FC2ブログ

31.クシュワント・シン『パキスタンに向かう列車』、Khushwant Singh, Train To Pakistan, Published by Penguin Books India 2009, First published in India 1956

パキスタン国境に近いパンジャーブの小さな村マノーマルジャ
そこをとおる列車は、村の生活を刻む時計のようであった
しかしそんな平和な村にも カルカッタで発生した
分離独立の混乱・対立にともなう
暴動・殺し合いのざわめきが迫ってくる
モスリム・ヒンドゥー・シークを区別し
緊張した対立を 凄惨な殺し合いを
演じさせるものは何なのか
幼いダンサーの娼婦ハセーナは
ムスリムの移住を任務とする行政官と一晩をすごしたあと
コミューナルな緊張・対立を
笑いとユーモアで和解に導く
半陰陽のヒジュラについて興奮して語るのだ
『パキスタンに向かう列車』は、
読者に殺し合いの恐怖ではなく
ヒジュラという異形なるものが与える
和解と希望の可能性を伝えてくれる


   インドのちょっとした本屋を覗くと大抵インド人作家のコーナーがあって、そんな本棚の前に立ちどんな作家の本が収まっているのか見るのが僕の楽しみだ。知らない作家の本を手にとり一冊ずつ中身をチェックするのも飽きないし、お馴染みの作家の本が並んでいるのを見てどんな人々がそれらの本を買っていって読むのかを想像するのも楽しい。インド人にとっては耳が痛いはずのV. S. ナイポールの本も良く揃っているのは僕には意外だ。サルマン・ラシュディの本は、ムスリムの反発を嫌ってか見かけない。本屋のおやじに、ラシュディの本を読みたいのだけれど、と言えば店の奥に通され一抱えのラシュディ本を見せてくれるような気がする。どの本屋にいっても、「またいるな」と思う作家も何人かいるのだけれども、クシュワント・シンもそんな人気作家のひとりだ。インドの人々-とはいえ一部の英語を操れる知識層ということになるのだろうが-クシュワント・シンの小説が好きなんだなーと僕は思うのだ。それは、実に正しい選択のような気がする。

K.Singh 003bbb

    『パキスタンに向かう列車』は、印パ独立の悲劇・悲惨を描いた重たい小説ではない。亜大陸の分離独立における人々の移動や財産放棄の苦難、一家離散、レイプ、虐殺、といった悲劇・悲惨を面々と綴るのではなく、何か冒険活劇のノリに近い読み物なのだ(とりわけ最終場面はそうだ)。クシュワント・シンは、倫理観の強い社会派の作家であるから、無論分離独立の悲劇・問題点から眼をそらそうとしているわけではないのだけれども、彼が本物の作家であるゆえに、分離独立をセンセーショナルに取り上げるのを避け、多くの人に訴えかけられるような仕方で、小説を書いているように見える。例えば、タイトルは「パキスタンに向かう列車」であるけれども、パキスタン国境に近いパンジャーブの小さな村マノーマルジャに住む人々にとって村のそばを通る列車は、村の生活を刻む時計のようであり、人々が床を離れるのも、祈りを捧げるのも、畑に働きにでるのも、列車の走る音・汽笛を合図にしている、とごく日常的な風景の描写から小説を初めているのだ。

   平和な村にも、分離独立のざわめきが伝わってくる。
   そのざわめきは、村の外からもたらされる。
   マッリ率いる群盗(ダコイト*)、村の金貸しを襲う。群盗の襲来は、分離独立にともなう社会的動乱を背景にもっているのだろう。二番目の部外者は、都会からやってきたソシアルワーカーだ。彼は、英国留学の経験をもつエリーとであり、社会正義の実現を理想とする者である。あるいは、彼は革命家なのかも知れない。そこに、この地方の行政官がお伴をつれて現れる。彼は、ムスリム住民のパキスタンへの速やかな移住という訓令をもっているが、妙にリアルなのは、彼の夜の宴の時間だ。そんななか死体を満載した幽霊列車がマノーマルジャに到着し、その死体処理に村人が駆り出される。また、鉈でばらばらに叩き切られた人の肢体が上流から流れてくると、カルカッタに始まった宗教対立・暴動が、村のごく近くまで押し寄せてきたことをマノーマルジャの村人は認めざるを得なくなるのだ。

   村にやってきたソシアルワーカーが、小説の主役、ヒーローになるという予感があったが、小説の展開は違っていた。ソシアルワーカーの人物像は、何か作家の内面にある屈折を語っているような感じだ。彼は、村のシーク教会堂で供された食事を拒み、持参した缶詰とビスケットの食事に拘る。村人と同じものが食べられないソシアルワーカー(革命家)という作家の指摘は痛烈である。また、社会運動家としてのハクをつける実践・経歴(たとえば投獄体験)が必要だと自らに語る場面もある。最終場面では、彼は泥酔し問題の渦中から逃げる。

