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108. スリナトゥ・ペルール『月曜日はマドゥライで、パッケージツアーで巡るインド』(2013年刊)、 Srinath Perur, If It’s Monday it must be Madurai: A Conducted Tour of India, published by Penguin Random House India in 2013.

madurai.jpgスリナトゥ・ペルールは
今もっとも注目すべき作家である
とパンカジ・ミシュラが言う
そのペルールがパッケージツアーで
インドや欧州の旅をする
インドの人々の欧州バスツアー
タール砂漠のラクダ・サファリ
ウズベキスタンへのセックス・ツアー
ボンベイのスラム・ツアー
カビール・プロジェクトでは、
カビールを歌いながらインドの村々を旅する
ワリ、パンダープールへの巡礼ツアー 等々
それは憂鬱で、苛立たしく、悲嘆のナイポールの旅ではなく
パンカジ・ミシュラの屈折とユーモア、含羞の旅とも違う
この旅行記は、そうではなく
人々のステレオタイプに寄り添いながら
新しいもの感じ方と見方を開発してゆく
インドの新しい真の現実に迫るのだ



   パンカジ・ミシュラはペルールの何を評価しているのだろうか?何かシリアスなものを思い描きたくなるのだが、実際に『月曜日はマドゥライで』を読みだすと、意外な貌を覗かせる。とてもユーモラスなのだ。そして鋭い視点があり、さらに良いのは、出くわす現実に対して怒りも絶望も拒否も軽蔑もしないことだ。飄々とこの世の可笑しさを冷静に見つめる。新鮮な喜劇精神を感じる。この本の副題「パッケージツアーで巡るインド」(原題は、A Conducted Tour of Indea)がそもそも曲者なのだが、ペルールの感じ方はとても新しいく非常にユニークだ。

★インドの人々による欧州バスツアー
 ロンドンからウィーンまでの二週間のバスツアーのあいだ、毎食インド料理を食べ、バスの中のスクリーンではボリウッド映画を見続ける。マダムタッソーの蝋人形館では、ボリウッドのスターを見る。何よりも大事なのは、ロンドン塔を背景に自らを写真に収めることなのだ。このヨーロッパの旅は、新興の中産階級の人々にとって、ひとつの通過儀礼であることは明らかだった。
ツアーコンダクターは、私が添乗員なので皆さんは大変ラッキーだ、と言う。私がいるから心配はご無用です、と。(参加者は、インドではたくましい生活者であっても、ここでは従順な羊なのだ)。
   ドイツでの500㎞の旅は、わずかに私たちが見たものはカッコー時計を作る工房とハイデルベルグの短い散策だけだった。(ツアー代金とコストのせめぎ合いか)。皆は、宿泊したホテルの部屋、レストランの食事、参加者の誰それについて品評しあう。私と同行の女性カメラマン(!)の存在が彼ら参加者にとっては、しばらくのあいだ謎であり目障りだった。
   チェンナイからきた娘は、まるで北極圏にでもいるような厚着をしていた。ムスリムの女(性)は、故郷では決して容認されない今風の格好を楽しんでいた。とても幸せそうだった。
 旅の苦難は続く。インドの金=ルピーの軽さを思い知る。節約に心がけるがムダだった。パリのホテルの洗濯代はこの衣類の購入代金より高いのだ。それに驚かされたのは、いくつかのホテルで私たちインド人観光客が好まれていなにのが分かったことだ。
   私たちは、ヨーロッパを移動していたが、ヨーロッパにいるのではなかった。ヨーロッパに来て、私たちはヨーロッパの何も見ない、ヨーロッパのイメージを確かめるのだ。このヨーロッパのツアーは、私のなかでは何かとりとめのないバラバラの印象でしかない。むしろ一貫してあるのはインドなのだ。

