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61.アニター・デサイ『デリーの詩人』(高橋明訳、めこん1999年刊)

desay+001_convert.jpg さえない大学講師が 悪友の囁きで
かってのウルドゥー語の大詩人に
インタビューに出かける
デリーの古い陋巷
チャンドニーチョウクに住む
バケモノのような老詩人は
大学講師をいいように弄び
そこで 僕らは 祝祭とでも呼ぶべき
ドタバタ劇と詩的な言葉を
十全に楽しむことができるのだが
すぎ去りつつある大いなるものの残滓を
照らし出しながら 
破片と化した詩人の日常は
夜の街を彷徨する主人公に
何を告げているのだろう
 

  
   僕は、この小説が好きだなー。とくに元気がでないとき、自信喪失ぎみなとき、この小説は優しい。

   これは詩人についての物語だ。ン?詩人?・・・この小説は、しょぼくれた詩人のみじめな生活から始まる。主人公は、大学でヒンドゥー語を教えている。言葉への愛は大きく、詩への思いは純粋であるけれども、この詩人にとって、女房も、子供も、また大学の連中も騒がしく強欲で、礼儀知らずだ。詩人は、プライドの塊であるとともにもっとも悲惨な状況に耐えている。そんなデーベンが悪友の編集者の誘いで、ウルドゥー語の大詩人にインタビューに出かける。

   ヌールは大詩人だ。デーベンとは違う。一言で言うと、破格なのだ。デリー、チャンドニーチョウクの奥まったところに、世間の眼を避けるようにして、柄の良くないとり巻きとバカをいいながら生きながらえている。元ダンサーのヒステリックな妻、いつもふて腐れている小間使いの小僧、老いさらばえたとはいえ鬼気迫る正妻、誰もがとても強烈だ。大詩人は持病を抱えながらもビリヤーニを肴にラム酒を食らい吼える。詩人は獅子のように吼え、その言葉は大砲のように轟く、のだ。とり巻は猥褻なもの言いに笑う。しょぼくれ詩人のデーベンは腰を抜かしそうになる。

   この小説は、さえない詩人と怪物詩人との遭遇、そしてそこで繰り広げられるドタバタ劇が実に楽しい。大詩人のあまりのバカバカしさにいつしか笑いがこみあげてくる。大詩人ももう少し真面目にデーベンの話に乗れば良いのに、そういう風にはならない。大詩人ヌールは、テーベンが期待するようには動かない。大詩人は、デーベンのまじめなプロジェクトを徹底的に破壊する。それでいて彼は手術・入院費用の借金について無心の手紙をテーベンに書く。謹厳なる悪ふざけぶりに僕は襟を正したい気分にさえなるのだ。

   現代のインド小説には二つの顔がある。正義とリアリズムが一方にあり、他方でデタラメの魅力(破壊の神々への供物か)と手をきれない一群の文学傾向がある、ように思える。この小説は、後者のデタラメのもつ魅力を分かりやすく語っている。 

   この本を読みながら偉大な詩人の生きた時代の終わりと、より断片的で、矮小化したひからびた生を生きてゆくしかない現代の詩人のことを思う。大詩人はデーベンに「オマエは、何かに一生を捧げるほどの人間には見えん」と言う。テーベンは、自分は詩人ではなく、大学の教師にすぎないのだと抗弁する。芸術と生活といえば、何かノスタルジックな雰囲気になる。しかし、大詩人は生活の話を拒否しようとしているのは確かだ。生活を拒否できるかどうかは別にして、詩人は生活ではなく、生活のむこうにある凡俗の超越をめざさなければならない、と語っているのかも知れない。しかし、今テーベンが目撃する大詩人は、威厳や権威からほど遠い。大詩人=老人は、皿に必要以上に顔をちかずけ、料理に手を突っこみそれを口に放りこむ。口元から、汁や中身がぽたぽた膝にたれている。テーベンは、大詩人の嘗ての偉大さと気宇壮大な言葉を理解できた。しかし、老いた嘗ての大詩人の今の姿は、テーベンの人生と同様、むごいものなのだ。

   この小説は、読みようによっては言語についての物語でもある。大詩人ヌールは、ウルデゥ語を称揚する一方で、ヒンドゥー語を粗野な言葉としてこきおろす。それを、作家アニター・デサイは英語で書く(ちなみに、彼女の母語は、母親から受け継いだドイツ語なのだそうだ)。この小説が言語論である所以は、詩人がヒンドゥー語を侮蔑する表現のなかに、作家の英語にたいする特権意識と、同時にヒンドゥー語に対する複合感情を読み取れるからなのだ、・・・という読み方は僕のナイーブな想像で、この小説の翻訳者、インド文学の研究者である高橋明氏は、むしろインドの実際の生活文化の文脈では、特権化した英語のみが突出している、と語る。アニター・デサイは、ウルデゥ語によってヒンドゥー語に対する英語の優位を語っているのだ、と。難しい問題だが興味深い。

   最終場面でデーベンは、絶望して街を彷徨う。デーベンの絶望は、プロジェクトの失敗、彼の生活をめちゃくちゃにされた絶望とも読める。また、詩の、歌の喪失の確認を迫られた者の絶望のようにも読める。この小説を手にとる人は、この最終章におけるテーベンの彷徨と絶望をどんなふうに読むのだろう。破壊のあとの豊饒な再生を、僕は期待していたところがあるのだが・・・。
プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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