
著者アイェシャ・ジャラルは、サーダット・ハッサン・マントの親族(マントは著者にとっての伯父)である。そしてアイェシャ・ジャラルは、アメリカの大学で教える現代史家なのだ。この本は、サーダット・ハッサン・マントの伝記ではない。インド・パキスタンの大きな歴史のうねりと、マントのマイクロ・ヒストリーについて書かれた歴史書なのだ。
マントの作品を知らなくとも読める。作品紹介にかなりの頁がさかれている。親族であるためか(著者は幼いことこの伯父さんをマント・アバジャン[父]と呼んでいた)、マントに対する親密な雰囲気が濃密だ。それはマントの猥雑な魅力に立ち入ることを妨げているようにも見える。
ところで、背景にある現代史への注釈は込み入っている。それは、南アジアの人々の、分離独立についての、心の屈折と真実への強い希求があるからだろう。
この本 は、近代のインド・パキスタンにマントという偉大なウルドゥ語作家がいたのだと、主張している。それはまた、欧米の読者へのアピールでもある、ように見える。逆にいうと、この本は、マントのどこまでも怪しく危ない魅力、この世のシステムを根底から疑うようなラディカルな価値転倒の魅力とヒントにはあまり立ち入らない。むしろ、はっきり言えば、そのようなマントの読み方は、間違いだとさえ言っているのだ。
マントとは何なんだろう。カシミールの言葉で、それは約3ポンド(1,362グラム)を意味する。そう、マントの家族はカシミールからやってきた。祖先はサラワット・ブラフマン(ある種の地主カーストか)であり、パシュミナストールを商う商人であった。19世紀の初めパンジャーブに移住、その後一家は法律家を多く輩出してゆく。
サーダット・ハッサン・マントは、1912年5月11日ルディヤーナの郊外で生まれる。母サルダールは後妻だった。彼女は、パターン人の血をひいていた。激しい気性をもつ血だ。先妻の息子たちは、とても優秀で外国に留学し法律家、あるいは技師となる。父親は、マントが医師になることを期待した。
少年のマントが屋上で凧をあげていた。階段を上ってくる父親の足音を聞くと、マントは屋上から飛び降りたのだという。少年マントは、厳格な法律家の父を怖れていたのだ。率直で自由な後のマントを思うと、この父の存在と勉学の強要は、意味深長である。マントはその父親から英語を学ぶ。
少年時代、七歳のマントは、反英運動の象徴的事件であるアムリトサル虐殺事件(1919)を肌身で感じた。マントが青春 期を過ごしたアムリトサルは革命の坩堝のような街だった。ガンディーのアヒンサー(非暴力抵抗主義)による反英運動ではない。暴力的で過激な革命だ。警察高官の殺害、爆弾闘争を行ったバーガット・シングが英雄だった。

アムリトサルのマント
マントは、社会主義ジャーナリスト、アブダル・バリ・アリーと出会う。それがきっかけで、ヴィクトル・ユーゴーの『死刑囚最後の日』をウルドゥ語へ翻訳出版し(英訳からの重訳)、映画評を発表するようになる。
マントは、師アリーとの出会いがなく、ものを書く人生を歩んでいなければ、強盗になって獄につながれているのが関の山、と言った。
大学への入学試験に一度ならず失敗する。その傍ら、ハリウッド映画に心酔し、写真に熱中し、フランス・ロシア・英国の小説を翻訳出版していくのだ。いずれにしても、マントは大学に入る前に、翻訳を出版し小説を商業雑誌に発表していた。マントは、革命志向のヒューマニズムとハリウッド映画の申し子だ。また、マントは入学試験よりも革命の祖国ソヴィエトへの脱出を本気で仲間と語らいもする。
父の死は(1931、マント19歳)は、マントには悲しみよりも解放であったのではないか。ただ、一家を食べさせていかなければならない重圧との引き換えではあったのだが。度を過ごしたアルコール飲酒の兆候もこのあたりから始まる。
アリーガル(アグラからそう遠くない)の大学に学部登録するも、長くは続かなかった。肺炎を発病(および肋膜炎)、姉の工面でカシミールのバトゥートに療養に赴く。マントはそこで村の娘と恋に落ちる(娘といってもシロートではない)。マントは、長くその純朴なカシミールの娘との恋のことを忘れられなかった。後にマントが書くボンベイの娼婦たちの肖像が、みな純朴なしるしを帯びているのは、そのカシミールの娘との恋に起源をもつ、とは言えないか。
ラホールは、マントを退屈にさせた。親しい二人の友人および彼の師アリーもマントをラホールにとどめることができなかった。短い期間でマントはラホールを離れボンベイに赴く(1934、22歳)。都会がマントを興奮させた。ボンベイには、マントが憧れる映画産業があり、文人・知識人が集い、そして愛する姉がいたのだ。姉ナシラ・イクバルは、マントの繊細な感性を理解できた。また、ストーリー・テラーの才もあって、マントの作家としての成功をだれよりも願っていた(自分の才能の開花でもあるように)。マントの作家への道を後押しし支えたのは、姉イクバルと母なのだ。マントの最初の仕事は、映画週刊紙(Musawwir“絵描き”)の記者である。
数年を経て、ボンベイでのマントの生活は落ち着いてゆくように見える。映画週刊紙の記者をしながら、時に映画台本が売れると生活は潤おった。マントは、彼の台本による映画に多くの不満・怒りを露わにしている。だが、実際にそれらの映画を見ていないので、私は何も言えない。大きな空白だ。いくつかの小説で、映画仲間、俳優との交流を読み、活気ある乱調ぶりを想像できるだけ。ただ、この本で知り面白く思えたのは、マントの奢侈品への拘泥(例えば万年筆や高級な靴)と気前の良い散財ぶりだ。マントにおいて貧困は運命だが、吝嗇は悪である。
1939年(27歳)、姉と母の根回しでマントはカシミール系家族の娘・サフィアと結婚する。結婚がきまるまで二人は会っていない。同じ5月11日生まれという不思議な絆で二人は結ばれていた、とマントは語る。この本『分離独立の悲しみ』の著者は、妻サフィアが、マントをまた別の女(性)性の迷宮に連れ込んだと注釈している。サフィアは東アフリカで育った。父は、ザンジバルで検事だった。住民との争いで、白人と間違われ殺害されたのだ。カシミール人には、色が白い者がいる。
マントの書く短編小説に妻サフィアとおぼしき女(性)は登場しない。マントの小説における男たちは、しばしば美人よりも不細工な女(性)への好みをいうけれども、写真でみるサフィアは美しく垢抜けている。マントは、自分の書く小説の猥雑な世界から、美しい愛妻をまるで隔離し隠しているかのようだ。
1940年6月(28歳)に母が死ぬ。母は、マントの作家としての成功を強く願っていた。それは、彼女に風当たりの強い父親の親族に対する意趣返しでもある。母は、マントの作家的成功のとば口で逝ってしまった。
