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79.シヴァ・ナイポール『短篇小説集、不思議な男ほか』、Shiva Naipaul, A Man of Mystery and Other Stories, published by Penguin Books in 1995.

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   『蛍』Fireflies (1970)、『潮干狩り』The Chip-Chip Gatherers (1973)、『暑い国』Love and Death in a Hot Country (1983)、およびこの八編の短篇小説が、シヴァ・ナイポールの小説のすべてである。シヴァは、これらの小説と、数冊のエッセイ・ルポルタージュ・旅行記を残して1985年40歳の若さで逝った。

   第一作目の『蛍』は、インドからトリニダットへ移民した家族の物語だ。もとバス運転手の父親は、不倫や写真や庭いじり、小さな窃盗を楽しむフツーの人である。兄はガリ勉で弟は反抗的で暴力的である。母親は、商売好きの頑張り屋、学はないが暖かい。しかし、母親は最後すべてを失う、主人も息子たちも、商売も家も財産も。そして、そこに到ってこの小説の主役が実は母親なのだと分かる。兄のV. S. ナイポールが書いた『ビスワス氏の家』A House for Mr Biswas (1961)が志半ばで倒れた父親の物語とすると、『蛍』は、母親の物語だ。小説前半の父親の馬鹿げた行動、そして弟の一族のボスへの乱暴狼藉を読んでゆくと、母親のつましい願いが際立ってくる。R. K. ナーラーヤンの小説における母親が、家の片隅の暗い場所に生息することを条件付けられているとすれば、シヴァ・ナイポールの母親は、夫や子供達の、つまり男達の身勝手でバケ物のように肥大した観念の傍らに蹲っている。遠い南の島の儚い女の一生というよりは、母親のすべての思いが、願いが、幸福が粉々に砕けてゆく虚無感が不思議な安らぎを与えてくれる。

   二作目の創作『潮干狩り』は、故郷トリニダットの開拓村が舞台である。ラムサランは若くから商才があって(密輸で儲けた)運送会社を成功させた。ラムサランは変わり者で、横暴だ。息子のウィルバートの眼を通して小説は進行してゆく。母親は不器用で、また慎ましい女(性)であるけれども、古雑誌から切り取った雪を頂いた山々の写真(アルプス)を壁に貼り喜んでいるような人なのである。父親の医者嫌いが母を早すぎる死においやってしまう。
   ジュリアンがライバルだ。ジュリアンは、医者を目指して頑張っているのだが、ウィルバートはジュリアンを時に毛嫌いする。これは、作家の自己嫌悪のような気もする。ウィルバートのところにいた謎めいた女(性)の娘、シータはジュリアンと恋仲になってゆくが、受験勉強が忙しくなってゆくとジュリアンはシータから遠ざかる。彼女は、“トリニダット・クロニクル”紙でジュリアンの留学生試験の合格を知るのだ。希望に充ちて出世してゆく若者が美しく聡明な娘を捨ててゆく。その絵は、センチメンタルではなく、世界へ旅立つ者への作家自身の苦い批評を含んでいる。
   主人公のウィルバートは、運送会社の社長の息子という境遇・運命を甘受し、そのなかでクールな判断と周囲への思いやりを示してゆく。知識人としてではなく、実務家として生きてゆく。それは作家の願望・理想のなか。あるいは作家の自身にたいする攻撃なのか。
   シータの母スシーラは父の愛人だったのだろう。また、ウィルバートには腹違いの兄がいて、畑のあばら家に引きこもっている。シータは腹違いの妹ということになるのか。この辺の関係は込み入っている。
   シヴァの小説は、しばしば破滅への願望、死への誘惑が色濃く立ち込めているのに対して、『潮干狩り』は生きていかなければならない意志を表現している、ようだ。『潮干狩り』は、生きていくための一歩を踏み出そうとしている小説に思える。そしてその重い一歩がやがて歩行となってゆくと、そこに現われてくる感覚は漂泊だ。どこの土地にも属さない根なし草の自由と寂寥の感覚がこの小説の魅力だと思う。シヴァのこの小説を読んでいると、漂泊に生きることが、苦しい生と向き合うのには、もっとも居心地がいいのだと、思えてくる。

