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111.S. スブラフマニヤム『ヴァスコ・ダ・ガマ-生涯と伝説』Sanjay Subrahmanyam、The career and legend of Vasco da Gama, First published by the Press Syndicate of the University of Cambridge, New York in 1997

gamas book
いつも大きな本を読み始めるときは
その本の知力によって
自分がはじきかえされてしまう
のではないか と不安なのだ
この本もどこまで理解が届いたか
はなはだ心もとない
が その不安に抗うのも また 
本の読みがいで このように
気になったところの要約や
寸評を纏めてみると
それは何ものにも替えられない
私固有の内的な対話であり
これもまた宇宙の塵であると
観想することができるのである


問題は、ヴァスコ・ダ・ガマの伝説と生涯とのデリケートなバランスを見ることだ。

サンジャイ・スブラフマニヤムは、歴史的事実(ディティール)に分け入っていくばかりでなく、人々が想像したガマを再現しようとする。そのために、歴史家は十九世紀のオペラをとりあげる。そのオペラがガマの神話作りに大きな役割をはたしたと、考えるからだ。

そのオペラ(“アフリカの女王”、1865年パリで初演)で、ガマは誠実な英雄、恋する冒険者として描かれる。粗筋はこうだ。…ガマは、インド人の女王セリカと彼女の召使をともなってポルトガルに帰ってくる。二人を奴隷市場で買ったのだ。(ガマの奴隷を買うといいう行為に、ドイツ人作者のポルトガルへのひとつのステレオタイプを感じる。) ガマの入牢と大審院の尋問の場面が続く。ガマを陥れた人物ペドロは、ガマを助けることを交換に、ガマの恋人イネスと結婚を遂げる。ふたたび、インドに向かったペドロとガマの船団は、セリカの召使のたくらみで難破し―彼はキリスト教徒を憎んでいる―召使はペドロを殺す。難破船から救出されたセリカは、インドで女王に返り咲くが、女王の灌頂の祝祭場面で、ガマとイネスは犠牲に捧げられようとしている。女王セリカは、ガマとすでに婚約しているのだと嘘をつき、二人を助ける。が、セリカはガマとイネスのもともとの愛を知って自らの命を絶つ。ガマとイネスは結ばれポルトガルに帰還する。

このオペラがガマという人物についてのどのような神話を作りあげたのか、スブラフマニヤムは分かりやすく語ってくれない。西洋と東洋の幸福な結び付きは絶たれた、また、十九世紀のナショナリズムがガマを利用した、という解釈を歴史家はわずかに語るだけなのだ。今、私がここで言えるのは、この本(本文368頁)の全部が、このオペラが差しだしているガマなる人物像への反証・事実認定・批判的検証である、かもしれないというきわめて雑駁な結論なのである。たとえばこのオペラの題名は、奇妙なことに“アフリカンヌ”(アフリカの女[性]、あるいはアフリカの女王)なのだが、アフリカとインドが混然一体となっている。このアフリカとインドの混同は、はじめ、荒唐無稽に思えたが、この本を読み進むと、往時の欧州の人々の観念では、アフリカとインドはつながっていた、さらに、いわゆるインド航路の発見とアフリカとの関わりはきわめて深く、混然一体となっても決しておかしくないのである。

ところで、、、そもそも、、、ガマとは誰のことか。
 ここでも、スブラフマニヤムが面白いのは、ガマの遺体の漂流を語ることだ。
ガマの遺体は、コーチンで埋葬された(1524)。その後、ガマの遺骨はポルトガルに移送された。だが、ガマの末裔がガマのものだと信じられていた遺骨は、じつはガマの息子の骨だと明かす。…ヴァスコ・ダ・ガマの本当の骨はどこにあるのか。

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ヴァスコ・ダ・ガマの墓、ジェロニモス霊廟、リスボン19世紀後半の建立

