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101.アキール・シャルマ『冒険と喜びの人生』、Akhil Sharma, A Life of Adventure and Delight, published W. W. Norton & Company, New York, in 2017.

a life of adventure
インドからアメリカへの越境作家
アキール・シャルマは 新しい短編集で
今まで以上に 強烈で かわいた感傷の物語を書く
矮小な人間どものむごい生存競争と
ルール破りや 制度に抗う悪の魅力を描きながら
人は重大な過ちを避けられない とも語る
インドの小説を読む楽しみを
あらためて感じた一冊だった




   アキール・シャルマは、八歳のとき、家族に連れられてアメリカに渡った。インドは、シャルマにとって遠い記憶のはずなのに、シャルマの物語はとてもインドを感じさせる。インドに住む作家以上に鮮烈なインドがある。
 
 アキール・シャルマの三冊目の本『冒険と喜びの人生』(2017)には、八編の短編小説が収められている。初出が“ニューヨーカー”や“パリ・レヴュー”などとなっているところを見ると、作家の評価がアメリカでも極めて高いのだと理解できる。

 八篇の小説について、思い出しながら粗筋・特長を書いてみよう。

コズモポリタン(COSMOPOLITAN)
 ゴパルが電信・電話会社を早期退職すると妻と娘がインドに去ってしまった。ゴパルは仕事もなく、友達もなく暇をもてあましている。ある日、ゴパルのところに燐家のショウ婦人が、芝刈り機を借りにくる。それから二人の交流が始まる。“コズモポリタン”紙を図書館で読み、恋愛についてのノウハウを仕込み彼女に迫るのだが……。エンジニアであるインド人移民とアメリカの離婚した下層中産階級の女性とのギャップが笑い話になっている。だが、この短編は無論笑い話以上のむごい生の現実を語っている。

寝たきりになって(SURROUNDED BY SLEEP) 
 兄がプールでの事故で寝たきりの植物人間になってしまうエピソードは、シャルマの二作目の小説『家族生活』Family Life, 2014でも書かれているので、おそらくシャルマの家族に実際に起きたことなのだろう。兄の事故と、それに伴って幻となって現れる神との対話も『家族生活』と同じだ。しかし、明らかにタッチが違う。『家族生活』では、主人公はあきらかに性悪である。兄が植物人間になって自分が両親を一人占めできるとむしろ喜んでいる。だが、この短編では、兄の看護に家族皆の気持ちが向いていて、自分がないがしろにされていることにすねて見せる。『家族生活』でのシャルマの毒は、この小説では完全に無化されている。このヒュウーマンなタッチは、“ニューヨーカー”紙への配慮か。私は、シャルマの小説では例外的に、好きになれなかった。

みんなヤツを嫌う(WE DON’T LIKE HIM)
 気のあらい乱暴者のマンシュを皆が嫌う。マンシュは主人公のいとこなのだが、早く父と母を亡くした。仕方なく自分=語り手の父が引き取って育てていた。マンシュは不幸な男の子なのだ。やがてマンシュは近くの寺院に通うようになり、パンディット(司祭)になってしまう。とても商売熱心でがめつい司祭なのだ。自分の方は、どうにか法科大学を卒業し、裁判所の前の通りの小屋(!)で法律相談の商売を始める。パンデイットと三百代言のこの対称が面白い。ところで、この小説のハイライトは、実に、語り手のマンシュへの復讐である。マンシュは妻の遺灰を(マシュの不幸は繰り返される)を川に流せない。躊躇するマンシュに、語り手は、半ば強制的に川に流させる。主人公は「何と残酷なことをしてしまったのか」と悔やむ。ただこの小説がユニークなのは、そのように語り手が過剰なほど悔やみつつも、葬儀から帰ってきて、通りの女たちがバケツで水を運んできて沐浴が始まると、自分はマンシュの沐浴を手伝ってやり、罪も穢れも悔恨もすべて洗い清められて、晴れ晴れしい気持ちになってしまうことなのだ。

あなたの歌を聞かせて (IF YOU SING LIKE THAT FOR YOU)
 こんな人と結婚するなんて最低、こんな人と結婚生活を続けるぐらいなら世界がなくなった方が良い、と思っていた彼女が、その男とセックスを繰り返すごとに、また彼の優しさに触れるたびに、彼の帰りが待ち遠しくなっていく。このあっけらかんとしたストレートさが面白いと思って読んでいると、父親が心臓発作で倒れ入院する。父親は、この娘への愛情を訴える。多くのインドの現代小説が繰り返すテーマがここでも現れてくる。不幸で寂しい父親と娘との親密な関係だ。母親が父親を許せないのは、幼い子供を亡くしたとき父親が冷淡だったからなのだ。優秀な妹(アメリカ渡る)と自分のありきたりの見合い結婚の対比も複雑だ。しかし、彼との愛情生活が憂鬱なことのすべてを遠くへ押しやってしまう。