1940年マントは、ラホールを経由し(親友との旧交を暖める)デリーに赴く。オール・インディア・ラジオに職を得たからだ。そこでマントは良質なウルドゥ語ラジオ放送台本を量産する。しかし、ここでも、私はそれらの作品を何も知ることができない。ウルドゥー語でしか読めない。これもまたとても大きな空白だ。ただ、この本にはいくつかの物語が紹介されている。“スリ”Jaib Katraという物語が興味を惹く。……腕はたしかだが善良なスリ(!)が被害者の女(性)=教師に恋をしてしまう。バッグをとられた女(性)教師は、最後スリの男を利用し、自らを守ろうとする。恐喝しようとしているパンディット(ヒンドゥーの学僧)のポケットから手紙を抜き取ろうとさせるのだ。……法などの社会の規範への侵犯を形式的に裁断することを拒み、より高次の道徳律が存在し、それに生きる者をマントは擁護する。社会的に信用される立場の人間(パンディットや教師)に、よりずる賢い本性をマントは嗅ぎつける。マントは打算抜きの真実高潔な人間性を、スリや娼婦のなかに顕現する瞬間を追い求める。虚しい夢に思えてならない。しかし、それでもマントは奇跡を信じている。マントの小説は、その奇跡を語るのだ。
ところで、ここでもうひとつマントについての特長に注意を向けたい。それはマントが孤独な作家ではない、ということだ。アムリトサル時代からの友人との交流は続いていく。それも半端ではない。たとえば、アムリトサル時代の親友アブ・サイードゥを数か月も自分のフラットに居候させるのだ。また、ボンベイでもデリーでも、マントはウルドゥーの大物作家(例えば、クリシャン チャンデルKrishan Chander)や大物俳優(例えばアショーク・クマール)にも、臆することなく交遊しているようなのだ。マントは、そういう人々、友人の交流の間をぬって小説を書いた。
人々との交流が、また、マントの場合ダイナミックである。ワサビ(香辛料というべきか)がきいている。“進歩主義作家”A Progressiveという小説で分かるように、マントは偽善的な進歩主義作家を思い切り悪しざまに描いて反撥・怒りをかった。むしろマントはある種の対立・敵対関係を歓迎しているようなのだ。「友敵」Frenemiesという造語がマントは気に入っていた。抹殺してはならないが、対立しながらも敵を尊重する関係をマントは重要だと考えた。
1941年4月(28歳)、長男アーリフが肺炎で死ぬ。デリー、野菜市場近くの墓地に葬る。傷心のマントを、インド植民地刑事法に基づく「猥褻」の嫌疑が追い打ちをかける。不起訴となるがマントへのダメージは大きかった。マントは、自分がポルノ作家であるとは夢にも思わなかったのだ。
1942年8月(30歳)、マントはボンベイに戻る。AIR (オール・インディア・ラジオ)の仕事は、マントをスターにしたが、マントはクリケットのスター選手のような扱いに強い違和感をもった。ボンベイでは、ふたたび映画週刊紙(Musawwir“絵描き”)の編集に携わりながら映画台本を書いた。生活のため映画台本を書き、文学のため小説を書く、という割り切りがマントにはできた。
1948年初頭(35歳)のカラチへの脱出までの経緯は、そのまま分離独立の惨劇への助走のようである。その頃マントは、ボンベイの街を歩くとき、ムスリムのかぶる帽子とヒンドゥー教徒の帽子とをポケットに忍ばせ、ムスリム居住地区ではムスリムの帽子を、反対にヒンドゥー教徒居住区ではヒンドゥーの帽子をかぶって無用なトラブルを避けたのだという。宗教とは、帽子のようなもの、とマントは考えた。宗教が形式化している、と。また、マントは宗教における偽善を攻撃した。だが、ムスリムという宗教的括りからマントは自由であったわけではない。

左が妻のサフィア、隣がマントが可愛がった妻の妹ザキア
ボンベイの街が、ムスリム・ヒンドゥーの緊張・対立を先鋭化してゆく。大俳優のアショーク・クマールとボンベイの街をドライブしていると、いつしか道がブロックされていて、身の危険を感じるようなこともあった。 そのような雰囲気のなか、爽やかエピソードが紹介されている。マントは親しい女流作家イスマト・チュグタイIsmat Chughtaiのフラットから外をぼんやりと眺めていると、春の祭り、ホーリー祭のざわめき・喧噪が耳に入ってくるのだ。フィルム・スタン映画会社の労働者、見知ったプロデューサー、女優やらが、色水やパーティで使う死者の装いをもって大騒ぎしている。その種の騒ぎにブツブツ言っていた女流作家も、またマントの妻サフィアも祭りの熱気に徐々に感染してゆく。二人は、彼らに合流してゆくのだ。一向は、ゴーデゥバンダル通りをとおって、青・黄色・赤・緑・黒の染粉を通行人に撒き散らしながら、今や女流作家が先導役となって、有名俳優ナーシーム・バノの家につく。彼女はおめかししていた。誰かが「着替えてきて」と言うにもかかわらず、その姿のままで染粉サイケデリックな色水をあびるのだ。女優は魔女になったのだ。……赤い水をかけあう春の祭り。赤が象徴するのは、血液であり犠牲だ。歴史家アイェシャ・ジャラルは、その祭りの光景を何かとても心温まる光景として描いている。しかし、それは1947年の分離独立の惨劇の予兆でもあるかのようだ。祭の犠牲と分離独立における流血は、勿論ちがう。しかしある種の共通項が暗示されている。つまり祝福されるべき独立が、どこかで祭ではなくなり現実の惨劇へとスイッチを入れ間違えたのだ、と。

シークの国からのムスリム達の移住
イスラム・ヒンドゥー間の争いで40万人の生命が奪われた
1948年1月7日もしくは8日、カラチを経由してラホールに着く。ラクシュミーマンションズ31にどうにか
落ち着く。それから1955年1月18日のマントの死にいたるまでの短い歳月を彩るのは、アルコール飲酒、その治療のための入退院、二度の裁判、進歩主義作家同盟による締め付け、等々であろうか。未成熟なラホールの映画産業は、マントに仕事を作れなかった。それは予想どおりであった。それよりも、進歩主義作家同盟による文学雑誌からの追放が、マントから小説を発表する場所を奪ったのだ。
マントのアルコール飲酒は、ある種緩慢な自死のように思える。進歩主義作家や新生のパキスタン政府への妥協・歩み寄りは、マントがその気になればそれほど困難ではなかったはずだ。だが、マントは、そうしなかった。マントは、ぺてんやいんちき、偽善から本能的に身を躱す。マントは政治的なもの(力と利害を計算する)から遠ざかる文学だ。マントは、ガンディーが映画を見ないように、自分は政治に興味がない、と言ったという。マントが飲酒したローカル・ウィスキーは恐ろしいしろもので、飲んで酔えば地獄を彷徨うようなもの、さらにそれは毒薬なのだと著者は言う。猥褻なものの価値を認めない進歩主義作家とも、パキスタン政府ともマントは妥協できないとすると、マントに残された道はわずかだったのだ。
