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97.シャラッチャンドラ・チョットバッドヤーイ『最後の問い』、Saratchandra Chattopadhyay, The Final Question (Shesh Prashna), translated by Members of the Department of English Jadavpur University, published by Penguin Books India and Ravi Dayal Publisher 2010

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.シャラッチャンドラの晩年の小説
『最後の問い』は
ヒンドゥー的な退去・達観からは遠い
人が人を愛することの自由と
伝統的価値観との相克を
あるいは 一人の人間が生きてゆく役割と責任を
執拗に問い詰めているように見える

小説の舞台はアグラのベンガル人社会だ
そこに流れてきた美しい人カマルは
多くの男達をつぎつぎに魅了する
愛のためなら盗みも強要しかねない
ただカマルは 愛の女神であるばかりでなく
病む者・弱者の救済に身を挺する
社会正義の女神でもあるのだ

この小説における「最後の問い」とは
私たちの国における近代化=西欧化
そして伝統の抑圧という問題と
すこしばかり似ている
しかし、おおいに相違しているとも言える
近代化=西欧化の受け入れの
その途方もない相克を
じっくり味わいたい


   この小説『最後の問い』(1931年原著刊)は、シャラッチャンドラの晩年の作品だ。議論につぐ議論の小説で、自由恋愛や伝統文化、さらにフェニミズム(女性の福利厚生と言ったほうがいいか)という大テーマから中国の纏足や宗教儀礼を廃さなかったルネサンスについて、実にさまざまなことが議論される。このいささか理屈っぽい小説がシャラッチャンドラの晩年の作だというのは意外な気がする。『最後の問い』は成熟や悟り、ヒンドゥー的な撤退と諦念からはほど遠い、悩み多い社会的存在=人間についての小説である。

   多くのベンガル人が、その頃(二〇世紀前半)、さまざまな事情をかかえ、アグラに移住してきたのだ、というように小説は始まる。タジ・マハールで有名なアグラが小説の舞台なのだ。生まれ育った土地を離れ、しがらみを断ち、社会的な成功をおさめた者たちの、ある種自由で進歩的な雰囲気がこの小説にはある。

   ある金持ちの家で夜会があり、シブナトーという男が歌う。アグラに住むベンガル人の有力者・有名人士が歌曲の夕べを堪能するのだが、一人のジャーナリストがシブナトー非難の声をあげる。シブナトーは、飲んだくれで教授職を失い、友人の共同経営者が病死するとその石材業を独り占めし、病死した友人の家族を見捨て、さらに病気がちの妻を離縁し、出自の怪しい妖艶な女と一緒にくらす者なのだ。要するにあまり誉められた者ではないのだが、とても面白いのは、シブナトーは人々が眉をひそめる不道徳をまったく恥じていず、隠しもせず、堂々としていることだ、「何が悪いのか」と。

   この小説はその不道徳漢シブナトーの第二の妻カマルを中心に進行してゆく。カマルは絶世の美人で、伝統的価値観から過激なほど自由な女、愛情をまっすぐに表現し行動できる女なのだ。

   カマルは、この小説で何人の男の心をとりこにしたのだろう。あまりはっきりしないけれどもカマルは若い未亡人のようだ。彼女はその時、夫をもっていた。そのあと、卑劣を毅然と生きるシブナトーの第二の妻となり、また、金持ちの老人アシゥトシ氏、彼の娘の許嫁であったアジット、ヒンドゥーの理想への懐古的回帰を模索するハレンドラらの心を大いに悩ませる。道徳と愛情の間で男達は悩み苦しむ。他方、カマルの愛はとても率直である。男と女がいて、二人の間のある種の波長が合ってくれば愛しあうようになるのは自然じゃないか、と。多くの男をつぎつぎに愛してはならない、というのは社会の掟にすぎない。カマルの奔放な愛情行動は打算の積み重ねによる人間の窮屈なあり様を軽やかに超えてゆく。

   ところで、カマルの愛情行動は、ある意味で社会を敵にする。だから、アシゥトシ氏の娘モノラマは、伝統的な道徳を素朴に信じる者であるがゆえにカマルを毛嫌いする(本当は、自分の許嫁をとられると怖れているのかも知れない)。ジャーナリストのアクシャイも、社会の良識という虎の威を借りてカマルを糾弾する。だが、それらの非難が表面的に見えるのは、カマルが他方で示すヒューマニズムなのだ。

   その頃アゴラを悪性のインフルエンザが襲う。金のある者達は、比較的安全なところに避難してゆく。しかし、皮革を業とする者たちの多く住むスラムの一帯では、その病の蔓延は陰惨を極めた。手当する者もなく、食料もなく、安全な飲料水もなく、病人が寒さから身をまもるかけ物もない。カマルは、身を挺して彼らの手当に尽くす。面白いのは、カマルが、同じインフルエンザで苦しむ夫のシブナトーの看護を拒むことだ。彼女は、スラムで看護活動を行い、力尽き絶望して戻ってくるのだ。

   病気で苦しむ者の手当を命がけで行う。これはシャラッチャンドラが繰り返しとりあげるテーマだ。皮革を扱う仕事をする人々の多く住むスラムについて、その内部の人々についてこの小説では何も語られない。それはまるで影のようなのだ。それらの人々と容易には混じりあわないが、貧しく差別された人々への同情がいつもある。同情といえば、何か時代遅れの感覚のようだが、シャラッチャンドラにとっては確かな質量をもつ。シャラッチャンドラの場合、犠牲と同情について、人はこうするべきだという、すっきりした解答はない。しかし、繰り返し、形・姿を変え、弱者に対して自分はどのような関係をとりうるのか、という自問自答がつづく。

   カマルは、遠くからやってきた。茶畑のある農園から流れてきた。実は、父は英国人の茶園の支配人だった。母は、さまざまな男を渡り歩くふしだらな女(娼婦という意味だろうか)であった。カマルの美貌と自由な考えは、その混血・雑種性にある、と想像できる。アグラに住むベンガル人の高級人士は、カマルの出現で、自分たちの伝統的価値が揺らぐのを怖れた。怖れると同時に彼女の自由で解放的な行動-それは西洋的な価値観と重なっている-に憧れた。この小説のタイトル「最後の問い」というのはその辺りの相克を描く。ヒンドゥーの素晴らしい人間主義を損傷することなく、つまりヒンドゥーの儀礼を守りながら西欧の合理主義、というよりこの小説では男と女の自由な関係をとりいれられないか、という問いだ。

   カマルは、この小説の最終章で、アグラから旅立ってゆく。行く先は分からない。シャラッチャンドラの小説の別れの場面はいつも突然やってきて、淡々と進行する。カマルが、アグラの知人に別離の挨拶に回っているとき、街のヒンドゥー寺院が火事に見舞われた。神像を守ろうとして、ハレンドラの同志ラジェンが火のなかに飛び込んでいった。ラジェンは神像を救いだしたあと息絶えた。シャラッチャンドラは、ラジェンの行為を愚かであると思っている。だが、命よりも貴重なものがあるという象徴行為に惹かれる作家でもあるのだ。シャラッチャンドラの小説の面白さは、人が生きていくための生活、日常性とそこを突き抜ける超越的なものとの交錯にある。その交錯の放つ火花が人の生きる価値なのだ、とシャラッチャンドラは言っているように、私は解釈する。

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■シャラッチャンドラ・チョットバッドヤーイ
Saratchandra Chattopadhyay 1876~1938
『デーヴダース』(鳥居千代香訳、出帆新社)が翻訳で読める
インドの神々が 現実世界において意味するところを
了解できるような小説である

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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