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85.S. スブラフマニヤム『接続された歴史』(三田昌・太田信弘訳、名古屋大学出版会2009)

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  ここ何か月か、この本『接続された歴史』と格闘している。非常に難しい。込み入っている。何度読み返しても分からない、ところが多い。しかし、とても惹かれるのだ。一筋縄では解けない思考の跡を丹念に辿ると、かすかに見えてくるものがある。定説にたいする異議申し立てに、流されない者の気概と個性を感じる。インドで生まれそこで育ったものにしか描けないディティールが輝いている。

   サンジャイ・スブラフマニヤムは、デリーで経済学の博士号をとった。それから、フランス、英国、米国で教えることになった。欧米での歴史(学)の潮流にも肌身で触れたはずだ。スブラフマニヤムはそれら知の潮流に野合することはなかった。とはいえ、それらの新しい歴史(学)の息吹・感覚と無縁ではなかった。非常に賢明な交流があったのだ。スブラフマニヤムの書く歴史(学)論文は、まことに粋で自由である。それにインド風の辛味も効いている。私は、このようなインドについての歴史書をずっと読みたいと思っていた。ようやくこのような歴史論文集を日本語で、適宜な注釈により読めるようになったのだ。

   どの論文も繰り返し読みたくなる。しかし、サンジャイの骨と血、その歴史(学)探求の厚みと戯れ、何よりも自由な発想を容易に楽しめるのは「偽物と僭称者の黄金時代」をとりあげた第5章「スルタン・ブラーキー伝説とインディア領」である、かも知れない。

   ムガル朝第四代皇帝ジャハーンギール(在位1605-27)の玉座を最後まで脅かしたのは自身の息子ホスロウだった。一度は、話し合いによる解決がついた。しかし、ジャハーンギール即位の翌年、息子ホスロウは、ラホールで突如反乱を起こす。民衆もホスロウを支持したのだった。ムガル朝帝国の正規軍がパンジャーブに出兵、反乱を鎮圧、そしてホスロウを捕え視力の奪ったうえ(!)幽閉した。
   その後、奇妙な噂がひろがる。
   ホスロウが、ビハール州のあたりを徘徊している、と。1610年四月末頃、牢獄から脱出してきたのだと主張する自称ホスロウはファキール(スーフィー行者)の姿で現れる。南アジアの貴種流離譚の装いなのである。その乞食坊主は武装集団をまとめ上げ、その勢いのままパトナに侵入、そこの財宝を分捕るとともに民衆の支持を得ていく。民衆はここでも敗者の復活に胸をはずませたようだ。だが。任地を留守にしていた総督が戻り態勢を立て直すと、激しい戦闘となり、自称ホスロウは捕えられ処刑される。偽物だろう者の素早い勝利とあっけない敗北である。

   ところで、実際のホスロウ(皇帝ジャハーンギールの息子)はどうなったのだろうか。はっきりしないところがあるが1622年、獄死する。毒殺されたのかも知れない。だが、彼のオーラは生き続ける。そのオーラは、ムガル朝第五代皇帝シャー・ジャハーン(在位1628-58)の時代において蘇生してくるのだ。

   すこしこみいった話になる。魅惑的なディティールを思い切って省き、おおよその筋だけを辿ってみよう。

   シャー・ジャハーンは、皇帝に即位するいやいなや皇位継承候補者を処刑する。「騒動の源である様々な皇子たちの存在という汚れから世界を清浄にしなければならない」と、シャー・ジャハーンはきっぱりと命令を下す。盲目のシャフリヤール(先帝の末子であり、先帝の愛妃ヌール・ジャハーンとのあいだにできた娘と結婚、異母兄妹婚か)、先帝の息子ホスロウの子スルタン・ブラーキー(孫である)、そのブラーキーの弟グルシャースプ、および先帝ジャハーンギールの異母兄弟の二人の息子(甥)は、ヒジュラ歴1037年ジュマーダー・アルウーラ月25日(キリスト教暦1628年)に彼ら全員が処刑される。
   処刑命令を携えた使者が到着した時、スルタン・ブラーキーは弟のグルシャースプとチェスを打っていた。スルタン・ブラーキーは弟に「リザー(徳)ではない、貴殿と私のガザー(運命)が到着した」と言ったという。スルタン・ブラーキーことダーワル・バフシュは、何か伝説を生む素地をもっていた。想像をたくましくすれば、ブラーキーは、民衆のみならず、ハーレムの女(性)たちにも人気があったのだ。