冒険と喜びの人生 (A LIFE OF ADVENTURE AND DELIGHT)
 米国に留学中の二十四歳のゴータマが、警察の護送車に押し込まれるところからこの短編は始まる。シリアスな事態を予想する。が、売春に関わる取り締まりに引っかかっただけなのだ。拘置所で、ヒイスパニック系の青年は「オレの誕生日につかまるなんて」と嘆き、ゴーダマは白人の女性警官から「彼女たちは、君だけでなく多くの男とヤルのだよ、それでもいいのか」と説教を食らう。
 ゴーダマは、同じくインドからの留学生で、あまり美しくないニルマラと親しくなっていく。ありきたりの恋愛のコースをたどる。初めての二人のディナーでは、ゴーダマがただ食いを画策し、それをニルマラが見抜き、彼女も協力するのだが結局なけなしの金子を使かわなければならなくなるのがおかしい。二人は当然結婚しなければならないカップルとインド人社会から見られているのがゴーダマには鬱陶しい。彼は、またネットによるコールガール遊びを再開する。女が現れたら、画像の容姿よりかなり劣るといってタクシー代を払い追い返すそぶりをして値切ろう、と考える。だが、現れた女は予想をこえる美女で陶然となり、二人は実に他愛のない遊びに興じるのだ。

こころなんて (A HEART IS SUCH A HEAVY THING)
 アルンが、会ったことも見たこともない娘と結婚することになったのは二十四歳のときだった、とこの小説は始まる。ある結婚の後先を、歳時記風にたんたんと綴ったこの短編は、とても心をそそるものがある。結婚が決まると、アルンの兄は、もうお前もおしまいだ、とアルンを脅しからかう。父親はお祝い式で泥酔し嘗ての商売仲間を追い回し、乱暴をふるおうとし、式を滅茶滅茶にしてしまう。嫁となった娘は、慎みのない現代娘で、あんな娘は追い返せと衆議一決するが、スクータも洗濯機ももらってしまった以上は、彼らは警察沙汰にするに違いない、と煮え切らない。そんな嫁が皆にお茶をもって来て、家族のみんながなぜか和む。それやこれやの落ち着かない毎日のなかで、ようやく雨が(モンスーン)やってきたのだ。アルンの父は、バスに乗ると、無賃乗車で車掌に取り押さえられた少年が、突如、歌いだす。父も乗客も皆が、少年の歌を聞き惚れる。少年は「こころなんて (a heart is such a heavy thing)」と声を張り上げるのだ。

あなたはお幸せですか (YOU ARE HAPPY?)
 あの女の腕と足をへし折ってしまえ、それでもあの女はウィスキーの瓶の方へ這いずってゆく、とラクシマンの祖母は叫ぶのだった。母は、アルコール中毒になっていったのだ。初めはパーティの席で、少し度をすごしているようだったが、やがて部屋にこもり母は飲み続けた。吐きながら飲み続け、腎臓を壊し、リハビリ施設にも入った。施設から帰ってきたとき、両親と散歩をした(クイーンズだったか?)。不安で何か寂しいが幸せだった。父は、商売でインドにたびたび行き来する。親戚の農場に愛人がいるようだった。アメリカにいるときも、父はその愛人と連絡をとりあっていた。父は、楽しそうに話していた。
父が母の実家に相談したのだろうか、母の実家の方で、アル中の母を引き取ることを強く希望してきた。そして、母がインドに連れ戻されると、すぐに母がデング熱で亡くなった、という知らせが届いたのだ。アメリカにいる一人のおじさんが、デング熱でこんなに速く死ぬわけがない、怖ろしい一家だ、と言うと、祖母が、不謹慎なことを言うな、とたしなめた。母は、殺されたのだと思った。母がパーティで酔うと「あなたはお幸せ?」というのが口癖だった、のを思いだした。

