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75.サンカール『ミドルマン』、Mani Sankar Mukherji, The Middleman, published in Penguin Books India 2009, translated by Arunava Shnha, first published in Bengali 1973.

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    小説の出だしが重要である。ソムナトゥは、人間ジャングルのカルカッタを彷徨う恐竜である。売春宿に向かっている。

    ソムナトゥは、二十四歳になる。二年半ものあいだ、職探しを続けた。千通を超える履歴書を送った(と書かれている)が採用されなかった。失業と貧困が、この小説の主題なのだろうか。それとは少し違うような気がする。

    この小説は、六十年代のカルカッタにおいて、いかに多くの若者が職にあぶれていたのか、という社会の厳しい現実を語る。小説の約三分の一が、実りのない就職活動の苛酷な現実について書かれている。同じ職探しを続ける友人=スクマールは、ついに発狂する。大家族を食べさせていかなければならない重圧と、不毛な就職活動に疲れ切ってしまったのだ。

    スクマールの脅迫観念は、就職試験の一般教養問題だ。初めはユーモラスに、たとえば、ビキニとは、外国人女性のつける小さな水着ではなく、原爆実験が行われた南太平洋の環礁と答えなければならない、とソムナトゥに語り聞かせる。それが、強圧的で戦闘的なものに徐々に変化してゆく。たとえば、ニルギリとは、(インド)南西部の山をさすのではなく近年配備されたインド国軍の軍艦の名称なのだ、と。

    ソムナトゥは、作業着を着ようとしない。事務職にこだわる。インドでは、学校をでた者が、工場の労働者や職人になることなど、まったく考えられないようだ。ただ、この小説では、女(性)たちが身を売り転落してゆく道は、案外近くて速い、ということを強調しているようだ。

    ソムナトゥが、二年半ものあいだ生業に就かなくとも生きながらえたのは、彼がインドにおける大家族の一員だからだ。ソムナトゥは、人間ジャングルのカルカッタにおける唯一の避難所を家族がともに暮らす家なのだとも語る。逆に、恵まれた者たちは(職にありついている者たち)、インドの大家族が、若者を甘やかし就職を妨げている、という論陣をはる。・・・ところで、ソムナトゥには二人の兄がいる。長兄がインド工科大学の出身者、次兄が奨学金で学校を出た会計士である、という以外何も語られない。この空白は、ソムナトゥのツブシの効かない学歴と彼の詩への愛着を照射している、ように見える。

    『ミドルマン』という小説は、生業につけない、救いのない出口なしの状況を執拗に語るが、実は、人間的なぬくもり(愛や、誠実さや、思いやり、正義の感覚)に充ちている。兄嫁との親密なやりとり(それはスリリングでさえある)、また、今は奨学金を得て颯爽たる道を進む学校時代のガールフレンドは、ソムナトゥの純粋な魂に魅せられ彼と一緒に生きたいと願っている。これは小さな奇跡に違いない。・・・他方で、有力なコネをもつクラスの仲間は職を得、盛大な結婚式を挙げる。また、次兄の嫁は、軽薄で横柄な白痴だが何不自由のない生活を送っている。つまり、社会の不平等に抗議する気持ちが、この小説にはあるのだ。それもまた、良き人間社会への信仰のようであり、ある意味で温かい。さらに言うと、発狂した友人=スクマールの妹は、ソムナトゥのビジネスの顧客の相手をすべく春を鬻ぐとしても、それは家族の窮状を救うための止むに止まれぬ行為であって、彼女の売春行為の奥底に、現代人の癒しがたい孤独や空虚の感覚が広がっているわけではない。むしろ彼女は、家族の暖かな温もりのために身を売る。

    長兄の妻カマラとソムナトゥとの親密な関係は、温かさを通り越してある種危険な愛を語っているようだ。
カマラは、実によくできた嫁だ。彼女は引退した父親に気遣い、また職のないソムナトゥに大層優しく接する。さらに、たとえば彼女の手がソムナトゥに触れると、二人の親密さが加速し、危険な雰囲気を醸しだす。・・・カマラはすでに亡くなった母親の代理形成と言うべきだろうか。また、彼女は、ソムナトゥの書いた詩を誉める。ソムナトゥは、失業者に詩はないと考えている。ところで、彼の詩とは、人間ジャングルのカルカッタに彷徨う恐竜を幻視するような作品なのだ。
    ソムナトゥとカマラは、いくつもの秘密を共有していて(就職詐欺にあったこと、投資した金が騙しとられたこと、等々)カマラは、ソムナトゥとの秘密を大事に慈しむ。ひどく惨めな状況においても、人は愛し合うということだろうか。あるいは、そういう時こそ愛し合えるということなのだろうか。ロマンチックな奇跡だ。

