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96.S. スブラフマニヤム“テージョ河からガンジス河まで―十六世紀ユーラシアにおける千年王国信仰の交錯―”(中村玲生訳、『思想 グローバル・ヒストリー』2002年5月号所載、岩波書店)

“テージョ河からガンジス河まで”という論文で
サンジャイ スブラフマニヤムは
近世初頭のユーラシア大陸における
千年王国信仰の「接続された」歴史を
すなわちひとつの全体史の姿を
ミクロ・ヒストリア風の年代記として
また 定説に違和をとなえる
注釈として 綴る
以下は この論文に魅せられ
考え 想い描いてみたことの
つまり 遥かな千年王国と
遥かなグローバル・ヒストリーについての
覚書・断章である



§1.入口

   グローバライゼイションとグローバル・ヒストリーが重なって見える。
   グローバライゼイションの歴史は長い。
   グローバライゼイションは人々のある種、種普遍的な衝動であり、戦争とおなじだ。
  (平和とはそれをいかに抑止していくかという課題のこと)。
   グローバラゼイションが世界経済を再活性化させた。しかし、ここにきて、急ブレーキがかかった。しかし、モノのいききだけのグローバラゼイションなど存在しない。

   スブラフマニヤムの論文“テージョ河からガンジス河まで”は、グローバライゼイションのある転換点に生きるわれわれに、グローバライゼイションの根本にあるものについての霊感を吹き込む。テージョ河(ポルトガルのリスボンを通る)のほとりから、ガンジス河の平原に共時的に存在した千年王国信仰の熱望を、少し勉強しみよう。

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サンジャイ・スブラフマニヤム Sanjay Subrahmanyam
1961年生まれ
南アジア、西南・西アジア、西欧、ラテンアメリカ
という広がりにおいて
また経済統計から、文学テクスト、図像まで
を解釈する近世史家
パリの高等学術研究院、オックスフォード、UCLAで教える
コレージュ・ド・フランス教授でもある
スブラフマニヤムは一級の文章家であるばかりでなく
誰よりも速くテクストを読めるのだと 言われている


§2.全体俯瞰

   世界的規模での出来事に人々が巻き込まれてゆくようになる時代を、スブラフマニヤムは近代の初期(15~17世紀)に求める。その世界的規模の出来事とは、例えば最盛期のモンゴル帝国、ペストの大流行、ボリビアから流出した銀、病原体を含む植物や動物の移動等々である。ただここで注意を要するのは、例えば金塊・銀の流通はむしろ限定的であって、イベリア半島のインフレーションは、オスマン・トルコの地には少ししか届かず、インドには影響を及ぼさなかった。それらのすべてが均一に世界的な出来事とは言えない。

   ならば千年王国信仰の熱狂と運動は、どのような広がりをもっていたのだろうか。


§3.地中海とその彼方 テージョ河のあたりでは

   ポルトガル・インドの総督、アルフォンソ・アルブケルケは、1513年に紅海に進入した。このとき、アルブケルケはイェメンの沖合で神兆を目撃した。プレスター・ジョン(伝説上のエチオピア支配者)の地の方に光輝く十字架を見た。船員たちは感激し嗚咽した。アルブケルケは東方航海への神の導きを確信したのだ。

   この時アルブケルケは、千年王国についてのある計画をもっていた。つまり、イスラームの聖地メッカとメディーナへの攻撃と破壊、プレスター・ジョンとの同盟、また、インドにまで広がる帝国の建設、である。

   ポルトガルの東方航海は、イスラームへの攻撃、ある場合は北アフリカへの侵攻、と対で行われた。それは、彼らの行動の千年王国信仰との結びつきを明かす。

   また、アルブケルケを始め多くのポルトガル人たちは、アジアでは強大なキリスト教国が彼らを待ち受けていてムスリム勢力への強力な同盟相手になりうると信じていた。実際彼らは、伝説上の使徒トマスの殉教の地マイラブルを聖地とした。

   1520年代、ジュアン三世はポルトガルの宮廷からメシア思想は排除した。1540年代、テージョ川のほとりでは、異端審問所による千年王国のイデオロギーと運動に対する弾圧が激しさを増し、千年王国の運動は根絶やしにされたかに見えた。

   しかし、そうではなかった。セバスチャン王が、北アフリカへの遠征で1578年戦死すると(多くの高位貴族も戦死した)、民衆はセバスチャン王をマフディと見做し信仰した。人々は、王の死を受け入れず、そしてそれに歩調を合わせるように、王の名を騙る者たちが相次いで現れた。
   ここでいうマフディとは、もともとは、アーリーとムハンマンドの末裔であり、「お隠れになった者」、「待望された者」の謂である。小アジアからインドで隆盛した終末論的信仰である。まことに驚くべきことに、マフディ信仰に関する慣用句の翻訳がセバスチャンの死を、民衆の側で説明したのだ。