★タール砂漠のラクダ・サファリ
   ジャイサルメールの歴史は悲劇的なものである。城塞包囲の凄惨な戦いがくり返された。それでも、ムガール帝国に組み込まれると、インドと中央アジアを結ぶ商業都市として栄えたのだ。 
そしてジャイサルメールは、今やバックパッカーにとっての聖地である。
 他方、そこの生活は激変していた。昔は、みんな女(性)が、朝、水運びをしたのだ。今は蛇口をひねれば水が出る。
 近年、『ロンリープラネット』は城塞内の宿泊施設の紹介を自粛している。生活が便利になった。しかし排水インフラは未整備で、レストランやホステルの排水が垂れ流され城塞の基部を浸食し脆弱化させているからだ。それでも、私は城塞内に宿をとった。

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   ジャイサルメールの中心から一時間も外へでると完ぺきな、写真映えする砂漠(タール砂漠)が広がっている。
 ラクダに乗った砂漠のサファリは、ここの観光業者にとってとてもうま味のある商売なのだ。客引きは執拗だ。ツアーをめぐる宿主との交渉は難航しまとまらなかった。街の旅行業者によるグループツアーのサファリに出かけることになった。
ミスター・カーンと自己紹介したガイドは不思議な英語を操った。英語を母語としない様々な国の観光客から英語を学んだからだ。それが面白いのか、アメリカ人の女の子が、ミスター・カーンの英語は素晴らしい、と誉めていた。

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 休息をとった村は、ジープのドライバーの住む村だった。(この種の偶然がインドではよくある)。
 ジプシーの子供たちは、ジープを取り囲み、歌い、踊り、笑い、金をせびるのだった。
 ようやくラクダに乗ったキャラバンが始まる。ラクダに乗るのは、初心者にとっては苦行だ。だが、一時間もすると、ジープが待機している今夜の野営地に着いたのだった。
 アメリカ人のグループは、韓国で英語を教えていた。帰途、インドを訪れたのだ。参加者の一人はロシア人の女(性)だった。数年をインドで過ごしたあと、今、ロシア人相手のガイドで暮らしをたてようとしていた。
 食事がすみ、寝支度が整うと、手伝いの者たちは、ジープで村に帰っていった。眠るために、だ。一体このキャラバンとは何なのかと思う。それでも「砂漠の夜明けは多分美しだろう」と思い直す。砂漠で一人になり、そこにはいない親友に語りかけたくなったのだ。
 
★ウズベキスタンへのセックス・ツアー
(とても難しい題材なのに、この章がこのトラベローグの秀美であることを予兆するように、この章の入り口が傑作だ。ウズベキスタンの首都タシュケントに向かう飛行機のなかでの様子を描いている。雪山が見えると、多くの乗客がいっせいにそちらの窓の方に押し寄せ飛行機が大きく傾く。添乗員が必死になって押しとどめようとするのだが…。)

 タシュケント1 
   インドはもとよりパキスタンからも韓国からもウズベキスタンに多くの男たちがやってくるのだ、と言う。タイのバンコクばかりが、今や快楽の都ではないのだ。
(私は、ウズベキスタンが性と快楽のメッカだということを、この本を読んで初めて知った。)
   インドの人達は、タイへの買春ツアーで随分評判を落とした。ウズベキスタンでも事情は似ていて、ウズベキスタンの観光省はインド人観光者へのビザの発給に制限をかけていた。私たち一行は、査証では、何とアスリートなのだった。
 現地ガイドはジャビールと言った。ジャビールは、単刀直入に夜の楽しみを斡旋しようとしない。彼は、大統領はいい人だ、と言ったりした。ひとりの観光客が怒って「我々は夜景を楽しみに来たのじゃない」と。ナイト・マネージャーなる者が存在したのだ。ナイトクラブでダンスを楽しんだあと、多くの者は“納屋”Farm Houseという女郎屋に流れた。ラジェシという男は、ホテルに戻り、ブロンドのロシア人娘を指名したが、部屋にあらわれたのはウズベキスタンの娘だった、と翌日話していた。“納屋”に流れた一行は、実はそのあと、さんざんな目にあったのだと言う。警察の手入れがあり、お楽しみどころではなかったのだ。
 タシュケントはシボレーの走る街、街路樹は、降伏のポーズをとるかのように枝葉を空に向けて高くもちあげている。ムガール帝国はこの地からやってきたのだ。ムガール帝国の始祖バーブルは、生涯、故郷ウズベキスタンのメロンの味が忘れられなかった。四方を“スタン”国家にかこまれたウズベキスタン、わが祖国インドよりも現代化が進んでいることが、皆には気に食わない様子だった。
 ホテルの六階の廊下は、それはものすごいものだった。部屋の中で行われていることの順番待ちで行列ができていた。ラジェシは、一人の女(性)と交渉していた。一時間なら100ドル、通しなら       300ドルと女(性)は言っているようだった。少数派(?)の我々は、ナイトクラブに向かった。
(ペルールは一線を越えない((セックスをしない))、慎みのようにも、また、嫌味であるようにも、私は思う。ペルールのこのツアーにおける立場は極めて難しい、書き手、記事を書く者が忍び込んだセックスツアーが居心地が良いわけがない、だが、そういう困難な試みに立ち向かおうとするところが、この本の価値だ。)