パキスタンにおけるマントの生活は痛ましい。しかし、マントは、その時期にいくつもの優れた短編小説を書き(分離独立、ボンベイの俳優達、カシミール紛争などについての小説が思い浮かぶ)相当な量のエッセイを書いた(こちらはごく一部しか英語で読めない)。マントは生き急ぐように書いては飲み、飲んでは書いたのだ。
『アメリカのおじさんへの手紙』(英訳、パキスタンで出版されているようだLetters to Uncle Sam, translated by Khalid Hasan, Islamabad 2001)というマントの創作は、パキスタンにおけるマントの痛ましさを良く表しているように思える。
『アメリカのおじさんへの手紙』は、著者が紹介しているところから想像してみると、ひどく屈折した悪い冗談、破滅的なモノローグようだ。思いだすままに書いてみる。英国はタジマハールをアメリカに売却しようしているという街の噂、途方もない原稿領でアメリカが発行するウルドゥ語雑誌に何かを書けというアメリカ政府工作員、アメリカがパキスタンの共産化を怖れているのであればハリウッドの女優とダンサーをパキスタンに送ってくれればいい、「僕らは」アメリカ文化が大好きなのだから、と。あるいは、「僕らは」弔いの経帷子も買えないほど貧しく、衣類もままならない、ゆえにヌーディスト・クラブを始めようと思うが、問題は何で食べてゆくかなのだ、と。あるいは、小さな原爆を送ってくれればカシミールで戦争をする、そうすればアメリカの景気は良くなり、パキスタンもインドもなくなって世界は平和になる、と。
マントは自らの墓碑銘を、死の数か月前に書いた。その一節には「彼は、輝く太陽を嫌い、暗い迷宮を好む。また、彼は何物でもなくとも、ただ慎みという美徳を疑い、裸形とその無恥の感覚に酔う」、あるいは「彼は、清流に赴かず、ぬかるみを裸足で歩く」とある。この墓碑銘は、彼の墓に刻まれなかった。
<補足>
この本を読んでいると、マントへの理解・人気の世界的な広がりのなかで、日本語の翻訳もあるように書いてある。今まで、本屋や古書店の棚で見たことがなかったので翻訳はないと思いこんでいたのだ。
今回調べなおしてみると東京外国語大学の紀要に、かなりの量のウルドゥー語からの翻訳があるのが分かった。今、それがネット上で公開されていて読めるのだ(東京外国語大学学術成果コレクション>現代インド研究センター>ウルドゥー文学)。私が数えあげたところ、26篇のマントの短篇小説が読める。数編未読の短篇も含まれているようなので、改めて通読して感想・批評を書いてみたい。
筑摩書房から出ている『悪の物語』にもマントの“殉教者製造人”が収められているようだ。また、こちらは非売品だが大同生命国際文化基金から出ている『インテザール・フサイン短篇集』に、“グルムク・スィングの遺言”と“黒いシャルワール”が収められている。
マントの短篇小説は、ある種の幸福感を語っている。フェティッシュで儚い幸福だ。どんな惨めで苛酷な時にもひとかけらの幸福が、ぽっと燃え上がる。そして、この短い幸福の感覚は、死の恐怖と誘惑を遠ざける。ボンベイの、映画産業が起ころうとした時の、マントが愛する娼婦たちは、死の誘惑からもっと遠い存在であった。だが、ささやかな快楽を愛しむマントは、同時に、インド・パキスタンの分離独立の惨劇(1947)を深く感じ考え書いた作家でもある。
『夜明け』は、分離独立の惨劇にかかわる短篇小説・短文を集めた本である。この本で初めて読む作品はそう多 くはない。それでも分離独立モノをあらためて読んでみると、またべつの分離独立の諸相が、またべつのマントの姿が明らかになってきた。
暴動は、セミプロの煽動家によって引き起こされ広がってゆく、と私は考えていた。ところがマントのこの短篇集における暴動は、セミプロの煽動家も登場するが(“協業” Cooperationにおける暴徒のリーダーは、略奪品は皆で平等に山分けしなければならない、と説教を垂れる、略奪は富の再分配でもあるかのようにアジる)、むしろ平凡で普通の市民がライオッター(暴徒)と化してゆく。マントは、コミューナルな紛争を人間におけるもっとも愚かなこととして非難するだけでは終わらない。マントは通俗的な倫理をさらりと躱し、より真実に近い現実の諸相に近づいてゆく。残酷な出来事の担い手である人間をじっと見つめる。
もっともあり得そうな暴徒の心理は、復讐ということかも知れない。“にがい収穫”Bitter Harvestは、妻と娘が凌辱され惨殺されたムスリムの男が、路上で三人のシークを殺し、押し入った家で逃げ遅れたヒンドゥーの娘を凌辱し殺す話だ。この復讐劇は単純だが、マントがやはり天性の作家であると思えるのは、凌辱と人殺しという惨劇よりも、それを行う人間を、狂気や復讐の心理に還元せず、ある種きわめて人間的な行為(善性と悪との統合体)として見ているところだろう。「なんと酷いことを」と目をそむけるのではない、このようにごく普通の人間がひどく酷いことをする、と。
“レインコートの女”The Woman in Raincoatでは、学校時代の友達が、自分の店がヒンドゥーの暴徒に略奪・放火されると、ムスリムの暴徒の仲間にはいり略奪・放火を行うライオッターになってゆく。当時としては、それはごく自然のなりゆきだった、とマントは言う。その友人は略奪品を前に、それをぼんやりと眺めながら、別段ものや金が欲しいのではない、と独白する。友人の心の内側にある破壊の衝動と虚無感をマントはむしろとりあげる。
“ある任務”The Assignmentでは、マントは、暴徒をより両義的に描く。善良な人間が暴徒にもなり得る、と。……アムリトサルでは、暴動が続いていた。夜、判事の家の戸を叩く若者がいた。判事の娘は、シークの若者を暴徒かも知れないと怖れ、戸を開けようとしない。病気で臥せっている判事は何でもないから戸を開けなさい、と諭す。その若者は、父の使いとして(遺言でもある)、恩義のある判事に季節の贈物を届けに来たのだった。判事の家族は、引き続く暴動による疑心暗鬼を反省する。しかし、シークの若者を通りの角で待っていた仲間は、こん棒と灯油をもった暴徒のグループなのだった。贈物を届けてきた男に「仕事はすんだか」と別の男が聞く。暴動という暴力は、悪い人間の仕業であるよりも、善い行いもする人間によって担われていたのだ、とマントは言いたいのだろう。