   ノスタラダムスの『占星術の百編詩集』は1555年に初版が出版された。ノストラダムスは、終末論的な場面で、すなわちペストの猖獗のなかで、ペストの治療において名をあげ、フランス王の主治医になった。

   1581年、スペインのハプスブルク王朝がポルトガルを乗っ取った。ポルトガルは、千年王国のイデオロギーによりインドに領土をえたが、セバスチャン王の北アフリカ遠征の手ひどい敗北で国を失った。


§4.ペルシャ側の諸事情

   千年王国信仰がフェリペ二世(在位1556-1598)の宮廷に広がっていた。それはオスマン・トルコ、サファビー朝ペルシャ、インドのムガール朝およびデカン高原に連なる。

   イスマーイールの一族がもともとスーフィー教団、スーフィーのシャーマンの出自であった。1502年、シャー・イスマーイールがサファヴィー朝の建国を宣言した。王は千年王国イデオロギーの装いをまとった。シャーは、自身をアーリーや、アレクサンドロスと重ねあわせ、「ミリアムの子イーサー(マリアの子イエス)」、「マフディの門前の乞食」、とさえ言った。当時のヨーロッパではイスマーイールを(大)スーフィーと呼んだのだ。

   シャー・イスマーイールがアレクサンドロス大王を名のった。イスラーム化したアレクサンドロス(『コーラーン』に親しんでいる人にはごく自然かも知れな)、イラン化したアレクサンドロスはわれわれを驚かす。だが、史実としてはあり得ないことを、自らの文化の文脈に置き換え、民衆の想像力に訴えるやり方こそ、千年王国イデオロギーの特長なのである。

   オスマン・トルコ皇帝スレイマンは、1517年にアナトリア、シリア、エジプトを征服すると、「終末のメシア」と自らを呼ばせた。

   1533-1534年にかけて、この強大な帝国を揺さぶる陰謀が出来した。ベネツィア人総督の私生児がハプスブルクの大使とオスマン帝国の宰相を巻き込み政治的騒乱を引き起こしたのだ。首謀者は、「オスマン帝国は滅亡する」という千年王国イデオロギーを信奉するキリスト教徒であった。

   1540年頃、サファヴィー朝の宮廷に派遣されていたベネツィア人は、王(タフマースプ一世)がマフディに捧げるために純潔の妹と、白馬を宮廷の一隅に用意していた、と報告した。

   1580年、シャー・アッバースの即位は、異端的スーフィー、ヌクタウィとの戦いに始まった。教団は、サファビー朝の変節を攻撃し、王の正当性を否定し、アッバースに代わって教団が正系の王を立てると宣言したのだ。
   また、折しもサファビー朝の宮廷占星術師が、君臨する支配者の死を予告した。
シャー・アッバースのとった対抗策がとても興味深い。シャーは、ヌクタウィ教団を徹底的に弾圧するとともに、教団員の一人を玉座に据え、四日間の統治 (このあいだシャー・アッバースはハーレムの門番の役を演じた) ののち殺害し凌辱した。シャー・アッバースは預言を正確に実行したのだ。シャーの酷薄さと預言のこじつけを民衆はどう受け止めたのだろう。


§5.ガンジス川流域

   15世紀―16世紀初頭のインドにおける千年王国の系譜。
   革新者(ムジャツディド)、シャイフ・アフマド・スィルヒンディが現れた。革新者とは「お隠れになっている者」の意であり、かの預言者ムハマンドの子孫である。彼が出現するとき全人類はイスラームに導かれ審判の日が始まる。

   この革新者(ムジャツディド)の観念が、マフディの信仰と結びつき、より明らかで強い終末論的メシア思想に変化した。

   サイイド・ムハンマンド(1443-1505)は自らをマフディであると宣言した。毎日を終末の日であると見做す禁欲生活を送った。グジャラートとデカンで民衆の支持を得ていた。彼がバロチスターン(パキスタン南西からイラン南東)で没するとその地が巡礼地となった。

   サイイド・ムハンマンドの死後間もなくして大地震が北インドとペルシャを襲った。人々は「復活の時が来た」と考えた。

   ベンガル人のシャイフ・アラーイには学識があった。マッカ巡礼の帰途、アーグラーに居を定めるとシャイフ・アブドゥッラーから影響を受けるようになった。シャイフ・アブドゥッラーは偶像崇拝を捨て清貧の生活に励むことを命じていた。その者は「農夫や樵、井戸掘り職人」の間で信奉されていた。

