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111.S. スブラフマニヤム『ヴァスコ・ダ・ガマ-生涯と伝説』Sanjay Subrahmanyam、The career and legend of Vasco da Gama, First published by the Press Syndicate of the University of Cambridge, New York in 1997

gamas book
いつも大きな本を読み始めるときは
その本の知力によって
自分がはじきかえされてしまう
のではないか と不安なのだ
この本もどこまで理解が届いたか
はなはだ心もとない
が その不安に抗うのも また 
本の読みがいで このように
気になったところの要約や
寸評を纏めてみると
それは何ものにも替えられない
私固有の内的な対話であり
これもまた宇宙の塵であると
観想することができるのである


問題は、ヴァスコ・ダ・ガマの伝説と生涯とのデリケートなバランスを見ることだ。

サンジャイ・スブラフマニヤムは、歴史的事実(ディティール)に分け入っていくばかりでなく、人々が想像したガマを再現しようとする。そのために、歴史家は十九世紀のオペラをとりあげる。そのオペラがガマの神話作りに大きな役割をはたしたと、考えるからだ。

そのオペラ(“アフリカの女王”、1865年パリで初演)で、ガマは誠実な英雄、恋する冒険者として描かれる。粗筋はこうだ。…ガマは、インド人の女王セリカと彼女の召使をともなってポルトガルに帰ってくる。二人を奴隷市場で買ったのだ。(ガマの奴隷を買うといいう行為に、ドイツ人作者のポルトガルへのひとつのステレオタイプを感じる。) ガマの入牢と大審院の尋問の場面が続く。ガマを陥れた人物ペドロは、ガマを助けることを交換に、ガマの恋人イネスと結婚を遂げる。ふたたび、インドに向かったペドロとガマの船団は、セリカの召使のたくらみで難破し―彼はキリスト教徒を憎んでいる―召使はペドロを殺す。難破船から救出されたセリカは、インドで女王に返り咲くが、女王の灌頂の祝祭場面で、ガマとイネスは犠牲に捧げられようとしている。女王セリカは、ガマとすでに婚約しているのだと嘘をつき、二人を助ける。が、セリカはガマとイネスのもともとの愛を知って自らの命を絶つ。ガマとイネスは結ばれポルトガルに帰還する。

このオペラがガマという人物についてのどのような神話を作りあげたのか、スブラフマニヤムは分かりやすく語ってくれない。西洋と東洋の幸福な結び付きは絶たれた、また、十九世紀のナショナリズムがガマを利用した、という解釈を歴史家はわずかに語るだけなのだ。今、私がここで言えるのは、この本(本文368頁)の全部が、このオペラが差しだしているガマなる人物像への反証・事実認定・批判的検証である、かもしれないというきわめて雑駁な結論なのである。たとえばこのオペラの題名は、奇妙なことに“アフリカンヌ”(アフリカの女[性]、あるいはアフリカの女王)なのだが、アフリカとインドが混然一体となっている。このアフリカとインドの混同は、はじめ、荒唐無稽に思えたが、この本を読み進むと、往時の欧州の人々の観念では、アフリカとインドはつながっていた、さらに、いわゆるインド航路の発見とアフリカとの関わりはきわめて深く、混然一体となっても決しておかしくないのである。

ところで、、、そもそも、、、ガマとは誰のことか。
 ここでも、スブラフマニヤムが面白いのは、ガマの遺体の漂流を語ることだ。
ガマの遺体は、コーチンで埋葬された(1524)。その後、ガマの遺骨はポルトガルに移送された。だが、ガマの末裔がガマのものだと信じられていた遺骨は、じつはガマの息子の骨だと明かす。…ヴァスコ・ダ・ガマの本当の骨はどこにあるのか。

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ヴァスコ・ダ・ガマの墓、ジェロニモス霊廟、リスボン19世紀後半の建立

(S. スブラフマニヤムは、ある人物の死とその後の遺骨や遺体の行く末にとても敏感だ。遺骨や遺体の扱いの中に、その人物に託されたその時代の意味が集中的に表現されているかのように語る。)
 ゴアに建立されたガマ像の行く末も興味深い。不可解な運命をたどるのだ。引き倒され、粉々に砕かれたあと、その破片が町中に撒き散らされたのだ、と。
(何のために、、、オペラにおける誠実で愛するガマではなく、ガマに対する憎しみが浮かびあがってくる。その憎しみは、インド東海岸に生きる人々の憎しみであるばかりでなく、ゴアのポルトガル系の人々の憎しみでもある可能性が高い。いや、、、この事件は、犠牲の肉体を切り裂き、その肉片を分かつ再生儀礼にも似ている。)

 ヴァスコ・ダ・ガマは、1469年頃、リスボンの南、シーネスに生まれた。
ガマの父、エステヴァオ・ガマは、サンティアゴ騎士団(教団)の複雑な位階秩序のなかで、明確ならざる形で力をつけていた。
この騎士団(教団)というものに注意を向けなければならない。
ホスピタル騎士団が地中海域で依然勢力を持ち続けていた一方で、テンプル騎士団は激しい弾圧にあう(おもにフランスで)。が、イベリア半島では、テンプル騎士団に対する政治的反発は極めてゆるやかであった。テンプル騎士団は、ポルトガルでは、名前をキリスト騎士団と名前を変えて存続する。そしてキリスト騎士団と勢力を分かつもうひとつがサンティアゴ騎士団であり、ガマの家系はこのサンティアゴ騎士団に深くかかわっていた。

1480年代(ジョアン2世の治世)、十代のガマはモロッコへの遠征(侵略戦争)に参加する。この参戦もサンティアゴ騎士団と無関係ではないだろう。(ガマはその時、イスラム世界と同時に遠く東方世界への広がりを肌身に感じたに違いない。)

ガマがふたたび姿を現すのは(文書に見出せるのは)、ガマが二十三歳のときだ。ガマは、リスボンで、ある夜、城塞警ら隊との間でトラブルを起こし逮捕・拘束される。ジョアン2世が援助の手を差し伸べた。王が手助けしたのは、すでにガマが王の先手となって欧州各地で情報収集の任に当たっていただろうこと(一種の政治・外交・軍事スパイか)、また、王がガマの激情と暴力的性向を評価していた(海外拡張のリーダーにふさわしい)ふしがあるからなのだ。                                                                                                                                                                                       
 
1495年、突然ガマが三度、姿を現す。ドン・ジョルジュ(コインブラ男爵、ジョアン二世の非嫡子の皇子、1481—1550)との特別な関係を示す書簡が見つかっているのだ。ドン・ジョルジュは、サンティアゴ騎士団の領袖だった。スブラフマニヤムは、通説に反して、ガマはドン・ジョルジュとの関係を継続し、すなわち新ポルトガル王ドン・マヌエル(1世、在位1495-1521)に寝返ることなく、サンティアゴ騎士団と極めて近い位置に立っていた。ここで大きな問題が持ち上がる。ドン・マヌエルが、なぜ敵対勢力(周知のように、彼の後ろ盾は、キリスト騎士団である)からヴァスコ・ダ・ガマを艦隊の指揮官に選んだのか。

ポルトガルの支配層が、海外進出について一枚岩であったわけではない、スブラフマニヤムは強調する。むしろ、宮廷エリートは、海外進出をめぐって深刻な分裂に晒されていた。ヴァスコ・ダ・ガマを理解するうえで、カスティリャ騎士団、キリスト騎士団、さらに宮廷エリートのさまざまな動き、考え方(典型的には、中央集権化や終末思想やレコンキスタ)を意識する必要がある。

西暦1497年7月8日、ガマらの艦隊(3隻と補給船、およびカラヴェル船)がテージョ川の河口を出発したのは確かなようだ。奇妙な出発だ、艦隊は何を発見すべく出帆したのか、、、