   この小説のヒーローは、村に住む前科者ジャガット・シンなのだ、と僕は思う。ジャガットは、シーク教徒で父子二代の群盗であり、夜間外出の禁止と警察署への定期的出頭を課せられた観察処分中の身だ。彼は、群盗が現れた夜、モスクのムラーの娘ノーロを犯し子供を孕ませる。彼は、宗教の壁を破り、パキスタンに未来の子供を届けるのだ。ジャガットを描くシンの筆使いの陰影は微妙だが、悪党のシンが最後正義を守り神への許しを請う(少なくとも三人のシンがこの小説には登場し、シンという名前の使い分けが面白い)。

   悪党シンによる正義の奪還も悪くはないが、しかしそれは作家の願望が少し勝ちすぎているのではないか、と僕は思う。むしろ行政官と若いダンサーとのやり取りのほうに僕は注意をむけたい。・・・行政官は、そのダンサーをさほど美しいとは思わない。彼は、彼女とのセックスを求めるのではなく、彼女の髪を、腰をまさぐる。作家は、行政官の不能を言いたのだろうか、よく分からない。初め無表情で反応のなかった若い娘が、行政官フークーム・チャンドの問いかけでぽつりぽつりと語りだす。母は自分を生んですぐに亡くなったこと、出生証明もなく歳はよく分からないこと、また、自分はムスリムでシークが嫌いだ、というようなことを娘は話す。どうしてパキスタンに避難しないのかと彼が質問すると、ダンサーは、ムスリムでもシークでもないからだ、と言う。みんな私の歌を聞きに来るからだと言う。まだ街に残っているムスリムはいるのか、という行政官の問いに、娘は少し言い澱んだあと、ヒジュラ(両性具有者)達がいる、と答える。娘は、何度も笑わないで聞いてくれるなら話しましょう、と念押ししながらヒジュラの踊りを真似、歌いながら、コミューナルな緊張が高まってゆく時、コミカルに楽しく対立を鎮静化してゆくヒジュラ達の芸について興奮しながら語るのだ。

images_20121227154518.jpeg
クシュワント・シン
1915年、現パキスタンのサルゴーダーに生まれる
ラホール、デリー、ケンブリッジで教育をうける
判事、外務省、ユネスコなどの官職に就く
また、“イラストレイテッド・ウィークリー・オブ・インディア”
などの編集長を務め、ジャーナリストとしても著名
1980年から86年までインド議会議員
2007年、パドマ・ヴィブーシャン勲章をうける
僕の好きなクシュワント・シンについての伝記上のエピソードは
貧しいニロッド・C・チョウドリーにタイプライターを貸し
チョウドリーが彼の『無名インド人の自伝』を執筆できたこと
クシュワント・シンは、チョウドリーをインドでもっとも
注目すべき作家であると語っている、ことだ

   クシュワント・シンの小説は面白い。何がいいのかとかと言うと、悪への、死への、異形なるものへの親和性と対話のすごさだと思う。この小説は、悪党のシンによる正義の実現を物語る。もっともらしい正義よりも悪が、実は正義に近い、と。また、クシュワント・シンは人間の死というものと正対する作家なのだ。人間は、死という現実にどう向き合っていくべきなのか、という深い問いをこの作家は繰り返す。しかし、クシュワント・シンという作家をもっとも際立たせているのは、行政官の相手をするダンサー、ハセーナが語るヒジュラへの視点・関心・気付きではないだろうか。世の分類-モスリム・ヒンドゥー・シーク、あるいいは男・女-を無化し、その境界を越境するヒジュラに作家が感じているものこそ僕はユニークで貴重だと思う。 

   *ダコイトについては、民衆的な神話の側面と論争的な側面があることを、『南アジアを知る事典』で知った。つまり、人々はダコイトに義賊的な行為を期待する。この小説でもマッリ率いる群盗は、マノーマルジャのヒンドゥーの金貸しを襲うのであって、村人を襲うわけではない。しかし、すべてのダコイトが義賊であるとも言えないわけで、どこまでが事実でどこからが神話なのか、論争があるところらしい。この小説におけるダコイトは両義的だ。前科者ジャガット・シンが、最後の場面で正義につながる犠牲によって神に人々の過ちの許しを請う。また、マッリ率いるダコイトは、ムスリムの虐殺に加担することによって、擬制としての義賊を演じることになる。

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR