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100.アミット・チョウドリー『カルカッタ』、Amit Chaudhuri, Culcutta: Two years in the City, published by Alefred A Knopf 2013.

culcatta_20170805142628cb7.jpgアミット・チョウドリーの『カルカッタ』読んで
要約を作ってみた
それは 実に楽しく 感動を新たにする作業だった

物乞いの女と薬を買いにゆくチョウドリー
カルカッタの左派州政府が終わるとき
ある中産階級一家の没落
グロウバラゼイションの到来と本格料理の時代
召使たち それは盗みと若すぎる死
そしてカルカッタの魅力について考える

要約は 要約した本人にとってのみ
しばしば 発見の喜びがある
私にとって 『カルカッタ』という本は
通り一遍のインド理解のはるかむこうを
指し示す



§1.おおカルカッタ!

   父親は、1941年、カルカッタで勉学に励んでいた。父は、もう一人のチョウドリー、ニロッド・C・チョウドリーと同じ学校で勉強していた。父の小さな勉強部屋、通った安食堂を、思う。人ごみのカルカッタで父は疲れていた。日本軍がカルカッタを爆撃した。(本当か?知らなかった。)
   それから父は、会計士の資格をとるためにロンドンに渡る。あとから母が合流する。母は身ごもってカルカッタに戻ってきた。母には頼れる身内がいなかった。義理の祖母が母を見なければならなかったのだ。厳しい五月に私は生まれた。(それは酷暑の季節。)

   カルカッタ北部の嘗てのブルジョワたちの屋敷の跡を歩くのが好きだ。たとえばシャデルナゴル(カルカッタ中心部から北へ二十数キロ)はとてもフランス的な街なのだ。フランス窓がやってきたのは、デュプレックス(1697-1763)が英国と覇権を争っていた頃。あのフランス窓の残骸を手に入れられないだろうか。
3500ルピーでフランス窓と扉を買った。預ける場所も人もいないのに。

   二十世紀の初めデリーに首都が移転し、カルカッタの凋落がはっきりした。
   インドの新政府は、カルカッタの港湾特権を奪った。
   ワーラーナシーとカルカッタは似ている。死後の世界に繋がっているから。
   年老いた親たちの街、両親の晩年を共にすごし見送るために、輝かしい仕事を中断し、多くの者がカルカッタに帰ってくる。

   カルカッタは遊びと自由を可能にする街だ。詩は日常の風景を変えるもの。カルカッタは詩なのだ。それは日常からの解放を意味している。そして人々はここで憩う。憩うことについてタゴールは歌った。『自由の歌』Freedom Song, 1998のブゥハシュカールにしても、政治と芝居は切り離せない。(カルカッタの政治も詩に近い。)……私は、ずうっとカルカッタについて書いてきた。

§2.物乞いと薬を買いに

   英国から帰ってきてパーク・ストリードを再び歩いたときの感激が忘れられない。私は、カルカッタにいればそれだけで幸福なのだ、と思った。故郷でも異郷でもない、戻ってきたという感覚。
   オックスフォード書店のところに屯している女の子は、赤ん坊のときから知っている。少女は、川向うから毎日歩いてやってくるのだ。

   クリスマスの七日前、幸福そうな賑わいのなかの人々と物乞いたち。この独特なつかのまのエネルギーの横溢が好きだ。若い女がこの子に薬を買う金を恵んでくれと言う。私は、金ではなく、薬を買ってあげよう、と返答する。どうしてハウラで物乞いしないのか、などと会話をしながらジェー・ピー・メディコという薬屋に辿りつく。しわくちゃの紙切れにはとくべつな薬ではなくビタミン剤が処方されていた。彼女の名前は、ボビー・ミシュラといった。物乞いにすこしずつ気押しされつつ、私は、子供に路上のチョーミンを買ってやった。私は、路上で商いされるチョーミンを食べたことがない。