ベレン
リスボンのベレン塔、ここから艦隊はインドにむかって出発した

7月17日、艦隊は、夜間、バラバラになってしまう。が、かねての打ち合わせの通り、ヴェルデ島(アフリカ大陸最西端、セネガル)で再集結する。
11月18日か19日に喜望峰を認める。出発から4か月がたっていた。原住民とのつたないやり取りがあった。原住民を半ば強制的に船に連れてきて、ポルトガル人の服を着せ、送り返したりしている。原住民との軋轢・苛立ちからか(海岸に立てた十字架を原住民が破壊した)、ガマは威嚇砲撃を行った。補給船はここからポルトガルに戻っていった。
1498年1月10日小さな河口につき(現在のイニャリメのあたりか)、水と食料を調達する。
 かねてよりポルトガル人が訪れていた土地(“良き人々の土地”)に投錨する。彼らは、礼節や秩序というものに馴染んでいるようだ、と記録されている。
 
(この本で読んでいて実に面白いのは、アフリカの東海岸の沿岸ぞいの一筋縄ではいかないガマの航海だ。マダガスカルの対岸のアフリカ沿岸、モザンビーク、モンバサ、マリンディ等々をめぐる。冒険譚を読むように楽しい。だが、スブラフマニヤムが、とりわけ注視するのはガマの威嚇・暴力行使である。)

モザンビークでは、当初、現地のスルタンはガマの一行を、トルコ人かムーア人であると思っていた。また、ガマらも、ポルトガル人であることを隠していたふしがある。だが、じきに、実は歓迎されざるキリスト教徒であると悟られる。1498年の最後の週、ガマは、水の獲得のために住民に対する砲撃を行う。これ以降、水の獲得が容易になってゆくのだ。
ザンジバル島を通過、ガマらは大陸と見誤っている。
4月7日ついにモンバサに到着、モザンビークで雇った二人の水先案内人が逃亡、ここでは、キリスト教徒が奴隷として使役されていることを発見し衝撃を受ける。
4月14日マリンディの沖合に碇泊、ガマは用心深く、上陸をためらった。しかし、ここでインド人、それもケララからやってきたキリスト教徒の商人に出会う。9日間の滞在の後、ガマはカリカットというところを目指して出発する。スブラフマニヤムは、それはガマの思いつきではないだろう、と述べている。つまり、ガマは、いわゆるインド航路についての相当量の情報をもっていた。

ここで、オマン出身のアラブ人、イブン・マジットという水先案内が、登場することになる。ガマの艦隊は、イブン・マジットなる人物に導かれてカリカットに辿りつくのだ、と。しかし、スブラフマニヤムは、それは、はなはだ疑わしい仮説であると述べる。今世紀の初めのフランスのオリエンタリストに始まり、さらに1950と60年代におけるロシア(!?)の学者による研究(スブラフマニヤムはテクストの改竄を見ている)のポルトガル史学への奇妙な影響を認めなければならないからだ。
スブラフマニヤムによる水先案内人の同定は、非常に込み入っている。だが、スブラフマニヤムが言わんとすることを大括りで言えば、その水先案内人がグラジャート出身のムスリムだったという説も含め、水先案内人が誰かということよりも、すでにカリカットには、ポルトガル人が居住していた事実の方が、歴史的に意味があるのではないか、と言っているように思える。さらに言えば、バルトロメウ・ディアスがアフリカ南端部に達した時点で、インド経路の問題の大半は解決していた。ゆえに、王は、船乗りではなく(ディアスでなく)外交のできる貴族のガマに艦隊の指揮をとらせた。

マリンディからインドまでは23日を要した(これまでの10か月にもおよぶアフリカでの月日を思うと、インド洋の航海は、おまけのような気がしてくる)。
5月18日 インド東海岸の陸影を認める。案内人の勧めで沿岸を航行し、地理の確認に努める。
5月20日 カリカット北、海岸より1.5リーグ(7.2km)のところに投錨する。現地の者たちがボートでサン・ガブリエル号にやってくる。彼らが誰であるかと問うとともに、カリカットの正確は方角を示す。
5月21日 ガマは、元囚人のムーア人偵察隊をまず上陸させる。ガマは、アフリカでの経験から非常に用心深くなっていた。が偵察隊は、一応の歓待を受け船に戻ってきた。偵察隊とカリカットの役人は、アラビア語での意思疎通が可能だったのだ。
5月28日 ガマら12人が上陸する。ポルトガル人は、大きな建物(教会だと彼らは考えた)に案内された。壁にかけられた聖人像を見て奇妙だと思った(ガマらは、鼻からキリスト教徒の土地に来たと信じているのだ)。クロニクル記者は、この“東方キリスト教”についてその儀礼と特異性を注意深く記述するが、歴史家にとって、彼らがヴァイシュナヴァ派のヒンドゥー教寺院にいることは明らかだ、と言う。彼らは、非イスラム的なものをキリスト教に結びつけて理解した。ポルトガル人の一行は、祝砲が鳴るなか、王宮に向かった。
王は、一段高くなったコーチの上に横になっていた。
王は、ガマが、どんな目的でここに来たのかを尋ねる。
ガマは、世界でもっとも権勢あるポルトガル王の命で、キリスト教徒の国を発見するためにここに来たのだと言いたてる。

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中世のヒンドゥー教寺院を偲ばせる

歴史家は、アラビア語の通訳で“発見”の意味がどれだけ通じたか、疑問を呈している。(しかし、この航海、どこにいっても最後はアラビア語がものをいう。イスラムを叩く足掛かりを得るための航海で、イスラムの圧倒的な存在感に出会うのだ。)
王との接見、意見交換は夜半まで続いた。王は、最後に、夜をムーア人のところで過ごしたいか、キリスト教徒のところで過ごしたいかを尋ねた。
翌日、ガマは、王への贈りものを慣例通り整える。
お付きのムーア人が、何と貧相な贈り物かと嘲笑し、ガマはたいそう憂鬱になる。そして、ガマらは、自分らは外交使節であって商人ではないと言い訳するのだ。
翌々日、ガマらは長らく宮殿で待たされる。ようやく二人の従者だけでの接見許される。王は、前日、ガマらが接見を求めなかったことを非難した。王は、ポルトガルの特産品などを問う一方で、権勢ある王の使いがなぜ贈り物ももたずに来訪したのか、王からの親書を持参していないのか、と問い詰めるのだった。ガマらは、アラビア語に翻訳した書簡を用意していたが、その内容をガマは把握しいなかった。クロニクルの記者は、明らかに、この両者の折衝が非友好的なものだったことを伝えている。
5月31日 ガマの一行は宮殿を去る。それが、サムンドリ王(海の王)との最後となる。1500年、ガマが再度カリカットに戻ってくると、王は変わっていたのだ。…ガマは鞍のない馬に乗ることを拒み、御輿を用意させた。ガマは、艦船に戻ることは王の指示だと説明するが、同行の付き人は言を左右にして艦に戻ることを邪魔するのだった。一行への監視が強化されポルトガル人は神経質になっていた。クロニクルの無名記者は、表面は友好的だが、いつ彼らが攻撃してくるか分からない状況を強調する。だが、新たな積荷が届けれらようやく事態は好転してゆく。
ポルトガル人とカリカットの商人たちとの始まりの取引はどのようなものだったのか。用心深く、かわるがわる小舟で荷・商品をカリカットの街に運んだ。ポルトガル人が持ち込んだシャツや布の値段は驚くほど安かったが、現地の香辛料も安かった。現地の人々は、小舟で艦船まで、魚や石を売りにやってきた。
8月23日 船は、すぐに戻ってくる、と言い残して帰路につく。
船は、風をつかまえられず、進まない。ひと月がたっても、船は、ひどくゆっくりとインドの西海岸を北上するだけだった。そのような時、ベネチア方言を喋る身なりの良い男が艦に接触してくる。彼は、カリカットに現れた全身服(!)の人々の噂を聞き、追って来たのだと言う。親し気な雰囲気はすぐに疑念を引き起こし、拷問のすえに、彼がスパイであると判断する。スパイの主人は、ポルトガルの船が、帰路を見失って迷走していると考えていた。このおしゃべりな男は、実は、ユダヤ人の商人だった。ポルトガル人は、彼から、当地の商業と政治につて多くを学び、ガマの2回目の航海に同行することになる。