(S. スブラフマニヤムは、ある人物の死とその後の遺骨や遺体の行く末にとても敏感だ。遺骨や遺体の扱いの中に、その人物に託されたその時代の意味が集中的に表現されているかのように語る。)
 ゴアに建立されたガマ像の行く末も興味深い。不可解な運命をたどるのだ。引き倒され、粉々に砕かれたあと、その破片が町中に撒き散らされたのだ、と。
(何のために、、、オペラにおける誠実で愛するガマではなく、ガマに対する憎しみが浮かびあがってくる。その憎しみは、インド東海岸に生きる人々の憎しみであるばかりでなく、ゴアのポルトガル系の人々の憎しみでもある可能性が高い。いや、、、この事件は、犠牲の肉体を切り裂き、その肉片を分かつ再生儀礼にも似ている。)

 ヴァスコ・ダ・ガマは、1469年頃、リスボンの南、シーネスに生まれた。
ガマの父、エステヴァオ・ガマは、サンティアゴ騎士団(教団)の複雑な位階秩序のなかで、明確ならざる形で力をつけていた。
この騎士団(教団)というものに注意を向けなければならない。
ホスピタル騎士団が地中海域で依然勢力を持ち続けていた一方で、テンプル騎士団は激しい弾圧にあう(おもにフランスで)。が、イベリア半島では、テンプル騎士団に対する政治的反発は極めてゆるやかであった。テンプル騎士団は、ポルトガルでは、名前をキリスト騎士団と名前を変えて存続する。そしてキリスト騎士団と勢力を分かつもうひとつがサンティアゴ騎士団であり、ガマの家系はこのサンティアゴ騎士団に深くかかわっていた。

1480年代(ジョアン2世の治世)、十代のガマはモロッコへの遠征(侵略戦争)に参加する。この参戦もサンティアゴ騎士団と無関係ではないだろう。(ガマはその時、イスラム世界と同時に遠く東方世界への広がりを肌身に感じたに違いない。)

ガマがふたたび姿を現すのは(文書に見出せるのは)、ガマが二十三歳のときだ。ガマは、リスボンで、ある夜、城塞警ら隊との間でトラブルを起こし逮捕・拘束される。ジョアン2世が援助の手を差し伸べた。王が手助けしたのは、すでにガマが王の先手となって欧州各地で情報収集の任に当たっていただろうこと(一種の政治・外交・軍事スパイか)、また、王がガマの激情と暴力的性向を評価していた(海外拡張のリーダーにふさわしい)ふしがあるからなのだ。                                                                                                                                                                                       
 
1495年、突然ガマが三度、姿を現す。ドン・ジョルジュ(コインブラ男爵、ジョアン二世の非嫡子の皇子、1481—1550)との特別な関係を示す書簡が見つかっているのだ。ドン・ジョルジュは、サンティアゴ騎士団の領袖だった。スブラフマニヤムは、通説に反して、ガマはドン・ジョルジュとの関係を継続し、すなわち新ポルトガル王ドン・マヌエル(1世、在位1495-1521)に寝返ることなく、サンティアゴ騎士団と極めて近い位置に立っていた。ここで大きな問題が持ち上がる。ドン・マヌエルが、なぜ敵対勢力(周知のように、彼の後ろ盾は、キリスト騎士団である)からヴァスコ・ダ・ガマを艦隊の指揮官に選んだのか。

ポルトガルの支配層が、海外進出について一枚岩であったわけではない、スブラフマニヤムは強調する。むしろ、宮廷エリートは、海外進出をめぐって深刻な分裂に晒されていた。ヴァスコ・ダ・ガマを理解するうえで、カスティリャ騎士団、キリスト騎士団、さらに宮廷エリートのさまざまな動き、考え方(典型的には、中央集権化や終末思想やレコンキスタ)を意識する必要がある。

西暦1497年7月8日、ガマらの艦隊(3隻と補給船、およびカラヴェル船)がテージョ川の河口を出発したのは確かなようだ。奇妙な出発だ、艦隊は何を発見すべく出帆したのか、、、