今回『夜明け』を通読して気になってきたことは、街や列車駅における暴力・殺人・ジェノサイドが、別の内密な暴力を誘発してゆく、かも知れないことだ。“氷ほど冷たい”Colder than Iceでは、略奪で毎晩帰りの遅い主人を「どこの女のところにいたのだ」と妻(情婦)は責め立て、最後には切り殺す。また、“信仰者の言ったこと”A Believer’s Versionでは、ある女(性)は、まず夫をワイヤーロープで扼殺し(小さな木製の持ち手がついている)、その傍らで別の男とセックスし(男は暗がりで気付かない)、さらにその男を殺そうとする。最後は悪い冗談で終わる。つまり、バラバラにした死骸をトランクにつめモスクに遺棄するのだが、暴徒がそのモスクを放火し証拠も灰とる。……人々が、暴力に馴れてしまったのだという説明は充分ではない。そうではなく、大量の暴力の噴出が、暴力に対する禁忌を解き、暴力の快楽を目覚めさせてしまった、と私は考え始める。
マントの暴動の物語は、実は、暴徒や暴動そのものよりも、その出来事によって、大きく人生が湾曲していった人々の物語が豊かである。直接、暴動の暴力に遭遇し傷ついた者(死んだ者は何も語れない)ではなく、例えば“慇懃な娘”The Dutiful Daughterでは、母は行方不明の娘を探し続ける。「美しい女は殺されない」という言葉を呪文のように呟きながら、母親は狂人となってあちらの街、こちらの村をさすらう。新しい生活を始めていた娘は母親に会うと、狂気の母親を厄介払いするのだ。“デリーから来た娘”A Girl from Delhiでは、人気のダンサー(娼婦)が、暴動の危険を感じてというよりもこれを機会に新しい人生―ダンサーをやめる―を始めたいと願う。貧しくとも額に汗して働くような家族を夢見る。その願いはとても切ない。
大きな厄災をもたらした分離独立は、歴史の大きなうねりとなって人々の生活を変えたのだ。その変化は、必ずしもネガティヴな変化だけではなかった。うまく言えないが、分離独立の混乱・紛争は、多くの人々の生命を奪い生活を破壊した、しかしそこから新しい生活を開始した人々も少なからず存在したのだ。大勢である99%の厄災を俯瞰するのではなく、1%の例外に固執するようなところがマントにはある。1%の例外を大切に持ち続ける、それがマントの思想・スタイル・声である。
ところで、この短篇小説集では、分離独立とは一見関係ないが、その時代の雰囲気、空気の香りを伝える作品も読めて楽しい。大成する前の映画俳優が、ムスリム連合のジンナーのお抱え運転手になった物語“ジンナー氏”Jinnah Sahibは面白い。ジンナーの人となりを伝えるこの短篇はとても明るい。独立に向けた希望の雰囲気を感じとれる(後の分離独立の災厄を思うと複雑だが……)。聖人ガンジーについての神話を再生産する読物はあまりに多い。しかし、ジンナーについてはほとんど何も知らない。この短篇には、ジンナーについてのリアルな具体性がある。
“みっつばかりの主張”Three Simple Statementsは、これもまたきわめてマント的な作品である。すこぶる下品であるけれども、同時に「マントを読める幸福」を思わずにいられない。ボンベイにある会議派事務所とジンナー会堂の近くに、汚わいと生ごみによるさまじい悪臭を放つ公衆トイレがあって、そのトイレの壁の落書きについて書いているのだ。最初にそのトイレを使用したときには「ムスリムを叩き殺せ」という落書きがあり、二度目のときには「ヒンドゥーを叩き殺せ」とあった。独立後、会議派事務所もジンナー会堂もとりこわされたが最悪のトイレは存続する。著者が用をたすためではなく何となく気になってそのトイレに立ち寄ると、前の二つのスローガンが消されたあとに「ムスリムもヒンドゥーもない、この母なるインドを叩き殺せ」とあったのだ。苦い認識なのだ。私自身の経験からいっても、トイレの落書きというのは妙なリアリティがあると思っていた。そういう汚わいにみちた真実を、良識や世間体を気にせずマントは着目するのだ。会議派とムスリム連合の対立軸と、それらと等距離にある公衆トイレとい意味論を説明しだすとつまらなくなる。悪臭ふんぷんたるボンベイの公衆トイレというリアリティ、その不潔な壁にはその当時のスローガンが書きなぐってあって、その近くには、会議派とムスリム連合の拠点があったのだ、という風景を堪能したい。
訳者のカーリド・ハサンKhalid Hasanは、重要な指摘を行っている。訳者は、インド・パキスタンの分離独立にともなう紛争は、ナチス・ドイツによるジェノサイド以上に深刻な問題をもっていると言う。つまり、ヒットラーという独裁者に領導された国家が、ユダヤ人・ジプシー・ポーランド人あるいは組合指導者を、強制収容所において人格破壊のうえ集団的に殺戮したのとは違うのだ。国民が、そこにいる人々が殺しあったのだ。殺したのは、独裁者ではなくわれわれなのだ、と。ナチスの狂気が行ったこと、日本の軍部の暴走がなしたこと、ブッシュ政権の行ったこと、という言い逃れができない。殺したのは、あなたなのかも知れないし、確かなことは殺されたのはあなたの隣人なのだ。

マント Saadat Hassan Manto
1912年5月ルディヤーナに生まれる
1955年1月ラホールに死す 享年42歳
マントの分離独立をとりあげた短編は、分離独立という現実の諸相に迫る。一面的ではないのである。そこに他者の悲惨を読む意味がある。通り一遍の倫理・正義と無縁なのがいい。しかし、マントの短篇小説に希望はあるのか。人間がどうにも割り切れない存在であるように、暴動にもいくつもの諸相がある、このことをマントは十二分に描く。だが、希望はないのか。
“みんなが彼をトバ・テク・シンと呼ぶ”Toba Tek Singhという短篇が希望について語っているのかどうか分からない。しかし、虐殺を回避するヒント、あるいは意志を読むことができるような気がする。……舞台は、ラホールの精神を病んだ者の療養所である。独立から数年が過ぎた。ヒンドゥーやシークの住民の多くは、パキスタンから去っていった。だが、このラホールの療養所には、少なからぬヒンドゥーやシークの人々がいまだいる。捕虜の交換ではないが、パキスタン・インド両政府による協議により、ラホールの療養所にいるヒンドゥー、シークをインドへ移送することになったのだ。