 インド・パキスタン和平交渉の立役者シャストリはタシュケントで調印後亡くなった。ジャビールは、記念碑に花を捧げた。
(このセックスツアーでは、ペルールは、よく個人の二面性に驚いている、どう猛なセックスアニマルに見える者が、きわめて信心深いムスリムであったりする。貴重な発見だ。)

 アレクサンドロスが、チンギスハンが、ティムールが、サマルカンドを支配した。ティムールの時代に作られた美しい広場を歩いた。何人かの者が、最初にサマルカンドにくれば良かったと言った。皆、実はセックスに飽きだしていた。サマルカンドは、娼婦にことかかないばかりでなく、どの女(性)も愛想が良かった。パラスは、当地の娘を食事に誘って楽しんでいた。どんな会話をしたのだろう。最後の晩も、女の子の踊りを見ながら夕食をとったのだが、彼女たちがすべて去ると、疲れた男だけになったのだ。

★ボンベイのスラム・ツアー
(アウシュビッツやフクシマを訪れる観光があることは分からないでもない。しかし、スラム・ツーリズムとなると、私は、複雑な気持ちになる。実は、私もスラムがずっと気になっていた。だが、そこはチラッと覗き見するぐらいで、足を踏み入れてはならないところ、と考えてきた。身の安全を言っているのではなく、友人の家を訪ねてゴミ箱をあさるようなことはすべきではない、と思うからだ。それが、今や商業観光のコースになっているとは!)

   今日、スラム・ツアーが随分隆盛だが、その歴史は十九世紀のロンドンにすでにあった。当時の紳士・淑女がディケンズの小説にあるようなロンドンのスラムを訪ねて楽しんでいた。古い“ニューヨーク・タイムズ”をめくると(1884年)、ニューヨークを訪れた英国人紳士は、イーストサイドなどの観光のあとで、君たちの都市は素晴らしいが残念なのはロンドンにあるようなスラムがないことだ、と語ったのだという。

 私はレオパルドカフェの前で待っていた。スラム・ツアーのガイドは、私を一度ならず拾いそこねた。頭から参加するのは、西洋人であると思い込んでいたからだ。インド人がツアーに参加するのはきわめて稀なのだ。
売春窟が軒をつらねるフォークランド通りを過ぎ、世界最大の青空洗濯場として有名なドォービ・ガートなどを見ながら車はダラヴィ・スラムに向かった。ガイドの説明が一段落したところで、ドライバーが唐突に「真実」は一、二年でなくなる、と発言した。なんでここで禅問答を始めなければならないのかと事態を良く理解できないでいると、「真実」とはこのツアーの主催者“真実旅行社”(RTT: Reality Tour and Travel)のことだった。映画“スラムドッグ・ミリオネア”のヒット以来(2008年)、スラムツアーはブームとなり、RTT旅行社は、新興勢力の追い上げで事業が苦しくなっているのだ。RTTには、立派な理念があり、スラム・ツアーの収益の少なからずを、スラムの環境向上に還元しているのだった。その分、興味本位のツアーに押され気味なのだと後で聞いた。ガイドは、だから今から我々らしいツアーを企画してゆく必要がある、例えば、インドの本当の村々を巡るツアー、等々と語気を強めて言った。