§3 カルカッタの左派州政府
 
   カルカッタをダメにしたのは、英国と左派政権(インド共産党マルクス主義派)だというステレイタイプを長いこと聞かされてきた。左派政権は、生活の質を大幅に向上できなかったとしても教育水準は確実にあがり、さらにマイノリティにもっとも寛容な社会を作りあげた。ホームレスがホームレスに食事の世話をするような街をつくったのだ。カルカッタの停滞・時代遅れには理由がある。つまり、市場主義経済への抵抗があるからなのだ。だが、大きな選挙を前にしてカルカッタの左派州政府は自らが作りあげたものにとらわれていた。

   州政府商業・経済商大臣のニルパム・センNirupam Senに、人のつてをたよって会いにゆく。センは、マルワリ(グジャラートに出自をもつベンガルで有力な商業者集団)で、彼が独身なのは、政治への献身を表している。センは、ジャーナリストにたいしては、愛国者としてふるまった。センは、イデオロギーで人を見ない。そして彼も、ベンガルにおける経済改革の必要性を感じていた。タダの大衆車ナノは、実は、センの発案だった。ナノの無残な流産が頭をよぎった。「チョウドリーさんは、社会にたいする責任以上のものを望むのですね」とセンは言った。

   2009年の州議員選挙で左翼=インド共産党マルクス主義派は後退し、2011年の選挙で決定的な敗北を、つまりベンガルの現実政治からの退場を宣告されたのだ。
選挙から半年が過ぎ、ベンガルが変わり始めた。
   毛沢東派の武装グループのリーダー、キシェンジKishenjiがカルカッタから100キロメートルの森の中で殺害された。キシェンジの母親がテレビのニューズで泣いていた。キシェンジは、ブラフマンの貧しい村の出身だった。数学と法科の学位をもっていた。

§4 ムカルジー家の没落

   私の小説『自由の歌』についての批評は散々なものだった。例外は、アニタ・ムカルジーで、彼女は、私の書くカルカッタが好きだと言ってくれた。そんな彼女から私はお茶に招かれた。彼女の顔の表情には独特のやさしさがある。彼女は、立ち上がって私たちを迎えられないことに恐縮していた。アニタは、天然痘の後遺症で立てないのだ。彼女は、自分の紅茶には手をつけない。礼節なのか、すでに紅茶を飲んでいたのか、分からない。
   アニタ・ムカルジーは、ヴィクトリア朝時代の英語を喋った。そのような古い英語が生きながらえているとは。アニタの古式な発音は、妻に、彼女のおばを思いださせ、妻は興奮し、しきりに懐かしがった。

   アニタの息子サミルダは、ケンブリッジ帰りだった。サミルダのヨーロッパは、私の知るヨーロッパと違っていた。彼の妻は英国人とのハーフだ。彼のようなカルカッタの教育のある中産階級をブゥハドゥラロクゥbhadralokと言う。彼は、英国から戻ると大手鉄鋼会社の購買部長を勤めるのだが、野望はなく、出世にはあまり関心がなかった。というより、サミルダは、“エンカウンター”紙を購読するような男だった。

   そのようなサミルダも、六十年代に入ろうとする頃、天然痘に感染する。
   初めて彼に会ったサミルダは引きこもりがちだった。が、たまにクラブに顔をだすのだとも言った。クラブについて、彼は饒舌だった。サミルダは、クラブの上客だったのだろう。しかし、クラブの階段がうとましくなっていた。サミルダは不思議な幸福感をもつ男で、リハビリには不熱心だった。

