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99.ティルパティへ

インドの結婚式に行ってきた
煌びやかなこと ゆるやかな進行
二人を祝福する 幸福の雰囲気に
心が動いた
そして この機会を利用して
数年あたためてきた
ティルパティ詣でを実行する
天上のヴェンカテーシュヴァラ寺院における
信仰の姿 そしてさまざまの消費を
また ヴィジャヤナガル王国の末路を 思った
慌ただしく 心が騒ぎ 切なく 
愚かな失敗もあった
駆け足の旅であった


    四月、インドの知人から結婚式の招待状が舞い込んだ。今の、インドの、結婚式を見たいと思った。インドの小説は結婚式と葬儀を好んで描く。しかし、実際に肌身に感じる結婚式は、小説とは違うはずだ。バンガロールに飛んだ。

    実際の式に参列してみると、私の気持ちに変化が起こった。式への興味は萎(しぼ)み、式への、結婚する二人への祝福へと変化していった。式に参列している人々の幸福感が貴重に思えたのだ。


はじまりccc

    ヒジュラ(半陰陽)の闖入があった。人々はそのヒジュラを排斥するでもなく、見て見ぬふりをしているようだった。じきにそのヒジュラはいなくなった。……ヒジュラを、異物として排除しない、疎ましく思いながらも彼らの生存権を認めているように見えるインドを私は正しいと思う。

    二日にわたる式は緩やかに進む。型にはまらない穏やかな秩序がいい。受付もなければ、頃合いをみて式を抜け、また戻る人もいる。三々五々、供された食事をとりにゆく。豪奢なサリーを着飾る者もいれば、ほとんど普段着の者もいる。ラッパやヴァイオリンによる賑々しい音曲は、厳かというより、エネルギ―に充ち、力強い。この音楽は、旋律であるよりも音である。

    二人への贈物を何にするか迷った。一日目のリセプションと呼んでいる式では、二人に贈物を渡す場面が設定されていて、多くの人が贈物を渡していた。なかに封筒を渡している者が少数いる。お金なのか。一昔前は、お金を包むのが一般的だったが、今は流行らないのだ、とあとで聞く。

    緩やかに進行する式。それには物語があるようだ。両家による新郎・新婦の受け入れ、初めて新郎と新婦が対面する場面、両親たちが一時、神々に昇華する、その神々の前で新郎・新婦は人間としての契りを結ぶ、そして二人は、社会的な存在として認知される、その間、何度も米や穀類が参列者の方から、二人に投げられる。

    式を司るパンディットも時に冗談を言いながら、サンスクリットの経典を朗誦し、サンダルウッドを燃やす。

    ふたりの結婚は、家と家との関係の上に成り立つ。つまり恋愛結婚ではない。ただし、強制的では無論ない。いろいろ面倒をみてくれたM君にしても、恋愛結婚は考えられない、と言う(ついでに言うと彼はジャイナ教徒、しかしそれほど厳格な菜食主義ではないと言う)。

きらきらbbb

    小説家R. K. ナーラーヤンの恋愛結婚を想う。1930年代におけるは、恋愛結婚は(幸い家柄は同じであった)、相当に過激な、言ってみれば反社会的な行為であったのだろう。……そのナーラーヤンが、美しい見合いのための旅を書いた。列車と牛車を乗り継いで、南インドの農村地帯を父と息子は旅する。父は、自分のことを回想しているのだ。だが『菓子屋』The Vendor of Sweets (1967)という小説は、父親が息子に裏切られる小説である。アメリカに留学した息子は、アメリカ人と朝鮮人のハーフの恋人を連れて故郷に戻ってくる。物語作成マシーンなる珍妙なものを商売にしようとし(AIの時代、その珍妙なアイディアが現実化しつつある)、ウィスキーの不法所持で逮捕されるのだ。若いナーラーヤンは反逆を試みた。しかしそのナーラーヤンが反逆は見苦しい、と悔恨を語っているのだろうか。美は、伝統と秩序の側にあると言っているのだろうか。

煙のなかbbb

舞台の二人bbb

    フォーレンスィックと叫ぶおそらく新郎の仲間(これが年貢の納め時、というように聞こえる)、二人の結婚の役所への登記で式は締められる。

                                                                ***

    翌日、冷房ききすぎのヴォルヴォのバスで、ティルパティへ、向かう。
バンガロールの街から出ると、南インドの、煉瓦色の土地が帰ってくる。懐かしい、と思う。二年ぶりのインドは、優しさとは違う表情で私を迎えてくれる。通り過ぎる、小さな街のただ住まい、人々の姿に眼を凝らす。命、命、命が通り過ぎる。