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   ガイドの説明は、良心的なものだった。…ここには二十七のヒンドゥー寺院があり、十一のモスク、六つの教会がある 、人々は平和に共存している、ただし、1992~3年のバブリマスジットのムスク破壊のときは、違った、と。
   スラムの狭い路地を歩いてゆく。ヘドロのような排水(ゴミと排泄物との混合物) の悪臭が強烈だ。ただ、そのドブを除けば、ボンベイの裏道を歩いているのとあまり違わない。チャイを商う露天があり、安食堂、ごく小さな売店、そして渋滞なのだ。
廃品回収業の現場を見る。塔のように高く積み上げられた空き缶。廃品回収業はダラヴィの一大産業である。ガイドはスラム全体の経済力を665百万ドル以上だと解説する(700億円、我が国における中堅会社の売り上げ位か)。
   敷居のところでしゃがんで料理の支度をする女(性)たち、隣家どうしで世間話をする女(性)たち、また、ムスリムの居住区では、女(性)たちが家の床にすわり皆でTVを見ていた。…彼女らは、私たちが歩いてゆくとチラッと私たちを見るのだった。彼女たちと私たちの間に一瞥以上の緊張感を醸し出さないのは、私たちが外国人であるからなのだろう(私は、外国人のツアーに紛れ込んだ同類)。つまり、彼女らと私たちの遠い距離がスラムと外の世界の境界を曖昧にしているのだった。

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   私たちは、茶店で休憩をとった。チャイを飲みながら、ドイツからきた娘ウルリカに、「感想はどう」、と聞いてみた。「ここは、まあ、住宅街みたいなものね。ビルもあるし、PCだってテレビだってある、エアコンもね。作業場のオヤジはBMWにさえ乗っている。ここは本物のスラムではないわ」と言うのだった。ウルリカは、コラバ近くのスラムをつい昨日訪ねてきたばかりだったのだ。それは文字通り掘っ立て小屋が軒をつらねる凄まじいスラムだったのだろう。どうやってそのスラムに行ったのかと聞くと、タクシー運転手に案内してもらった、のだと言った。
   スラムには、男はあまり多く見かけない。しかし、とてもおしゃれなティーネイジャーが目を引く。彼らは、色鮮やかなティーシャツに短パンをまとい、スニーカーをはいている、このスラムの環境ではとりわけきらびやかに見える。…そのようなおしゃれなスラムの少年に、学校の制服を着た少年達が、何かを話しかけていたのだ。驚くべきことに、制服を着た少年達がスラムの少年に聞き取りをしているのだった。「電気は通じていますか」、「教科書を入手するのに困難はありませんか」等々、と。彼らは、バンガロールのインターナショナルスクールの生徒だった。授業で、ダラヴィ・スラムの記録映像を見、じかに自分たちの目でスラムを見る必要があると話し合いここに来たのだった。「なぜ彼らはこのスラムから動けないのか、なぜ開発を拒むのか、要するに、僕たちの目的は、彼らのニーズが何なのかを捉えることなのです」と彼らの一人が説明するのだった。
 ツァーは最後に“真実旅行者”の事務所や関連施設のあるところにたどり着く。“真実旅行者”の人々は、ダラヴィ・スラムに愛着をもっていた。ここの環境改善に尽力していることに誇りを感じていた。“真実旅行者”が運営している小さな幼児教室を見学した。教室では、二十人ほどの幼子に英語を教えていた。子供たちは、クリスマスの歌、“ジングルベル”を皆で歌っているのだった。そこの先生は、できるだけ早く英語をこの子供たちに学ばせたい、と言った。英語の歌詞、ヒンドゥー語での歌詞を子供たちは繰り返し声にだしていた。子供たちは、この暑いボンベイで、雪のなかを走るソリのことを、クリスマスを、サンタクロースのことを、なぜ歌わなければならないのか。私は、いたたまれない気持ちになっって教室から出た。