狂人たちの療養所というシルシを帯びた空間におけるドタバタ劇(非論理的な真実の出現)が繰り広げられる。ある者はインドなどには行きたくないと木に登り、またある者は、裸になって走りまわる。しかし、移送の時はやってきたのだ。バスに詰め込まれパキスタン・インドの国境まで運ばれる。そこで国籍の変更登記が行われる。そしてトバ・テク・シンがまさに国境を越えようとするとき、二つの国に挟まれた僅かな土地にしがみつき離れない。トバ・テク・シンはパキスタンもインドも拒むのだ。
分離独立は、ムスリム連合の裏切りにより主導されたという通説は、今は見直さている。ネルーの側がむしろ離独立を望んだようなのだ(辛島昇編『南アジア史』2004年刊の421頁を見よ)。できうれば分離独立の惨劇は避けたかった、とナイーブに思う。マハトマ・ガンジーの抗議、平穏化への祈り、そして断食は虚しかった。幾世代にもわたって外国人勢力の支配をゆるしてきたインドの歴史をどう見ればよいのか。いいや、それが世界の、とりわけアジアの常態かも知れないのだ。魅惑のインドは、つぎつぎに難題をつきつけてくる。
<補足>
先に紹介したBombay Stories (Random House India 2012), Maanto: Selected Stories (Random House India 2008), My Name is Rada (Penguin Books India 2015)にはなく、この短篇集『夜明け』でしか読めないマントの作品は次の通り。
The Dog of Titwal, The Woman in the Red Raincoat, The Dutiful Daughter, Three Simple Statements, Jinnah Sahib, Bitter Harvest, The New Constitutionおよび32篇のスケッチ―数行から1~2頁の文章―をこの本で新たに読むことができる。

1.マントにおけるフェティッシュなるもの
この世における幸福は、「フェティッシュなものと密接にかかわる」ことがマントの基本的な感覚なのだろう。フェティッシュは、個における欲望と個における王国の表象(宇宙の中心に自分がある)を形づくる。この表象とともに、充実した過不足のない時間をしばし人は生きる。フェティッシュなるものとの幸福の時間は、ムラの掟からも生存競争からも遠く、うつろな存在を実のある存在へと変換する。
この短篇集において、マントのフェティッシュなるものは、また一層の広がりを見せる。“空っぽの瓶、空っぽの缶”Empty Bottles, Empty Cansは、すべての独身男は、空き瓶と、空き缶を集めるのだという作家の見立て・偏見についての物語なのだ。独身の、ちょっと風変わりな映画俳優、ラム・サロウプも例外ではない。シヴァージ・パーク(ボンベイ)の俳優のフラットには、空き瓶と空き缶専用のスペースがある。そのような俳優がさえない女優と結婚する。それは作家にとってとても意外な成行きなのだが、結婚の祝いに彼のところを訪ねた作家は、花嫁をみた瞬間、花嫁が「まるで空き瓶のようだ」と納得する。・・・空き瓶という形象は何とも明るく空虚である。明瞭に無価値である。何かが充填される可能性もあるが、そう言うよりも抜け殻だ。廃墟に魅了される魂があるように、からっぽに心が癒される。
2.異常でなく、フツーの声にも欲望する
マントのフェティッシュの対象は、何か特別に異形なもののみを扱うのではない。ごく普通のありふれたものも多い。マントは、フェティッシュなるものを概念化、もしくは形式化することなく、何か心地よいものの在りかを求めている。“王国の終わり”Kingdom’s Endという作品で主役のマンモハンは、謎の電話の声に恋をする。留守を預かる事務所にかかってくる女(性)の声を聞くことがひたすら心地良い、というのだ(ただ、声以外のものは切り捨てられる)。男にとって、このような空間(誰もいないオフィス)と正体のない美しく心地良い声が、王国となる。マントの夢想する幸福感が湧出する。
3.平凡なものについても書くマント
マントはフェティッシュなるものについて書く作家、こだわりのなかに人間の十全な存在の感覚を確かめようとする作家である。しかし、他方で、マントはひどく平凡なるものについても書いている。マントは、つねに例外を追求していっているわけではない、ようだ。マントは、むしろ率直で自然なのだ。人間の一生という時間が、例外的なことだけで構成されるわけがない。マントは、退屈で稔り少ない時間についても書く。
“金の指輪”The Gold Ringにおいて、妻は夫にしつこく髪を切りに行けと言う。ただ、金の指輪は話のオチだ。
“凍結”Frozenでは、毎晩帰りの遅い夫に、相手の娼妓の名前を明かせと、ながながと苛む妻。妻は夫を罰する。
“かぶ”Turnipでは、馬とトンガ(荷馬車)を売ったこと、そして夫の鼾を妻は非難し続ける。夫は、とにかく腹が減ったので昼飯を食わせろと言う。
マントの書く平凡なるものは、負のエネルギーを貯えてゆく。その負のエネルギーは物語の「落ち」を準備する。またある場合、負のエネルギーは破壊・暴力にも繋がる。“凍結”は、平凡な、ありふれた負のエネルギーが生命を奪うにいたる物語である。
4.マントの個へのこだわり
マントの個人であることへの執着は際立っている。だから、戦争や宗教対立のような問題は、その個人を消してしまうことに集中する。・・・・・・極論すると、死が問題なのではなく―生命の途絶ではなく―個人が消されてゆくことが問題なのだ。
マントがカラチに遁れる体験に材をとって短編“サーハエ”Sahaeでは、一人の親友との別れを語る。親友を見送る私にとって、港でごった返す群衆=難民は、それぞれの事情を抱えてここに集まってきているにも関わらず、ひとつの風景でしかない、と思う。
“別れの言葉”The Last Saluteという短篇では、幼なじみがカシミールで敵味方に分かれて戦う。顔見知りとの戦闘に、凄惨な絵が思い浮かぶ。しかしマントはそこに有無を言わさず個としての人間を持ち込む。戦争も個という顔をもって戦われるのであれば、人間的な何かを表現しうる、とでもいうかのように。マントは戦場における逆ユートピアを描く。
マントが描く個人は、個人を飲み込んでゆく大きなうねり、社会的な、あるいは歴史的なマクロに徹底的に齟齬する人間である。
5.マントにおける「らしくない」ものの勝利
この短篇集は、「らいし」ものと「らしくない」ものとの転倒のメタファーについて、豊かである。
マントの場合、「らしい」ものがむしろペテンに近く、「らしくない」ものの方が、本物である。
“シャルダ”Shardaにおけるポン引きは、正真正銘の正直者である。マントとの友情を裏切らない。むしろマントの方が子狡く立ち回る。いずれにしても、マントの小説では、真の友情は、ポン引きや娼婦の間に成り立つ。
