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94.シャラッチャンドラ・チョットバッドヤーイ『救出』、Saratchandra Chattopadhyay, Nishkriti (Deliverance), in Saratchandra Omnibus Volume 1, first published by Penguin Books India 2005.

saratchandra omnibusシャラッチャンドラの『救出』は
1910年代の後半に書かれたのだろう
カルカッタの大家族における
妻 嫁たちの争いを描きながらも それは
欧州における世界大戦とロシア革命という
20世紀の大きな変動局面と無関係ではありえなかった

作家は 社会変革とは何か
現実の変革とは何かを問い詰めた
そのとき シャラッチャンドラの本領とする
日常性を超越する神々は
おおきく後退したのだ あるいは 
「神々はお隠れになった」のだ


 『デーヴダース』(鳥居千代香訳、出帆新社)を書いたシャラッチャンドラはどこに行ってしまったのだろう。破壊の神へ捧げられる犠牲、聖化された暴力、生活という日常性から逃れる悪の極限、そのようなはっきりとした特長をこの『救出』に見つけることができない。むしろ、この小説では、そのような非日常(聖なる時と空間の顕現)とは対蹠的な、食べてゆくことの憂鬱な苦労と争いが目立っている。

   小説の冒頭で、チャタルジー家の来歴が語られる。
   カルカッタ、バウォニポールのチャタルジー家は、数家族がともに暮らす大家族である。
長兄ギリシの家族、次男ホリシの家族、いとこロメシの家族、それに今は夫を亡くしている祖母等々。次から次へと見知らぬ家族の顔があらわれ戸惑う。
   嘗てチャタルジー家はラプナラヤン河ぞいの村で裕福な暮らしを送っていた。
   そこに突如、猛烈な旱魃が地域を襲った。数年ですべての蓄えを失った。万策尽きて、一家はカルカッタに辿りついたのだ。
   家族の者は必死に生きたのだろう。長兄、次男は法律家となり財を築き、失った土地も取り戻した。ただ、ここでひとつの異常音が起きる。それはいとこのロメシで、彼は、無為の人なのである。家族から金を引出し、相場のようなことに手をだしたがうまくゆかなかった。今は、新聞を眺める無為の生活を送っている。

   この小説で、ほとんど唯一、脱常識的な記号は、無為のロメシである。そしておそらく作家シャラッチャンドラは、金を相場で散財するだけの非生産的なロメシという男を愛している。だが、この小説でのロメシの存在はかすかに輝くだけなのだ。・・・・・作家シャラッチャンドラは、家のなかのうんざりするほど退屈な日々の無意味な女たちの争い、その現実を書き綴る。

   この小説は、家のなかの、女たちの争いの物語だ。次男の嫁といとこの嫁(無為のロメシの妻)が反目し合っている。長兄の嫁シデシュウォリも、実家から帰ってくると、マラリアの感染ですっかり体が弱り、大家族をきりもりできなくなってしまった。長兄の妻シデシュウォリは、自らの衰えに苛立ち、聡明でしっかり者のいとこの嫁シャイロジョにあたる。シデシュウォリは、次男の嫁ノヨントロ(浅はかな女に描かれている)の甘言にいつかなびいてしまうのだ。そして男達は、妻たちの争い・不満につきあうことに疲れている。

   事件が持ち上がる。次男の子、アトゥルが台所の閾のところに立っている。いとこの嫁シャイロジョ(無為のロメシの妻)が料理の支度をしている。シャイロジョは、アトゥルに、「靴をはいて台所にはいらないで」と注意する。アトゥルは、「台所には入っていないよ」と抗弁する。シャイロジョは、「行って」と促すがアトゥルは、なおもそこに立ち続ける。長兄の子モニンドロが通りかかりと「おねえさん、何かあったの」と尋ねる。シャイロジョは激しい怒りを抑え沈黙を守る。それをみていた長兄の子ニロが、アトゥルの足を指さし、「お兄ちゃんは靴をはいたままそこに立っている。シャイロジョおばさんが注意しても聞かないんだよ」と言う。アトゥルは、「閾の外、何がいけないの」と理屈を言う。沈黙と理屈の戦いだ。モニンドロはそれを聞くやいなやアトゥルに飛びかかり殴打する。モニンドロは屈強の若者だ。モニンドロは加減を知らずしたたかにアトゥルを打ちのめす。家族の者が集まってきて大騒ぎとなる。……父親のホリシがアトゥルにどうしてこうなったのかを聞く。アトゥルは、シャイロジョおばさんが僕を殴れと言ったんだよ、と嘘を吐く。さらにホリシがシャイロジョに説明を求めるが、シャイロジョは何も言わない。

