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77.アキール・シャルマ『家族生活』、 Akhil Sharma, published in the United States in 2014 by W. W. W. Norton & Company, Inc.

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   アキール・シャルマの第一作『従順なる父』An Obedient Fatherが出たのが2000年、それからずい分長い時間がたった。そして今、ようやく次作『家族生活』を読むことができるようになった。

   前作『従順なる父』は、インドの酷い現実、そこにしたたかに生きる者の姿を伝える小説だった。

   主人公のラム・カラーンはデリーの腐れ役人だ。上司の収賄を手助けする知恵袋であり金庫番だ。貧しい学校の備品(バトミントンのラケット)を盗む、上司の子息の結婚披露宴ではこの時とばかりに意地汚く飲み食いし、あげくのはてに嘔吐する。意地汚く、嫌らしい、とりわけ下品な、どうにも救いようのない人物なのである。さらに言うと、この男には、少女性愛と近親姦への気があって、出戻り娘のアニタに言わせれば「レンガで打ち殺されるしかない犬畜生」なのだ。

   その最低の人物がなぜか気を惹く。善意の人などは即座に抹殺されかねない状況も悪くない。自分の力と判断で、したたかに生きていく姿が爽やかなのである。もっともらしい道徳から自由である、徹底して自己本位なのも気持ちが良い。・・・ラム・カラーンは、その悪行によって、たとえ「レンガで打ち殺された」としても、そこに虚偽はなくこの世の真実を刻み残す。この世の理不尽をむしろストレートに表現しているのに過ぎない。

   小説の後半、腐れ役人のラム・カラーンが輝きを増してくる。彼は、自らの判断と勇気で上司を裏切り、国民会議派とBJP(インド人民党)のリーダーに賄賂を送り、家族と自分の抹殺のピンチを切り抜けるのだ。孫のアーシャが、アメリカへ旅立ってゆくところで小説は終わっている。

   『家族生活』は、アメリカに渡ったその後のアーシャの物語だとも言える。細部はつながらないが、大筋においてそう考えて良い。つまり『従順なる父』が、作家のアメリカに来るまでのインドの物語とすると、『家族生活』は渡米後の生活についての物語である。どこまでが作家の実際の経験によるのか、どこからが創作と言えるのか、それは分からない(『家族生活』では、作家の実体験に近いと見做している書評が目につく)。

                                                                ☆☆☆
   
   この小説は、引退した父と四十歳になる自分が居間でくつろいでいるところから始まる。父親は、最近ほとんど喋らないのだが(私の読むインドの現代小説は、老人はみな引きこもる)「おまえは自分本位に過ぎる」と呟く。そして、この小説の最後は、投資銀行で働く主人公が弁護士稼業の彼女をメキシコのリゾートに誘いだし、プールサイドでくつろいでいるところで終わる。そのとき主人公のアジャイは「シアワセっていうのは何ともしんどい」と嘆息する。「シアワセになるためのコスト=努力は膨大すぎる」ということだろうか、あるいは「インドの貧しい生活は気楽である」ということだろうか。また、「インドの厳しい生活の方が生きている実感がする」という風にも読める。

   この始まりと終わりを結ぶ物語における問題群―アメリカにおける幸福な家族生活―について考えてみたい。

   インドとの別れ
   八歳の少年アジャイにとって、アメリカへ渡ることは、親しい仲間と住み慣れた街と別れる寂しさの方が大きい。家財道具が消えてゆく(親類が譲りうけてゆく)。先にアメリカで働き始めている父親から航空券が送られてきて、いよいよ渡米の日取りが近づいてくると、母親は子供二人を連れて祖父のところに別れを伝えにゆく。老人は、母に「英語も話せないのにアメリカくんだりまで行くとは」と嘆き、母は「この子供たちのために行くのです」と答える。ここまでは、ごく平凡な別れの場面なのである。けれどもその哀愁を帯びたインドとの別れ、喪失感は、この小説におけるアメリカでの乾いた潤いのない生活へのプロローグにふさわしい。

   兄は植物人間になった
   兄ビルジュが猛勉強の結果、進学校への入学を勝ち取る。それが決まった矢先、プールで(プール=大きな水瓶が表徴するものは何か、と想像をたくましくしたくなる)、大けがをする。生死の境をさまよう。幾分状態が良くなったとき、付き添いのアジャイは、苦しそうだからと、大した理由もなく酸素吸入マスクをはずす。医師は、それがビルジュを回復の見込みのない植物人間にしてしまったと説明する。アジャイは、とくにそのことに自責の念をもたない。むしろ、兄が死ねば家族に子供が一人になる厚遇・幸福を期待する。

   父親がアルコールに溺れてゆく
   政府機関で働く父親は、ビルジュのけがの賠償をしたたかにせしめる。薬代の請求書を左手でサインし、支払を拒否するようなことまでする。しかし、そんなしたたかで吝嗇な父親が強度のアルコール飲酒に傾いてゆくのだ。兄ビルジュの見舞・看護の帰り道、父親はバーに入り、一番安いウィスキーをダブルで注文し飲む。アジャイはそれを何か異常なことの始まりのように感じる。・・・父親のアルコールもまた「シアワセ」の代償か。ヴェジタリアンの家族の者がアルコールに溺れるヒンドゥーイズムにおける不道徳もまた特筆すべきことなのだろう。