“1919年の物語”The Tale of The Year 1919におけるデモ隊のリーダは、娼家の息子であり、姉妹は人気の娼妓なのだ。ハンサムな息子は圧政の弾丸に倒れる。
“五度目の裁判”The Fifth Trialにおけるカラチの判事は、職務遂行よりもマントの文学を評価する。これは、マントの願望というよりは、実際に起きたことで、判事の回想文が、この作品集に収録されている。
逆に“進歩主義作家”A Progressiveにおけるプログレッシヴ文学運動の有名作家は、たかりの常習者である。マントは、その有名作家をあしざまに描く。
“神-人間”God-Manにおけるイスラムの導師は、信心深い男の一人娘を騙し、誘惑する。
「らしくない」は、ある種の不調和に生きることだ。人間の美質は、マントにおいては、調和のなかにではなく、不調和になかにより鋭く顕れる。「らしくない」は、文学の、表現行為の、調和や定型化への抑制に対する反撃である。
6.特長づけるマント
マントの物語は、ある典型を生きてゆく。生を特長づけるものを、読者はマントの物語のなかに読み楽しむ。それらの特長を、この世の生の、何らかの意味に野合させてはならないと思う。
“黒のサルワール”The Black Shalwarという作品は、行きずりの二人の物語だ。ラワルピンディのトラックの運転手は、逃げた女(性)を追ってゆくなかで、サルタナという別の女(性)に出会い、一緒に暮らすようになる。女(性)は、娼館の売れっ子になるのだが、新天地デリーにゆき娼館を立ち上げると、まるで客が寄り付かない。何週間も、何か月も客が寄り付かず、宝石やらを売って食いつないでゆく。そのような時、サルナタは新年の晴れ着がどうしても欲しいと思い悩む。この拘りは愛おしい、と思う。結末は、ある偶然が別の偶然を呼び黒いサルワールを手にする。小さな奇跡のようだ。この小説において、二人は何ら人生の真実と係りあわない。目的のない生に徹底している。つまり二人の生を特長付けているだけなのだ。風景のようであり、風の香りのように儚い。客のこないサルナタが、通りの賑わいをただ茫然と眺めている。それは、二人の生の途方もない空虚を表しているようだ。何か成功めいたもの、または破滅するしかないその時間から、二人は逃走し続ける。
7.なによりも率直であるマント
マントの短編小説は流れてゆく。雲のように気まぐれに動いてゆく。
“シャルダ”Shardaという短篇小説は、妹の娼婦は若くて初々しいのだがつまらなく、姉の方にのめり込んでゆく。だが姉の方にもやがて飽きてしまう。姉の娼婦は、語り手を―マントに近い―本気で愛し始める。シャルダ(姉の娼婦)は、切々たる手紙を語り手ナジールに送る。
娼婦との純愛でまず驚かされ、またその純愛が面倒になるところでまた驚かされる。
ナジールは、己の感情の動きにとても素直なのだ。それはマントの一種傑出した能力のように見える。社会的な通念や偏見を相手に、無理して自由に振舞っているのではない。通念や偏見を知らないわけでもない。しかし、現にあるもの、現に起きていることをマントは、偏見をもたずにまっすぐに見、感じることができる。
8.抽象的観念の悪
“殉教作り”Martyr-Makerは、マントにおける個への愛着、観念的な図式への嫌悪を、明瞭に言い切っている作品だ。この短編は、似非科学のような抽象的な公式で人間を見てゆくときのあほらしいほどの悲喜劇を嘲笑するように書いている。
不思議に金儲けがうまく、またハード・ワークを信条とするカティアワールが、「世のため、人のため」になることを始める。独立の混乱のなかで発生した大量の難民に、物質的・金銭的な援助を行う。しかし、その慈善行為は、大量の人間を怠け者にするだけだと悟る。つぎに、慈善家は、この世の苦しみは病気なのだという思いに捕われ、病院を建設・運営してゆく。しかし、医療は人々を延命させ、結果、人口過剰という事態をまねくだけなのだ、と考えるようになる。これもどこかで聞いた台詞だ。人口過剰を支える、作物を稔らせる土地も雨を降らす空も有限なのだ、と。信仰こそが人々を救済する、というような発想からモスクづくり精をだすが、それは宗教上の分派対立を引き起こすだけだと考えるようになる。絶望に打ちひしがれたにカティアワールは、メッカへの巡礼を考える。ちょうどそのような時、メッカで事故がおきる。神殿に向かう巡礼者の群れがなぎ倒しになり、三十名もの巡礼者が死亡したのだ。カティアワールは、この事故を新聞が殉教と呼んでいることを発見し小躍りする。無価値でありふれた生が殉教によって崇高なものになるからだ。カティアワールは、事故による殉教の舞台(大量死の場面を仕組む)を用意する計画に今生きがいを感じているのだ。
マントは、生の具体性を捨象した抽象的な観念が嫌いなのだ。マントの物語は、フェティッシュなるもの、あるいは生の具体性についてのオマージュであるからだ。そして「殉教作り」は、抽象の威力に引きずられてすぐに具体性を一般化して考える性癖を笑う。
9.マントにおける惨殺とその肉片化
マントは、分離独立の惨劇=虐殺に毅然と抗議する。その根拠は、個としての、フェティッシュな志向をもつ人間の否定に対する、嘔吐するほどの嫌悪なのであろう。しかし、マントの感覚・関心は無限に開かれている。驚くべきことに、マントは惨殺された人間の、切り刻まれた肉片を想像しようとする。切り刻まれた肉片とは何なのだろうか。あるいはそれらの肉片とそのもとの人間とはどのような関係があるのだろうか。
“葦の小屋”Behind the Reed Stalksでは、妻は、夫の愛する善良な娼婦の親子を殺し切り刻み、夫にその肉片を料理し、食してみろと迫る。
“恐ろしい女”(未詳)Recite the Kalimaは、夫を扼殺し愛人に夫をバラバラに解体させる。そして次には愛人を殺そうとする。この短編では、殺した肉体は、必ず切り刻まれねばならない。
“ギルギッド野郎”Gilgit Khanでは、大好きな足萎えの犬タンタンを、愛しているがゆえに、列車で轢き殺そうとする。肉片と化すためにだ。
一体として人間の体を分割する、とはどういうことだろうか。人格・魂の終了と物質化の過程、というようなことを考えてみる。よく分からない。ただ、マントの物語には猟奇趣味というレッテルを超えて、その根底にあるひからびた生の死とその再生の劇を想像させるものがある。
