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104.アニタ・ナイール『女性専用車』(2001年刊)、Anita Nair, Ladies Coupé, published by Penguin Books India in 2001.

ladies coupeバンガロールからカニアクマリに向かう
女性専用車両で
そこに居合わせた女(性)たちが
それぞれの半生を語り合う
平凡な主婦は 夫なしでは何もできないと嘆く
横暴な夫に復讐する高校の化学教師
リッチで活力ある宝石商の妻
祖母の生き方と事件的な死を語る少女
下働きの労働を続けるなかで
性に翻弄された下層出身の女(性)
語り手アクヒラはそこに様々な回想を織り交ぜる
父親の突然の死があり 
家族のために犠牲となったのだ
封印したはずの年少者との恋愛が
再び激しい欲望となって現れる
これは質の高い娯楽性と
社会的抗議をあわせ持つ 問題提議の小説である
このような小説をむさぼり読む
インドの娘達・女(性)達の顔が 目にうかぶ


小説は、主人公のアクヒラがバンガロール・カントメント駅に立っているところから始まる。駅の雰囲気を伝える描写とディテールがいい。暑さは髪にさしたジャスミンまで汗ばむようだと、言う(異形の徴か)。駅舎は多くの人でごった返し、こんなに大勢の人が列車に乗れるのだろうか、と彼女は不安に思う。暇な警官が大型スクリーンのTVを見ている、走りまわる子供たち、線路に散乱するごみ、トイレの悪臭、赤いターバンのポーター、等々、インドの鉄道駅の光景が伝わってくる。家族に見送られる男、きっと男はボンベイへ出てそこから中近東方面の国に出稼ぎに行くのだ、そして、家族の期待と重圧をアクヒラは思う。家族の幸福のすべてが、この男の出稼ぎにかかっている、のだと。

 アニタ・ナイール『女性専用列車』は、バンガロールからカニアクマリ(コモリン岬に近い)に向かう列車のコンパートメントにたまたまで乗り合わせた六人の女性が、それぞれの半生を語り合い、それによって女の生き方、あるいは女の存在とはどのようなものかを問う、フェミニズム小説だ。ただ、アニタ・ナイールのフェミニズムは、出来上がったイデオロギー臭さが些かもなく、素朴な手つきで女の生き方を本気で考えているところが、好感がもてる。乗り合わせた女に半生を語らせる小説の枠組みは、初め古臭くも思えたが、語りは、インドならでは女(性)のおかれた諸相を、自然かつ秀逸に描き、引き込まれるようにして読んだ。

 物語の始まりは、父が突然亡くなった、ことなのだ。そのとき語り手のアクヒラは大学進学の準備をしていた。学業優秀で、一族のうちで初めて高等教育を受ける者になるはずだったのだ。アクヒラは、父の事故死が自死であると確信するにおよんで、アクヒラの悲しみは怒りへと変わっていった。三人の弟と妹はまだ幼なかったのだ。アクヒラは、葬儀では少しも泣けなかった。母は、人の目を気にして、泣いてくれ、とアクヒラに懇願するのだった。……父は、税務署に勤める堅物だった。賄賂を受け取らないので有名だったのだ。それでも、母とアクヒラは父の昇進をずっと待ち続けた。その父が母と四人の子供を残して、すべての重荷から逃れるように、突然、逝ってしまったのだ。ただ、父を煙たがった役所は、父を殉職とし、アクヒラを税務署の事務係に採用した。最後に、役所は温情を示したのだ。

 賄賂を拒む清廉潔癖な人物を、インドの現代小説が好んで描く。たとえば、ウダイ・プラカーシの“そして最後に祈りを”(『ウダイ・プラカーシ選集』大同生命国際文化基金ん)などが印象的だ。彼らは、正しいことをしているが組織では孤立している。そのような人物像は、現実には存在しえない極めて理想的なヒーローなのか、あるいは、実際にそのような清廉潔癖な人がインドの諸組織には少なからずいて、その報われない不幸が作家たちを惹きつけ救済を試みさせるのか、私には、よく分からない。この小説におけるアクヒラは、理想を貫き得なかった父、大胆に現実に処することができなかった父に対し批判的だ。だが、アクヒラが家族を飢えと路頭に迷わせないのために高等教育も、愛も、結婚も、職業もすべてを諦め、弟と妹を育て上げたとき父について何を思ったか、かなり複雑なものがある。ここに、アニタ・ナイールによるフェミニズムについての真摯な問いがある、と思う。家父長制の色濃いインドの社会いおいて、その弊害を事上げするだけではなく、その重い責任を引き継がなければならなくなったとき、フェミニズムはどのようなことが起こるのか、を問い考えているからだ。

 コンパートメントの自分の席にどうにか落ちつくと、アクヒラは、様々なことを脈絡もなく回想する。父親にまったく従順で家事に勤しむ母や、つましい生活のこと、愛し合う夫婦の子はそれほど幸せではない、というようなことを思うのだ。そうこうしているうちに、列車は、カニアクマリを目指しバンガロールを発っていく。
 ほぼ席がうまったコンパートメントで、話の口火を切ったのはアクヒラだった。アクヒラが未婚であることが知れると、一同は驚き、女は一人で生きていけないとか、仕事をしているのか、とか、いいえ、男に頼らない生き方こそ価値があるとか……、話が盛り上がる。フェミニズム小説の序章にふさわしい導入部だ。だが、居合わせた女(性)たちのそれぞれの女の生き方は、この導入部を遥かに超えて深くて細部が豊かだ。

高齢の女性はジャナーキといった。彼女は、長いこと、夫を受け入れることができなかった、と語りだす。しかし、息子が成長し、学校でテニスの優勝杯を持ち帰ってくると、幸福を感じたのだ、と。これといった不幸もなくやってきた、と思っている。夫がたてる物音を家で四十年間ずっと聞き続けたのだ。嫁がカンに触ることもあるが、それは歳の功で荒らげずにきた。気がつけば、夫なしでは何もできない自分だった。夫は、別の車両にのっている。ジャナーキという平凡な主婦について、女流作家は否定も肯定もなく、ただ静かに眺めている感じだ。それはアニタ・ナイールという作家の知性なのだろう。

 高齢のジャナーキの隣には、可愛らしいところがあるが、鋭い目付きで人を観察する女(性)がいた。彼女、マーガレットの鋭い目付きは、ある種の人間不信をあらわしている。彼女は、高校の化学の教師で、夫がその高校の校長なのだった。夫は、はじめ魅力的で理想の伴侶に思えたのだが、実は、横暴で出世のことがすべてに優先させるような人間だったのだ。夫の生徒指導は、鞭を使った体罰ではなく、生徒が好むことを禁じる、極めて悪性なものだ、とマーガレットは見ていた。そんな彼女が妊娠する。すると夫は、いつまでも少女のようでいてくれとマーガレットに泣きつき、子供を堕ろさせたのだ。そこから、マーガレットの夫に対する復讐の劇が始まる。その復讐は、多くの女(性)にとっては、ユーモラスなはずだ。

 裕福な宝石商のマダムは、結婚式に出席するためにコッタヤムに行くところだ、と言う。彼女は、プラッバ・デヴィといった。デヴィは、水泳を習う話や(それはインドの今の中年以上の女(性)にとって、古い因習を打ち破るチャレンジなのだろう)、不倫未遂の話を語った。彼女は、裕福で精力的で奔放だ。ただ、彼女の話は、アクヒラにとって興味深くはあるが、心の琴線に触れるものではない。プラッバ・デヴィの積極性と活力を憧れはするが、アクヒラが望むものは違う。……一旦皆が寝閉まると、十四・五歳になる少女が、コンパートメントの六番目の席に着く。父が別の車両にいる、と言う。アクヒラと少女は小さな声で語りあう。少女はシーラという今風の名前だった。シーラは臨終間際の祖母に会いにいくところだった。もう一人の父方の祖母についてシーラは語りだす。祖母の生涯・願い・信条について語るのだ。誰か自分以外の人のために生きるのではなく、自分自身を生きなければならないと祖母は、考えていた。年配の女(性)たちのフェミニズを作家は手繰り寄せようとしている。病院ではなく、自宅のベットで死にたいと願っていた祖母は、退院の日、帰りの車の中で具合が悪くなった病死した、というよりは、穏やかに息子の手で殺害されたのだ(と私には読める)。祖母にとってそれは幸福な死であったはずだとシーラは言う。……高校教師のマーガレットは、自分自身のために頑張ってね、という言葉を残しコインバートルで降りていった。