(このエッセイは、スラムの悲惨、人間以下ともいうべき厳しい生活環境を非難したり嘆いたりしない。むしろ、ダラヴィ・スラムは、その家々のなかは、インドの中産階級の生活に似たものがある、と驚く。ペルールが主張するのは、このスラムには、少し違った現実があるのだ、ということのようなのだ。ドイツ娘は「ここはスラムではない」と言い、“真実旅行者”の人々はスラムの環境改善を見てくれ、という。このすれ違いが、ペルールの注視したい現実なのではないのか。スラムもまた、何か強烈な現実を突きつけてくるものではもはやなく、虚構(ボンベイでのジングルベル)を弄ぶフィクションに近い、と。いずれにしても、これは、スラムをめぐる今の現実の一端を暴露し、認識の境界((私たちの足を踏み入れてはならないところ))に改変をせまる素晴らしいエッセイだ。)

★カビールを歌いながらインドの村々を旅する: カビール・プロジェクト
(カビールは、十五世紀インドの神秘的詩人であり宗教改革者だ。ヒンドゥー教徒もイスラム教徒もスィク教徒もカビールの詩・言葉を愛唱した。インドでもっとも人口に膾炙した詩人と言われている。このエッセイは、カビールの詩が、現在においてもなお多くの人々に享受されているまことに驚くべき伝統の今を伝えてくれる。なお、カビールについては、私たちは東洋文庫で『ビージャク』(橋本泰元訳、平凡社)を読むことができる。インドらしいアクセントの強い、荒々しい、ある種グロテスクな味わいがあるのが面白い。その味わいを、このエッセイも表現しようとしている。)

 ラージャスターン・カビール・ヤトラ(旅・行進・巡礼)に、私は十年前に参加した。インド中からフォーク・ミュージシャンが集まり、彼らとともに、歌い演奏しながらラージャスターンの村々を巡る。
   出発は、ビーカーネールの列車駅だった。二月(冬の砂漠の街とはどんなものだろう)、お菓子屋がにぎわっていた。菓子の香りに充ちた街、何と言ったらいいのか。オートリキシャでロカヤーンに向かう。オートリキシャは狭い道を疾走する。
   カビール・プロジェクトが始まったのは、2003年のことだ。グジャラートでの宗教対立・暴動・虐殺への抗議と反省が背景にあるのだと思う。カビールは宗教対立やカーストを批判・否定したからだ。
   オウム・ハニは最初から強い印象を私にのこした。彼女はフランスおよびモロッコに出自をもつ元女性オペラ歌手なのだが、ラールという写真家の着ていたティーシャツを問題にした。その銃とバラと髑髏のデザインがアシュラ(悪神)を引き寄せる、と言うのだった。その夜、良く眠れなかった。隣にいた男の騒がしい夢遊病的行動(彼はなかば戦闘中だった)、それにオウム・ハニによる昼間のいさかいの記憶が蘇ってくるのだった。これもカビール的な荒々しくも逆説的な旅の導入部なのかと思った。