   『暑い国(暑い国における愛と死)』は、逆に、引きこもりがちの知識人についての小説である。主人公オーブリーは、独立まもない南米のとある国で、最近書店をはじめた。彼の祖先は奴隷農場主であった。彼はそのことに罪の意識をもっている。過剰で倒錯した亡霊のような意識にオーブリーは今も苦しんでいる。彼は逃亡奴隷をテーマにした小説を書いている。乞食やスラムの住民に食べ物を恵み、反帝国主義的な論説を英国やアメリカのメディアに投稿する。オーブリーは真摯に生きようとするが何か的外れなのだ。
   オーブリーが女性の従業員を雇う。彼女はきわめて知性的だが捉えどころのない女(性)だ。ロレンスを愛読しているのも気にかかる。彼女、ディーナはオーブリーのプロポーズを受け入れ結婚する。彼女の頭脳はいつもフル回転しているが、行動は受動的だ。不良少女の召使いとのやりとりは、ディーナの規範意識をスリリングに表現している。ディーナは、ポルトガル系にヒンドスタンの血が入っているという設定からも、作家に一番近い心情をもっているように思える。つまり、インド系移民のアイデンティティと西洋的な教養・知性をもっているのだ。ディーナは子供の頃を回想して言う、街にごくたまに現れるアメルインディアンの空白の表情が忘れられない、と。原始的な自然の調和に近いところで生きる者が間違って文明の只中に引き立てられた時の戸惑い、あるいは思考・感情の停止を言っているのだろうか。さらに、小説の終わり近くでオーブリーは語りかかける「自分の願いは、この現実においてただ人間としてあることなのだ」と。彼女は、子供の頃見たインドネシア系移民の祭祀に触れ、容易に人間が動物に先祖返りしてしまう(トランス状態の謂か)恐怖を語る。この国では、大規模な動物への先祖返りが起こりうるのであり、それは徹底した破壊にしか行きつかないのだ、と独白する。

   ここでディーナの語る「人間の大規模な動物への先祖返り」とは、『蛍』で悩んだ個における破滅=死の恐怖と誘惑とは違う次元の恐怖を語っているようだ。つまり、桎梏でしかないと思っていた人間社会や文明は案外脆く、それはいつでも無に帰する。個における死の恐怖と誘惑というきわめて人間的な感覚は、いとも簡単に、根こそぎ無化されてしまう現実がこの世界にはあるのだ、と。個における破滅願望と死の誘惑に激しく侵されながらも、さらに大きな恐怖、多くの人間が雪崩をうって動物化してしまう恐怖に、シヴァはこの小説で捕われている。人間は、実はカオスには耐えられない、絶対に。そこには個であることの死も、破滅願望も、それについての恐怖や誘惑もない。人間は、そこでは人間であることを止め、動物となる、あるいは、ただの物体としての屍、死の国があるだけなのだ。

   ところで、シヴァ・ナイポールは、南米ガイアナで人民寺院の集団死事件(1978年11月、他殺を含め900人以上が死亡)が起きると、二週間という短い時間で現地に飛び取材している。そして、そのルポルタージュ『黒と白』Black and White (1980)を書き上げた。・・・その本では、集団死を構成する個々の死の痕跡をシヴァ・ナイポールは懸命に辿ろうとしている。つまり、集団死ではなく、人間にとって死はあくまでも個の問題であるはずだ、というシヴァの願いが込められている。それは、『暑い国』における集団的な人間の先祖返り、人間であることを止めてしまう恐怖と本質において繋がっている。

無題
シヴァ・ナイポール
1945年 西インド諸島、トリニダット・トバコの首都ポートオブスペインに生まれる
1985年 執筆中、心臓発作で机にうつ伏し、突然の死だった
ポール・セルーは、シヴァ・ナイポールの小説を兄ヴィディアの二番煎じに過ぎないと見下した 兄ヴィディアの反論もありむしろセルーの評判を落とした感がある
日本語で読めるのは『終わらなかった旅』(工藤昭雄訳、晶文社)のみか  

   『短篇小説集、不思議な男ほか』は1969年から1974年の間に発表された作品が集められている。書誌的なことに触れると、もともとは1984年に出た本『ドラゴン湾の向こうに』Beyond the Dragon’s Mouth: Stories and Piecesに収録されたのち、創作のみを抜出し短篇集として1995年に出版された。