ブルカbbb

    前回、2015年11月にハンピにビジャヤナガル王国の遺跡・廃墟を訪ねてからティルパティのことが気になりだしていた。ティルパティパは、ビジャヤナガル王国にとって特別なところだからだ。ティルパティは、王国にとって、わが国でいうところの菩提寺である。そしてまた、王国は、この地に落ち延びた。(実際の王国滅亡は身を寄せていたタンジャーヴールの陥落1649年)

    ティルパティパ寺院群は、ティルヴェンガダムの岩山の上にある。

岩山の上bbb

    ティルパティの、ティルヴェンガダムの丘への道行が素晴らしい。岩山を、つつじの類、夾竹桃、しゃくなげの類の花々が覆う。花々と光とその影に魂が浄化されてゆくようだ。神々への道と呼ぶのにふさわしい。

bbbバスから

    ティルパティの麓から歩いている人は見受けられない。ほとんどの人々が、バスや乗り合いタクシーを利用しているように見えた。バスの運行は壮絶なものがある。深夜も、夜明けもバスがひっきりなしに走る。……帰路バスの車上より気付いたのだが、丘の上部に参道があり、日除けの並木がつづく。その石の道を多くの人が歩いていた。再訪する機会があればあの道を歩きたい。

    ティルパティの人気は凄まじい。より正確にはティルパティより十数キロ離れたティルマラにあるヴェンカテーシュヴァラ寺院には、毎年数百万人の参拝者が訪れるという。ティルパティ・ティルマラは、歴史遺産を誇る観光地ではなく、現に生きる人々の信仰の山・寺院なのだ。近代は観光と巡礼を引き裂いた。ティルパティは人々のそれとない信仰の上にたつ。

丘の上の街bbb
△丘の上の街ティルマラのたたずまい

    丘の上の門前町は、避暑の別荘地の趣だ。多くのコッテージがあって、参詣の人々に宿を提供しているようだった。それらの多くがコンクリート製で、清潔そうだがあまり風情がない。数百年まえのその姿を想像してみなければならない。

  「わたしはトリピティ(ティルパティ)の町に二日滞在した。無数の売春婦や踊り子が、見たこともないくらいふしだらに、偶像の前で休むことなく踊るが、その目的はすべて享楽にあった」(宝石商ジャック・ド・クルトの旅行記、17世紀)。

    信仰は、そしてとりわけ巡礼は享楽と結びつく。

    ガイドブックによると、外国人専用の窓口にいって“許可書”を取得すべきだとある。そうでないと、神像をひと目見るためにとても長い時間待たされる、と。郵便局の職員は丁寧に道を教えてくれた。が、土地勘がないので迷う。それでも剃髪のための散髪屋の並ぶ道を過ぎ(敬虔なヒンドゥーの人々は、男も女も子供も乳飲み子も剃髪して「頭をひりひりさせながら」参詣する、ちなみにその数は、5,6人に一人ぐらいの割合か)、何度か道を尋ね、Joint Executive Officeに辿りつく。土曜日だからなのか門は閉じられている。何かのレターを手にしたインドの人々が数人、何かを待っている。守衛に外国人用の“許可書”をここで発行していると聞いたのだけどと掛けあうが、まるで相手にされず、それでも食い下がると「入り口でパスポートを見せれば通れる」と躱される。“許可書”取得は諦め、外国人特権を潔く放棄し、参詣の人々の流れに紛れ込む。それからは、説明するのもバカバカしいドタバタ劇。それでも寺院付きの親切なヴォランティアに助けられ(「チケットを失くしたと言え」というアドヴァイスまでもらう)、待機室に辿りつく。

    ヴィジャヤナガルの王たちは、自らの正当性をヴェンカテーシュヴァラ寺院に求めた。即位灌頂(パッタービシェーカ)の儀礼をここで行ったのだ。簒奪によって王となったサールヴァ・ナラスィンハ(在位1486-91)は寺院に対してとりわけ気前が良かった。王の側近、カンダーダイ・ラーマーヌジャ・アイヤンガールは、ヴィシュヌ信仰の教派指導者だった。そして、王国の最盛期、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ(在位1509-29)は、先例以上にティルパティに入れ込む。一面にヴェンカテーシュヴァラ像を、もう一面に自らの名前をデザインした金貨を発行した。

    主神像を拝顔するために長い時間を(数時間)、鉄格子の入った部厚いコンクリートの部屋で待機しなければならなかった。写真撮影の禁止は厳格そうだ。寺院の境内に対し、段差がついている大部屋は、監獄というイメージではない。寺院の大宿坊に近い。多くの人が、横になって居眠りしながら待つ。
その間、丘とはいえ(標高は700mぐらいか)、湿度は低いが37度近い気温、ペットボトルの水も取り上げられ、喉がかわきそれが辛い。うまそうな水が蛇口から飲めるのだが、生水は避けた。大きなビデオモニターが置かれていて、寺院の様子やある種の儀礼を繰り返し流していた。

