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106.ニール・ムケルジー『自由の国』(2017年刊)、Neel Mukherjee, A State of Freedom, published by Vintage, London in 2017. (first published by Chatto & Windus in 2017)

images_20180327123128a61.jpgまた、すごいインドの作家を発見した
作家はニール・ムケルジーという
『自由の国』という本を読んだのだ
この本には、シュールレアリスム的な作品や
いささか難解なモノローグ小説も収められている
だが、放浪する熊使いの物語や
両親の家の料理人の物語は
分かり易いばかりでなく、抜群に面白く
とりわけ熊使いの物語は傑作に違いない
にわか旅芸人の無一物の旅と、
ささやかな子熊との心の通いあい(のように思える)に、
真実泣けてしまったのだ




   それはどこからやってきたのか、どうしてそこにいるのか誰にも分からない。あれは何なのか?犬なのか?犬にしては大きく、鋭い爪をしている。それが小熊だと分かるまでに少し時間がかかった。…というようにその物語は始まる。母親が魔女であると噂のあるラクシャマンは、その小熊に芸を仕込んで旅にでて金を稼ごうと思いつくのだ。焼き鏝(ごて)で鼻に引き縄を通す穴をあけ、牙を打ち砕いた。この場面は、民俗誌でも読むように詳細に、客観的に描かれる。しかし、小熊は容易には踊りをおぼえない。ラージゥ(小熊の名前)を連れて村の道を歩くと、村の悪童は石を投げ、犬は吠えるのだった。ラクシャマンは、小さな声で小熊に語りかける、「踊れ」と。叩き棒と人参でダンスを仕込もうとするのだが、それを木の上の猿がずっと見ていて、ラクシャマンは、猿が人参を狙っているのだと用心する。
 どうにか小熊にダンスを仕込むと、ラクシャマンは大きな祭りを待った。
 五十三匹の羊を犠牲に供する祭りの進行についての描写がまた見事だ。羊の頭は、一太刀で切断されなければならない、さもなければ、十三年にも及ぶ厄災が村を襲う、と人々は信じている。この祭礼が、この小説の筋を忘れたかのように、生き生きと描かれる。ラクシャマンも、ここでどう金を稼ぐのか、というよりも祭りの興奮で頭が一杯になってしまう。
 ラクシャマンとラージゥは、腹をすかしながら旅を続けた。ラクシャマンは、子熊の他には何の持ち物も持たないようなのだ。着替えも洗面道具もなく、それは一種人間の生存の極限を描いているようでもあり、また、何物にも拘束されない自由でもあるのかも知れない。……道端の店でビスケットを買うのだが、子熊を見せ値切ろうとラクシャマンは思いつく。ラクシャマンは、子供を熊にのせて稼ごうとか、商売のコツを少しづつ考えだしてゆく。
 村に入ると、熊がめずらしいのか子供達の列がすぐできた。生意気そうな少年が前に進み出て、子熊のダンスを見るにはいくらなんだ、と聞く。ラクシャマンが決めかねていると、お前は値付けもできないお貰いさんか、と嘲笑う。そして、その子供はそれは熊ではない、犬だと叫び、石礫を投げ付ける。その一つがラクシャマンのすねを強打する。ラクシャマンは、子供らを追い払うと、途方もない疲れをおぼえ、こんな遠くまで来て、オレは一体何をしているのだろう、と嘆息するのだ。
 ひもじく厳しい放浪が続く。暑い空気は、炎のように感じられた。夜になると、少し涼しい鉄道線路のところで休んだ。ラクシャマンは思うのだった、この熊と自分は何ら区別するところがない、と。ふと気が付くと、不思議なことに、ラージゥが彼の後ろからついてくるのだった。言葉少なに語られる、ラクシャマンと子熊との親し気な関係がとても心に響く。
 モンスーンが近ずきつつある頃、二人はとある門前町(ヴァラダプル、カルナータカ州?)に辿りつく。寺院の司祭は、ラクシャマンとラージゥを見ると侮蔑の表情を顕わにするのだった。だが、司祭は子熊のダンスを所望し、金曜日の朝に参詣の人々が多く来るのだとラクシャマンに言うのだった。参詣の人々は、神々へ祈るとともに、珍しいものを見て楽しむ。ラクシャマンも今度ばかりは首尾よく商売に成功し安堵していると、司祭がお布施を要求してくるのだった。シヴァ神への捧げものを拒むのかと司祭に詰め寄られラクシャマンは司祭に大枚を吸い取られてしまう。ラクシャマンの呪いの言葉がいい、司祭の頭を砕いてそれをシヴァ神に捧げたい、と。
 雨が降り出した。二人は、旧国営企業の今は廃屋となった社宅にもぐり込んでいる。雨漏りで水たまりができ、ネズミが走り、また、別の潜入者もいるようなのだ。ラクシャマンは、稼いだ金をとられないか心配でたまらない。郵便局で金を送れるということを聞いたことがあるが、どうすれば郵便局で金を故郷の村に送れるのか分からない。
 晴れ間をねらって、二人は、大道芸ができる場所を探して当てもなく歩く。とある学校に行きつく。そこでは、何かのイベントが進行中だった。スピーカーからはヒンドゥー映画の流行り歌が流れ、菓子売り、風船売り、飲みもの売りが露天をかまえ、舞台では着飾った少女がリハーサルなのか、ちょっと躍ると笑い転げている。少女達が、先生達が、警備院が忙しくたち働いている。子熊のラージゥも異常なほどの興奮している。そこで、ラクシャマンは随分儲けることができた。金をとってキュウリやピーマンを子熊が食べるところを見せたのだ。皆がそれを見て拍手喝采したのだ。コールドドリンク売りから、これは学校の創立記念行事なのだと聞かされる。
 この喜ばしき祝祭の終わりには、二つの喜ばしからざるオマケがつく。三日間ラクシャマンがしっかり稼いだ家(廃屋)への帰り、ラージゥに芸を仕込む時に手ほどきをうけたプロの動物使いがどこからか現れ、手ほどき料の残金を払わされる。そして、四日目にこの学校をラクシャマンと子熊ラージゥが訪ねると、わずかに後かたずけをする者だけの寂しい校庭を見るのだった。祭りの後のこの何もない感じが、私はとても気になる。