マントが、描く肉片のイメージ、あるいは問題提議は、私をある連想に導いてゆく(アノルドならシロートは何でも関係づけるので困る、と言うところだろう)。それは、宗教学者ミルチャ・エリアーデが『聖なる空間と時間/エリアーデ著作集3』(久米博訳、せりか書房)で紹介している人身御供についての報告との類似点だ。
エリアーデは、十九世紀の半ばまで行われていたベンガルにおけるドラヴィダ系一種族の人身供犠について紹介している。エリアーデが重要視するのは、切り刻まれた犠牲の肉片が共同体の全員に分配され、儀式をもってその肉片が畑に埋め込まれることなのだ。エリアーデは、供犠の目的を農耕と収穫、あるいは世界についての再生のための儀礼と見ている。エリアーデの解釈は、マントの殺人と肉片化の物語についての理解を深めてくれる気がする。つまり、生命を断つこと(ある場合には殺人だ)とその肉片化が、腐敗し生命力を失った現在の停止と、その豊饒なる生の再出発のための儀式である、と直覚されるのだ。

マント Saadat Hasan Manto
1912~1955
ルディヤーナに生まれ、1948年パキスタンに移住
ラホールで死す 享年42歳
ウルドゥー語作家
ヴィクトル・ユーゴーのウルドゥー語への翻訳が
文学的出発点であった
2012年 パキスタン政府よりNishan-e-Imtias
(国民栄誉賞!?)を授与される
10.マントにおける「人情の味」
インドの現代小説のある種の面白さは、「人情の味」がしないことだ。良い人が情けをかけ不幸な人を救う、という神話に容易に組しない。しかし、マントには-それを「人情」と言って良いかは別にして-弱いもの、哀れな者、苦しむ者への慈しみに溢れている。それはとてもストレートだ。また、その慈しみはマントの弱さに由来するのか。違う気がする。では、マントは充分に強いのか。それも違う気がする。そうではなくて、そこに助けが必要なものがいれば手をさしのべる、ただそれだけなのだ。マントの行動は、あらゆることに開かれていて自然だ。マントを読む楽しさは、その率直さ、自然さ、自由の感覚であり、それは誰もが羨むことだと思える。「ギルギッド野郎」Gilgit Khan では、醜い男が足萎えの犬をペットとして溺愛する。醜さと足萎えのあいだの類まれな濃密な愛情をマントはじっと見つめる。・・・・・・ストレートな人情がいい、人情が人助けにならないのがいい、破滅する人情がいい。
三冊目のマントを私は電子書籍で読んだ。一覧性および頁への書き込みに難があるのだけれども、持ち運びの便、価格と英語辞書の機能がやはりあり難い。過日、二年ぶりにインドを旅した。バンガロール空港のブック・ショップの棚を見ていたら、この本『ほんとの名前はラダ』が陳列してあって驚いた。まず、その大部の本のピンク色の非常に美しい装丁に心打たれ、また、インド・ビジネスの首都、バンガロールの空港のブック・ショップの狭いスペースにマントの本があることに少なからず戸惑ったのだ。そして、この紙の本を買わなければ、と思った。
<補足>
この作品集『ほんとの名前はラダ:マント精選短篇小説集』、 My Name Is Radha: The Essential Mantoには、50篇近い短編・エッセイがおさめられている。この作品集が、先に紹介したManto: Selected StoriesやBombay Storiesを分量の上で圧倒している。ただ、重複もあるのでその点について触れておきたい。
My Name is Radha: Selected Storiesに所収
Janaki: Bombay Stories に所収
Mozel: Bombay Stories に所収
Ram Khilawan: Selected Storiesに所収
Babu Gopinath: Bombay Stories に所収
Kushia:Bombay Stories、Selected Storiesに所収
For Freedom’s Sake: Selected Storiesに所収
Barren: Bombay Stories に所収
Smell: Bombay Stories、 Selected Storiesに所収

マントは今、再発見の興奮の只中にある。あいつぐ英訳の出版、本格的な伝記の刊行、あるいは、小説における登場など(ルーパ・バジワの『お話を聞かせて』Rupa Bajwa, Tell Me a Story, 2013を見よ)を思うと、まさに今という時代が、サーダット・ハッサン・マントを求めている。
公明正大なものへの不信と確かなフェティッシュのあり様について、この短篇集においてもマントは健在である。“本当の名前はラダ”では、ハンサムで見事な肉体をもつ若い俳優を作家は嫌悪する。見事な肉体と絵に描いたような善良さを、ペテンの人生であると裁断する。ヴァラナーシの娼妓の娘ニーラムは、奔放な欲望を俳優の見事な肉体への接触の衝動へと炸裂させてゆくのだ。
マントにおけるフェティッシュなるものは、人工的な支配から免れる人間の自然性、欲望の隠れ家、あるいは欲望の代理物、のように考えられる。それは、マントの場合、強度をもって迫ってくることよりも、穏やかに、幸福感にみちて、仄かなものとして立ち現われてくる。
“ブラウス”という作品は、新入りの家の召使の物語である。彼は、十五歳なのか十六歳なのか分からない。三か月この家で働いている。家の女主人は口やかましい人ではない。とても穏やかな家なのだ。上の娘は映画の歌曲を歌い、下の娘はブラウス作りに夢中なのだ。その召使モミンが、家の娘に恋心を抱いていく。モミンは、下の娘があるポーズで見せるわき毛を凝視する。この短編の場合、腋の下の毛玉というフェティッシュな欲望は、社会制度としての婚姻とは相違して、人を愛する平等の権利を言い表しているようで爽やかである。
マントは、人間のフェティッシュな嗜好について驚くほどストレートに語ることができる。他方で、インドの惨劇=分離独立とコミューナルな暴力についても、マントはこの重い題材を避けることなく正面から取りあげる。
“コール・ドー”(Khol Do未詳)は、1947年の分離独立の惨劇についての小説だ。
老人が(難民)キャンプで意識を取り戻すと、孫娘のサキーナがそばにいない。母親は殺された。しかし、サキーナは守ったはずなのだ。老人のサキーナ捜しがはじまる。・・・この短編には、分離独立の動乱に関する暴力の直接的な描写はない。そうではなく、老人の孫探しにおける希望と絶望が惨劇のリアリティを、統計数字とは違う個における現実を、十分すぎるほど読者訴えてくる。