    前方で人々がざわめき、いよいよ入場かと思っていると、食事の供与だった。紙皿に盛られて炊き込みご飯が配られる。塩と香料で味付けされ、具は入っていない。この食事は、待っているあいだ二度供された。少しだけ食べた。

    その人は、タミルナードゥ州のティルプルという街からやってきた。夜行列車で朝到着しそのまま来たのだと言う。驚くべきことに、毎月来るのだと言う。「どうしてそんなにここに来るのがいいのですか」と聞くと、ただにっこり微笑むだけ。ここにお参りするのが生きる喜びなのだ、と。奥さんとは、年に一回一緒にくるけれども、いつもはひとりなのだ、そうだ。職業は、300人働く縫製工場のエンジニアだという。だが、その風貌は現場監督だった。

    ヴェンカテーシュヴァラ寺院は、王のための寺院であったとともに庶民のための寺院だったのだ。ヴェンカテーシュヴァラ寺院は、13世紀のヴィシュヌ派の改革者ラーマヌージャに深く結びつく一方で、ヴァクチの信仰とも、当然のこととして結びつく。祝祭のなか、山車の車輪の下に我が身を投じる者、寺院の前で自殺するもの、鉤吊り自殺(「木につけた鉄鉤に肋骨をかけ、短剣で肉を裂いて、矢の先端につけてから矢を放ち、…自らの命を絶つ」)、見物人は犠牲者の肉片を持ち帰り、遺物として保存したのだと言う(無名のポルトガル人画家による記録、16世紀中ごろ)。

  「ゴーヴィンダ」と主神の別名を斉唱しながら、人々は、幼子から年老いたものまでが折り重なるようにして、狭い通路や階段を少しずつ進む。やたらと待たされるが、事故防止のためにやむを得ない。これもまた、ティルパティ繁栄の理由なのだろう。……寺院の回廊に入るところでまた長いこと待たされる。「ゴーヴィンダ、ゴーヴィンダ」という斉唱が繰り返される。

    人をかき分け、再度セキュリティチェックがあり、それからようやく、暗い寺院の奥深いとろろにシュリー・ヴェンカテーシュヴァラ神を、ほんの十数秒、望見する。奥行6~7mの闇のなかに、微かな光と輝くものが認められた。

    主神がどのようなものなのか、古い記録・記述をみてみよう。

  「そこで崇拝されている偶像は、高さ約七フィート[二m]の石の立像で腕が四本ある。それはヴィシュヌを擬人化したものであり、その二本の腕にはヴィシュヌの象徴が握られている。右手のひとつにあるチャクラ、つまり戦闘用棍棒と、左手のひとつにあるシャンカ、つまり聖なる法螺貝である。もうひとつの右手は、偶像が立つ丘の聖なる起源を明示して大地を指し、もうひとつの左手は、蓮をもつ」(ジョージ・ストラットンの記述、1803年)

  「その建物[寺院]の中には金属製の偶像があった。その両目は銀でできていて、その内側部分は鏡のように反射するある種のガラスであった。多くの宝石で豪華に飾られており、ダイヤモンドとルビーを取り付けた腰帯をまとっていた。また像の胴体部分には高価なダイヤモンドがあり、バラモンたちによればその価格は一二万パゴダだという」(宝石商ジャック・ド・クルトの旅行記、17世紀)。

    主神像を拝顔して、そのあとに賽銭所があった。開いた傘をひっくり返したような形の白い布の受けに、人々は気前よく布施をしている。なかには、二センチもあるような紙幣の紙包みを、大切そうに置く者もいた。

    ティルパティ寺院群の最大の特長は、その豊かな財力である。その巨万の財力にはたくさんの物語がついてまわる。その膨大な物語をかいつまんで書いてみよう。①長いこと寺院は、一大地主組織であるとともに定期市や縁日による税収を得ていた、②寺院は(先にも述べたように)歴代のビジャヤナガル王から莫大な寄進を得ていた、③インドに進出した西欧人たちは、ティルパティを「異教徒(ジェンダイル)のローマ」と呼び、その寺院の豊かな財宝をよく知っていた。彼らはティルパティを東洋の黄金郷(エルドラド)であると考え、さらに寺院の財宝略奪を目的とした遠征も企てた(未遂)、④寺院は、勢いの衰えた後期ヴィジャヤナガルの諸王に融資を行った、⑤この豊かさの伝統は現在までひきつがれている、寺院は豊かな財源をもとにコテージ、結婚式場、団地、学校も経営している、と言う。
    ティルパティの豊かな財力は、独特な集金システムと、ある種の消費・蕩尽の姿を、ゆるやかに演じているように見える。これを経済活動とは、呼びたくない気がする。

