近親的な愛を表現しているのではないか、と思う。この秘密めいた関係について、息子のウィルバートもシータも何となく気がついているのではないか。僕には、それが唯一説明可能な筋書きなのだ。

  兄V.S.ナイポールは、小説の理解とは、その小説が描かれている社会についての理解なしにはあり得ない、と繰り返し発言している。そういう難しさをこの小説『潮干狩り』ももっているのだろう。確かに、「世界地図におけるドット(点)にしか過ぎない」(V.S.ナイポール)トリダットの、そのまたインド系移民のなかば閉鎖的な小社会について僕は何の知識も持たない。しかし、僕がこの小説を楽しみながら読めるのは、風景でしかない遥かな外の世界を、とりあえず風景以上の何かを-そこに住む人々の考えや、生活-が見えてくることなのだ。それは、ひょっとすると人間についての普遍性への問いを含んでいるかも知れない。

テーマ : 洋書
ジャンル : 本・雑誌

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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