万事快調 (WELL)
 語り手は、小説の始まりで父にピッツァを投げつけられ、小説の最後で母親に平手打ちを食らう。その理由は、いずれもとても切ない。
 語り手は、会計事務所で働いている。ブロンドで美人のビスティは、とりわけ男に愛嬌が良すぎるので女性の社員からは嫌われている。プロのフットボール選手とデートに行ってからは、男性からも嫌われるようになった。週末の飲み会で、彼女が飲みすぎると、語り手が彼女を送っていくようになったのだ。初めは、相手にもされなかったけれども(インド人だから男のうちに入っていなかった、という自己認識を語り手はもつ)、やがてキスを許すようになり(語り手は辛抱強く努力をした)、とうとうセックスをするようになる。ビスティは妊娠を恐れていた。しかし、不思議なことに、コンドームを付けずにセックスをするのだった。
 新しい生命がビスティに宿った。語り手が、結婚を申し出ると、ビスティは、他の選択肢がないと諦めた風で、結婚を承諾した。語り手は、母親と結婚祝いの宝石を買い求める。だが、いよいよ正式な結納の場面で、ビスティは、宝石を突き戻すのだ。語り手は、そのような予感をもっていた。ビスティは、語り手の付き添いを拒み、一人で病院に赴き子供を堕ろす。彼女にとって、堕胎は一度目でなかったのかも知れない。
 多くのヒンドゥー教徒の家がそうするのかどうか分からない。だが、語り手の一家は、郊外のヒンドゥー寺院に赴き、早すぎた生命の死の弔いを行うのだ。パンデイット(司祭)は、子供の名前は、と聞く。名前はないのです、と語り手は答え、思わず嗚咽する。何と自分は、身勝手で無責任であるのかと後悔する。パンデイットは、分かりました、それではその子を「赤ちゃん」と呼びましょう、と言ったのだった。

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アキール・シャルマ Akhil Sharma
1971年 デリー生まれ

   シャルマの小説の特長は一体何なんだろう。とてもインド的なものを感じるのだけれども、それはどう言葉で表せるのだろうか。シャルマの小説のさまざまな場面が頭の中を駆け巡る。セックスとアルコール飲酒が重要なのは分かるのだが、問題はその向こう側にあるインドと人間だ。シャルマの小説においては、悪が輝いて見える。悪は、甘ったるい人間の善性への信仰を打ち砕く。そして、人が生きてゆくことはむごく、怖ろしく、重大な過ちを免れない。その時、人々にとって、幸福とは一体何のことだろう。

   シャルマの小説をもっと読みたいと思うのだが、シャルマは寡作で、今のところこの短編集を含めて、三冊の本しか読めない。


77.アキール・シャルマ『家族生活』、 Akhil Sharma, published in the United States in 2014 by W. W. W. Norton & Company, Inc.

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   アキール・シャルマの第一作『従順なる父』An Obedient Fatherが出たのが2000年、それからずい分長い時間がたった。そして今、ようやく次作『家族生活』を読むことができるようになった。

   前作『従順なる父』は、インドの酷い現実、そこにしたたかに生きる者の姿を伝える小説だった。

   主人公のラム・カラーンはデリーの腐れ役人だ。上司の収賄を手助けする知恵袋であり金庫番だ。貧しい学校の備品(バトミントンのラケット)を盗む、上司の子息の結婚披露宴ではこの時とばかりに意地汚く飲み食いし、あげくのはてに嘔吐する。意地汚く、嫌らしい、とりわけ下品な、どうにも救いようのない人物なのである。さらに言うと、この男には、少女性愛と近親姦への気があって、出戻り娘のアニタに言わせれば「レンガで打ち殺されるしかない犬畜生」なのだ。

   その最低の人物がなぜか気を惹く。善意の人などは即座に抹殺されかねない状況も悪くない。自分の力と判断で、したたかに生きていく姿が爽やかなのである。もっともらしい道徳から自由である、徹底して自己本位なのも気持ちが良い。・・・ラム・カラーンは、その悪行によって、たとえ「レンガで打ち殺された」としても、そこに虚偽はなくこの世の真実を刻み残す。この世の理不尽をむしろストレートに表現しているのに過ぎない。

   小説の後半、腐れ役人のラム・カラーンが輝きを増してくる。彼は、自らの判断と勇気で上司を裏切り、国民会議派とBJP(インド人民党)のリーダーに賄賂を送り、家族と自分の抹殺のピンチを切り抜けるのだ。孫のアーシャが、アメリカへ旅立ってゆくところで小説は終わっている。

   『家族生活』は、アメリカに渡ったその後のアーシャの物語だとも言える。細部はつながらないが、大筋においてそう考えて良い。つまり『従順なる父』が、作家のアメリカに来るまでのインドの物語とすると、『家族生活』は渡米後の生活についての物語である。どこまでが作家の実際の経験によるのか、どこからが創作と言えるのか、それは分からない(『家族生活』では、作家の実体験に近いと見做している書評が目につく)。