   1630-1631年にかけて大飢饉があった。西インドを痛めつけた。シャー・ジャハーンの治世は始めから苦難をともなった。そして、ムガル朝は、いくつもの亡霊と対峙しなければならなかったのだ。五名の皇子が処刑された直後から、スルタン・ブラーキーが処刑を逃れ、「簒奪者」シャー・ジャハーンを撃つべく反乱軍を編成しつつあるという噂が広がっていった。身代わりをたてブラーキーを逃したのは、先帝の愛妃ヌール・ジャハーンの兄アーサフ・ハーン(ペルシャサファビー朝からの亡命貴族の子息)であると噂された。
ヨーロッパ人も逃亡したブラーキーについて興味をもった。あるドイツ人旅行家は、イランでブラーキー皇子に実際に会ったと語り、またフランス人は、「不幸な皇子」ブラーキーの最後を語るとともに、偽のブラーキー二人の出現に触れ、その二人がともに一団の支持者を得ていたと語った。ピエモンテ出身のイタリア人は、先帝ジャハーンギールがスルタン・ブラーキーの皇帝即位を約束したにもかかわらず、その約束をまもらずブラーキーを幽閉し処刑した、だが、ブラーキーはペルシャに逃げ、今もそこにいる、と書いた。

   シャー・ジャハーンの簒奪、その不正、非道徳に対してヨーロッパ人たちが反応した。彼らヨーロッパ人は、インドという他国における不正に敏感だった。もしくは―これは私の解釈だが―ヨーロッパ人は、他者の不正を非難することによって自らの正当性を印象付けようとした。当時ムガル朝周辺に生息していた欧州人のいかがわしさと彼らの非難が、表裏一体であるように見える。あるいは、アジアの不正なる帝国をいかに少数のヨーロッパ人部隊で転覆=解放させうるか、という発想を膨らましてゆく。

   近年境界の異人として再評価されているニッコロ・マヌッチ(1638/9-1715/7)も伝説のスルタン・ブラーキーについて語った。マヌッチの本『ムガルの歴史』Storia Do Mogorには、ブラーキーの肖像画が入っていて貴重な雰囲気を伝えている、と言う。フッラム(シャー・ジャハーン)が王位に就くと知るとスルタン・ブラーキーは身の危険を感じ逃亡せざるを得なかった、とマヌッチは語る。ブラーキーはファキール(スーフィー行者)に変身してイランを放浪したのだ。ファキール姿のブラーキーを想像すると、何か貴種流離の記号論が思い浮かぶ。正当な皇位継承者が(一度は即位する)イランで亡命生活をおくっている、と何やらマヌッチは共感や同情を示しているようなのだ。マヌッチは、敗者が表徴するべつの可能性に惹かれるところがあるのだろうか。

   この論文集は、前半と後半でその歴史感覚が変容してゆく。インド洋の交易世界を論じた第二章(ブローデルの『地中海』への異議申し立てを含む、と想像する)からデカン高原におけるムガル朝とポルトガルの軋轢を論じた第四章までの調子は、政治経済的、もしくは従来からの政治経済や社会構造を論じる今となってはオーソドックスな歴史(学)を感じる。ピアソンの『ポルトガルとインド』(岩波書店)に近い。それがブラーキー伝説を扱った第五章から黄金郷としてのティルパティを論じた第七章にいたると文化的な側面に比重が移ってゆく。人類学的思考・記号論的なアプローチ(あまり自信がないがそのような気がする)を意識した人間の探求、歴史叙述に変わってゆく。
   だが、このように言うのも便宜的な整理であって、各論文における文章はもう少し込み入っている。何というのか、非常に高いレベルの非決定論が聳えたっている、感じなのだ。
   スルタン・ブラーキーを取り上げるこの論文においても、その政治経済的な歴史から、人類学的歴史へのスタイルの変容を、じつは入れ子としてもっている。スルタン・ブラーキー伝説が、歴史家にとって意味をもつのは、ムガル朝の皇帝権威の確立、およびその外交関係(とりわけイランのサファビー朝との)という視点においてなのだとスブラフマニヤムは言う。しかし、そう言う一方で、スブラフマニヤムの叙述的歴史l’histoire narativeには偽物や亡霊への愛着が漲っている。この論文を読むことは、スブラフマニヤムの分析を学ぶ以上に、ブラーキーを始め多くの偽物や亡霊についての歴史=物語を読む楽しみがあるのだ。さらに、この入れ子構造の論文、スブラフマニヤムの非常に高度な非決定論は、スルタン・ブラーキーを面白おかしい寓話に終わらせない。この論文は、引き続き「イスファーハーンの宮廷で」と「ゴアからの視点」により、陰影に富んだ歴史を再構成してゆく。つまり、偽物や亡霊への親しみ以上のもの、それらを利用し帝国や領土を防衛・拡大しようとするリアル・ポリティックスの世界のなかに入ってゆく。しかもそのリアル・ポリティックスなるものが、また、政治史というよりは陰影に富む叙述的歴史となってゆくのだ。