    『ミドルマン』という小説は、物語を読む楽しみを十二分に読者に与えてくれる。しかし、その物語を構成するエピソードが示している意味を辿ってゆくと、それらの問題群は案外と平凡で陳腐である。繊維会社の幹部社員は、契約の賄賂として女(性)を要求する。就職活動を断念し自分で仕事を始めたソムナトゥは、そのようないかがわしい取引をしたものは家族にいない(道徳の崩壊を自分の問題とするのではなく、家族の名誉を口にする)と、最初は反撥し呻吟するが、結局は、「提案」を受け入れる。ソムナトゥは嫌々ながら、悪友の力をかりて女(性)を斡旋するのだ。ビジネスの苦い成功のあと(好色な幹部社員はビジネスにおいて鷹揚である)、ソムナトゥはどう行動したのかがより興味深いのだが、兄嫁へのプレゼント=サリーが汚れきっていると叫び、泣き崩れるところで小説は終わっている。

    牧歌的な物語をノスタルジックに味わいながらも、不思議な魅力を放つのは、ソムナトゥの受動性、弱さ、優しさ、優柔不断、疑うことを知らぬ人の良さ、一言でいうと脆弱さである。それは捉えどころがなく、ソムナトゥは明らかに無能(生活力の乏しさ)であるにも関わらず、彼を怪しく魅力的に仕立てあげているのだ。それは際立っていて、一貫している。ところで、失業に喘ぐ当時のカルカッタの若者が、そんな優しく弱いソムナトゥをどう感じたのだろう。

    この本の「あとがき」を見過ごすべきではない。この小説を読むのは、どのような人々なのかが見えてくる。小説を就職のために実用書として読む人が存在するのだ。つまり、小説のなかの人物の連絡先を、息子の就職のために教えろと執拗に要求する人がいるのだ。それは狂気である。著者は、文学という贅沢と、人を狂気と化す失業の社会的現実のあいだで揺れている。

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サンカールSankar
正しくは、Mani Shankar Mukherji
1933年カルカッタ生まれ
十代で父親を亡くしカルカッタ高等裁判所の事務官として働く
“ミドルマン”と“チョウリンギー”はサタジット・ライが映画化した
路上の食べ物(street food)について詳しく著書もあるとのこと
また、プロのマーケッターでもある、という
数あるベンガル語の著書のうちで
英語で読めるのは Chowringhee (1962)、 The Great Unknown (1962)、
Thackeay Mansion
などである

    6月16日は、特別な日だ。ソムナトゥの誕生日であり、母を失った日付であり、ガールフレンドは、婚姻届を出そうと、ソムナトゥに迫る。そして何よりも、女(性)の斡旋による最初のビジネスの正念場-失業からの離陸の日-なのである。この偶然の重なりは、少しも可笑しくなく、とても苦い味がする。
    6月16日がジョイスの『ユリシーズ』の一日であることを、ふとした偶然から私は知った。著者サンカールは、ダブリンならぬカルカッタにおける矮小な現代ベンガル人の、汚辱に充ちた一日の冒険を書こうとしたのか。あるいは、単なる悪ふざけなのだろうか。

     ミドルマンとは、どう考えるべきだろう。初めは、中産階級に属する者のことかと思った。それから、女(性)を斡旋するポン引きのことかとも思った。さらに、受け身で流されてゆくだけの凡庸な人を指しているのかとも思った。そして最後に、社会における諸個人の関係性(発狂する仲間、サンカールのためコールガールを懸命に探す悪友、愛を仄めかす兄嫁、就活の詐欺師チョウドリー氏、息子の職探しのことが片時も忘れられない父親、サンカールとの結婚を願う学業優秀なガールフレンド、さらには秘書という言葉で女(性)を要求する繊維会社の幹部社員、それらもろもろの人間たちによる網の目のひとつとしてのミドルマン)だとも考えはじめるのである。

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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