                                                                ☆☆☆
   
   この小説は、引退した父と四十歳になる自分が居間でくつろいでいるところから始まる。父親は、最近ほとんど喋らないのだが(私の読むインドの現代小説は、老人はみな引きこもる)「おまえは自分本位に過ぎる」と呟く。そして、この小説の最後は、投資銀行で働く主人公が弁護士稼業の彼女をメキシコのリゾートに誘いだし、プールサイドでくつろいでいるところで終わる。そのとき主人公のアジャイは「シアワセっていうのは何ともしんどい」と嘆息する。「シアワセになるためのコスト=努力は膨大すぎる」ということだろうか、あるいは「インドの貧しい生活は気楽である」ということだろうか。また、「インドの厳しい生活の方が生きている実感がする」という風にも読める。

   この始まりと終わりを結ぶ物語における問題群―アメリカにおける幸福な家族生活―について考えてみたい。

   インドとの別れ
   八歳の少年アジャイにとって、アメリカへ渡ることは、親しい仲間と住み慣れた街と別れる寂しさの方が大きい。家財道具が消えてゆく(親類が譲りうけてゆく)。先にアメリカで働き始めている父親から航空券が送られてきて、いよいよ渡米の日取りが近づいてくると、母親は子供二人を連れて祖父のところに別れを伝えにゆく。老人は、母に「英語も話せないのにアメリカくんだりまで行くとは」と嘆き、母は「この子供たちのために行くのです」と答える。ここまでは、ごく平凡な別れの場面なのである。けれどもその哀愁を帯びたインドとの別れ、喪失感は、この小説におけるアメリカでの乾いた潤いのない生活へのプロローグにふさわしい。

   兄は植物人間になった
   兄ビルジュが猛勉強の結果、進学校への入学を勝ち取る。それが決まった矢先、プールで(プール=大きな水瓶が表徴するものは何か、と想像をたくましくしたくなる)、大けがをする。生死の境をさまよう。幾分状態が良くなったとき、付き添いのアジャイは、苦しそうだからと、大した理由もなく酸素吸入マスクをはずす。医師は、それがビルジュを回復の見込みのない植物人間にしてしまったと説明する。アジャイは、とくにそのことに自責の念をもたない。むしろ、兄が死ねば家族に子供が一人になる厚遇・幸福を期待する。

   父親がアルコールに溺れてゆく
   政府機関で働く父親は、ビルジュのけがの賠償をしたたかにせしめる。薬代の請求書を左手でサインし、支払を拒否するようなことまでする。しかし、そんなしたたかで吝嗇な父親が強度のアルコール飲酒に傾いてゆくのだ。兄ビルジュの見舞・看護の帰り道、父親はバーに入り、一番安いウィスキーをダブルで注文し飲む。アジャイはそれを何か異常なことの始まりのように感じる。・・・父親のアルコールもまた「シアワセ」の代償か。ヴェジタリアンの家族の者がアルコールに溺れるヒンドゥーイズムにおける不道徳もまた特筆すべきことなのだろう。

   神・祈祷師・母の祈り
   アジャイは、兄を植物人間にしてしまった悔恨について何も語らない。むしろ、兄の死による自分の幸運を夢想する。だがアジャイは、その時期、神を幻視し会話を交わす。アジャイは、神に許しを求める素振りをしめしつつ、だが神が将来について明言を避けようとすると神を追求する。とてもスパイスの効いたユーモ   ラスな対話だ。アジャイの、神に犯されつつそれをはねつける世俗精神が健全に思える。
   母親は、兄ビルジュの回復のために祈祷師やバラモン僧を家に呼び込む。それはインドの小説でよく描かれる定型である。母親は、昔気質のヒンドゥーの女(性)なのだ。祈祷やその他の民間医療の試みにもかかわらず、ビルジュは寝たきりだ。アジャイは、母親の愚行を冷淡に受け流す。
   そして、逆転が起こる。母親が信仰深いインド系の人々のために祈りを捧げるようになるのだ。見込みのない介護を背負っている母は超自然な思い込みの対象と化し、あるいはよりあからさまにアジャイがプリンストン大学に進学すると、多くの者が母親の祈りのご利益を求めてやってくる。仮借のないこの世の現実をアジャイは笑っているかのようだ。