   ムカルジー家は、八十年代の後半、厄介な訴訟に巻き込まれてゆく。その訴訟を起こした慈善事業団体は、世間でいわれているほど優しくなかった。サミルダは訴訟で神経をすり減らし消耗していた。
   多くの者が「投資」に浮かれていた九十年代、サミダルは投資顧問なる者に騙される。サミダルと母にとって辛い時が続いた。彼らは、即座の救済を必要としていた。思い出の茶器が、ルイスダールの絵が、テーブルも時計も、母からの贈物だった宝石も売らなければならなかった。とうとう彼らは住み慣れたアパートから引っ越さなければならなくなった。引っ越し先のアパートからは、なかなか良い眺めが望めた。父の同僚が住んでいたので知っている。引っ越しして数か月たつと、アニタ・ムカルジーが亡くなった。

§5 本格料理の時代

   ボンベイは商売の街、デリーは政治と権力の街、とするとカルカッタは、何の街になるのだろう。カルカッタは、「夕飯を家でとりますか」の一言のために存在する。ベンガル人の立ち話は、天気の話からかならず食べ物の話になる。

   カルカッタの中産階級の人々にとって、中華料理は長いこと楽しみのひとつであった。思い出の中華料理屋の数々が思い浮かぶ。チョーリンギーにあったあの中華料理屋は何といったか。妻もその店の名前が、ここまで出かかっていて思い出せない。(記憶のなかでだけ存在する店。) 電話をかけまくって聞く。そう“南京”だったのだ。

   グロウバラゼイションとともに「本格的」な中華料理やイタリア料理がカルカッタにやってきた。しかし、インドで、外国人シェフが活躍するのは難しい。タジ・マハール・ホテルの中国人シェフは、今どこにいるのだろう。

   評判になったパン・エイジアという店にしても、最初たべた日本風の緑茶のアイスクリームに感激したが、再度訪ねると、何か味が変わっていた。パン・エイジアは、当地の人々に受け入れやすい味覚に迎合していったのだ。
   評判のイタリアン・レストラン、“カーサ・トスカーナ”の受付嬢は、聞いてみるとクロアチア出身だと言った。(これは、カルカッタのやりかたでなく、きわめてインド的なやりかただ。何か調子の狂った辻褄あわせだ。)

   インドの人々は、ローカルの食材を高級とは見做していない。彼らは、生のオリーブの実を好まない。二百年前の英国人作家の果物に関する記述が蘇る、ここの果物はみじめなものです、と。それでいて、インドの人々は、食に関して極めて保守的である。チーズすら味わおうとしない。ヒンドゥー改革派があえて肉をたべようとしたのは、遠い昔の話なのだ。

   ウイリアム・ジョーンズのアジア協会の地に、新しいホテルが建てられてゆく。それはカルカッタの変化を先取りしている。……タジ・ホテルのレストランで、品書きに生姜のプリンを見つけたのだ。懐かしい好物を発見して小躍りした。注文したのだが、それは生姜のプリンではなかった。ボーイに「これは生姜のプリンではない」と苦情を申し述べる、ボーイは「これは生姜のプリンに間違いございません」と繰り返す。とうとうシェフが現れ「もう本当の生姜のプリンを誰も望まないのです」と申し訳なさそうに言う。(愛おしいカルカッタが流失してゆく。) それを人々はニュー・インディアの到来と呼ぶ。

   ハイヤット・ホテルのイタリア人シェフ、カナツィにコーヒーショップで話を聞く。彼は、サルジニア島生まれ、トスカーナで育った。カナツィはとても困難な仕事をやりとげた男だった。彼のイタリア料理を現地化させずに常連客を獲得できたのだ。
   ミシュランのスター・シェフ、カナツィは驚くべき率直さで語る。インドとイタリアはすごく似ている、と。イタリア料理とインド料理は、別者とは思えない、と彼は続ける。ウイリアム・ジョーンズが、インド・ヨーロッパ語の同族性の根本を探りあてたのと似ている、と思った。(料理の世界で、カナツィが、食の根源を非妥協的に暴こうとしている。そうして、彼のイタリア料理は、インド化することを免れ、かつ顧客を得たのかも知れない。)
   カナツィは、別れ際に、是非ディナーを食べにきてくれ、と言った。(それは、商売の言葉というより共感の言葉だった。)

