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19.V. S. ナイポール『ミゲル・ストリート』 (小沢自然 小野正嗣訳、岩波書店、原著1959年刊)

ナイポールは、欧米の読者へのサービスからか
『ミゲル・ストリート』を「ユーモアとペーソス」で偽装する
しかしその根には、暴力と虐待が また苛酷な現実があった
カリプソの題材になるような滑稽な生を
またその生活を活気づける悪態とともに
ミゲル・ストリートの人たちは繰り広げるけれども
主人公の「僕」は、そこから旅立ってゆかなければならなかった
トリニダットの陽光がつくる自分の影
舞台で踊る小人のような影を見つめながら
 

   今回、殊勝にも翻訳と英語の本を並べて読んでみた。まず英語で読み、あとで日本語の翻訳を読んだ。読み落としや、思わぬ勘違いがないか確かめた。思うことはいつも同じで、英語で分からないところは翻訳で辿ってみてもだいだい分からない。よく分からない箇所というのは、英語も難しいが、内容あるいはバックグランドについての知識がものをいう感じだ。

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▲この表紙絵は、アメリカにとってのリゾート地のイメージで描かれすぎてはいまいいか。
カリブ海に浮かぶ島、トリニダットにおけるインド系移民社会へ案内してくれるものは、何も描かれていない。岩波書店には、もう少し誠意ある本づくりを期待したい。
 

   少年の眼を通して描かれた『ミゲル・ストリート』は、「ユーモアとペーソス」にあふれる小説という、ことになっている。とはいえ、「ユーモアとペーソス」の下には、インド系移民社会の厳しい現実と暴力が横たわっている。冒頭のボガードの章は、重婚罪で逮捕される話だし、新聞ばかり読んでいる通りのインテリであるハットにしても、逃げた女房を半殺しにして三年の務所暮らしを食らう。アメリカ兵相手の娼館の主、ジョージの趣味は、子供たちを殴ることであり、他にも女房・子供を殴るシーンは多くて、その種の暴力がまるでトリニダットのインド系移民社会の一つの特長でもある、感じがしてくる。

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▲ヴィンテージ版の表紙写真
Steve McCurry/Magnum Photos
80年代の初めまでは、ナイポールの本は基本的にアオドレダッチ社から出ていた。
アンドレダッチ版の『ミゲル・ストリード』がどんな体裁の本なのか、一度みてみたい気がする。アンドレダッチ版のナイポールの古本はどれもいい値段がついていて、僕には手がでない。僕は、初版本に拘ることはまったくないのだけれども、『ビスワス氏の家』のアンドレダッチ版は、欲しいと思っている。


   ナイポールが持ち出してくる暴力は、作り話ではなく現実であったのだろうと僕は思う。ナイポールが、それらの虐待や暴力をリアリズムではなく、ユーモラスに語ったのは、ひどく苛酷な事態をユーモラスに語る表現の転倒・妙味というよりは、ナイポールの職業作家としての成功への意志を僕は感じる。欧米の読者が求めているものをナイポールはきちんと測定できたのだ。

   『ミゲル・ストリート』を読み進んでいくと、に登場してくる滑稽だが愛くるしい人々が、何でもって生計をたてているのか、不思議な感じがしてくる。あくせく働かなくとも、つるむ仲間がいて、退屈を紛らわせる事件が起き、そんな事件をカリプソで歌われ流行る。そんな風にぶらぶらして生きていけるのなら、それは何とも羨ましい。地上の楽園と言ってもいい。しかし、そんなあり得ない状況にたいして、ナイポールはこともあろうに次のような説明をしている。
「ミゲル・ストリートの奇跡のひとつは、誰も食べるのに困らないことだった。」
あり得ないことだから奇跡と言っているのだろうけれども、『ミゲル・ストリート』はおそらくありえない奇跡を楽しむ小説である、とナイポールは告げ知らせているのかも知れない。

   インド系の現代文学が、好んで試験をテーマに取り上げる。どんな社会でもそれなりの地位につこうと思ったならば難しい試験を突破しなければならない。とりわけまともな生業が限られている社会ではなおさらだ。例外はあるにしてもそれしか選択肢がないのだ。しかし、『ミゲル・ストリート』においては、それも賄賂によっていとも軽々とすり抜けてしまう。ナイポールは、自身の苛酷であった留学生試験の体験を、道化のような振る舞いによって昇華しているのだ。母親がなけなしの虎の子でパンディットに賄賂をおくる。その駆け引きが面白い。何度も試験に失敗した秀才のエリアスは悔しがって「賄賂、賄賂」と騒ぎたてるが、母親は「賄賂も払えないど貧民のくそバカ野郎」と言い返すのだ。

   『ミゲル・ストリート』は、欧米の読者へのうけを狙って「ユーモアとペーソス」によって偽装しているけれども、その根っこには、暴力と虐待が顔をだす。さらに、もうひとつの魅力は、悪態だ。ハットは、ローラを「シェークスピアみたいだぜ」といい、主人公の少年は「大口のろくでなし」とか「あんたの屁に火がつくよ」とか「黒んぼガニマタのあばずれ」といったローラの悪態を「僕がこれまで聞いたなかでもっとも豊かなものがあり、僕はけっしてそれらを忘れることはないだろう」と言うのだ。

   この小説の最後の一行を僕は何度も読んでいるはずなのに、また、その内容を記憶しているものと思っていたが、今回読み直してみて、ある重要なディティールを読みとばしているのに気付いた。つまり、こういう風に言っているのだ。
「みんなを残し、僕は飛行機へと元気よく歩いていった。うしろを振り返ることなく、前にある僕自身の影だけを見つめながら。踊っている小人のような僕自身の影だけを」(I left them all and walked briskly towards the aeroplane, not looking back, looking only at my shadow before me, a dancing dwarf on the tarmac.)

   影が、小人が踊っているようだ、としたところを読みおとしていた。悲痛で感傷的な別れの言葉として故郷トリニダットの陽光が作る影ばかりを想像していた。その影が踊る小人であったとは。別離の主役は、舞台の上で踊る小人のようであったとは。

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 学問・文化・芸術

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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