 アクヒラは、夜行列車で眠られず回想を重ねる。……アングロインディアン(英国人とのハーフ)の親しい同僚に卵の味を教えられた。高位カーストに属するアクヒラにとっては、勇気のいる破戒行為だった。アクヒラは自分の殻を破って行こうとする。他方で、母とはささやかな楽しみをアクヒラは共にしたのだ。月一回の外食や、ティルムラヴァイールのシヴァ神寺院への参詣、たまにタミール映画も見にいったのだ。母と娘との行動は、なぜか心そそるものがある。ささやかな現にある幸福を、抱きしめているようかのようなのだ。この世における深い愛なのかとも思うのだ。そんな母が、サラサ・マミをバス停で見かけると見て見ぬふりをした。アクヒラは、あのように仲の良かったサラサを無視する理由を知りながら母を許せないと思うのだ。サラサの一家も、働き手の主人が亡くなると(あるところまでアクヒラの一家に起こったことと近似している)、収入の道を断たれた。アグラハム(バラモン居住区)の人々は彼らを助けることができなかった。サラサ・マミは売れるものはすべて売り尽くすと、長女を売ったのだ。自分も同じ運命を辿ったのかも知れないとアクヒラは考える。ただ、彼女は、娘を売ったことよりも、そうせざるをえなかった社会を問題視する。アニタ・ナイールのフェミニズムは、ここでは社会正義の感覚と繋がっている。

このコンパートメントに場違いと思える女(性)が一人いる。彼女は、怯えるように自分に閉じこもり、皆の会話には参加してこない。彼らの会話は、英語でなされているようなのだが、アクヒラははじめ彼女が英語を解さないのだろうと思っていた。彼女が英語を解さないように見えるのは、彼女が教育を受けていないこと、つまり下層の女(性)だということなのだろう。二人は、タミール語で語りだす。場違いな女(性)は、世間は女(性)にとって何と残酷であるか、と。その残酷さの意味とは、その中心に女(性)にとっての性があるのだ。レイプ・レズビアン・情婦・出産と子育てが絡みあう。女(性)にとって性とは、何と厄介な重荷であるのか、と私も嘆息したくなる。彼女は、深い闇の中で、女(性)性に翻弄されるとともにそのもっとも豊かな女(性)性を消し去ろうとしているようにさえ見える。だが、彼女が女(性)であることを逃れようとする分、より彼女の女(性)性が際立ってもくるのだ。

anita nair
アニタ・ナイール
1966年ケララ州に生まれる
チェンナイで高等教育(英文学科)を受ける
バンガロールで広告代理店に勤める傍ら文筆が評判を呼ぶ
彼女の長編第二作『女性専用車』は、大成功をおさめ
米国ばかりでなく、トルコ、ポーランド、ポルトガルなど
多くの国で(翻訳)出版された

 この小説の最終章は、三つの海の出会う海岸に近いリゾート地に移る。バンガローに滞在するアクヒラが、ツーリスト・スポットでぶらぶらする青年を誘惑するのだ。四十五歳になる独身の女(性)が、破廉恥な行為に走る。アクヒラが表現するフェミニズは、社会正義と結びつく一方で(女〔性〕を抑圧する社会への異議申し立てをもつ)、女(性)における性の欲望に忠実であろうとする。アクヒラは、今、性を渇望することを隠さない。だが、一夜を過ごしたあと、アクヒラは後悔するのではない。彼女が渇望した性的体験は、もう一度、女(性)と男の関係の修復へ、現にある社会規範・カーストの掟への挑戦を含みつつ、十年以上も封印してきた愛を、解き放つのだ。アクヒラは、受話器に手をかける。

 1998年、女性専用列車Ladies Coupéは廃線となった、とこの小説の最後のページにある。


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Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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