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   ママサールでのコンサートは小学校の校庭を使って夜遅くまで続いた。かなり冷え込んだ。バーンワリ・デヴィが歌っているとき、信じられないことが起こった。彼女の名付け親である音楽家が殺害された、というニュースが伝えられたのだ。村の人々は、バーンワリ・デヴィその人が殺害されたのかと私に聞くのだ。その夜、演奏のあとダンスミュージックに繋げたのは、音楽の精神性を損なうのではという議論があった。
   私の見るところ村人は、音楽を楽しんでいた。音楽は啓蒙・教導するものではなかった。カビールの言葉は、村人には理解が難しようだったが、学校の先生が説明していた。
カビールは、ラジャスタン、マディアプラデシ、グジャラート、ウッタル・プラデシそれにパキスタンで良く歌われている。スーフィーの歌い手たちもカビールを歌うことを好む。
   この音楽ツアーへの参加者は、都市部の高学歴で、英語を話す、非宗教的な人々(だが彼らは、精神的なものに深い関心をもっている)が主であるが、外国人のジャーナリストなども多い。
   彼・彼女らの歌を聞くのは、私にとってほとんどが初めてだった。しかし、このツアーで、朝から晩まで、音楽に浸る幸福を私は味わった。彼・彼女らは、もともと生で歌うことを習い性にしていた。そして彼・彼女らの音楽で重要なのは、間違いなく声なのだった。息と喉の震えを感じた。とりわけバンワリ・デヴィの声は迫力に充ちていた。
   オーストラリアの取材チームの依頼で、ムラララの通訳を行った。それで分かったのだが、彼の家族は、10世代にわたってカビールを歌ってきたのだった。…ムラララはある朝、外で歌う女(性)に合わせて歌い始めた。その美しさはたとえようがないものだった。
   村々をめぐる旅の中で、私は、オウム・ハニとの友情を深めていった。彼女は、このプロジェクトの実力のある演者であるばかりでなく、このツアーの間中、会場の舞台の上でのパフォーマンスだけではなく、彼女独特の声楽を気ままに、いたるところで披露した。旅は、このような創造的な遊びの場と化していったのだ。そして、彼ら・彼女らと一緒にツアーをしているうちに、彼らが何を歌っているのか、何をうったえかけようとするのかが分かるようになってきたのだ。
   カカのことも忘れられない。彼は、歌いはしないがスーフィーの歌について愛情豊かな知識の持ち主だった。彼に聞けば何でも教えてもらえた。そういう人たちと旅を続けたのだ。
私は、ヴォランティアでCDやティーシャツをうる売店もやっていた。二重価格で売っていた。村の人々には、安く、都市部からの参加者に高く売った。
私たちは、実にさまざまなところで寝泊まりした。結婚式場、ダラムサラ(巡礼宿)、寺院、学校でマットを広げた。食事は、プーリーに油っこいトマトカレーが定番だった。
パキスタンとの国境に近い街、プガルでは、熱烈な歓迎を受けたのだ。偉大な歌い手のムクティヤール・アリの出身地だったからだ。何ともいい感じだった。警官は、ある村人をさして、「アイツが村の泥棒で、あんたらの持ち込んだ機材を狙っている。機材の半分も持ち帰ることができたら、あんたらは大変ラッキーだ」とぬかした。
   ある村人が「お前のカーストは何だ」と聞いてきた。私は、その質問は、カビールをたたえる催しにふさわしくない、というようなことを言った。私が間違っていたのだ。村人の質問は、カーストによって人を見定め区別するようなものではなく、もっとも親愛の情を込めた挨拶なのだ、とあとで知った。
   南部からは二人の歌い手―ヴェダントォとビンドゥマリニ―が途中参加してきた。彼らは、ギターに合わせてカビールを歌った。彼らの歌は、北インドと南のカルティックの伝統を引きついでいる。ギターの演奏は、アメリカのブルース・ギターそのものだった(BBキングかライトニング・ホプキンスか)。彼らは、ロック調の歌も披露したが、バクティ(神々への絶対的な帰依を特長とする中世ヒンドゥー教における民衆的潮流)の聖なる詩人についての歌には、真実、私は心を打たれた。この時ばかりは、売店での仕事どころではなかった。……ヴェダントォを聞いていると、いい音楽はどこで現れてくるのかが分からなくなる。食事のあと、寺院の横の湖で、何の予告もなく彼が歌いだすとき、それこそ最高の音楽に思えた。夕方のコンサートでは聞けない曲も含まれていた。
   音楽の役割とは不思議なものだ。カビールのこのツアーもその成果を直截に語るのは難しい。……このツアーに参加するまえ、きっと帰ってくるときは、お気にいりの音曲を知って帰ってくるものだと思っていたが、そうではなかった。ツアーで聞いた音楽のことを思い出すというより、しばらくほったらかしにしていた自分のギターをとりだし、思いつくままに歌いだしたのだ。そして、音楽と精神性というものが私のうちで開発されたのだと感じた。