帰路は容易な航海ではなかった。西インド洋の横断には、3か月を要し、30人もの船員を失う。各艦でまともに働けるものは7、8人のあり様だった。このまま良い風が吹かなければ、インドに戻るしかないとガマは一度は決意する。神妙な祈りが捧げられた、とクロニクル記者は言う。
1499年1月2日、それでもアフリカの陸影を望見する。
1月7日 友好の地マリンディに着く(これにはまた別の理由がある)。王から薬物と食料の提供を受ける。
1月11日 モンバサを通り、その後、船員不足からサン・ラファエル号放棄を決断し、火をかける。
3月20日 喜望峰を回る。…ここでクロニクル記者による記録を突如途絶える。一隻は6月の初めに、ガマの乗ったサンガブリエル号は、8月にリスボンに帰還する。ガマが遅れたのは、故国の地を目前に肺炎で倒れた兄のパウロの看病と埋葬のためだった。

ヴァスコ・ダ・ガマのリスボンへの帰還後について、歴史家は、いくつかのテーマについて詳述している。マヌエル王による、ガマの偉業についてのバチカンおよびカトリック諸国への報告・吹聴(人口百数十万のポルトガルという小国の野望を感じる)、イタリア・南ドイツの商人達の危機意識(ベネチア人は、もはや魚屋になるしかないと自嘲した)、ガマへの恩賞について(領地、称号、年金など、下級貴族からの脱出のガマの姿が見えてくる)、ガマが発見した東方のキリスト教徒について(その情報は混乱と誤解を含みながらも、極めて重要な情報であったことが如実に伝わってくる)、有力な家系の娘カタリーナ・デ・アタイデとのガマの結婚(ここでもガマは出世に熱心だ)、歴史家は、一次資料に当たって、魅力あるディティールとともに時代の諸局面を描きだしている。それらの主題のなかで、良く理解できないが、非常に気になるのは、数十年後に書かれたポルトガル歴史叙事詩への言及だ。カモインスCamõnes が書いた『ルシーアダス』Lusíadas (1572完成)は、ガマをローマ建国神話における古代のアイエイネスになぞらえ、英雄としたたたえた。その主題は、キリスト教と異教との闘いなのだが、興味深いのは、ガマの遠征に対する悲観的な見方がそれに現れていることだ、と言う。かくてこのポルトガルの国に災厄がもたらされた、と。その悲観的な見方に関して様々な解釈がなされてきた。が、 スブラフマニヤムは、『ルシーアダス』の言わんとすることは、海外拡張主義への批判というよりは、英雄物語・神話にたいする批判、ポルトガルの暴力行使への批判である、と解釈する。ガマの行き過ぎた暴力行使を批判する視点を、ポルトガルは、その自身の内部にもっていた。

ガマの第二回の航海(1502年2月~1503年10月)までに、ブラジルの発見者ペドロ・アルヴァレス・カブラルの大艦隊を含む二つの艦隊がインドにむかった。そして強奪し、砦・商館をたて多量の香辛料を故国に持ち帰った。
ガマの第二回の航海を特長づけるのは、インド西海岸におけるカリカットやカナノールを相手にした威嚇的取引だが、その頂点にメッカ巡礼船への攻撃とムスリム巡礼者の虐殺がある。第一回航海にうけた“屈辱”(ガマが持参したカリカット王への贈り物を嘲笑された)に対する復讐であると考える向きもあるが、それよりも、私がこの本から受け取るのは、ガマという人間の攻撃性とムスリムへの闘いを正義と信じる十字軍的狂信だ。
1502年9月29日サンガブリエル号は、大型船を目撃し、威嚇砲撃を行う。メッカからカリカットへ戻る巡礼船だった。有力な商人アル・ファキムは、命乞いのための交渉をガマとおこなう。それが、インド洋海域における海賊に対する通常の対応だったのだろう。だが、ガマは価値あるすべてのもの(金銀の硬貨、トルコのベルベット、水銀、オピューム等々)を没収すると船を砲撃した。船上の女(性)たちは、身に着けていあた宝石をポルトガル人に差しだし命乞いをした。絶望に駆られた人達は、ポルトガル船に乗り移り砲火をかわそうとした。最後に、ガマは巡礼船に火をかける。子供を含めた300人近い人々が殺された。
 
 この後、ガマは、カナノール、カリカット、コーチンを行き来し香料取引を試みるがうまく行かず、カリカットを砲撃し、コーチンでは、ムスリムの船舶を武力拘束し、積荷を強奪する。その間、カリカットからの反撃もあったが、ポルトガル艦が大きな損害を受けることはなかった。
 かくしてガマはコーチンに商館を建て、数十人のポルトガル人を残し、ポルトガルへの帰途につく。

ガマのポルトガルへの帰還(1503年10月)から、1523年の第三回目の航海までの期間について、これまで歴史家はほとんど返り見ることがなかった、とスブラフマニヤムは言う。ガマの神話形成(国民的英雄像)にとって好都合な材料に乏しいためだろうか。これについても、スブラフマニヤムは、それらの込み入ったテーマについて詳述している。
まず、ガマについては、さまざまな争いをかいくぐっていかねばならなかった、と言いう。たとえば、王から拝領したシーネス(ガマの生誕の地でもある)の領地運営は、在来勢力の妨害で思うようにはならなかった。それらの争いの中で、ガマはさらなる爵位や領地を求め続けた。それも、マヌエル王の弱みにつけこむようなしたたかさが目につくのだ。
マヌエル王の統治は、ガマの第一回航海の帰還後、1504年頃から中央主権化にむけた改革が加速する。厳格な徴税システムが機能し始める。学校改革の成果が、それを支える能吏を養成した。スイス式と呼ばれる近世へむけた軍事改革も開始された。それら改革の王の動機についてスブラフマニヤムは、西欧のカソリック諸国の盟主たらんとする野望であり、その最大のテーマは、ムスリム勢力の一掃で、シンボルカルにはメッカの破壊蹂躙、またその作戦の要諦は、東のキリスト教勢力との同盟によるムスリム勢力の挟撃なのだ。1507年には、キリスト教国としての同盟を求めてエチオピアに正式の使節をおくっている。もちろん、そのような誇大妄想的な野望―遠くのキリスト教国やメシア思想―に冷ややか宮廷エリートのグループも存在した。問題は、マヌエル王の北アフリカへの固執なのだ。(往時のポルトガルにおける北アフリカ問題を私達は知らなすぎる、ように私は思う。コンキスタドールは、北アフリカで継続されていた。)ポルトガルはインドに次々に武装商館を建設し、インド洋の制海権を確立しつつマラッカへの進出・拠点化、フルムーズ(ホルモズ)を占領、さらに中国に商館を建てよ、とまでマヌエル王は命じた。他方、北アフリカへの軍事支出が続いたのだ。香辛料での儲けは、北アフリカ(およびバチカンへの宣伝費)に蕩尽された。スペイン、ハプスブルクからの援助も北アフリカ領の維持ためだった。北アフリカ領地問題が王権の基盤を揺るがした。そそして1515年頃には、王の中央集権化の放棄が明らかになってくる。北アフリカの重荷によるのは明らかだ。