   1540年代、シャイフ・アラーイはスルタン・イスラーム・シャー・スールと鋭く対立するようになった。シャイフ・アラーイは武装化し、純イスラーム的な生活を人々に課した。
   また、彼は、つぎはぎだらけの衣(貧しさの印)と鎖帷子(戦闘性の印)の姿でスルタンの宮廷に現れ、スルタンがあまりに非イスラーム的であると非難した。スルタンは、アラーイをデカンに追放した。

   実力ある廷臣がスルタン・イスラーム・シャー・スールを退位させた。廷臣は、千年王国運動への弾圧を強めたのだ。アラーイの師シャイフ・アブドゥッラーを激しく殴打し、信仰の放棄を強要した。アラーイは、メシアではないと表明するよう要求されたが、これを拒否し、鞭打ち刑を宣告された。アラーイは、腺ペストに感染し死亡した。象が彼の遺体を踏みつけた。スルタンの幕舎の真上に大嵐が起こると、人々は、審判の日がくるのではないかと恐れた。数か月たってイスラーム・シャー・スールが死亡した。そしてデカンとグジャラートのスルタンもあいついで亡くなった。

   あいつぐスルタンの死が宮廷の神学者や廷臣にも動揺を与えた。ひとつの時間周期の終わりを人々は想った。それはアクバル宮廷の思想家にも引き継がれたのだ。

   ムガル朝皇帝アクバルは、アフガニスタン遠征の途上1581年に、イエズス会士モンセラーテと千年王国および最後の審判について語りあった。アクバルの胸の内には複雑なものがあった。つまり、非正統イスラームに傾くアクバルがキリスト教イエズス会の終末論に関心をもったのだ。戦争と暴動、侵略、蹂躙、征服などの徴によって審判は告げられるだろう、とモンセラーテは語った。モンセラーテの言葉はアクバルに、終末の時においてロバに乗って現れる反キリストのマスィーフ・ダッジャールを想い描かせた。皇帝は、拡大する領土の新しい統治の包括的な理念を探していた。千年王国信仰は、既存の社会ヒエラルヒーを問い直す抵抗の運動である側面と、国家と密接にむすびついて権力の確立・行使にも役立てられた。

   キリスト教暦1591~92年がヒジュラ暦1000年に相当する。イスラーム世界での千年王国への期待感は激しく展開した。

   奇妙で特異だが大変に興味深い物語が、往時の千年王国への期待感を表現している。
キリジュ・ムハマンド・ハーンは中央アジアのトゥーラーン地方出身のスンニー派の貴族で、ヒジュラ暦1000年、自らの領地ジャウンブルで建物を建てようとしていた。土台のための深い穴を掘っていると、石作りの丸屋根が現れ、さらに土を払い鉄の大扉をあけると結跏趺坐して瞑想するヨーガ行者のような者が現れた。その者は、喧噪により眠りから覚め顔をあげると、ラーヴァナがランカーに連れ去ったスィータはラーマ・チャンドラのもとに帰ったか、ヒンダヴィー語で尋ねた。キリジュ・ハーンは肯定した。彼は、ガンジス河がまだ流れているか否か尋ねた。キリジュ・ハーンは、ガンジス河はつねに世界に栄光をもたらしていると答えた。選ばれし者である預言者ムハマンドがすでにアラビアに現れたか否か尋ねた。キリジュ・ハーンは、この聖者が誤った宗教をすべて廃しイスラームという真の宗教を広めて、世を去ってから1000年が過ぎたと答えた。行者は、外に連れ出され、キリジュ・ハーンが用意した幕舎で祈禱と敬神の日々をすごしたが、六か月後に死んだ。


§6.結語

   あるきわめて意図的なテクストの改竄が行われた。
   1499年ヴァスコ・ダ・ガマの船団がリスボンに帰還した。年代記作者は、国王ドン・マヌエルの事跡を讃えるともに、神の摂理が王にインドを取り置いたのだ、と述べた。それはラテン語で書かれたクメスのシビュッラが予言した事柄だ、と。
   その頃、ポルトガルのシントラの海岸で古代の円柱が発見された。年代記作者はそのラテン語原文を「そのとき、西方よ、あなたは東方の富を目にするだろう。ガンジス、インダス、またテージョは、見るも素晴らしい光景となるだろう」と訳した。しかし、その年代記作者はクメスのシビュッラの予言を書きかえていた。「東方よ、あなたは西方の富みを目にするであろう」が原テクストの言葉であった。
   この歪曲にこそ、千円王国信仰の複合的で、地域に限定できない広がりがあるのだとサンジャイ・スブラフマニヤムは述べる。誰が誰の富みを見出したのか。あるいは、奪おうとしたのか。非常に難しい理解が求められている。が、とても惹かれるのだ。

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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