ベレン
リスボンのベレン塔、ここから艦隊はインドにむかって出発した

7月17日、艦隊は、夜間、バラバラになってしまう。が、かねての打ち合わせの通り、ヴェルデ島(アフリカ大陸最西端、セネガル)で再集結する。
11月18日か19日に喜望峰を認める。出発から4か月がたっていた。原住民とのつたないやり取りがあった。原住民を半ば強制的に船に連れてきて、ポルトガル人の服を着せ、送り返したりしている。原住民との軋轢・苛立ちからか(海岸に立てた十字架を原住民が破壊した)、ガマは威嚇砲撃を行った。補給船はここからポルトガルに戻っていった。
1498年1月10日小さな河口につき(現在のイニャリメのあたりか)、水と食料を調達する。
 かねてよりポルトガル人が訪れていた土地(“良き人々の土地”)に投錨する。彼らは、礼節や秩序というものに馴染んでいるようだ、と記録されている。
 
(この本で読んでいて実に面白いのは、アフリカの東海岸の沿岸ぞいの一筋縄ではいかないガマの航海だ。マダガスカルの対岸のアフリカ沿岸、モザンビーク、モンバサ、マリンディ等々をめぐる。冒険譚を読むように楽しい。だが、スブラフマニヤムが、とりわけ注視するのはガマの威嚇・暴力行使である。)

モザンビークでは、当初、現地のスルタンはガマの一行を、トルコ人かムーア人であると思っていた。また、ガマらも、ポルトガル人であることを隠していたふしがある。だが、じきに、実は歓迎されざるキリスト教徒であると悟られる。1498年の最後の週、ガマは、水の獲得のために住民に対する砲撃を行う。これ以降、水の獲得が容易になってゆくのだ。
ザンジバル島を通過、ガマらは大陸と見誤っている。
4月7日ついにモンバサに到着、モザンビークで雇った二人の水先案内人が逃亡、ここでは、キリスト教徒が奴隷として使役されていることを発見し衝撃を受ける。
4月14日マリンディの沖合に碇泊、ガマは用心深く、上陸をためらった。しかし、ここでインド人、それもケララからやってきたキリスト教徒の商人に出会う。9日間の滞在の後、ガマはカリカットというところを目指して出発する。スブラフマニヤムは、それはガマの思いつきではないだろう、と述べている。つまり、ガマは、いわゆるインド航路についての相当量の情報をもっていた。

ここで、オマン出身のアラブ人、イブン・マジットという水先案内が、登場することになる。ガマの艦隊は、イブン・マジットなる人物に導かれてカリカットに辿りつくのだ、と。しかし、スブラフマニヤムは、それは、はなはだ疑わしい仮説であると述べる。今世紀の初めのフランスのオリエンタリストに始まり、さらに1950と60年代におけるロシア(!?)の学者による研究(スブラフマニヤムはテクストの改竄を見ている)のポルトガル史学への奇妙な影響を認めなければならないからだ。
スブラフマニヤムによる水先案内人の同定は、非常に込み入っている。だが、スブラフマニヤムが言わんとすることを大括りで言えば、その水先案内人がグラジャート出身のムスリムだったという説も含め、水先案内人が誰かということよりも、すでにカリカットには、ポルトガル人が居住していた事実の方が、歴史的に意味があるのではないか、と言っているように思える。さらに言えば、バルトロメウ・ディアスがアフリカ南端部に達した時点で、インド経路の問題の大半は解決していた。ゆえに、王は、船乗りではなく(ディアスでなく)外交のできる貴族のガマに艦隊の指揮をとらせた。