   神・祈祷師・母の祈り
   アジャイは、兄を植物人間にしてしまった悔恨について何も語らない。むしろ、兄の死による自分の幸運を夢想する。だがアジャイは、その時期、神を幻視し会話を交わす。アジャイは、神に許しを求める素振りをしめしつつ、だが神が将来について明言を避けようとすると神を追求する。とてもスパイスの効いたユーモ   ラスな対話だ。アジャイの、神に犯されつつそれをはねつける世俗精神が健全に思える。
   母親は、兄ビルジュの回復のために祈祷師やバラモン僧を家に呼び込む。それはインドの小説でよく描かれる定型である。母親は、昔気質のヒンドゥーの女(性)なのだ。祈祷やその他の民間医療の試みにもかかわらず、ビルジュは寝たきりだ。アジャイは、母親の愚行を冷淡に受け流す。
   そして、逆転が起こる。母親が信仰深いインド系の人々のために祈りを捧げるようになるのだ。見込みのない介護を背負っている母は超自然な思い込みの対象と化し、あるいはよりあからさまにアジャイがプリンストン大学に進学すると、多くの者が母親の祈りのご利益を求めてやってくる。仮借のないこの世の現実をアジャイは笑っているかのようだ。

   学年一番の女好き
   アジャイは勉強がよくできる。学年で一番である。それを隠すことなく誇る。
   アジャイはクラスの嫌われ者だ。ある時期までジェフや中国系のマイケル・ブーとは仲が良かった。しかし、アジャイが兄についての自慢を繰り返すに及んで(このウソはとても心に沁みる)、二人はアジャイを避けるようになるのだ。
   アジャイは品行方正ではなく、女の子に次々に手をだしてゆく。器量良しのリータには相手にしてもらえなかったが、父が電気店を営むミナカシとデートを繰り返す。その一方で、プリヤにも「好きだよ」と擦れ違い様に囁き、愛の詩を送る。

   多くの人が利己主義の塊のようなアジャイを嫌う。しかし、利発なアジャイはアメリカにおける冷徹な真実を素直に生きているようにも見える。誤魔化したり逃げることなく、アジャイは、アメリカがインド以上に苛酷な生存競争の場であるという認識を直感としてもっている。

   ヘミングウェイを貪り読む
   アジャイにとってアメリカに来たさしあたってのメリットは、テレビと図書館なのだった。思い出のテレビのプログラムが、「家族生活」に彩りを添えている。
   頭がよくて利己主義のアジャイがヘミングウェイの読書にのめりこんでゆく。スペイン市民戦争において国際旅団に参加したヘミングウェイが、エンジニアでも医師でもないのが、なんとも納得できない、と愛嬌のあることを言う。ヘミングウェイの初期短篇を、あるいはヘミングウェイの伝記をむさぼるように読んでゆく。
   利己的なアジャイとヘミングウェイの文学を結びつけるものは何なのだろう。
   アジャイは、ヘミングウェイを読むことによって世界との距離が近くなったと言う。私は想像する。アジャイは、アメリカに来たことが何だったの、ボクは今ここで何をしているのか、という疑問の何がしかの解答をヘミングウェイの読書から得つつあったのかも れない。

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アキール・シャルマ
1971年にデリーに生まれ、八歳のとき家族とともにアメリカに移住
ニュージャージー州、エディソンに育つ
学生時代、トニー・モリソンやポール・オースターの教えを受け
一度はシナリオ・ライターの道を目指すが
金融の世界に職を得る
『家族生活』は、英国の新しい文学賞、2015年度のフォリオ賞を受ける

                                                               ☆☆☆

   アキール・シャルマの小説は、ある種インドの酷い現実、あるいはひどく利己的な人々につながって見える。他人のこと等にはかまっていられない不誠実で反道徳的、あるばあい反社会的でさえある人々がある種目立って見えるのだ。そのような世界で生き残ってゆく人間の姿をシャルマは語り聞かせる。

   『従順なる父』における腐れ役人のラム・カラーンは、そのような酷い現実に対して、甘美な幻想やもっともらしい美辞麗句を一切もたない。彼は、ひたすら生き延びようとする、生きている間は自己の欲望に素直であろうとするだけなのだ。すなわち、われわれの社会における人情らしきものの味がまったくしない。

   主人公アジャイの利己的な姿は、アメリカに渡ることによって倍加しているようだ。アメリカに移住することで、アジャイは何を失ったのか。アジャイがアメリカで得たものは、空虚な幸せ、のような気がする。

   母親は、息子にあまり「ありがとう」と言うな、と説教する。「ありがとう」と言えば、世間はお前を弱い人間だと見做すのだ、と。社会は、感謝の積み重ねの上にあるのではなく、生存競争の場でしかない、という認識を母親は諭す。・・・この生存競争の場で、だれが強者で、だれが弱者であるのか。プリンストン大卒・投資銀行マン・弁護士が強者なのである。それはとても威力がある、と語っている。

   アジャイの行動が表現しているのは、甘美な夢の対極にある悪だ。悪についての、非常に豊かな表情が魅力的なのである。この悪は、もっともらしい美辞麗句や道徳をとりあわない。アジャイは、真実に向かいあう強さをもっている。

   アジャイの示す悪は、忌避されなければならないのかも知れない。忌避されなければならないが、完全に排除してはならない、とも考えられるのだ。この悪を抜きにしては、この世の立体的な造形はあり得ない、という気がするのだ。アジャイのような人間を嫌悪する。しかし、その真実には到底あらがうことができない。

   この世は真実のみによって成り立つわけではない。真実をより微温的なものに置き換えて辻褄を合わせ生きながらえている。その種の置き換えを嫌うところがアジャイにはある。

   アジャイの悪は、超善悪である。善の行き過ぎを、善の暴力を、善の無責任を暴露する。超善悪は、善悪という観念を批判的に検討し、善悪の観念に精気を吹き込み、善悪の観念を更新することができる。・・・ただアジャイは、悪の道を進むのであって(悪に耐えている)、善悪の観念を変革しようとしているわけではない。
プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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