詳細を極めるスブラフマニヤムのポルトガル領インドの統治について叙述をはなれ、ごく大雑把に捉えてみたい。
初代(インド領副王)フランシスコ・デ・アルメイダ(在位1505~09)の時代は、インド洋におけるポルトガルの海洋権確立の時代だった。アルメイダの名声と権勢は目を見張るものがあったが、ガマは、その周辺に追いやられていた。
次のアフォンソ・デ・アルブケルケ(総督、在位1509~15)は、ムスリム王国ビジャプールからゴアを奪取し、マラッカを占領した。アルブケルケについてそのことばかりが取り上げられるが、スブラフマニヤムはのインドにおける彼の使命を、自由貿易とは対立する王室による貿易の独占と考える。彼が推し進めてゆこうとした王室独占は、いささかも重商主義的ではない。資本(儲け、と言うべきか?)蓄積が王室に集中し、新興ブルジョワジーを育てない。ところでガマといえば、海軍提督というあまり実態のはっきりしない称号を活用して私的な貿易で蓄財に励んでいたところをみると、中央集権的君主の側にあるというよりは、十字軍の戦士としての封建領主に近いのではないか。
ロポ・ソアレス(総督、1515~1518)は、アルブケルケとは反対にゆるやかな統治を行った、ということ以外にあまり印象にのこらない。ただ、この本で興味を引いたのは、彼の奇妙な紅海への遠征だ。アルブケルケの統治の最終場面で(1517)、ロポ・ソアレスはゴアから艦隊を率いてアデンに向かう。そこで彼は驚くべき事態に遭遇する。アデンのスルタンと人々がポルトガル艦隊を歓迎したのだ(オスマントルコによる支配を嫌った)。それは、エジプトのマムルーク朝がオスマントルコに滅ぼされた直後であり(1517)、要港アデンを奪取する絶好のチャンスにありながらも、ロポ・ソアレスはそのままジェッダにむけて出発してしまう。ロポ・ソアレスの意図は不明であり、またロポ・ソアレスという人物も不思議な印象を残す。
ディオゴ・ロペス(総督、1518~1522)は、ふたたびアルブケルケの方針に戻したのだ、と言う。つまり、自由貿易でなく、王室による貿易の独占だ。だが、ディオゴ・ロペスがマヌエル王に忠実であったと言うためには、いささか複雑な歴史的問題を解く必要がある、とスブラフマニヤムは言う。ところで、王室による貿易の独占の実態とは何なのだろうか。一般の商人による自由貿易は許さないが、それは表向きのことで、実は、要人自身の私的取引や収賄によるの闇取引が横行していたのではないか。面白いのはガマも例外ではない。

1521年、マヌエル1世が死にジョアン3世が王位を継承する。スペイン・ハプスブルク家の血の入った、あるいは強い紐帯をもつジョアン3世は、マヌエル王よりは、遥かに現実的で、パラノイア的王国とは無縁な王だったようだ。つまり遠いキリスト教国やメシア思想を信奉していない。つまり、ジョアン3世におけるは香料貿易は、十字軍の軍事費捻出のためのではなく王制の財政立て直しのための香料貿易なのだ。そういう方向転換のために、三度、ヴァスコ・ダ・ガマが登用される。その任命が適切なものとは思えないが、それしか王に選択肢はなかった、とスブラフマニヤム言う。ガマの志向(強欲である)・思想信条(十字軍的熱狂とどこかで結びついている)がどうであれ、王は、ガマの英雄神話を利用してポルトガルの海外進出・活動の秩序回復・統制とさらなる王国の発展を試みたのだ。

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ヴァスコ・ダ・ガマ(?1469~1524)

D.ドアルテ・デ・メネゼス(総督1522~24)に対する本国からの罪状は、不正な私的取引とシリア・キリスト教徒への援助を怠ったこと、がおもなようだ。本国の方針・命令に寄り添う度合いが低かったかもしれないが、ドアルテは、現地の実情にあった現実的な仕事・行動をとっていたような印象がもたれる。彼はインド西海岸のムスリム、とりわけマピラ(ケララのムスリム・コミュニティ)との対立・抑圧を強めていく。そのことで彼は非常に嫌われていた。ただ、彼の重大な関心が、インド西海岸からペルシャ湾方面へ移っていたことは、情勢論的に正しく、ポルトガル領インドの統治の観点からすれば、本来はより評価されて良いように思えるのだ。弟をたびたび紅海に送りムスリム商人の商売の妨害させている。サファビー朝とのフルムーズをめぐる緊張もさることながら(1524年のシャー・イスマエルの死でその圧力から解放される)、何よりもオスマントルコの圧力を恐れていた。
D.ドアルテ・デ・メネゼスはポルトガル副王ヴァスコ・ダ・ガマの着任(1523年末)により捕らえられ本国に送還、7年の禁固刑を受ける。ドアルテの解任と送還についても、一筋縄では語れない歴史の劇があるのだが、ここでは省く。
ヴァスコ・ダ・ガマのポルトガル領インドの統治を特長づけるのは何なんだろうか。
ドアルテがやったことはムスリムへの苛烈な圧迫と、ポルトガル系住民に対する鷹揚な統治である。多くのポルトガル人にとってインドで生活することは、ある種の特権と自由と成功のチャンス(破滅ととなりあわせの)に恵まれることであった。その雰囲気を良く伝えているのが、フランシスコ・ペレイラのゴアの統治だ。病院とフランシスコ会に金を使い過ぎ、弾薬は尽きていた、と。それに対して、ガマは、ポルトガル系住民に対しても、暴力的とも言えるやり方で厳格な規律を求めた。給料の支払いを厳しくチェックした(古参をないがしろにしている、という非難があがった)。ガマ自身も現地の名士・有力者からの贈り物を受け取ろうとしなかった。だが、それは現地の風習・儀礼に反することだったのだ。ポルトガル人は副王・ガマを憎んだ。別の情報では、ガマは現地の情婦に手切れ金を払っていた。

1524年11月、ガマは重篤の病に倒れる。アデンで拿捕した船からは、オスマントルコの艦隊が攻撃の準備を整えつつある情報がもたらされる。ガマの容体は回復せず、カリカットへの攻撃は難しくなった。ガマは指揮権を譲らざるを得なくなったが、誰が引き継ぐのか混乱と争いがあった。それでもガマの仕事が何名かの高官に引き継がれ、艦隊は分散し、アジアの各方面に向かって出発していったのだ。ガマは、1524年のクリスマス・イヴゥにコーチンで死ぬ。コーチンの少なからずの人々がガマの死を喜んだ。

スブラフマニヤムは、ガマの規律の回復と領有地拡張を、時代錯誤とみる。小国ポルトガル(当時の人口は百数十万人)には支えきれない海外領地を抱え込んでこんでいた。といいうことは、十字軍的夢想から離れ実利を求めたジョアン3世の修正方針も、また、同じ拡張の方向であることには変わりなかった。

スブラフマニヤムは、ガマの肖像画に言及して、醜い肖像とより醜い肖像があるだけだ、と言っている。この辛辣なもの言いは、じつはこの本の手短な案内に思える。ヴァスコ・ダ・ガマの伝説部分を丁寧にとり除いていくと、そのような、醜いガマとより醜いガマが見えてくる、と言っても過言ではないからだ。…ポルトガルの現代のある歴史家は、15・16世紀のポルトガルの海外浸出について(しばしば、ナチスのジェノサイドに近い、と非難される)、スピノザの精神にのっとり、人間の行いに関しては、笑いも、泣きも、軽蔑も必要ない、ひたすらその不思議を理解することだけだ、と宣言する。しかし、スブラフマニヤムは、そのいささか崇高すぎる宣言に楯突くように、キリスト教徒でない私は(スブラフマニヤムは少なくともキリスト教の狂信者ではない、と言っているのか)、彼らの行いがばかげていれば笑い、悲劇的な場面では涙をながし、彼らの犠牲者が彼らの非道を憎しんだように彼らの非道を憎むのだ、と結論する。

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サンジャイ・スブラフマニヤム

サンジャイ・スブラフマニヤムという歴史家は、論文のなかにユーモアのある寸言を持ち込み、辛辣に笑い、だが、多くの人々が当然と思うことがらには容易に同調しない、煮ても焼いても食えない思想する人であるところが一番の魅力なのだと思う。

<参考文献>
立石博高編『スペイン・ポルトガル史』(山川出版社2000年)
ナイジェル・クリフ『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』(山村宜子訳、白水社、原著2011年)
家島彦一『海域から見た歴史』(名古屋大学出版会2006)

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96.S. スブラフマニヤム“テージョ河からガンジス河まで―十六世紀ユーラシアにおける千年王国信仰の交錯―”(中村玲生訳、『思想 グローバル・ヒストリー』2002年5月号所載、岩波書店)

“テージョ河からガンジス河まで”という論文で
サンジャイ スブラフマニヤムは
近世初頭のユーラシア大陸における
千年王国信仰の「接続された」歴史を
すなわちひとつの全体史の姿を
ミクロ・ヒストリア風の年代記として
また 定説に違和をとなえる
注釈として 綴る
以下は この論文に魅せられ
考え 想い描いてみたことの
つまり 遥かな千年王国と
遥かなグローバル・ヒストリーについての
覚書・断章である