   無為の人ロメシの妻シャイロジョは聡明で意志が強い。シャイロジョは作家の理想の女のような気がする。彼女の抗議・抵抗のスタイルは、沈黙と絶食だ。長兄の嫁シデシュウォリもそれには手を焼いた。沈黙と絶食、それは語らない、意味しない抵抗である。また、何か宗教的・伝統的な雰囲気がある。シャイロジョはどうしてそのような抵抗のスタイルをとるのだろう。意思表示だけで十分、相互理解・意思疎通の拒否、あるいは説明が状況をより一層悪化する、と考えているのか。
   次兄の子アトゥルを殴打したのは長兄の息子だ。シャイロジョの息子ではない。家の子供達は、シャイロジョを認め好いている。逆にそのことが次男の嫁ノヨントロとの軋轢を生み、長兄の嫁シデシュウォリの嫉妬を買っているのかも知れない。・・・・・しかし、嫁たちの争いを書くシャラッチャンドラは、本当のところ何を言いたいのか。シャイロジョの痛ましい崇高さ、あるいはその神々しい姿と、無為の男ロメシとの組み合わせに作家は何を求めているのだろう。

   アトゥルへの殴打事件のあと、次兄の嫁ノヨントロは、荷物をまとめ家をでて行こうとする。長兄の嫁シデシュウォリが「どこにいくつもり」と尋ねても、ノヨントロは「どこか、ただもうここにはいられない」と繰り返す。しかし、彼女は、結局は、家をでなかった。荷物をまとめたのは、ポーズだったのか、あるいは、「あなたがこの家からいなくなったら世間の人はどう思う」という言葉が効いたのかも知れない。

   大家族主義の強い求心力が理解を超えている。彼女らの最終的抵抗・恫喝は、家をでることであり、それは家族の崩壊と同等の意味をもつ。その強度が異常とも思えるのだ。他方、核家族は、インドの近代小説を読んでいると、駆け落ちとほぼ同じに見える。社会の掟を破る行為に近い。反社会的であるが、同時にそれへの悲劇的な憧憬もある。


sarat.png
■シャラッチャンドラ・チョットバッドヤーイ
Saratchandra Chattopadhyay 1876~1938
『デーヴダース』(鳥居千代香訳、出帆新社)が翻訳で読める
インドの神々が 現実の生において意味するところを
了解できるような小説である

   デリヴァレンス、救出は、沈黙と絶食で抵抗を表現するシャイロジョの完璧な勝利で終わる。彼女と無為の夫、連れ子を含む二人の息子をつれて家をでてゆく。理由は、長男の妻と次男の妻との陰口を耳にしたからだ。「シャイロジョの顔はみたくない」と。しかし、その移住・救出が意外な展開を生む。シャイロジョの一家が、田舎の家と土地の資産・権利をすべて手にすることになるのだ。……『救出』は、私には分かりにくい小説だ。その分かり難さを、いささか強引に言葉にすると、夢見ることの好きな作家が、あえて社会的現実とは何かを考え、その社会的現実(ここでは、大家族のなかの女たちの軋轢)に目を向け、その現実を摘出しつつも、神話的ヒーロー・ヒロイン(日常性を超絶し、人間が神的なものに変身しかかる瞬時を演じる者)に後ろ髪を引かれて書いた小説のように見える。この小説においてシャラッチャンドラは、社会的現実という呪縛から神を救出し、神はお隠れになったのだ、と。

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賀新年

新年明けマシタ,本年もどうぞよろしくお願いいたします。

無為の人ロメシの妻シャイロジョの沈黙,おもしろいですねw
中國の旧社会,辛亥前後の,時代の変動期に書かれた物語を即連想しました。

大家族制・・・・

「大家族主義の強い求心力が理解を超えている」w

ですよねえw・・・ホント


とはいえ・・・最後にあらわれた意外な展開。

革命の大義は世界共通,地主からの小作農奴の解放。

その完結など,ありえない,空想されたユートピアにすぎない時代であった1910年代後半にあって,あるべき理想は,「富の移動」だったのかもしれないです

ようやくソヴェトロシアの成立,という時期でしょう,インドもまた。夜明前どころか真夜中で

インドと,東亜はちがうのですが,旧社会,旧弊に無力の人々は沈黙し瘖に沈んでいた。それはどこでも同じなのだろうと・・・・

いろいろな形で現れますが,苦しい状況はどこの国も同じ,
そもそも人が苦しいと思うことは,古今東西共通だなと,
身もフタもないこと思いましたw
プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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