マリンディからインドまでは23日を要した(これまでの10か月にもおよぶアフリカでの月日を思うと、インド洋の航海は、おまけのような気がしてくる)。
5月18日 インド東海岸の陸影を認める。案内人の勧めで沿岸を航行し、地理の確認に努める。
5月20日 カリカット北、海岸より1.5リーグ(7.2km)のところに投錨する。現地の者たちがボートでサン・ガブリエル号にやってくる。彼らが誰であるかと問うとともに、カリカットの正確は方角を示す。
5月21日 ガマは、元囚人のムーア人偵察隊をまず上陸させる。ガマは、アフリカでの経験から非常に用心深くなっていた。が偵察隊は、一応の歓待を受け船に戻ってきた。偵察隊とカリカットの役人は、アラビア語での意思疎通が可能だったのだ。
5月28日 ガマら12人が上陸する。ポルトガル人は、大きな建物(教会だと彼らは考えた)に案内された。壁にかけられた聖人像を見て奇妙だと思った(ガマらは、鼻からキリスト教徒の土地に来たと信じているのだ)。クロニクル記者は、この“東方キリスト教”についてその儀礼と特異性を注意深く記述するが、歴史家にとって、彼らがヴァイシュナヴァ派のヒンドゥー教寺院にいることは明らかだ、と言う。彼らは、非イスラム的なものをキリスト教に結びつけて理解した。ポルトガル人の一行は、祝砲が鳴るなか、王宮に向かった。
王は、一段高くなったコーチの上に横になっていた。
王は、ガマが、どんな目的でここに来たのかを尋ねる。
ガマは、世界でもっとも権勢あるポルトガル王の命で、キリスト教徒の国を発見するためにここに来たのだと言いたてる。

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中世のヒンドゥー教寺院を偲ばせる

歴史家は、アラビア語の通訳で“発見”の意味がどれだけ通じたか、疑問を呈している。(しかし、この航海、どこにいっても最後はアラビア語がものをいう。イスラムを叩く足掛かりを得るための航海で、イスラムの圧倒的な存在感に出会うのだ。)
王との接見、意見交換は夜半まで続いた。王は、最後に、夜をムーア人のところで過ごしたいか、キリスト教徒のところで過ごしたいかを尋ねた。
翌日、ガマは、王への贈りものを慣例通り整える。
お付きのムーア人が、何と貧相な贈り物かと嘲笑し、ガマはたいそう憂鬱になる。そして、ガマらは、自分らは外交使節であって商人ではないと言い訳するのだ。
翌々日、ガマらは長らく宮殿で待たされる。ようやく二人の従者だけでの接見許される。王は、前日、ガマらが接見を求めなかったことを非難した。王は、ポルトガルの特産品などを問う一方で、権勢ある王の使いがなぜ贈り物ももたずに来訪したのか、王からの親書を持参していないのか、と問い詰めるのだった。ガマらは、アラビア語に翻訳した書簡を用意していたが、その内容をガマは把握しいなかった。クロニクルの記者は、明らかに、この両者の折衝が非友好的なものだったことを伝えている。
5月31日 ガマの一行は宮殿を去る。それが、サムンドリ王(海の王)との最後となる。1500年、ガマが再度カリカットに戻ってくると、王は変わっていたのだ。…ガマは鞍のない馬に乗ることを拒み、御輿を用意させた。ガマは、艦船に戻ることは王の指示だと説明するが、同行の付き人は言を左右にして艦に戻ることを邪魔するのだった。一行への監視が強化されポルトガル人は神経質になっていた。クロニクルの無名記者は、表面は友好的だが、いつ彼らが攻撃してくるか分からない状況を強調する。だが、新たな積荷が届けれらようやく事態は好転してゆく。
ポルトガル人とカリカットの商人たちとの始まりの取引はどのようなものだったのか。用心深く、かわるがわる小舟で荷・商品をカリカットの街に運んだ。ポルトガル人が持ち込んだシャツや布の値段は驚くほど安かったが、現地の香辛料も安かった。現地の人々は、小舟で艦船まで、魚や石を売りにやってきた。
8月23日 船は、すぐに戻ってくる、と言い残して帰路につく。
船は、風をつかまえられず、進まない。ひと月がたっても、船は、ひどくゆっくりとインドの西海岸を北上するだけだった。そのような時、ベネチア方言を喋る身なりの良い男が艦に接触してくる。彼は、カリカットに現れた全身服(!)の人々の噂を聞き、追って来たのだと言う。親し気な雰囲気はすぐに疑念を引き起こし、拷問のすえに、彼がスパイであると判断する。スパイの主人は、ポルトガルの船が、帰路を見失って迷走していると考えていた。このおしゃべりな男は、実は、ユダヤ人の商人だった。ポルトガル人は、彼から、当地の商業と政治につて多くを学び、ガマの2回目の航海に同行することになる。