§6 召使たち

   彼らは朝早く、郊外のいろいろなところからやってくる。若いラージャは、アパートの住人の車やドア・ベルを綺麗にしてまわる。父の介護人カマラの朝も早かった。彼らは自由の気概があって威厳がある。彼らには気をつかわなければならない。季節の贈りものも必要だ。ちょっと注意したいのは、彼らをチョカールchakorとは呼ぶべきではないということだ。その意味は、使用人に近く、とるにたらぬ者、蔑みが入っている。そのようにではなく、単純に「働く者」カアジェル・ロクkaajer lokと呼ばなければならない。
   彼らは、ある日突然いなくなって、また突然帰ってくる。彼らは、彼らを居ずらくした村で自然災害や選挙があると、予定を変更して帰ってこなくなる。だが、また何かをきっかけとして、まるで何もなかったように帰ってくるのだ。

   ラキという女性の料理人は、気の利いた料理ができるだけでなく、造語の名人だった。飲み水に使う浄化水を「川岸の井戸水」と言ったりした。その彼女が遅れてやってくるようになった。他のアルバイトのためだった。そして、彼女がいなくなった。二年すると彼女が突然戻ってきた。彼女は、絶対に謝らない。今度は、金の装飾品がなくなった。母がすごく悲しんだが、警察には届けなかった。また、ずいぶん沢山の油や小麦粉がなくなる(消費される)もんだと話していたら、妻はラキが食料品を持ち出すところにでくわし、ラキを解雇しなければならなかった。私は、ラキを可愛がったし、彼女も私たちを好いていた。ラキとの関係が途絶えたかに見え彼女の存在が遠のいてゆくなか、ラキが長女の結婚式に私たちを招いてくれた。私たちは嬉しかった。私たちは、彼女の長女の結婚を喜んだ。ラキが再び私たちの料理人として働くようになってから、彼女がまた突然消えた。グトゥカ(パーン)中毒のラキのダンナがガンを患い亡くなったのだ。十日もすると、何もなかったように彼女は帰ってきた。
   ラキが小さな子供を連れてくるようになった。孫だった。末娘の夫が失踪したのだ。初め人見知りをしていた子が、次第に大胆に行動するようになった。居間に進入し居座るのだった。小さな専制君主に私は苛立ちながらも、(どこか憎めなかった。)。ラキは、孫が私の仕事の邪魔をしていることを理解していた。私は強い調子で「その子を学校に通わせなくていいのか」と彼女に迫った。実際、私もつてをたよって施設を捜したのだ。ラキは、「私ももう五十(歳)だ」と嘆息して言った。私は「とうに五十は越えている、私が四十九なのだから」と言い返し、自分自身がそのような歳になっていることに驚いた。ラキはたまたま職にあぶれていた女を自分の代わりに送りこんできた。孫の学校が見つかったのだ。