§1.入口

   グローバライゼイションとグローバル・ヒストリーが重なって見える。
   グローバライゼイションの歴史は長い。
   グローバライゼイションは人々のある種、種普遍的な衝動であり、戦争とおなじだ。
  (平和とはそれをいかに抑止していくかという課題のこと)。
   グローバラゼイションが世界経済を再活性化させた。しかし、ここにきて、急ブレーキがかかった。しかし、モノのいききだけのグローバラゼイションなど存在しない。

   スブラフマニヤムの論文“テージョ河からガンジス河まで”は、グローバライゼイションのある転換点に生きるわれわれに、グローバライゼイションの根本にあるものについての霊感を吹き込む。テージョ河(ポルトガルのリスボンを通る)のほとりから、ガンジス河の平原に共時的に存在した千年王国信仰の熱望を、少し勉強しみよう。

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サンジャイ・スブラフマニヤム Sanjay Subrahmanyam
1961年生まれ
南アジア、西南・西アジア、西欧、ラテンアメリカ
という広がりにおいて
また経済統計から、文学テクスト、図像まで
を解釈する近世史家
パリの高等学術研究院、オックスフォード、UCLAで教える
コレージュ・ド・フランス教授でもある
スブラフマニヤムは一級の文章家であるばかりでなく
誰よりも速くテクストを読めるのだと 言われている


§2.全体俯瞰

   世界的規模での出来事に人々が巻き込まれてゆくようになる時代を、スブラフマニヤムは近代の初期(15~17世紀)に求める。その世界的規模の出来事とは、例えば最盛期のモンゴル帝国、ペストの大流行、ボリビアから流出した銀、病原体を含む植物や動物の移動等々である。ただここで注意を要するのは、例えば金塊・銀の流通はむしろ限定的であって、イベリア半島のインフレーションは、オスマン・トルコの地には少ししか届かず、インドには影響を及ぼさなかった。それらのすべてが均一に世界的な出来事とは言えない。

   ならば千年王国信仰の熱狂と運動は、どのような広がりをもっていたのだろうか。


§3.地中海とその彼方 テージョ河のあたりでは

   ポルトガル・インドの総督、アルフォンソ・アルブケルケは、1513年に紅海に進入した。このとき、アルブケルケはイェメンの沖合で神兆を目撃した。プレスター・ジョン(伝説上のエチオピア支配者)の地の方に光輝く十字架を見た。船員たちは感激し嗚咽した。アルブケルケは東方航海への神の導きを確信したのだ。

   この時アルブケルケは、千年王国についてのある計画をもっていた。つまり、イスラームの聖地メッカとメディーナへの攻撃と破壊、プレスター・ジョンとの同盟、また、インドにまで広がる帝国の建設、である。

   ポルトガルの東方航海は、イスラームへの攻撃、ある場合は北アフリカへの侵攻、と対で行われた。それは、彼らの行動の千年王国信仰との結びつきを明かす。

   また、アルブケルケを始め多くのポルトガル人たちは、アジアでは強大なキリスト教国が彼らを待ち受けていてムスリム勢力への強力な同盟相手になりうると信じていた。実際彼らは、伝説上の使徒トマスの殉教の地マイラブルを聖地とした。

   1520年代、ジュアン三世はポルトガルの宮廷からメシア思想は排除した。1540年代、テージョ川のほとりでは、異端審問所による千年王国のイデオロギーと運動に対する弾圧が激しさを増し、千年王国の運動は根絶やしにされたかに見えた。

   しかし、そうではなかった。セバスチャン王が、北アフリカへの遠征で1578年戦死すると(多くの高位貴族も戦死した)、民衆はセバスチャン王をマフディと見做し信仰した。人々は、王の死を受け入れず、そしてそれに歩調を合わせるように、王の名を騙る者たちが相次いで現れた。
   ここでいうマフディとは、もともとは、アーリーとムハンマンドの末裔であり、「お隠れになった者」、「待望された者」の謂である。小アジアからインドで隆盛した終末論的信仰である。まことに驚くべきことに、マフディ信仰に関する慣用句の翻訳がセバスチャンの死を、民衆の側で説明したのだ。

   ノスタラダムスの『占星術の百編詩集』は1555年に初版が出版された。ノストラダムスは、終末論的な場面で、すなわちペストの猖獗のなかで、ペストの治療において名をあげ、フランス王の主治医になった。

   1581年、スペインのハプスブルク王朝がポルトガルを乗っ取った。ポルトガルは、千年王国のイデオロギーによりインドに領土をえたが、セバスチャン王の北アフリカ遠征の手ひどい敗北で国を失った。


§4.ペルシャ側の諸事情

   千年王国信仰がフェリペ二世(在位1556-1598)の宮廷に広がっていた。それはオスマン・トルコ、サファビー朝ペルシャ、インドのムガール朝およびデカン高原に連なる。

   イスマーイールの一族がもともとスーフィー教団、スーフィーのシャーマンの出自であった。1502年、シャー・イスマーイールがサファヴィー朝の建国を宣言した。王は千年王国イデオロギーの装いをまとった。シャーは、自身をアーリーや、アレクサンドロスと重ねあわせ、「ミリアムの子イーサー(マリアの子イエス)」、「マフディの門前の乞食」、とさえ言った。当時のヨーロッパではイスマーイールを(大)スーフィーと呼んだのだ。

   シャー・イスマーイールがアレクサンドロス大王を名のった。イスラーム化したアレクサンドロス(『コーラーン』に親しんでいる人にはごく自然かも知れな)、イラン化したアレクサンドロスはわれわれを驚かす。だが、史実としてはあり得ないことを、自らの文化の文脈に置き換え、民衆の想像力に訴えるやり方こそ、千年王国イデオロギーの特長なのである。

   オスマン・トルコ皇帝スレイマンは、1517年にアナトリア、シリア、エジプトを征服すると、「終末のメシア」と自らを呼ばせた。

   1533-1534年にかけて、この強大な帝国を揺さぶる陰謀が出来した。ベネツィア人総督の私生児がハプスブルクの大使とオスマン帝国の宰相を巻き込み政治的騒乱を引き起こしたのだ。首謀者は、「オスマン帝国は滅亡する」という千年王国イデオロギーを信奉するキリスト教徒であった。

   1540年頃、サファヴィー朝の宮廷に派遣されていたベネツィア人は、王(タフマースプ一世)がマフディに捧げるために純潔の妹と、白馬を宮廷の一隅に用意していた、と報告した。

   1580年、シャー・アッバースの即位は、異端的スーフィー、ヌクタウィとの戦いに始まった。教団は、サファビー朝の変節を攻撃し、王の正当性を否定し、アッバースに代わって教団が正系の王を立てると宣言したのだ。
   また、折しもサファビー朝の宮廷占星術師が、君臨する支配者の死を予告した。
シャー・アッバースのとった対抗策がとても興味深い。シャーは、ヌクタウィ教団を徹底的に弾圧するとともに、教団員の一人を玉座に据え、四日間の統治 (このあいだシャー・アッバースはハーレムの門番の役を演じた) ののち殺害し凌辱した。シャー・アッバースは預言を正確に実行したのだ。シャーの酷薄さと預言のこじつけを民衆はどう受け止めたのだろう。


§5.ガンジス川流域

   15世紀―16世紀初頭のインドにおける千年王国の系譜。
   革新者(ムジャツディド)、シャイフ・アフマド・スィルヒンディが現れた。革新者とは「お隠れになっている者」の意であり、かの預言者ムハマンドの子孫である。彼が出現するとき全人類はイスラームに導かれ審判の日が始まる。

   この革新者(ムジャツディド)の観念が、マフディの信仰と結びつき、より明らかで強い終末論的メシア思想に変化した。

   サイイド・ムハンマンド(1443-1505)は自らをマフディであると宣言した。毎日を終末の日であると見做す禁欲生活を送った。グジャラートとデカンで民衆の支持を得ていた。彼がバロチスターン(パキスタン南西からイラン南東)で没するとその地が巡礼地となった。