帰路は容易な航海ではなかった。西インド洋の横断には、3か月を要し、30人もの船員を失う。各艦でまともに働けるものは7、8人のあり様だった。このまま良い風が吹かなければ、インドに戻るしかないとガマは一度は決意する。神妙な祈りが捧げられた、とクロニクル記者は言う。
1499年1月2日、それでもアフリカの陸影を望見する。
1月7日 友好の地マリンディに着く(これにはまた別の理由がある)。王から薬物と食料の提供を受ける。
1月11日 モンバサを通り、その後、船員不足からサン・ラファエル号放棄を決断し、火をかける。
3月20日 喜望峰を回る。…ここでクロニクル記者による記録を突如途絶える。一隻は6月の初めに、ガマの乗ったサンガブリエル号は、8月にリスボンに帰還する。ガマが遅れたのは、故国の地を目前に肺炎で倒れた兄のパウロの看病と埋葬のためだった。

ヴァスコ・ダ・ガマのリスボンへの帰還後について、歴史家は、いくつかのテーマについて詳述している。マヌエル王による、ガマの偉業についてのバチカンおよびカトリック諸国への報告・吹聴(人口百数十万のポルトガルという小国の野望を感じる)、イタリア・南ドイツの商人達の危機意識(ベネチア人は、もはや魚屋になるしかないと自嘲した)、ガマへの恩賞について(領地、称号、年金など、下級貴族からの脱出のガマの姿が見えてくる)、ガマが発見した東方のキリスト教徒について(その情報は混乱と誤解を含みながらも、極めて重要な情報であったことが如実に伝わってくる)、有力な家系の娘カタリーナ・デ・アタイデとのガマの結婚(ここでもガマは出世に熱心だ)、歴史家は、一次資料に当たって、魅力あるディティールとともに時代の諸局面を描きだしている。それらの主題のなかで、良く理解できないが、非常に気になるのは、数十年後に書かれたポルトガル歴史叙事詩への言及だ。カモインスCamõnes が書いた『ルシーアダス』Lusíadas (1572完成)は、ガマをローマ建国神話における古代のアイエイネスになぞらえ、英雄としたたたえた。その主題は、キリスト教と異教との闘いなのだが、興味深いのは、ガマの遠征に対する悲観的な見方がそれに現れていることだ、と言う。かくてこのポルトガルの国に災厄がもたらされた、と。その悲観的な見方に関して様々な解釈がなされてきた。が、 スブラフマニヤムは、『ルシーアダス』の言わんとすることは、海外拡張主義への批判というよりは、英雄物語・神話にたいする批判、ポルトガルの暴力行使への批判である、と解釈する。ガマの行き過ぎた暴力行使を批判する視点を、ポルトガルは、その自身の内部にもっていた。

ガマの第二回の航海(1502年2月~1503年10月)までに、ブラジルの発見者ペドロ・アルヴァレス・カブラルの大艦隊を含む二つの艦隊がインドにむかった。そして強奪し、砦・商館をたて多量の香辛料を故国に持ち帰った。
ガマの第二回の航海を特長づけるのは、インド西海岸におけるカリカットやカナノールを相手にした威嚇的取引だが、その頂点にメッカ巡礼船への攻撃とムスリム巡礼者の虐殺がある。第一回航海にうけた“屈辱”(ガマが持参したカリカット王への贈り物を嘲笑された)に対する復讐であると考える向きもあるが、それよりも、私がこの本から受け取るのは、ガマという人間の攻撃性とムスリムへの闘いを正義と信じる十字軍的狂信だ。
1502年9月29日サンガブリエル号は、大型船を目撃し、威嚇砲撃を行う。メッカからカリカットへ戻る巡礼船だった。有力な商人アル・ファキムは、命乞いのための交渉をガマとおこなう。それが、インド洋海域における海賊に対する通常の対応だったのだろう。だが、ガマは価値あるすべてのもの(金銀の硬貨、トルコのベルベット、水銀、オピューム等々)を没収すると船を砲撃した。船上の女(性)たちは、身に着けていあた宝石をポルトガル人に差しだし命乞いをした。絶望に駆られた人達は、ポルトガル船に乗り移り砲火をかわそうとした。最後に、ガマは巡礼船に火をかける。子供を含めた300人近い人々が殺された。
 