   『短篇小説集、不思議な男ほか』は、“睡眠不足”を除くと小説の舞台は故郷トリニダットである。

“美人コンテスト”
   これは張り合っている雑貨屋が、美人コンテストによって商売仇を打ち負かそうとする物語だ。最後に、美人コンテストで勝利をおさめたのは、ローカル色の強いオリエンタル・エンポリアムなのか、息子を米国のビジネススクールに留学させ、モダンな感覚をもつジェネラル・ストアなのか。いずれにしても田舎街の美人コンテストというだけで、何やら可笑しく楽しい。

“不思議な人”
   高等教育を受けた人物が、シンプル・ライフへのこだわりから靴修理屋をやっている。女房はブラジルの農園の監督人の娘で一緒に駆け落ちしてきたのだ。しかし、生活苦から娘を女房の実家に戻すしかなかった。女房は本好きで、つまり知的なところがあり、また絵を描くのが趣味なのだ。なぜか嵐に漂う船の絵ばかり描いている。彼女は、フツーの生活に飽きたらない心をもっている。靴修理屋は、子供好きで近所の子供達を引き連れ、動物園や植物園にでかける。極貧も大金持ちも通りには無縁だった時代が過ぎ、あばら家の靴屋を残し、商業開発で街の様子が変わってゆく。ある日、靴屋はしたたかに酔って死んでしまう。確信犯のような自死だ。

“クラリーサ・フォーブスと政治教育”
   黒人のフォーブス氏は、政治的に立ち回ることで今は議員に収まっている。彼の娘クラリーサは、甘やかされて育った感じだ。娘は、騒ぎを起こし、冒険にでて失敗を重ねる。通っている高校を中退し、夢をみてポートオブスペインに出て召使となるが、そこでも女主人とケンカ、英国にもゆくが長続きせずに戻ってくる。何をやっても中途半端で、最後は軽蔑していた父のところに身をよせる。夢見ることの冷酷さを知ることが「政治教育」ということなのだろうか。作家は、クラリーサの生き方に対して批判的なのか、あるいは何か認めなければならないものを感じているのか、実は曖昧だ。

“人形の家”
   衛生局の職員が、三人の子供と女房を残し、「大きなこと」を夢見てアメリカに旅立ってしまう。残された妻クララは孤軍奮闘する。彼女の相談相手は、怪しい巡回牧師だ。・・・街の噂・エピソードを聞く楽しさがある。庶民の夢と逸脱とその代償を語りかけているようだ。

“ソーコー氏のクリスマス合唱隊”
   トラック運送業を営むオヤジが、小学校の校長を騙し、子供達を使って合唱団を作り、クリスマス募金をせしめようとする。詐欺を早々に見破る聡明な子がいて、逆にこの詐欺師にたかるところがおかしい。小さな世界の愛おしくなるほどケチな詐欺の話だ。

“父・子そして三位一体の聖霊”
   誰が本当の赤ん坊の父親なのかをめぐる喜劇。これもカリプソのような街の噂に材をとっているのか。

“借家”
   少年院あがりの不良青年が、宝石商という天職を見つけ(これはあり得そうなことだ)真面目に生き始める。妻を娶り、子供も授かるのだが、そこに不吉な女(性)が介入してくる。もと不良青年の金銭への無頓着、天職への献身、女房が逃げ出したあとの不吉な女(性)との関係は、読んでいて味わいがある。フツーの生き方から逸脱した者の宿痾か。

“睡眠不足”
   老いと死への予感を、イギリスの郊外を舞台に語られる。雪が残る街に一人下宿暮らしをしている老人が、バーで意気投合した娼婦を下宿に連れ込み、下心も虚しく、なけなしの5ポンドを巻き上げられる。下宿の女将に知れたらただでは済まないと怖れながら、自分はもうすぐ死ぬのだと思う。若い作家が、老人の死への心境をなぜ想像してみなければならないのか。・・・シヴァにとって、ロンドンが表徴するのは、死臭漂う老人なのかも知れない、と唐突に思う。それは、シヴァにとって必ずしも居心地が悪くない。