   ブラーキー問題についてのイスファーハーンの見方は、『アッバース大帝年代記続篇(ザイリー・ターリッヒ・アーラムアーラーイー・アッバースィー)』における二人の人物をとおして捉えられる。もう一人、すこぶる評判の悪い人物、ホスロウの甥、自称バイスンガルの物語も味わい深いがここでは省く。
『年代記続編』は、アフガン人族長に保護されていた十五歳の少年からはじまる。少年はホスロウの息子だと言われていた。少年はナブディ・ミールザーと名乗っていた(ミールザーは皇子の謂だろう)。アフガン族とサファヴィー朝との小競り合いの中で、少年ナブディは捕えられイスファーハーンのシャーのもとに連行される。シャーは彼を皇子として丁重に扱う。
   そのような時、べつの若い男がスーラトから南イランにやってきた。自分はホスロウの息子ダーワル・バフシュ・ミールーザーであると主張する。当地の総督からの報告を受けたシャーは、その男を丁重に扱い宮廷に送るように指示する。『年代記続編』では、彼をスルタン・ブラーギー(ブラーキーでなくブラーギーである)としている。
    『年代記続編』にあるスルタン・ブラーギーの一人称の語りはとてもリアルなのだ。細部もいい。躊躇する奴隷を身代わりに処刑から逃れる物語もさることながら、長い時間、彼が疑惑の対象であったこと「真実と嘘、恐怖と希望の間に宙ぶらりん」の苦しい精神状態が続いたと語る。このブラーギーが偽物だとすると、その傑出した物語作成は、これもまたヒンドスタンの豊饒な物語世界の伝統に属していたのだろう、と言いたくなる。

   サファヴィー朝君主のシャー・サフィはひとつのアイディアを思いつく。スルタン・ブラーギーとアフガン族の隠し皇子ナブディとの会見させるのだ。真偽鑑定の意図がイスファーハーンの宮廷の側にあったのは明らかだ。二人は、面識はなかったのだが(彼らがペテン師であるならそのやりとりはスリリングであったろう)ホスロウやシャー・ジャハーン、また「他の王子のハーレムの女」について夜を徹して語り、スルタン・ブラーギーはそのナブディが本当の弟だとわかり抱擁したのだと言う。シャーは、この二人の兄弟がともに暮らせるよう命令をくだした。
   スルタン・ブラーギーとシャーの関係は良好に続く。ひとつには、スルタン・ブラーキーが処刑をのがれ僭主シャー・ジャハーンを撃つ機会をねらっているというヒンドスタンの噂を、イスファーハーンの宮廷が興味をもったからだ。それをリアル・ポリティックスと呼べないだろうか、と私は考える。スルタン・ブラーギーは、そのようなイスファーハーンの宮廷のニーズに応えていたようにも見える。例えば、シーア派の聖地を訪れ、シーア派への改宗を仄めかす。それはシャーへの追従というよりも親密な関係の演出をともに楽しむ姿である、ように見える。また、スルタン・ブラーギーはシャーのムガル朝への軍事行動(カンダハルの奪還)にも参加する。記録では、スルタン・ブラーギーの息子スルタン・ホスロウの時代まで、サファビー朝の保護・年金は続く。

   「ゴアからの視点」、つまりポルトガルのインディア領副王リニャレス伯も、スルタン・ブラーキーについての噂を、政治的に利用しようとした。背景としては、ポルトガル領インディアの防衛、強大化するムガル朝への抵抗・対抗策のためである。副王リニャレス伯は、アフマドナガル(デカンのスルタン王国のひとつ)、ムガル朝から逃げ反旗を翻したアフガンの貴族ハーン・ジャハーン・ローディー、およびブラーキーらによる反ムガル朝・反シャー・ジャハーン同盟の実現を構想する。

   詳細を省き、そこで特に気になった点を二つあげたい。
   一つ目は、副王リニャレス伯がどのような条件、暗黙の前提をもとにスルタン・ブラーキーを利用しようとしたかである。
   副王リニャレス伯は、スルタン・ブラーキーの真贋に執着した。その証明の手続きにおいてきわめてオーソドックスな方法を採用した。すなわち、以前にムガル朝に出入りしていた、そしてスルタン・ブラーキーを実際に見知っていたイエズス会士レアルを真贋の、いわば鑑定のためにイランに派遣したのだ。スルタン・ブラーキーに会ったイエズス会士レアルは、かのブラーキーを迷いなく偽物であると報告する。リニャレス伯は、自称ブラーキーが偽物であるとはっきりすると、急速にブラーキーに対する関心を失ってゆく。本物によってのみ力がえられるとリニャレス伯は信じていた。リニャレス伯にとって、シャー・ジャハーンのムガル朝に対抗するスルタン・ブラーキーは、本物でなければならなかったのだ。
   気になる第二点、それはポルトガルを乗っ取った(1580)ハプスブルク家のスペイン王フェリペ四世の、この件、スルタン・ブラーキーについての言葉である。フェリペ四世は、強大化するシャー・ジャハーンのムガル朝に対し、いたずらに刺激しないように、ときわめて現実的な方針を示した。ブラーキーをかつぎあげるに際しては、目立たないように準備を進めなければならない、と。他方で、フェリペ四世は「十分もっともらしい偽物は本物とほとんど変わらない価値がある」という考えを、ブラーキー問題にかんして示したのだと言う。副王リニャレス伯とフェリペ四世における真贋についての感覚・考え方の違いは、リアル・ポリティックスなるものの特長あるあざやかな振幅を描いている。

