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107.ヴィヴェク・シャンブハグ『ガチャール・ゴチャール』(2017年刊)、Vivek Shanbhag,, Ghachar Ghochar, translated Srinath Perur, published by Penguin Random House, New York in 2017.

ghacar bookつましく暮らしてきた一家に
新しく起こした会社のすみやかな成功は
幸福というよりは何か不気味な不調和を
家族にもたらした
コーヒーハウスで多くの時間を
過ごすだけの無気力な主人公は
家族が豊かになってゆく現実に
違和を感じているようでもあり
終始 傍観者のようでもあり
捉えどころがない 
だが 家族の今の繁栄を妨害する者が
あきらかになると 無意識にその者を
抹殺したのかも知れないのだ
この小説は豊かになっていくインドの
深い不安を表明しているに違いない


   この小説は何か不気味な通奏低音をもっている。その不気味な靄を除くと、ある一家に起きたごくありきたりの物語なのだ。リストラによる父親の失職、叔父の会社ソーママサラ(香辛料の卸業)の立ち上げとそのすみやかな成功、姉マラーティの離縁と実家への出戻り、幸福だったアニタとの結婚と軋轢など、ごくありふれた出来事が続く。しかし、何かが不気味なのだ。南インド、バンガロールの街や通りに降り注ぐ日差しはキラキラ輝いているはずなのに、薄い靄がいつもかかっているように見える。

   小説はこのように始まる。
「私」はコーヒーハウスと皆が呼ぶ店のテーブルに腰かけ、ただ通り過ぎる人々を見ているのだった。そこのウェイター、ヴィンセントとのちょっとした会話が「私」には何よりも心の慰めだった。その日は、前の恋人チットラとしばしば座ったテーブルに女が座っていた。その女のところへ男が現れると、女はその男をいきなり殴りつけた。二人に何があったのか、と「私」は訝る。チットラのことを思い出す。チットラも、さっきの女のように、「私」を良く厄介払いした。チットラは民生委員の仕事をしていて、夫の暴力や横暴に苦しんでいる女たちの話を「私」にするのだった。「私」は、その男たちの罪を、自分が負わなければならないような気持で聞いたのだ。彼女との最後の会話を思い出す。姑に深夜家を追い出された嫁、夫もその虐待に加担したのだ、と。
 
 なぜこの「私」は、日がな一日、コーヒーハウスで暇をもてあましているのだろうか、と疑問が湧いてくる。この男は、遊んで暮らしていける裕福な家の子息なのだろうか、少し違うように見える。というのは、遊んで暮らしていける結構な境遇以上に、この男につきまとっている暗い影が気になる。深い喪失感がこの男を包んでいる。この語り手はまるで死人のようなのだ。そして、民生委員の彼女の虐待の話を、どうして自分の責任と考えなければならないのかが、分からない。何か調子が狂い、安定を失い、底知れない不安に主人公は苦しんでいる。

   学校を卒業すると「私」は叔父のヴェンカタチャラに勧められるままにソーママサラに入った。しかし、その叔父の会社で「私」は働くことはなかった。「私」の一日は、朝起きてシャワーをあび、コーヒーハウスに行き、それからソーママサラの事務所にゆき、新聞を端から端まで読み、またコーヒーハウスに立ち寄り、ヴィンセントと会話を交わし、家に帰ってくる、その繰り返しだった。……「私」の最初の給料で、母は、新しいサリーを買うことが夢だったが、ソーママサラの成功が母のそんな夢を忘れさせたのだ。

 ヴェンカタチャラの会社ソーママサラの成功には、ある種非合法な雰囲気がある。その秘密のノウハウを叔父は一人占めしていて、家族の者にも明かさない。叔父に退職金を出資した父も、初めソーママサラで働きだすのだが、何かを嗅ぎ付け身を引いた。叔父は、家族のものに給料を存分に支払うが、会社で働くことを好まなかったのだ。叔父はいい人ではなく悪人なのだ。だが、叔父はきわめてまともな精神のもちぬしだ。苦しみ、精神のバランスを崩しているのは、その悪のビジネスの当事者ではなく、そのおこぼれに与っている傍観者の「私」のほうなのだ。この構図が、この小説に不思議な味わいを与えている。

 いくつもの読み応えのあるエピソードが続く。だが、それらのなかで、とりわけ印象深いのは見知らぬ女が家に訪ねてくる場面だ。彼女は、家の外で、叔父を待つ。家の者は、彼女が家の中を覗っていることに気付いている。長い時間がたってとうとうその女は、家のドアをノックし、叔父がいるはずだが会いたいので取り次いで欲しい、と母に言った。母は不承不承取りつごうとするが、叔父に来客をつげると、叔父は、会いたくない、居ないと言ってくれと言う。あからさまな居留守だ。母は、叔父はいないというと、女は抗弁するが母はとりあわない。女は、叔父の好物のレンズ豆のカレーを持って来たのだと、差し出す。姉のマラーティが「この売女」と罵り、そのカレーをはねのける。地面に彼女の手作りのカレーがぶちまけられる。「私」は、彼女の叔父への愛情は、本物だと思う。その愛情を足蹴にするこの家の女達を「私」はどうすることもできない。妻のアニタはこの事件に深入りせず遠くから見ていたが、家族の非道をのちになって非難するのだ。そして、叔父の商売についても、警察にすべてを告げなければならない時が来る、と言うのだった。

vivek.png
ヴィヴェク・シャンブハグ
カンナダ語作家
カルナカタ州アンコラに生まれる
マイソールで工学を修める
パンカジ・ミシュラが近年もっとも
注目すべきインド人作家という

 妻のアニタが里帰りすると、家の雰囲気が少し違ってきた。昔のように皆してお茶を飲み世間話に盛り上がった。水入らずということか。昔住んでいたところに住む教師のムンジャナトゥの話に及ぶ。ムンジャナトゥの女房は、若くて元気だったのに突然の死んだ、とても不自然だ、と。すると、夫に殺された以外に考えようがない、と母は言う。その殺された女と妻のアニタの不在が何か重なりあって行くようなのだ。
そして小説は、ウェイターのヴィンセントに「お客様は手洗いが必要かと存じます、手についた血液を洗い流した方が宜しいかと」と言われ、主人公がはっと我に返るところで終わる。
 
   叔父の商売の成功が一家を狂わせた、と考えるのは慎重でなけれなならない。つまり、貧困を美化してはならない、と思うのだ。しかし、この小説は、豊かになってゆくことで(あるいは慎みのない豊かさ中で)失われてゆく何かとても貴重のものについて執拗に語りかけてくる。あるいは、人の道を外れた過剰な豊かさに、底知れない不安を感じているのかも知れない。……この小説は、豊かになりつつあるインドのある現実について、その不安と疑問をストレートに問いかけている、と私は考える。愛を繋ぎとめようと心を込めて手作りしたレンズ豆のカレーを突き返すような怖ろしい時代にインドは入りつつあるのかも知れない。

   ところで、小説のタイトル“ガチャール・ゴチャール”は、この小説を読めば明らかになるのだが、それには何の意味もない、二人の、幸せの符丁なのだ。それもまた、ものに溢れた豊かさでではない何か、あるいは汚辱を知らない慈しみを、作家は呼び戻そうとしているように思える。

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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