   サイイド・ムハンマンドの死後間もなくして大地震が北インドとペルシャを襲った。人々は「復活の時が来た」と考えた。

   ベンガル人のシャイフ・アラーイには学識があった。マッカ巡礼の帰途、アーグラーに居を定めるとシャイフ・アブドゥッラーから影響を受けるようになった。シャイフ・アブドゥッラーは偶像崇拝を捨て清貧の生活に励むことを命じていた。その者は「農夫や樵、井戸掘り職人」の間で信奉されていた。

   1540年代、シャイフ・アラーイはスルタン・イスラーム・シャー・スールと鋭く対立するようになった。シャイフ・アラーイは武装化し、純イスラーム的な生活を人々に課した。
   また、彼は、つぎはぎだらけの衣(貧しさの印)と鎖帷子(戦闘性の印)の姿でスルタンの宮廷に現れ、スルタンがあまりに非イスラーム的であると非難した。スルタンは、アラーイをデカンに追放した。

   実力ある廷臣がスルタン・イスラーム・シャー・スールを退位させた。廷臣は、千年王国運動への弾圧を強めたのだ。アラーイの師シャイフ・アブドゥッラーを激しく殴打し、信仰の放棄を強要した。アラーイは、メシアではないと表明するよう要求されたが、これを拒否し、鞭打ち刑を宣告された。アラーイは、腺ペストに感染し死亡した。象が彼の遺体を踏みつけた。スルタンの幕舎の真上に大嵐が起こると、人々は、審判の日がくるのではないかと恐れた。数か月たってイスラーム・シャー・スールが死亡した。そしてデカンとグジャラートのスルタンもあいついで亡くなった。

   あいつぐスルタンの死が宮廷の神学者や廷臣にも動揺を与えた。ひとつの時間周期の終わりを人々は想った。それはアクバル宮廷の思想家にも引き継がれたのだ。

   ムガル朝皇帝アクバルは、アフガニスタン遠征の途上1581年に、イエズス会士モンセラーテと千年王国および最後の審判について語りあった。アクバルの胸の内には複雑なものがあった。つまり、非正統イスラームに傾くアクバルがキリスト教イエズス会の終末論に関心をもったのだ。戦争と暴動、侵略、蹂躙、征服などの徴によって審判は告げられるだろう、とモンセラーテは語った。モンセラーテの言葉はアクバルに、終末の時においてロバに乗って現れる反キリストのマスィーフ・ダッジャールを想い描かせた。皇帝は、拡大する領土の新しい統治の包括的な理念を探していた。千年王国信仰は、既存の社会ヒエラルヒーを問い直す抵抗の運動である側面と、国家と密接にむすびついて権力の確立・行使にも役立てられた。

   キリスト教暦1591~92年がヒジュラ暦1000年に相当する。イスラーム世界での千年王国への期待感は激しく展開した。

   奇妙で特異だが大変に興味深い物語が、往時の千年王国への期待感を表現している。
キリジュ・ムハマンド・ハーンは中央アジアのトゥーラーン地方出身のスンニー派の貴族で、ヒジュラ暦1000年、自らの領地ジャウンブルで建物を建てようとしていた。土台のための深い穴を掘っていると、石作りの丸屋根が現れ、さらに土を払い鉄の大扉をあけると結跏趺坐して瞑想するヨーガ行者のような者が現れた。その者は、喧噪により眠りから覚め顔をあげると、ラーヴァナがランカーに連れ去ったスィータはラーマ・チャンドラのもとに帰ったか、ヒンダヴィー語で尋ねた。キリジュ・ハーンは肯定した。彼は、ガンジス河がまだ流れているか否か尋ねた。キリジュ・ハーンは、ガンジス河はつねに世界に栄光をもたらしていると答えた。選ばれし者である預言者ムハマンドがすでにアラビアに現れたか否か尋ねた。キリジュ・ハーンは、この聖者が誤った宗教をすべて廃しイスラームという真の宗教を広めて、世を去ってから1000年が過ぎたと答えた。行者は、外に連れ出され、キリジュ・ハーンが用意した幕舎で祈禱と敬神の日々をすごしたが、六か月後に死んだ。


§6.結語

   あるきわめて意図的なテクストの改竄が行われた。
   1499年ヴァスコ・ダ・ガマの船団がリスボンに帰還した。年代記作者は、国王ドン・マヌエルの事跡を讃えるともに、神の摂理が王にインドを取り置いたのだ、と述べた。それはラテン語で書かれたクメスのシビュッラが予言した事柄だ、と。
   その頃、ポルトガルのシントラの海岸で古代の円柱が発見された。年代記作者はそのラテン語原文を「そのとき、西方よ、あなたは東方の富を目にするだろう。ガンジス、インダス、またテージョは、見るも素晴らしい光景となるだろう」と訳した。しかし、その年代記作者はクメスのシビュッラの予言を書きかえていた。「東方よ、あなたは西方の富みを目にするであろう」が原テクストの言葉であった。
   この歪曲にこそ、千円王国信仰の複合的で、地域に限定できない広がりがあるのだとサンジャイ・スブラフマニヤムは述べる。誰が誰の富みを見出したのか。あるいは、奪おうとしたのか。非常に難しい理解が求められている。が、とても惹かれるのだ。

85.S. スブラフマニヤム『接続された歴史』(三田昌・太田信弘訳、名古屋大学出版会2009)

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  ここ何か月か、この本『接続された歴史』と格闘している。非常に難しい。込み入っている。何度読み返しても分からない、ところが多い。しかし、とても惹かれるのだ。一筋縄では解けない思考の跡を丹念に辿ると、かすかに見えてくるものがある。定説にたいする異議申し立てに、流されない者の気概と個性を感じる。インドで生まれそこで育ったものにしか描けないディティールが輝いている。

   サンジャイ・スブラフマニヤムは、デリーで経済学の博士号をとった。それから、フランス、英国、米国で教えることになった。欧米での歴史(学)の潮流にも肌身で触れたはずだ。スブラフマニヤムはそれら知の潮流に野合することはなかった。とはいえ、それらの新しい歴史(学)の息吹・感覚と無縁ではなかった。非常に賢明な交流があったのだ。スブラフマニヤムの書く歴史(学)論文は、まことに粋で自由である。それにインド風の辛味も効いている。私は、このようなインドについての歴史書をずっと読みたいと思っていた。ようやくこのような歴史論文集を日本語で、適宜な注釈により読めるようになったのだ。

   どの論文も繰り返し読みたくなる。しかし、サンジャイの骨と血、その歴史(学)探求の厚みと戯れ、何よりも自由な発想を容易に楽しめるのは「偽物と僭称者の黄金時代」をとりあげた第5章「スルタン・ブラーキー伝説とインディア領」である、かも知れない。

   ムガル朝第四代皇帝ジャハーンギール(在位1605-27)の玉座を最後まで脅かしたのは自身の息子ホスロウだった。一度は、話し合いによる解決がついた。しかし、ジャハーンギール即位の翌年、息子ホスロウは、ラホールで突如反乱を起こす。民衆もホスロウを支持したのだった。ムガル朝帝国の正規軍がパンジャーブに出兵、反乱を鎮圧、そしてホスロウを捕え視力の奪ったうえ(!)幽閉した。
   その後、奇妙な噂がひろがる。
   ホスロウが、ビハール州のあたりを徘徊している、と。1610年四月末頃、牢獄から脱出してきたのだと主張する自称ホスロウはファキール(スーフィー行者)の姿で現れる。南アジアの貴種流離譚の装いなのである。その乞食坊主は武装集団をまとめ上げ、その勢いのままパトナに侵入、そこの財宝を分捕るとともに民衆の支持を得ていく。民衆はここでも敗者の復活に胸をはずませたようだ。だが。任地を留守にしていた総督が戻り態勢を立て直すと、激しい戦闘となり、自称ホスロウは捕えられ処刑される。偽物だろう者の素早い勝利とあっけない敗北である。