   学年一番の女好き
   アジャイは勉強がよくできる。学年で一番である。それを隠すことなく誇る。
   アジャイはクラスの嫌われ者だ。ある時期までジェフや中国系のマイケル・ブーとは仲が良かった。しかし、アジャイが兄についての自慢を繰り返すに及んで(このウソはとても心に沁みる)、二人はアジャイを避けるようになるのだ。
   アジャイは品行方正ではなく、女の子に次々に手をだしてゆく。器量良しのリータには相手にしてもらえなかったが、父が電気店を営むミナカシとデートを繰り返す。その一方で、プリヤにも「好きだよ」と擦れ違い様に囁き、愛の詩を送る。

   多くの人が利己主義の塊のようなアジャイを嫌う。しかし、利発なアジャイはアメリカにおける冷徹な真実を素直に生きているようにも見える。誤魔化したり逃げることなく、アジャイは、アメリカがインド以上に苛酷な生存競争の場であるという認識を直感としてもっている。

   ヘミングウェイを貪り読む
   アジャイにとってアメリカに来たさしあたってのメリットは、テレビと図書館なのだった。思い出のテレビのプログラムが、「家族生活」に彩りを添えている。
   頭がよくて利己主義のアジャイがヘミングウェイの読書にのめりこんでゆく。スペイン市民戦争において国際旅団に参加したヘミングウェイが、エンジニアでも医師でもないのが、なんとも納得できない、と愛嬌のあることを言う。ヘミングウェイの初期短篇を、あるいはヘミングウェイの伝記をむさぼるように読んでゆく。
   利己的なアジャイとヘミングウェイの文学を結びつけるものは何なのだろう。
   アジャイは、ヘミングウェイを読むことによって世界との距離が近くなったと言う。私は想像する。アジャイは、アメリカに来たことが何だったの、ボクは今ここで何をしているのか、という疑問の何がしかの解答をヘミングウェイの読書から得つつあったのかも れない。

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アキール・シャルマ
1971年にデリーに生まれ、八歳のとき家族とともにアメリカに移住
ニュージャージー州、エディソンに育つ
学生時代、トニー・モリソンやポール・オースターの教えを受け
一度はシナリオ・ライターの道を目指すが
金融の世界に職を得る
『家族生活』は、英国の新しい文学賞、2015年度のフォリオ賞を受ける

                                                               ☆☆☆

   アキール・シャルマの小説は、ある種インドの酷い現実、あるいはひどく利己的な人々につながって見える。他人のこと等にはかまっていられない不誠実で反道徳的、あるばあい反社会的でさえある人々がある種目立って見えるのだ。そのような世界で生き残ってゆく人間の姿をシャルマは語り聞かせる。

   『従順なる父』における腐れ役人のラム・カラーンは、そのような酷い現実に対して、甘美な幻想やもっともらしい美辞麗句を一切もたない。彼は、ひたすら生き延びようとする、生きている間は自己の欲望に素直であろうとするだけなのだ。すなわち、われわれの社会における人情らしきものの味がまったくしない。

   主人公アジャイの利己的な姿は、アメリカに渡ることによって倍加しているようだ。アメリカに移住することで、アジャイは何を失ったのか。アジャイがアメリカで得たものは、空虚な幸せ、のような気がする。

   母親は、息子にあまり「ありがとう」と言うな、と説教する。「ありがとう」と言えば、世間はお前を弱い人間だと見做すのだ、と。社会は、感謝の積み重ねの上にあるのではなく、生存競争の場でしかない、という認識を母親は諭す。・・・この生存競争の場で、だれが強者で、だれが弱者であるのか。プリンストン大卒・投資銀行マン・弁護士が強者なのである。それはとても威力がある、と語っている。

   アジャイの行動が表現しているのは、甘美な夢の対極にある悪だ。悪についての、非常に豊かな表情が魅力的なのである。この悪は、もっともらしい美辞麗句や道徳をとりあわない。アジャイは、真実に向かいあう強さをもっている。

   アジャイの示す悪は、忌避されなければならないのかも知れない。忌避されなければならないが、完全に排除してはならない、とも考えられるのだ。この悪を抜きにしては、この世の立体的な造形はあり得ない、という気がするのだ。アジャイのような人間を嫌悪する。しかし、その真実には到底あらがうことができない。

   この世は真実のみによって成り立つわけではない。真実をより微温的なものに置き換えて辻褄を合わせ生きながらえている。その種の置き換えを嫌うところがアジャイにはある。

   アジャイの悪は、超善悪である。善の行き過ぎを、善の暴力を、善の無責任を暴露する。超善悪は、善悪という観念を批判的に検討し、善悪の観念に精気を吹き込み、善悪の観念を更新することができる。・・・ただアジャイは、悪の道を進むのであって(悪に耐えている)、善悪の観念を変革しようとしているわけではない。
プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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