   これらの短編には、シヴァが繰り返し呻くように語る秩序嫌悪のアナーキズム、死への凝視、死をどこかで待望する雰囲気を通奏低音のようにもっている。だが、他方でカリプソが歌う街のゴシップのようなユーモラスな調子も楽しい。それはきわめて民衆的で、明るく逞しい。シヴァは故郷トリニダットを懐かしんでいるようでもあり、トリニダットの人々をも愛してもいるようだが、もうそこには戻れない寂寥感―乾いていて、鉱物のように硬い感覚―も見てとれる。シヴァの奏でるカリプソ小説は、世界の果ての街角の夢・欲・退屈・笑い・失敗・不幸を語りつつ、自分がどこにこれから向かおうとしているのか分からない漂泊の感情を表現している。シヴァのこれらの短篇は、この世界に居場所を持ちにくいと感じている者に優しい。あるいは、フツーの生活にいたたまれないと感じている者の心の痛みを癒す。

73.シヴァ・ナイポール『蛍』Shiva Naipaul, Fireflies, published in Penguin Classics 2012, first published in Great Britain 1973.

 
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  『蛍』はシヴァ・ナイポールの処女小説である。二作目の『潮干狩り』The Chip-Chip Gatherers (1973)、80年代初頭に出版された『暑い国』Love and Death in a Hot Country (1983)、それにいくつかの短編小説がシヴァ・ナイポールの小説作品のすべてなのだろう。兄のヴィディアはシヴァを「ドラッグ中毒で野たれ死にするしかない」と悪しざまに言うけれども、『蛍』を読んでみるとその虚無の味わいは独特で(あるいは自由の感覚)、それとシヴァの早すぎる死は(1980年、享年40歳)どこかで繋がっているように思えてくる。


   『蛍』はV. S. ナイポールの『ビスワス氏の家』A House for Mr. Biswas (1961)
と似て旧英領西インド諸島のトリニダットにおけるインド系移民社会を舞台にしている。しかし、素材の扱い方は『ビスワス氏の家』とは非常に異なっている。つまり、『ビスワス氏の家』における主人公がヒンドゥーの大家族主義に喘ぎながらも、ヒンドゥー保守派に抗うジャーナリストであり、小さな英雄であるのに対して、『蛍』のラチマン氏は、ありきたりの俗物だ。もともとはバスの運転手だった。それから本家のボスのコネで役所の仕事につき(教育課)、夜遊びや不倫や趣味(ガーデニングや写真)や小さな悪(盗み)に生きる平凡な人物なのである。

   『家』が真面目でユーモラスな物語であるとすれば、『蛍』はよりアナーキーにふざけまくる小説である。前半の読みどころ、ラチマン氏の不倫はとても不自然にできあがっている。相手はアメリカに留学体験をもつ文化人類学者でトリニダットのインド人の移民社会についての本を書こうとしているのだが、俗物臭いラチマン氏との組み合わせは何とも馬鹿げて見える。彼らは、車を走らせ海岸に泳ぎに行ったりフルーツパーラーでパフェを一緒に食べたりする。彼らの組み合わせも不思議だが、もっと大胆な仕掛けは彼らの不倫関係に関して母親のラチマン夫人が気付いていない風なのである。鷹揚なのか愚鈍なのか、不倫相手を良い友達と考えている。
こういう書きかたをする『蛍』という小説が非常につまらなく見えてくる。しかし、それは私の早とちりなのだ。彼らが、山の村を訪ねる件とそのディティールを読んでいくと、小説はにわかに息づいてくる。・・・村の長は、ラチマン氏が有力な家族コージャ家の一員だと知ると、鶏をさばいて媚びるように彼らを歓待しようとする。文化人類学者が、その屠殺の場面をフィールド・ワークしようとして気分を悪くするのは予定調和的である。しかし、そのチキンを食べ終わり彼女がそそくさと帰途につこうとすると、ラチマン氏がまだ共食の儀礼は終わっていないのだと彼女を窘める。儀礼化した生活についての煩雑な配慮に引きずられている者と、論理的だが無知で鈍感な学者が見事な対称を描く。つまりあり得ないカップルの虚無的な喜劇が明らかになる。

   何の脈絡もなしに次々に繰り出されてくるエピソード、出来事は-不倫や趣味や家族のイベントや家業や子供の成長等々-懐かしさや愛おししさを通り越して、何かとても虚無的な雰囲気が漂う。そして、それは小説後半の山場に繋がってゆく。選挙の夜、弟のロメシは一族のボス、コージャ氏の家に侵入し乱暴狼藉を働くのだ。その理由は説明されない。しかしロメシはボスの、つまりコージャ氏の世俗の力とルソーの教育論に心酔する姿を憎悪している。ついでに言うとコージャ氏がジャン・ジャック・ルソーを崇拝するのに対して、ロメシの神は、ハリウッド映画なのである。