    翌日、チャンドラギリに向かう。

    ガイドブックには、ティルパティの列車駅からバスが出ているとあるが、列車駅にいってみるとバス・ターミナルからだと車掌達はいう(二人に確認)、バス・ターミナルに行ってみると、ターミナルではなく、メイン・ロードに止まるという(二人に確認)、それらしきところで待っているが一向にチャンドラギリ行きのバスはこない、しかたなくオートリクソウを拾う。ローカルバスに揺られて、村々をめぐるツアーを思っていたが、インドの旅はそう簡単には思うようにならない。

夜bbb
△ティルパティの夜

    ビジャヤナガル王国は、その誕生のときから(1336年)から滅亡まで、周囲のムスリム諸王国との緊張・対立・戦争のなかにあった。一時も戦時体制を解くことができなかった。ビジャヤナガル王国は、強大なヒンドゥー軍事国家なのだ(がその精鋭部隊はムスリムだった、という歴史弁証法が興味深い)王国の最盛期を統治したクリシュナデーヴァラーヤが没すると、王国は内紛を繰り返し不安定な時代が続いた。1550年代と1560年代前半、ヴィジャヤナガル王国は、アーラヴィードゥー家(簒奪による第四王朝)に繋がるラーマ・ラージャのもとで軍事大国として息を吹き返す。
    ラーマ・ラージャはポルトガル人を脅し、ビージャープルへの軍馬の供給を停止させ、ビージャープルを打ち破る。そして今度は、ビージャープルと同盟しゴールコンダとアフマドナガルを攻撃し打ち破る。が、これら三ムスリム王国は連合し、1565年クリシュナー川北岸のラークシャシ・タンガティ(ターリーコータ)でヴィジャヤナガルに決定的な勝利をおさめる。ラーマ・ラージャは包囲され、捕われ、即座に処刑された。王都ヴィジャヤナガルは、徹底的に破壊される(その破壊は六か月、あるいは一年を要した、と言われる)。

    壊滅的な敗北を喫したヴィジャヤナガルは、それでもあと百年生きながらえる。ラーマ・ラージャの弟、ティルマラはサダーシヴァを擁して南のペヌコンダ(バンガロールの北100km)に落ち延びる。

    幹線道路から、入り組んだ細道にはいり村やらスラムやらを通り過ぎてゆくと、花崗岩の岩山を背にしたチャンドラギリ城址に辿りつく。城址は、今は、博物館を擁する公園になっていて、恋人たちや、近隣の家族の人たちが散策を楽しんでいる。博物館になっているかっての屋敷は、そのごく一部がオリジナルで、あとは近年再建されたものだ。花崗岩の岩山が見事に聳え、城壁の残骸が残る。池の水は、藻の繁殖で緑色に変色していた。そこで侘しい貸ボートが営業していた。

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△チャンドラギリ城址の岩山

    アーラヴィンド・ヴェンカタパティ・ラーヤ(在位1586-1614)が、1594年首都をペヌゴンダからチャンドラギリに移した。ハンピのヒンドゥーの楽園を失ってから三十年、ヴィジャヤナガルが、ビージャープルやゴールコンダの軍事圧力につねに晒されなら過ごした日々はどのようなものであったのか、と思う。一時勢力を盛り返すこともあった。しかし、王国の弱体化はあきらかであり、諸侯・ナーヤカの反乱・独立があいつぎ、また北には、ムスリム諸国があった……というような旅の感傷に耽っていると、公園の柵をよじ登ってさきほどのリキソウ・ワラが何かを叫んでいる。早く戻ってこいと言っているようだった。チャンドラギリについて二時間が経過していたのだ。滞在時間を制約されたくないのでバスで来たかったのだと思いだす。

公園と屋敷bbb
△チャンドラギリの城址・遺跡博物館

    帰りは、チェンナイ (何故かチェンナイだけは、マドラスでなくナショナリズムの新地名が自然にでてくる)からの便をとった。

クーム川bbb

    チェンナイの市街を流れるクーム川のほとりを歩く。メタンガスの悪臭が漂うこのスラムもまたインドの今。悲しみというような感傷をこばむ迫力がある。ティルパティの天上の聖なる楽園をこの汚辱が支えている。わたしは、その両方が気にかかるのだ。

<参照した本>
S. スブラフマニヤム『接続されて歴史 インドとヨーロッパ』(三田昌彦・太田信宏訳、名古屋大学出版会、原著2001年、2005年刊)
辛島昇編『世界歴史大系 南アジア3 南インド』(山川出版社2007年刊)
サティーシュ・チャンドラ『中世インドの歴史』(小名康之・長島弘訳、山川出版社、原著1978年刊)


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Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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