 この後、ガマは、カナノール、カリカット、コーチンを行き来し香料取引を試みるがうまく行かず、カリカットを砲撃し、コーチンでは、ムスリムの船舶を武力拘束し、積荷を強奪する。その間、カリカットからの反撃もあったが、ポルトガル艦が大きな損害を受けることはなかった。
 かくしてガマはコーチンに商館を建て、数十人のポルトガル人を残し、ポルトガルへの帰途につく。

ガマのポルトガルへの帰還(1503年10月)から、1523年の第三回目の航海までの期間について、これまで歴史家はほとんど返り見ることがなかった、とスブラフマニヤムは言う。ガマの神話形成(国民的英雄像)にとって好都合な材料に乏しいためだろうか。これについても、スブラフマニヤムは、それらの込み入ったテーマについて詳述している。
まず、ガマについては、さまざまな争いをかいくぐっていかねばならなかった、と言いう。たとえば、王から拝領したシーネス(ガマの生誕の地でもある)の領地運営は、在来勢力の妨害で思うようにはならなかった。それらの争いの中で、ガマはさらなる爵位や領地を求め続けた。それも、マヌエル王の弱みにつけこむようなしたたかさが目につくのだ。
マヌエル王の統治は、ガマの第一回航海の帰還後、1504年頃から中央主権化にむけた改革が加速する。厳格な徴税システムが機能し始める。学校改革の成果が、それを支える能吏を養成した。スイス式と呼ばれる近世へむけた軍事改革も開始された。それら改革の王の動機についてスブラフマニヤムは、西欧のカソリック諸国の盟主たらんとする野望であり、その最大のテーマは、ムスリム勢力の一掃で、シンボルカルにはメッカの破壊蹂躙、またその作戦の要諦は、東のキリスト教勢力との同盟によるムスリム勢力の挟撃なのだ。1507年には、キリスト教国としての同盟を求めてエチオピアに正式の使節をおくっている。もちろん、そのような誇大妄想的な野望―遠くのキリスト教国やメシア思想―に冷ややか宮廷エリートのグループも存在した。問題は、マヌエル王の北アフリカへの固執なのだ。(往時のポルトガルにおける北アフリカ問題を私達は知らなすぎる、ように私は思う。コンキスタドールは、北アフリカで継続されていた。)ポルトガルはインドに次々に武装商館を建設し、インド洋の制海権を確立しつつマラッカへの進出・拠点化、フルムーズ(ホルモズ)を占領、さらに中国に商館を建てよ、とまでマヌエル王は命じた。他方、北アフリカへの軍事支出が続いたのだ。香辛料での儲けは、北アフリカ(およびバチカンへの宣伝費)に蕩尽された。スペイン、ハプスブルクからの援助も北アフリカ領の維持ためだった。北アフリカ領地問題が王権の基盤を揺るがした。そそして1515年頃には、王の中央集権化の放棄が明らかになってくる。北アフリカの重荷によるのは明らかだ。