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シヴァ・ナイポール
1945年 ポートオブスペインに生まれる
1985年 突然の心臓発作で死去
翻訳は『終わらなかった旅』(工藤昭雄訳、晶文社)がある

   アミット・チョウドリーはこの本の前説で、小説のプロタゴニスト(主人公)が最後になって実は母親なのだと分かるのがとても面白いと書いている。そうなのだ、誰もが主人公のようでいて、読み終わってみれば母親以外に主人公はありえない、と思うのだ。母親の存在が立ち現われてくる過程がこの小説をダイナミックに見せている。

   シヴァは、商売が好きで愚かな母を深く愛している、ちょうど兄のヴィディアが、新聞記者だった父を愛していたように。兄ヴィディアは、母が、死んでからも父を憎み続けたと小説に書き、母は、ヴィディアに「白人とだけは一緒になってくれるな」と懇願したが裏切られ、ヴィディアを息子ではないと突きはなした。兄ヴィディアは、敬愛する父の死に際して葬儀に故郷に戻ることはなかった。また、弟シヴァが英国人と結婚するとなると怒り狂い式への出席を拒否した。ヴィディアは、妻パットが死ぬと、3か月でパキスタン人のナディーラと再婚した。

   『蛍』における母親は最後にすべてを失う。母親が苦労して築きあげようとしたものがすべて流出し去ってゆく。家も商売も財産も子供も夢もすべてが消失する。それは死の喩かもしれない。兄のバスカールは、駆け落ちでもするかのようにイギリスに旅立ってゆくが、彼の旅立ちは虚無のうえに据えられており、まるで糸の切れかかった凧のようだ。虚無と漂泊という自由の紙一重の感覚が、シヴァ・ナイポールを際立たせている。それは、アミット・チョウドリーの言う「痛み」の感覚に近いかも知れない。

   (追記。この小説における蛍とは、われわれ日本人には馴染深い「蛍雪」の故事にちなんでいる。一族のボス、コージャ氏は、留学話がうまく運ばない長兄バスカールにジャムの空き瓶に蛍を詰め、苦学し世にでた島の(トリニダット島)偉人の話を聞かせる。ついでに言うと、シヴァは、オックスフォードで中国古典文学を専攻した)。

6.シヴァ・ナイポール『潮干狩り』(1973年刊) Shiva Naipaul, The Chip-chip Gatherers, New York, Viking Penguin Inc. 1983, First published in Great Britain 1973.

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 愛しく温もりのあるものは去っていく
 生きていくために一歩を踏み出さなければならない
 シヴァ・ナイポールは
 安住を拒まれた荒々しい魂の漂白を描く 

  V.S.ナイポールは、ミシシッピ大学から出ている対談集(Conversations with V. S. Naipaul, Edited by Feroza Jussawalla)のなかで、弟のシヴァ・ナイポールについてクソミソに悪く言っている。「どうしようもないない弟で、ヤク中にでもなって野たれ死ぬしかない」と。言葉が辛らつなことで有名なナイポールにしてもちょっと言いすぎではないかと僕は思っていたのだが、パトリック・フレンチの大部な評伝『世界はあるがまま』(Patrick French, The World Is What It Is)を読むと、兄ヴィディアが言っていることは、あながち誇張ではないことが分る。何でもオックスフォード時代のシヴァは、風呂にも入らずつねに異臭を放ち、ドラッグ漬けの問題児としてかなり目立つ存在だった(ついでに言うと、シヴァの専攻は中国の古典研究だった)。

シヴァ・ナイポールにあまり馴染みのない人は、兄ヴィディアとある意味非常に似ているところが気になると思う。オックスフォードへの留学、小説家への道、故郷トリニダットを題材にした小説、第三世界への批判、等々。それについては、『終わらなかった旅』(晶文社)に、自分と兄の関係について語っている短い文章(“兄とわたし”)が収められていて非常に面白い。どこまで本心かは別にして、兄が自分の目標であったことはないし、作家になったのも成り行きとしか言いようがないと書いている。