   ところで、実際のホスロウ(皇帝ジャハーンギールの息子)はどうなったのだろうか。はっきりしないところがあるが1622年、獄死する。毒殺されたのかも知れない。だが、彼のオーラは生き続ける。そのオーラは、ムガル朝第五代皇帝シャー・ジャハーン(在位1628-58)の時代において蘇生してくるのだ。

   すこしこみいった話になる。魅惑的なディティールを思い切って省き、おおよその筋だけを辿ってみよう。

   シャー・ジャハーンは、皇帝に即位するいやいなや皇位継承候補者を処刑する。「騒動の源である様々な皇子たちの存在という汚れから世界を清浄にしなければならない」と、シャー・ジャハーンはきっぱりと命令を下す。盲目のシャフリヤール(先帝の末子であり、先帝の愛妃ヌール・ジャハーンとのあいだにできた娘と結婚、異母兄妹婚か)、先帝の息子ホスロウの子スルタン・ブラーキー(孫である)、そのブラーキーの弟グルシャースプ、および先帝ジャハーンギールの異母兄弟の二人の息子(甥)は、ヒジュラ歴1037年ジュマーダー・アルウーラ月25日(キリスト教暦1628年)に彼ら全員が処刑される。
   処刑命令を携えた使者が到着した時、スルタン・ブラーキーは弟のグルシャースプとチェスを打っていた。スルタン・ブラーキーは弟に「リザー(徳)ではない、貴殿と私のガザー(運命)が到着した」と言ったという。スルタン・ブラーキーことダーワル・バフシュは、何か伝説を生む素地をもっていた。想像をたくましくすれば、ブラーキーは、民衆のみならず、ハーレムの女(性)たちにも人気があったのだ。

   1630-1631年にかけて大飢饉があった。西インドを痛めつけた。シャー・ジャハーンの治世は始めから苦難をともなった。そして、ムガル朝は、いくつもの亡霊と対峙しなければならなかったのだ。五名の皇子が処刑された直後から、スルタン・ブラーキーが処刑を逃れ、「簒奪者」シャー・ジャハーンを撃つべく反乱軍を編成しつつあるという噂が広がっていった。身代わりをたてブラーキーを逃したのは、先帝の愛妃ヌール・ジャハーンの兄アーサフ・ハーン(ペルシャサファビー朝からの亡命貴族の子息)であると噂された。
ヨーロッパ人も逃亡したブラーキーについて興味をもった。あるドイツ人旅行家は、イランでブラーキー皇子に実際に会ったと語り、またフランス人は、「不幸な皇子」ブラーキーの最後を語るとともに、偽のブラーキー二人の出現に触れ、その二人がともに一団の支持者を得ていたと語った。ピエモンテ出身のイタリア人は、先帝ジャハーンギールがスルタン・ブラーキーの皇帝即位を約束したにもかかわらず、その約束をまもらずブラーキーを幽閉し処刑した、だが、ブラーキーはペルシャに逃げ、今もそこにいる、と書いた。

   シャー・ジャハーンの簒奪、その不正、非道徳に対してヨーロッパ人たちが反応した。彼らヨーロッパ人は、インドという他国における不正に敏感だった。もしくは―これは私の解釈だが―ヨーロッパ人は、他者の不正を非難することによって自らの正当性を印象付けようとした。当時ムガル朝周辺に生息していた欧州人のいかがわしさと彼らの非難が、表裏一体であるように見える。あるいは、アジアの不正なる帝国をいかに少数のヨーロッパ人部隊で転覆=解放させうるか、という発想を膨らましてゆく。

   近年境界の異人として再評価されているニッコロ・マヌッチ(1638/9-1715/7)も伝説のスルタン・ブラーキーについて語った。マヌッチの本『ムガルの歴史』Storia Do Mogorには、ブラーキーの肖像画が入っていて貴重な雰囲気を伝えている、と言う。フッラム(シャー・ジャハーン)が王位に就くと知るとスルタン・ブラーキーは身の危険を感じ逃亡せざるを得なかった、とマヌッチは語る。ブラーキーはファキール(スーフィー行者)に変身してイランを放浪したのだ。ファキール姿のブラーキーを想像すると、何か貴種流離の記号論が思い浮かぶ。正当な皇位継承者が(一度は即位する)イランで亡命生活をおくっている、と何やらマヌッチは共感や同情を示しているようなのだ。マヌッチは、敗者が表徴するべつの可能性に惹かれるところがあるのだろうか。

   この論文集は、前半と後半でその歴史感覚が変容してゆく。インド洋の交易世界を論じた第二章(ブローデルの『地中海』への異議申し立てを含む、と想像する)からデカン高原におけるムガル朝とポルトガルの軋轢を論じた第四章までの調子は、政治経済的、もしくは従来からの政治経済や社会構造を論じる今となってはオーソドックスな歴史(学)を感じる。ピアソンの『ポルトガルとインド』(岩波書店)に近い。それがブラーキー伝説を扱った第五章から黄金郷としてのティルパティを論じた第七章にいたると文化的な側面に比重が移ってゆく。人類学的思考・記号論的なアプローチ(あまり自信がないがそのような気がする)を意識した人間の探求、歴史叙述に変わってゆく。
   だが、このように言うのも便宜的な整理であって、各論文における文章はもう少し込み入っている。何というのか、非常に高いレベルの非決定論が聳えたっている、感じなのだ。
   スルタン・ブラーキーを取り上げるこの論文においても、その政治経済的な歴史から、人類学的歴史へのスタイルの変容を、じつは入れ子としてもっている。スルタン・ブラーキー伝説が、歴史家にとって意味をもつのは、ムガル朝の皇帝権威の確立、およびその外交関係(とりわけイランのサファビー朝との)という視点においてなのだとスブラフマニヤムは言う。しかし、そう言う一方で、スブラフマニヤムの叙述的歴史l’histoire narativeには偽物や亡霊への愛着が漲っている。この論文を読むことは、スブラフマニヤムの分析を学ぶ以上に、ブラーキーを始め多くの偽物や亡霊についての歴史=物語を読む楽しみがあるのだ。さらに、この入れ子構造の論文、スブラフマニヤムの非常に高度な非決定論は、スルタン・ブラーキーを面白おかしい寓話に終わらせない。この論文は、引き続き「イスファーハーンの宮廷で」と「ゴアからの視点」により、陰影に富んだ歴史を再構成してゆく。つまり、偽物や亡霊への親しみ以上のもの、それらを利用し帝国や領土を防衛・拡大しようとするリアル・ポリティックスの世界のなかに入ってゆく。しかもそのリアル・ポリティックスなるものが、また、政治史というよりは陰影に富む叙述的歴史となってゆくのだ。

   ブラーキー問題についてのイスファーハーンの見方は、『アッバース大帝年代記続篇(ザイリー・ターリッヒ・アーラムアーラーイー・アッバースィー)』における二人の人物をとおして捉えられる。もう一人、すこぶる評判の悪い人物、ホスロウの甥、自称バイスンガルの物語も味わい深いがここでは省く。
『年代記続編』は、アフガン人族長に保護されていた十五歳の少年からはじまる。少年はホスロウの息子だと言われていた。少年はナブディ・ミールザーと名乗っていた(ミールザーは皇子の謂だろう)。アフガン族とサファヴィー朝との小競り合いの中で、少年ナブディは捕えられイスファーハーンのシャーのもとに連行される。シャーは彼を皇子として丁重に扱う。
   そのような時、べつの若い男がスーラトから南イランにやってきた。自分はホスロウの息子ダーワル・バフシュ・ミールーザーであると主張する。当地の総督からの報告を受けたシャーは、その男を丁重に扱い宮廷に送るように指示する。『年代記続編』では、彼をスルタン・ブラーギー(ブラーキーでなくブラーギーである)としている。
    『年代記続編』にあるスルタン・ブラーギーの一人称の語りはとてもリアルなのだ。細部もいい。躊躇する奴隷を身代わりに処刑から逃れる物語もさることながら、長い時間、彼が疑惑の対象であったこと「真実と嘘、恐怖と希望の間に宙ぶらりん」の苦しい精神状態が続いたと語る。このブラーギーが偽物だとすると、その傑出した物語作成は、これもまたヒンドスタンの豊饒な物語世界の伝統に属していたのだろう、と言いたくなる。