詳細を極めるスブラフマニヤムのポルトガル領インドの統治について叙述をはなれ、ごく大雑把に捉えてみたい。
初代(インド領副王)フランシスコ・デ・アルメイダ(在位1505~09)の時代は、インド洋におけるポルトガルの海洋権確立の時代だった。アルメイダの名声と権勢は目を見張るものがあったが、ガマは、その周辺に追いやられていた。
次のアフォンソ・デ・アルブケルケ(総督、在位1509~15)は、ムスリム王国ビジャプールからゴアを奪取し、マラッカを占領した。アルブケルケについてそのことばかりが取り上げられるが、スブラフマニヤムはのインドにおける彼の使命を、自由貿易とは対立する王室による貿易の独占と考える。彼が推し進めてゆこうとした王室独占は、いささかも重商主義的ではない。資本(儲け、と言うべきか?)蓄積が王室に集中し、新興ブルジョワジーを育てない。ところでガマといえば、海軍提督というあまり実態のはっきりしない称号を活用して私的な貿易で蓄財に励んでいたところをみると、中央集権的君主の側にあるというよりは、十字軍の戦士としての封建領主に近いのではないか。
ロポ・ソアレス(総督、1515~1518)は、アルブケルケとは反対にゆるやかな統治を行った、ということ以外にあまり印象にのこらない。ただ、この本で興味を引いたのは、彼の奇妙な紅海への遠征だ。アルブケルケの統治の最終場面で(1517)、ロポ・ソアレスはゴアから艦隊を率いてアデンに向かう。そこで彼は驚くべき事態に遭遇する。アデンのスルタンと人々がポルトガル艦隊を歓迎したのだ(オスマントルコによる支配を嫌った)。それは、エジプトのマムルーク朝がオスマントルコに滅ぼされた直後であり(1517)、要港アデンを奪取する絶好のチャンスにありながらも、ロポ・ソアレスはそのままジェッダにむけて出発してしまう。ロポ・ソアレスの意図は不明であり、またロポ・ソアレスという人物も不思議な印象を残す。
ディオゴ・ロペス(総督、1518~1522)は、ふたたびアルブケルケの方針に戻したのだ、と言う。つまり、自由貿易でなく、王室による貿易の独占だ。だが、ディオゴ・ロペスがマヌエル王に忠実であったと言うためには、いささか複雑な歴史的問題を解く必要がある、とスブラフマニヤムは言う。ところで、王室による貿易の独占の実態とは何なのだろうか。一般の商人による自由貿易は許さないが、それは表向きのことで、実は、要人自身の私的取引や収賄によるの闇取引が横行していたのではないか。面白いのはガマも例外ではない。

1521年、マヌエル1世が死にジョアン3世が王位を継承する。スペイン・ハプスブルク家の血の入った、あるいは強い紐帯をもつジョアン3世は、マヌエル王よりは、遥かに現実的で、パラノイア的王国とは無縁な王だったようだ。つまり遠いキリスト教国やメシア思想を信奉していない。つまり、ジョアン3世におけるは香料貿易は、十字軍の軍事費捻出のためのではなく王制の財政立て直しのための香料貿易なのだ。そういう方向転換のために、三度、ヴァスコ・ダ・ガマが登用される。その任命が適切なものとは思えないが、それしか王に選択肢はなかった、とスブラフマニヤム言う。ガマの志向(強欲である)・思想信条(十字軍的熱狂とどこかで結びついている)がどうであれ、王は、ガマの英雄神話を利用してポルトガルの海外進出・活動の秩序回復・統制とさらなる王国の発展を試みたのだ。

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ヴァスコ・ダ・ガマ(?1469~1524)