シヴァ・ナイポールは、兄のV.S.ナイポールと同様に、第三世界の現実を完膚なきまでに批判する。第三世界でシヴァが経験する非効率、怠惰、虚偽、狡猾、無秩序は、旧宗主国の側にだけ責任があるのではない、と表明する(North of South)。しかし、この『潮干狩り』という小説における故郷トリニダットは、同じ第三世界を扱いながらも、故郷に対する作家のアンヴィバレントな感情が横溢しているのだ。
シヴァ・ナイポールは、地理的には同じトリニダットであるとしても、十以上も歳のはなれた兄ヴィディアとは同じトリニダットに育ったとは言えない、と書いている。環境も人々の生活や考え方も違うのだとアクセントを込めて語っているのだ。
シヴァの発言に触れて、兄の書いた『ビスワス氏の家』(A House For Mr. Biswas)とこの『潮干狩り』における故郷のトリニダットがどう違うのか考えなおしてみると、それはそう単純に言えることではないのだけれども、あえて図式化して言えば、兄ナイポールはトリニダットからの脱出について、それ以外にどんな選択もなかったのだとかなり強引に主張しているように見える。トリニダットには、百幾つかの職種しかなく、トリニダットにい続けることはそのいずれかの仕事につき、世界の辺境で世界の動きから見捨てられて生きるしかないのだ、とナイポールは書いている(The Middle Passage)。あるいは、自分の故郷への思いにある曖昧さをあえて振り切ろうとしている。それに対して、シヴァの故郷トリニダットに対する姿勢は、遥かに曖昧なのだ。そしてそのシヴァの故郷に対する整理しきれない気持ちを、極めて率直に表明しているところが僕には好ましく思える。V.S.ナイポールとは違った魅力を僕は感じる。  

シヴァとヴィディア

母校クイーンズ・ロイヤル・カレッジを背景にシヴァとヴィディア
Patrick French The World Is What It Isより  
 
 シヴァ・ナイポールの二冊目の創作になる『潮干狩り』(1973年刊)は、故郷トリニダットの開拓村(settlement)を舞台にした物語だ。多くの文学賞を受賞し注目度の高かった小説だ。
エバート・ラムサランは、幼いときから商才があって(密輸に関わっていた)運送会社を成功させる。いかにも叩き上げの変わり者で横暴だ。息子のウィルバートの眼をとおして小説は進行してゆく。母は不器用で、また慎ましやかな女であるけれども、古雑誌から切りとった雪を頂いた山々の写真(アルプス)を壁にはり喜んでいるような愚かしくもぬくもりのある女だ。父エバートは大の医者嫌いだ。それが母を早すぎる死においやってしまう。
父エバートの友人でありライバルにヴィシヌ・ボーライがいる。幼くして弁護士になるのだと宣言するのだが、今は開拓村で雑貨屋をやっている。妻のムーンが強烈な女で、息子を医者にすべく鬼と化す。息子のジュリアンとウィルバートは、親の関係でつきあう羽目になるが、ジュリアンはウィルバートに読書の楽しみ・効用を話すが、ウィルバートは苛立ち、ジュリアンが大切にしている模型飛行機のコレクションを粉々に壊してしまう。
エバート一家のところに、美人だがワケありのスシーラが、同居している。もともとは遠戚にあたる女となっているのだが、あろうことか私生児の娘を生み、育てていくことになる。
私生児のシータは美しく聡明な娘に成長していく。そして、ジュリアンと恋仲になっていく。ウィルバートは、父の一存で学校を中退させられ、父の運送会社でメカニシャンとして働きだす。学校仲間とは違う人々、大人の世界に入っていく。ジュリアンは、医者となるべく留学生試験の準備が忙しくなるとシータとは疎遠になってゆき、シータは、“トリニダット・クロニクル”の新聞でジュリアンの留学生試験の合格を知るのだ。

この小説の主役ウィルバートは、運送会社の社長の息子という境遇・運命を甘受し、そのなかでクールな判断と周囲への思いやりを示してゆくようになる。ウィルバートは、従順というわけではなく時たま爆発するが、父親との対決、父親を否定しそこからの脱出にエネルギーを注ぐのではないのだ。他方、ジュリアンについていえば、本が好きで留学試験に合格する優等生であり、著者のシヴァに良く似たところがあるのだが、愛しいものへの別離をある種合理的に処理できる分軽薄だ。シヴァ・ナイポールは、自分に似たジュリアンを母親の意にそって動く優等生として描き、自分とは違う世界に生きていくウィルバートを、荒々しくも繊細な魂をもつヒーローに近い者に描いていく。著者シヴァの筆致は、あきらかに自己否定的であり、自傷的で自己分裂を引き起こしている。自分が愛しく思うものはつねに奪われていく、という思い込みをぬぐえないのだ。他者を発見してゆくことはなく、自分がつねに大きく立ちはだかり、経験に曳きずりこまれていくなかでどうにか判断の辻褄を合わせてゆく。後ずさりしながら生きていくことを自分に課しているようだ。
 