   ベンガルでは、女の子もすごく可愛がれる。インドの他のすべての地域で、男の子の誕生のみがもてはやされとしても、だ。
   シャンパルさんは、ディグハという有名な海岸リゾートでホテル(食堂)を営んでいた。母は、シャンパルさんをたよりにしていた。彼は、食堂のかたわら人の斡旋もしていたのだ。どうしても人手が必要なことをシャンパルさんにいうと、彼は自分の十五歳の娘を送ってよこした。母と妻は、そんな少女を働かせることはできず、読み書きを教えていた。彼女の良くない咳が家族には気になった。医者につれてゆくと医者の見立ては結核で、楽観できるものではなかった。父親が迎えにきて十日間で娘のシャンパは帰っていった。
   初めて私がシャンパにあったのは二年前だ。その時、やはり結核で亡くなった私の音楽の師と同じ兆候を私は感じた。妻がシャンパを医者に連れていった。医者は、治療が適切になされていない、と言った。医者の処方箋はいささか大仰に思えたが、ことの重大さを語っていた。薬代は妻が一年間支払った。父親が、地域の病院の無料医療に切り替えるまで続いた。
   結核は過去の病気のように思われがちだがそうではない。耐性菌による新手の結核は、少しでも治療を怠れば死に繋がる。……実は、シャンパの結核が十歳の自分の娘に感染していないか、私は心配していたのだ。娘は時々咳き込むことがある。杞憂だった。ただ、娘の咳がアレルギー性のものだと分かるまでに随分時間がかかったのだ。
   その後のシャンパのことを私はほとんど知らない。でも、彼女を忘れたわけではない。シャンパは本当にかわいげのある子で、年老いた母に時々電話をかけてきて母の話相手になってくれていたからだ。その娘が結婚するのだと知らせてきた。私たちは大いに喜んだ。結婚、すなわち結核の治癒を無意識に思ったからだ。
   シャンパのような気立てのよい、控えめで綺麗な庶民の娘は、将来のさまざまの可能性を軽く投げ捨て、さっと結婚してしまう。そしてすぐに子供を産み子育てに埋没する。ダンナが酒飲みでなく真面目に働けば、それなりの生活はできる。しかし、多くの場合そうではない。シャンパも水汲みの重労働をしなければならなかった。
   母がシャンパルさんに電話すると「シャンパは逝ってしまった、彼女はもういない」と告げられる。母は、唇を震わせながら私たちに繰り返した。シャンパは十九歳だった。

 
§7 ああ!カルカッタ

   それは年にほんの二度、三度のことなのだけれど、ミニ・マシにしばらく会っていないなー、と思うことがあった。ミニ・マシは母の古くからの親友だ。彼女が発作を起こし、今度ばかりはショブハバザールの介護病院に入ることになった。

   ショブハバザールは、北カルカッタのもともとはベンガル・ルネサンスの土地柄だ。つまり、いかがわしい者たちが財産を作ったところなのだ。新興成金は、そこに屋敷を建てた。それら成功者たちの息子や孫が詩人や芸術家になっていった。
ベンガル・ルネサンスのそもそもの始まりは、あの髭の肖像画のラーム・ローハン・ロイに始まる、と私は思っている。カルカッタのブラフマンの知識人は、カーリダーサの翻訳者ウイリアム・ジョーンズなどの西欧人との接触を通じて自らのアイデンティティに目覚めていったのだ。だが、ベンガル・ルネサンスもブゥハドゥラロクゥ(Bhadralokベンガルの高等遊民)も誤解されてきた。キップリングには、カルカッタの現代性を理解できなかった。

   カルカッタの現代性とは、新しさということではない。(その現代性は自由に少しばかり似ている。) ジュリアーニ市長とグロウバラゼイション以前のニューヨークでその自由を私は再体験した。そして、ベルリンのユダヤ人歴史博物館で、その現代性とは人々の平凡さであることを確認したのだ。
ベンガルのモダニストはヒンドゥーの神々をしりぞけた。宗教を持たない新しい世代の到来なのだった。(おおいなる平凡の時代がやってきた)。

   母をつれて、母の古い友人を介護病院に訪ねてゆく。開発の対象になっている北カルカッタなのだが、いまのところグロウバラゼイションの圧力は感じられない。
ミニは半分眠っているようであり、半分覚醒しているようだった。彼女は、私を認めると真実驚いたのだった。
   彼女も母と同じくシルヘット(現バングラデシュ北部の都市)からやってきたのだ。
シルヘットの人々は、今や世界中に四散して働いている。一種のコズモポリタン、根なし草だが、本好きで文化・文物を愛しむ者が多い。彼らの訛りは明瞭で、彼らのジョークはとびきり辛辣だ。タゴールの詩を替え歌にして楽しんだ。
   ミニは、私たちが訪問した四日後に亡くなった。

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Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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