D.ドアルテ・デ・メネゼス(総督1522~24)に対する本国からの罪状は、不正な私的取引とシリア・キリスト教徒への援助を怠ったこと、がおもなようだ。本国の方針・命令に寄り添う度合いが低かったかもしれないが、ドアルテは、現地の実情にあった現実的な仕事・行動をとっていたような印象がもたれる。彼はインド西海岸のムスリム、とりわけマピラ(ケララのムスリム・コミュニティ)との対立・抑圧を強めていく。そのことで彼は非常に嫌われていた。ただ、彼の重大な関心が、インド西海岸からペルシャ湾方面へ移っていたことは、情勢論的に正しく、ポルトガル領インドの統治の観点からすれば、本来はより評価されて良いように思えるのだ。弟をたびたび紅海に送りムスリム商人の商売の妨害させている。サファビー朝とのフルムーズをめぐる緊張もさることながら(1524年のシャー・イスマエルの死でその圧力から解放される)、何よりもオスマントルコの圧力を恐れていた。
D.ドアルテ・デ・メネゼスはポルトガル副王ヴァスコ・ダ・ガマの着任(1523年末)により捕らえられ本国に送還、7年の禁固刑を受ける。ドアルテの解任と送還についても、一筋縄では語れない歴史の劇があるのだが、ここでは省く。
ヴァスコ・ダ・ガマのポルトガル領インドの統治を特長づけるのは何なんだろうか。
ドアルテがやったことはムスリムへの苛烈な圧迫と、ポルトガル系住民に対する鷹揚な統治である。多くのポルトガル人にとってインドで生活することは、ある種の特権と自由と成功のチャンス(破滅ととなりあわせの)に恵まれることであった。その雰囲気を良く伝えているのが、フランシスコ・ペレイラのゴアの統治だ。病院とフランシスコ会に金を使い過ぎ、弾薬は尽きていた、と。それに対して、ガマは、ポルトガル系住民に対しても、暴力的とも言えるやり方で厳格な規律を求めた。給料の支払いを厳しくチェックした(古参をないがしろにしている、という非難があがった)。ガマ自身も現地の名士・有力者からの贈り物を受け取ろうとしなかった。だが、それは現地の風習・儀礼に反することだったのだ。ポルトガル人は副王・ガマを憎んだ。別の情報では、ガマは現地の情婦に手切れ金を払っていた。

1524年11月、ガマは重篤の病に倒れる。アデンで拿捕した船からは、オスマントルコの艦隊が攻撃の準備を整えつつある情報がもたらされる。ガマの容体は回復せず、カリカットへの攻撃は難しくなった。ガマは指揮権を譲らざるを得なくなったが、誰が引き継ぐのか混乱と争いがあった。それでもガマの仕事が何名かの高官に引き継がれ、艦隊は分散し、アジアの各方面に向かって出発していったのだ。ガマは、1524年のクリスマス・イヴゥにコーチンで死ぬ。コーチンの少なからずの人々がガマの死を喜んだ。

スブラフマニヤムは、ガマの規律の回復と領有地拡張を、時代錯誤とみる。小国ポルトガル(当時の人口は百数十万人)には支えきれない海外領地を抱え込んでこんでいた。といいうことは、十字軍的夢想から離れ実利を求めたジョアン3世の修正方針も、また、同じ拡張の方向であることには変わりなかった。

スブラフマニヤムは、ガマの肖像画に言及して、醜い肖像とより醜い肖像があるだけだ、と言っている。この辛辣なもの言いは、じつはこの本の手短な案内に思える。ヴァスコ・ダ・ガマの伝説部分を丁寧にとり除いていくと、そのような、醜いガマとより醜いガマが見えてくる、と言っても過言ではないからだ。…ポルトガルの現代のある歴史家は、15・16世紀のポルトガルの海外浸出について(しばしば、ナチスのジェノサイドに近い、と非難される)、スピノザの精神にのっとり、人間の行いに関しては、笑いも、泣きも、軽蔑も必要ない、ひたすらその不思議を理解することだけだ、と宣言する。しかし、スブラフマニヤムは、そのいささか崇高すぎる宣言に楯突くように、キリスト教徒でない私は(スブラフマニヤムは少なくともキリスト教の狂信者ではない、と言っているのか)、彼らの行いがばかげていれば笑い、悲劇的な場面では涙をながし、彼らの犠牲者が彼らの非道を憎しんだように彼らの非道を憎むのだ、と結論する。

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サンジャイ・スブラフマニヤム

サンジャイ・スブラフマニヤムという歴史家は、論文のなかにユーモアのある寸言を持ち込み、辛辣に笑い、だが、多くの人々が当然と思うことがらには容易に同調しない、煮ても焼いても食えない思想する人であるところが一番の魅力なのだと思う。

<参考文献>
立石博高編『スペイン・ポルトガル史』(山川出版社2000年)
ナイジェル・クリフ『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』(山村宜子訳、白水社、原著2011年)
家島彦一『海域から見た歴史』(名古屋大学出版会2006)

2019,1

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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