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  妻ジェニーと。兄ヴィディアは、二人の結婚に怒り式への出席を拒否する
 シヴァは、ジェニーの献身で作家修業に専心する 
 Patrick French The World Is What It Isより  

   シヴァ・ナイポールが描くトリニダットのインド移民の世界は、ほのぼのとした幸福感からは程遠い。せせこましく、運命づけられた悲しみに溢れ、また喜劇的ともいえる生存競争があり、ある種の過酷さを伝えている。シヴァの曽祖父は、ウッタル・プラデーシュ州の村から年季契約労働者としてトリニダットにやってきた。移民第一世代にとってトリニダットは出稼ぎの場であり、いつかはインドに帰るべきものと信じていた。世代が変わっても、トリニダットが根をはるべき故郷であったかどうかは疑わしい。『潮干狩り』のなかで生きる人々も、仮の世界に生きているような危うさをつねに醸しだしている。しかし、そうは言っても故郷は故郷なのだ。小説の最後の章における潮干狩りの美しい情景は、僕らに何を語っているのだろう。・・・この『潮干狩り』は、馴れ親しんだ故郷から、何度も引き剥がされていく人々についての物語なのだ。


  この小説でどうにも分かりにくいのは、運送会社の社長エバート・ラムサランとワケありの美人スシーラとの関係だ(小説の冒頭部分で縁戚にあると説明されている)。そして、さらにその息子ウィルバートと私生児のシータとの関係が分らない。
スシーラは、娘のシータを置き去りにしてサン・フェルナンドに出て行くのだが、やがてエバートのもとに戻ってくる。それからのスシーラは、エバートの秘書のようでもあるのだが、「毎晩同じ部屋のベッドで寝る」という一行がある。しかし、とくに二人の性的な関係を仄めかす言葉はない。スシーラがシータの父親であるという噂のあるムスリムと付き合いを再開していることを知ると、エバートは逆上しスシーラを家から追い出す。しかし、スシーラが再び戻ってくることを願いながらエバートは病に倒れる。
  息子のウィルバートとシータとの関係も不可解だ。ウィルバートはジュリアンと同級なのだから同じ位の年齢であり、ウィルバートがシータに恋しても一向に不自然ではないのに、シータに惹かれる素振りは見せず、一線をこえることはない。ウィルバートは、父親とスシータとの間にある秘密について何となく気付いているような感じだ。
他方、ウィルバートには、腹違いの兄貴がいる。エバートは、荒れた農場にこのかつての隠し子のシンを追いやっている。小金をねだりに現れたシンに、スシーラが罵詈雑言を浴びせかけ、ひどくつらくあたるシーンがあるが、これも僕には不可解だ。スシーラがシンをそこまで憎まなければならない理由が見つからないのだ。
  思いつきで言えば、スシーラは、エバートの隠し子ではないだろうか。エバートとスシーラの分からなさは近親的な愛を表現しているのではないか、と思う。この秘密めいた関係について、息子のウィルバートもシータも何となく気がついているのではないか。僕には、それが唯一説明可能な筋書きなのだ。

  兄V.S.ナイポールは、小説の理解とは、その小説が描かれている社会についての理解なしにはあり得ない、と繰り返し発言している。そういう難しさをこの小説『潮干狩り』ももっているのだろう。確かに、「世界地図におけるドット(点)にしか過ぎない」(V.S.ナイポール)トリダットの、そのまたインド系移民のなかば閉鎖的な小社会について僕は何の知識も持たない。しかし、僕がこの小説を楽しみながら読めるのは、風景でしかない遥かな外の世界を、とりあえず風景以上の何かを-そこに住む人々の考えや、生活-が見えてくることなのだ。それは、ひょっとすると人間についての普遍性への問いを含んでいるかも知れない。

テーマ : 洋書
ジャンル : 本・雑誌

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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