無題
ニール・ムケルジー
1970年ベンガルに生まれる
ジャダプール(カルカッタ近郊)大学卒業後、渡英
オックスフォード、ケンブリッジ、東アングリア大学などで
高等教育をうける
複数の文学賞を受けている
現在、ロンドン在住

   結局のところこの物語に感動し、語りかけてくるものは何なんだろう、と考える。ラクシャマンの無一物の放浪は、少し心が通う生命がそばにあれば(子熊のラージゥ)それ以上のものはすべて余剰のものであり(それは愛と呼ばれるものの原型か)、長い人類の時間の流れにおいては、人は腹をいつも空かしてほっつきあるくことしかしてこなかった、とも思えてくるのだ。ラクシャマンの無一物の厳しい放浪の生活にあって、便利で贅沢な暮らしのなかには無くなってしまったものが確かにあり、この小説はそういう厳しいが自由な生への郷愁なのか、とも思う。安全や安心を求めているうちはいい、しかし、それがかなりの確度で手に入った場合、さらなる安心や安全を求めることにどんな意味があるのだろう。厳しい毎日とたまた出会う祝祭の興奮と幸福感、それが人間の生を根本において条件付けているものかも知れない。この小説における祝祭は、即物的な過酷な生にとってのみ輝いている。
   だが、他方で、贅沢な暮らしを当たり前と思って生きている者が無一物の放浪にもどることはできない。もうそこには戻れなとすると、何とも不幸な贅沢を人々は耐えて生きていかなければならないのか、とこの小説を読み終えて考えるのだ。人は安心を何より願うが、安心だけでは充実した生は得られない。
(H30,3/31)

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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