★パンダープールへの巡礼ツアーに参加する
 マハラシュートラ州を旅していると道路の傍らを歩く白装束の巡礼者たちをよく見かけた。彼らがパンダープールを目指していることは知っていた。それらの巡礼が、その目的地の参詣よりもその道行を大事にするのだということを聞いて、一度はこの巡礼を経験してみたいと思っていた。
 自由気ままにワリ(パンダープールへの巡礼)に参加することもできる。だが、グループツアーなら仲間もできやすいし、いくぶん快適な巡礼になるかも知れない、と思った。
 プネーに向かった、いや、プネーがむこうからやってきたのだ。今回の旅だけは、母も喜んでくれた。
 わがマウリ(小集団)は二十名でそのうちの五名がサポートのスタッフだった。荷物を積んだトラックは朝の三時にたち、私たちは四時半に歩き始めた。
 この日プネーからは二つのマウリが、それにアランディやデフ(ともにマハーラーシュートラの街)からも大規模なマウリが出発した。それぞれのマウリがさまざまなルートを設定しているが、最終的にはパンダープールで一緒になる。

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   マウリから聖人扱いを受けている老齢の医師によって出発が宣言された。私は、初めの日、Rに離れずについてゆくように言われた。みんな鈴のついた小さなシンバルを鳴らしながら歩く。巡礼の道のそばに住む人たちは、食べ物を巡礼者に捧げる。巡礼中は、穀類はもとより玉ねぎ、ニンニクも禁じられているので、バナナや飲み物が供されるのだ。巡礼者に食物を供することはとてもご利益があると考えられてきた。小学校の校庭で地域の人々に朝食を供された。ある女(性)は、私の足もとにぬかずくのだった。私は、驚き後ずさりした。
 (信仰の修行途上にある者への尊崇の念は、どこからやってくるのだろう。私の見方はこうだ。そういう修行を成し遂げた者によりこの世は浄化されてゆくのだから、彼らを助け励ます必要がある、と。)
 巡礼者の多くは、ごく普通の農民だった。モンスーンが来て雨が降ると農民たちは種を撒き巡礼にでる。しかし、今年のモンスーンは遅れ農民達は不安をかかえながらの巡礼なのだった。また新聞は、百五十人ものIT技術者がこの巡礼に参加したのだと伝えていた。
 昼食は私たちのトラックのところでとった。トラックが私たちより朝早くたったのは(午前三時)、昼食場所の確保のためだった。年々、サポートのトラックの数は増え、適当な場所取りが難しくなってきている。
 Rと、プネーからサスワドへ歩き続けた。途中からRの父親とおばさんが加わった。
 現代に繋がるワリ(パンダープールへの巡礼)は、1831年に始まった。ハイバトHaibatという信心深い者がワリのやり方を決め、聖者の行進の伝統が現在まで引き継がれてきたのだ。
 丘の上に上がると聖人のような雰囲気をたたえている男がいた。「どうです、調子は」と聞くと「ヴィトハラ、ヴィトハラ」(ヴィシュヌ神のことか)と言うのだった。そこから広い野原にでて休んだ。すると一台のヘリコプターが近づいて来た。一人の男が立ち上がり、「一緒にお茶を飲もう」とヘリに向かって声を張り上げた。
 サスワドに着いた頃には暗くなっていた。35kmのこのワリでもっとも長い道のりだった。工科専門学校の敷地に泊まった。女(性)は、屋内に泊まった。スタッフはトラックに泊まった。
 プネーから一緒に歩いてきたRも若いエンジニアだった。Rは、ワリの経典、“グニヤンネーシワリ”について私に語った。「耳で聞くことがあ大事なんだ」と言う。私は、何が書いてあるのかをたずねた。「私たちに理解できるレヴェルではない」と言う。あとで“グニヤンネーシワリ”についてスマホで調べると、それは『バガヴァド・ギータ』の注釈書であることが、すぐに分かった。その第一章では『ギータ』を引用し、「一族の崩壊は、古の世界の終焉である」すなわちヴァルナの意義が説かれ、ヴィタラ神への帰依、肉食と麻薬の禁止が強調されている。
 ダーリット(不可触民)のワリへの参加は長い間禁じられてきた。しかし、今ではバラモンも指定カースト(不可触民の今日の呼び方)の人々もワリでは一緒に食事をする。
 神への捧げものを行う役目が回ってきた。しきたりで、新参加者がその役目をになうのだった。…人々が、私の足首に触れようとして押し寄せてきた。私は、聖人を演じることに戸惑った。
 サスワドからジェジゥリに向かって歩いた。最初の雨が降り出した。それは期待を裏切る雨だった。すぐに止んだしまったのだ。
 ジェジゥリの土は、サフラン色に染まっていた。
 Wさんは、六十九歳の小さな男で、十一回目の巡礼だった。Wは、カルナタカとマハラシュートラの州境からやってきた。彼は、ワリに参加し、アルコール依存症から抜け出せたのだ、と言う。…みんな、それぞれの物語をもって巡礼に参加していたのだ。遺産相続の争いで死ぬほどに目にあった者、入試に失敗した者、昇進を願って参加した者、等々さまざまな話を聞いた。そして農民たちは雨期の到来の遅れを心配していた。
 ワリには、多くの露天商が巡礼についてまわる。ひと昔前の軍隊のようだ。
 ワルヘでは、街はずれで私たちは野営した。そこは、さながら村祭りのような賑わいだった。多くの露店がたっていた。しかし、ワリがばら撒くゴミが年々問題になってきている、と聞かされた。また、ある医師は巡礼のあいだ、毎日二~三人もの人が心臓病などで亡くなってゆくのだ話してくれた。
 ワリのなかでしばしばヴィタラ神についての講釈を聞いた。バラモンのGさんは、ワリの真の価値を多くのものが見過ごしている、と嘆いていた。彼は、霊魂の活動について説明し、神の名を繰り返し唱えることによって神に近づくのだと語った。
 女(性)たちによるディンディ(小集団)もよく見かけた。
 女(性)といえば、私達のディンディの女(性)たちもじつに良く働く。彼女らは、料理と清掃に忙しく働いた。彼女らは、私の洗濯ものを取り上げていった。私の洗濯ぶりが見ていられなかったのだ。