   サファヴィー朝君主のシャー・サフィはひとつのアイディアを思いつく。スルタン・ブラーギーとアフガン族の隠し皇子ナブディとの会見させるのだ。真偽鑑定の意図がイスファーハーンの宮廷の側にあったのは明らかだ。二人は、面識はなかったのだが(彼らがペテン師であるならそのやりとりはスリリングであったろう)ホスロウやシャー・ジャハーン、また「他の王子のハーレムの女」について夜を徹して語り、スルタン・ブラーギーはそのナブディが本当の弟だとわかり抱擁したのだと言う。シャーは、この二人の兄弟がともに暮らせるよう命令をくだした。
   スルタン・ブラーギーとシャーの関係は良好に続く。ひとつには、スルタン・ブラーキーが処刑をのがれ僭主シャー・ジャハーンを撃つ機会をねらっているというヒンドスタンの噂を、イスファーハーンの宮廷が興味をもったからだ。それをリアル・ポリティックスと呼べないだろうか、と私は考える。スルタン・ブラーギーは、そのようなイスファーハーンの宮廷のニーズに応えていたようにも見える。例えば、シーア派の聖地を訪れ、シーア派への改宗を仄めかす。それはシャーへの追従というよりも親密な関係の演出をともに楽しむ姿である、ように見える。また、スルタン・ブラーギーはシャーのムガル朝への軍事行動(カンダハルの奪還)にも参加する。記録では、スルタン・ブラーギーの息子スルタン・ホスロウの時代まで、サファビー朝の保護・年金は続く。

   「ゴアからの視点」、つまりポルトガルのインディア領副王リニャレス伯も、スルタン・ブラーキーについての噂を、政治的に利用しようとした。背景としては、ポルトガル領インディアの防衛、強大化するムガル朝への抵抗・対抗策のためである。副王リニャレス伯は、アフマドナガル(デカンのスルタン王国のひとつ)、ムガル朝から逃げ反旗を翻したアフガンの貴族ハーン・ジャハーン・ローディー、およびブラーキーらによる反ムガル朝・反シャー・ジャハーン同盟の実現を構想する。

   詳細を省き、そこで特に気になった点を二つあげたい。
   一つ目は、副王リニャレス伯がどのような条件、暗黙の前提をもとにスルタン・ブラーキーを利用しようとしたかである。
   副王リニャレス伯は、スルタン・ブラーキーの真贋に執着した。その証明の手続きにおいてきわめてオーソドックスな方法を採用した。すなわち、以前にムガル朝に出入りしていた、そしてスルタン・ブラーキーを実際に見知っていたイエズス会士レアルを真贋の、いわば鑑定のためにイランに派遣したのだ。スルタン・ブラーキーに会ったイエズス会士レアルは、かのブラーキーを迷いなく偽物であると報告する。リニャレス伯は、自称ブラーキーが偽物であるとはっきりすると、急速にブラーキーに対する関心を失ってゆく。本物によってのみ力がえられるとリニャレス伯は信じていた。リニャレス伯にとって、シャー・ジャハーンのムガル朝に対抗するスルタン・ブラーキーは、本物でなければならなかったのだ。
   気になる第二点、それはポルトガルを乗っ取った(1580)ハプスブルク家のスペイン王フェリペ四世の、この件、スルタン・ブラーキーについての言葉である。フェリペ四世は、強大化するシャー・ジャハーンのムガル朝に対し、いたずらに刺激しないように、ときわめて現実的な方針を示した。ブラーキーをかつぎあげるに際しては、目立たないように準備を進めなければならない、と。他方で、フェリペ四世は「十分もっともらしい偽物は本物とほとんど変わらない価値がある」という考えを、ブラーキー問題にかんして示したのだと言う。副王リニャレス伯とフェリペ四世における真贋についての感覚・考え方の違いは、リアル・ポリティックスなるものの特長あるあざやかな振幅を描いている。

   イエズス会士レアルが面談したブラーキーと、自称ナブディ・ミールザーを弟として抱擁したブラーギーが同一人物なのかどうかは分からない。しかし、より視野をひろげれば、「ゴアからの視点」が、ひとつのリアル・ポリティックスの立ち現われを語っているように見え、また「イスファーハーンの宮廷で」における政治・外交戦略が、ペルシャの伝統でもあるような、より優雅でふくらみがある、何やらエキゾチックですらある政治・外交を感じさせるのだが、このリアル・ポリティックスをめぐる対立の構図は、ここでもまた、非常に高度な非決定論に導かれてゆく。

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サンジャイ・スブラフマニヤム Sanjay Subrahmanyam
1961年生まれ
南アジア、西南・西アジア、西欧、ラテンアメリカ
という広がりにおいて
また経済統計から、文学テクスト、図像まで
を解釈する近世史家
パリの高等学術研究院、オックスフォード、UCLAで教える
コレージュ・ド・フランス教授でもある

   イスファーハーンの宮廷も、インディア領の副王リニャレス伯も、ともにスルタン・ブラーキーの真贋をテストした。リニャレス伯は、信頼できる人物を派遣し鑑定を依頼した。それをスブラフマニヤムは非常に単純なやり方だと言う。それに対しイスファーハーンのやり方は、高貴さとか、偉大さとか皇子にふさわしい礼儀作法や教養を問題にし、さらにはゲームを楽しんでいる風でもあるのだ。曖昧さを残すそのやり方をスブラフマニヤムは複雑な方法と呼ぶ。
   ここで、リニャレス伯のとって単純で分かりやすい方法は、論理と理性を重んじる近代科学の実証精神によって世界を制覇してゆくという世界観にとても似ている、と躾の悪いシロートは考えてしまう。そして、それをイスファーハーンの優雅だが複雑な方法を並べて読んでいくと、実証精神に基づく単純な方法とは異なる、高貴とか偉大さという資質を最高価値とする世界観も、またあり得たのだろうと思えてくる。
   スブラフマニヤムは、単純な方法だけがすべてでなく、イスファーハーンのモデルもあったのだと語っている。その後の歴史の展開は、どうもイスファーハーンのモデルに分が悪い。しかし、今、イスファーハーンのモデルがとても貴重に思えて仕方がない。スブラフマニヤムが複雑な方法と呼ぶイスファーハーンの考え方・政治外交の流儀をもっと知りたいと思うのだ(サー・トマス・ローとムガル朝第四代皇帝ジャハーンギールとの会見について論じた第六章も同じ種類の西欧とアジアの邂逅を語っているように見える)。

   しかし、さらにこの論文は、もう一つの転倒を用意してゆく。イスファーハーンの宮廷が、スルタン・ブラーギーなる人物をどうも本物とは考えていなかった、ということなのだ。宮廷はスルタン・ブラーギーを遠くへ置いた。つまり、ムガル朝高官と会わざるをえないイスファーハーンではなく、デリーやラホールからもっとも遠いカズウィーン(カスピ海に近いイラン北西の都市)に留め置いたのである。シャーはブラーギーを偽物と知りつつ、偽装し交流を楽しんだ。

   スブラフマニヤムのこの論文は、読みようによっては、歴史(学)の粗雑な常識にゆさぶりをかけているように見える。リアル・ポリティックスは、遠い西のはてを本場とする、とは必ずしも言えない、と。フェリペ四世は、もっともらしい偽物は本物としての使用価値があると考えた。しかし、十七世紀中葉におけるこの局面では、リアル・ポリティックスをさらりとやってのけようとしたのは、ポルトガルよりもイスファーハーンの宮廷であった。そして、スブラフマニヤムの行間から聞こえてくる声は、偽物とリアル・ポリティックスの接合が、合理的な論理と証拠の積み重ねによって実証されるものというよりは叙述的歴史のなかの語りをとおして生命を得る、と主張する。

   この論文はまことに粋な結論に辿りつく。サファビー朝から潤沢な年金を授けられていたブラーギーが「もし実は偽物であったならば、彼は成功者だと考えなければならない」とスブラフマニヤムは言うのである。

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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