   イエズス会士レアルが面談したブラーキーと、自称ナブディ・ミールザーを弟として抱擁したブラーギーが同一人物なのかどうかは分からない。しかし、より視野をひろげれば、「ゴアからの視点」が、ひとつのリアル・ポリティックスの立ち現われを語っているように見え、また「イスファーハーンの宮廷で」における政治・外交戦略が、ペルシャの伝統でもあるような、より優雅でふくらみがある、何やらエキゾチックですらある政治・外交を感じさせるのだが、このリアル・ポリティックスをめぐる対立の構図は、ここでもまた、非常に高度な非決定論に導かれてゆく。

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サンジャイ・スブラフマニヤム Sanjay Subrahmanyam
1961年生まれ
南アジア、西南・西アジア、西欧、ラテンアメリカ
という広がりにおいて
また経済統計から、文学テクスト、図像まで
を解釈する近世史家
パリの高等学術研究院、オックスフォード、UCLAで教える
コレージュ・ド・フランス教授でもある

   イスファーハーンの宮廷も、インディア領の副王リニャレス伯も、ともにスルタン・ブラーキーの真贋をテストした。リニャレス伯は、信頼できる人物を派遣し鑑定を依頼した。それをスブラフマニヤムは非常に単純なやり方だと言う。それに対しイスファーハーンのやり方は、高貴さとか、偉大さとか皇子にふさわしい礼儀作法や教養を問題にし、さらにはゲームを楽しんでいる風でもあるのだ。曖昧さを残すそのやり方をスブラフマニヤムは複雑な方法と呼ぶ。
   ここで、リニャレス伯のとって単純で分かりやすい方法は、論理と理性を重んじる近代科学の実証精神によって世界を制覇してゆくという世界観にとても似ている、と躾の悪いシロートは考えてしまう。そして、それをイスファーハーンの優雅だが複雑な方法を並べて読んでいくと、実証精神に基づく単純な方法とは異なる、高貴とか偉大さという資質を最高価値とする世界観も、またあり得たのだろうと思えてくる。
   スブラフマニヤムは、単純な方法だけがすべてでなく、イスファーハーンのモデルもあったのだと語っている。その後の歴史の展開は、どうもイスファーハーンのモデルに分が悪い。しかし、今、イスファーハーンのモデルがとても貴重に思えて仕方がない。スブラフマニヤムが複雑な方法と呼ぶイスファーハーンの考え方・政治外交の流儀をもっと知りたいと思うのだ(サー・トマス・ローとムガル朝第四代皇帝ジャハーンギールとの会見について論じた第六章も同じ種類の西欧とアジアの邂逅を語っているように見える)。

   しかし、さらにこの論文は、もう一つの転倒を用意してゆく。イスファーハーンの宮廷が、スルタン・ブラーギーなる人物をどうも本物とは考えていなかった、ということなのだ。宮廷はスルタン・ブラーギーを遠くへ置いた。つまり、ムガル朝高官と会わざるをえないイスファーハーンではなく、デリーやラホールからもっとも遠いカズウィーン(カスピ海に近いイラン北西の都市)に留め置いたのである。シャーはブラーギーを偽物と知りつつ、偽装し交流を楽しんだ。

   スブラフマニヤムのこの論文は、読みようによっては、歴史(学)の粗雑な常識にゆさぶりをかけているように見える。リアル・ポリティックスは、遠い西のはてを本場とする、とは必ずしも言えない、と。フェリペ四世は、もっともらしい偽物は本物としての使用価値があると考えた。しかし、十七世紀中葉におけるこの局面では、リアル・ポリティックスをさらりとやってのけようとしたのは、ポルトガルよりもイスファーハーンの宮廷であった。そして、スブラフマニヤムの行間から聞こえてくる声は、偽物とリアル・ポリティックスの接合が、合理的な論理と証拠の積み重ねによって実証されるものというよりは叙述的歴史のなかの語りをとおして生命を得る、と主張する。

   この論文はまことに粋な結論に辿りつく。サファビー朝から潤沢な年金を授けられていたブラーギーが「もし実は偽物であったならば、彼は成功者だと考えなければならない」とスブラフマニヤムは言うのである。

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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