 wari2.jpg
   私達の巡礼団は、徐々によりおおきなグループに吸収されていった。
 それでも、すずめそうなところを見つけると、うたた寝をしたのだ。
 チャンドラバーガ河には、パンタリクの祠がある。伝説では、この者がヴィタラ神をパンダ―プールに案内したのだ。パンダ―プールはもうすぐだ。私は、皆から離れ、河につかり、目を閉じ、河に浮かんでみた。私は、巡礼の終わりを確かめていた。すると、そんなところで何をしているのだ、と仲間が声をかけてきた。
 ワリからバンガロールに帰って二か月が過ぎた。親族の一人が亡くなったのだ。葬儀のためにラクシュミー寺院に皆して向かった。なん百回、何千回もこの寺院の前を通りすぎたのに、寺院に入ることはなかった。寺院には付属の祠があった。そこにパンドゥランガ神が祭られていたのだ。名状しがたい親しみの感情がこみあげてきた。昔の親友に再会したような感情に私は包まれたのだ。このとき、巡礼という経験の思わ効験を私は知ったように感じられたのだ。
 (インド人のヨーロッパへのパッケージツアーで始まった本書は、最後、ワリ((パンダープールへの巡礼))で終わる。それは何というべきか、スリナトゥ・ペルールの策略にいつし乗ってその策略を楽しんでいる自分にと気付くのだ。軽いものから重いものへ、と単純化はできない。そうではなく、ペルールは、読者の既成概念によりそいながらそれを全部こわしてゆく。紋切り型によりそいながら、それを批評してゆく。そのぶちこわしのあとに見えてくるのが、インドの新しい現実なのだ)。

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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