“ラーム・キラヴァン”もインド・パキスタンの分離独立に伴う混乱・暴力・惨劇を書いている。ただし、“コール・ドー”が、個にとっての悲劇の実相(行方不明の孫を探す)を捉えているとすると、“ラーム・キラヴァン”は、ムスリム・ヒンドゥー間の憎悪・殺戮の不条理・愚行を、それを引き起こすイデオロギーを、作家のところへ通う洗濯人との長い交流を通して、問う。
作家が貧しかった時から物語は始まる。支払も滞りがちだが洗濯人のラーム・キラヴァンは日曜ごとに洗濯物を律儀に作家のところへ届けにくる。作家が結婚し妻を交えた交流が続く。ある時は、ひどい下痢に苦しむラームを妻は病院に運び、介抱するのだ。独立が宗教対立を激化させ、日に日に状況は悪化してゆく。妻は、一足先にラホールに遁れる。不穏な状況においてもラームは洗濯物を届けにくる。作家は、身の安全のためにもう来ないほうが良いとラームに諭すが、ラームは作家の忠告を聞こうとしない。いよいよ作家がパキスタンに遁れなければならなくなったとき、洗濯物をとりに、いや最後の別れを告げにラームのところに向かう。「洗濯人のラーム・キラヴァンの家はどこか」、と尋ねているうちに、作家は気が付けば、こん棒を手にもつヒンドゥーの洗濯人たち=暴徒に取り囲まれていたのだ。
作家のメッセージは、明確である。人間的な交流にムスリムもヒンドゥーも(カーストも)関係ない、それにもかかわらずそのような交流を破壊し対立を煽り立てるものは一体何なのか、という問いなのだ。一コマ一コマの積み重ねとしての人間同士の長い交流ではなく(マントの場合、病に弱った者を心から介抱することは極めて重要である)、大きな括りでムスリムやヒンドゥーと捉えてゆく時(それはおそらく近代の怠惰な観念だろう)、具体的な生命をもった交流を破壊し悲劇をもたらす。
フェティッシュなるものばかりでなく、巨大な暴力についても受け止め、見据え、書けるところがサーダット・ハッサン・マントの大きなところである。ただ、ここでは、フェティッシュ、というよりは人間のある種のこだわり=オプセッションについてのマントの物語をもう少し辿ってみたい。
“自由のために”も、ある意味、偏執についての物語だ。
作家はサンダルを買いに街にでると、昔のクラスメイトで活動家・闘士であった友人に偶然再会する。今は、靴屋の店主に収まっているのだが、その店には、奇妙なことにゴム製の履物を置いていない。作家は、もと闘士の店主からゴム製の履物を置いていない理由について長い話を聞くことになるのだ。革命(彼の場合、反英独立運動ではなく革命だった)、政治についての屈折した思いが(屈折とは何と軽薄な言葉だろう、ある孤児の女(性)との恋と結婚、アムリトサルの宗教指導者との交流、等々それは情感に溢れたひとこまひとこまの話が続くばかりでなく、政治に係る者が、普通の生活ができなくなる、あるいは汚辱のこの世に子をもつ罪・心の痛みが語られる)ゴム嫌悪となった経験を語る。革命・政治についての傷心・懐疑・幻滅とゴム嫌悪の結びつきはやはり奇妙であるけれども、マントは、そういう人間の痛みと悔恨の経験を、ゴム嫌悪という固執として語るのだ。若い日々の輝き(自由への夢か)とそれが潰えてゆく幻滅がゴム嫌悪として語られるところがマントの特長であり、リアリティである。
“自由のために”は、過去の経験が、ある固執(ゴム恐怖)となって男を痛みつける物語だ。この場合、固執は、現在と未来の彼の生存を攻撃し続ける。重い罪を背負った人生だ。
また、違う種類の固執―どちらかというと否定的な展開となる―についても、マントは書いている。因襲やありきたりの願い(子を授かりたい、というような)が過剰になってゆくとき、マントにおいては、世界は捩れ閉ざされる。マントにおける過剰なものとその逸脱は、ありきたりの願いを強化しようとすると雁字搦めの抑圧に傾く。
次の二篇は、人間の過渡な願いが暗い不幸・破綻を招いてしまう恐れのようなもの、否定的なケースを語っているように思える。
“カーレド・ミアン”(Khaled Mian、カーレドは愛する息子の名前)という短篇は,穏やかでごく平凡な家庭を物語の舞台としている。この小説の場合、若い父親が幼子の健康を心配するあまり家の衛生に病的な神経を使うことが固執になっている。その過渡な衛生観念は報われない。固執がネガティブに機能するケースなのだ。
“シャー・ダウラー寺院の鼠”は、その寺院への参詣・参拝によってやっと男の子を授かる。しかし、最初に授かった子は、「寺院の鼠」に返納しなければならないという(一種の生贄か)。過剰な願いが奇妙なものに憑りつかれ捻じれ、不幸をもたらす運命を描く。マントは、しきたりや迷信への固執を拒む。
マントの場合、固執ややりすぎは、それが因襲や法の限界に搦め捕られてゆくと人を押し潰す。だが、固執ややりすぎが、世の常識やしきたり、あるいは法を打ち破り乗り越えていくとき、思いもよらない新たな境地がひらける可能性・夢を物語る。それが、マントの真骨頂なのである。
“免許”では、仕事は一流だが風変わりなところのある御者が、客の少女にひと目惚れし、拉致し、結婚する。違法行為である。少女の家族の訴えで、御者は逮捕され入獄するが、少女=御者の妻は家に戻ることを拒み、夫の留守、御者となっておおいに活躍する。この短編では、マントは明らかにやりすぎ人間達に声援を送っているようなのだ。ただ、物語の結末は少し悲しい。

サーダット・ハッサン・マント
1912年パンジャーブのルディアーナに生まれる
家は、カシミールモスレムの法律家の家系とのこと
学業については紆余曲折があった
脚本作家、記者として、マサラ・フィルム勃興期を伴走する
ウルドゥ語で小説を書いた
(ウルドゥ語による小説表現の意味・文化的な背景については
翻訳者Aatish Taseerの冒頭のエッセイに詳しい、それはすごく深い)
1947年、分離独立の混乱のなか、ボートでカラチに遁れる
小説表現に関する猥褻の容疑で六度法廷に引き立てられる
収監と強制労働の恐怖を感じていた
Aatish Taseerは、パキスタンでの生活がマントを破壊した、と言う
パキスタンのイスラム政治の不自由からか
インドへの帰還を模索していたともいう(冒頭のエッセイによる)
1955年ラホールで過渡の飲酒がもとで早世(42歳)
サーダット・ハッサン・マントを読んでゆく。それはありきたりの正義を疑うこと、人間の固執=フェティッシュなるものへの共感を強めること、あるいは巨大な暴力に抗議すること、それらに近付いてゆくことであるかも知れない。マントは、やりすぎ人間のための文学、実験場である。
(追記)
先に紹介した『ボンベイストーリー』(記事番号70)との収録作品の重複は、“テン・ルピー”と“匂い”のみ。どちらの選集から読んでも、マントの、柔らかで、優しく、奇跡のように輝く、この世の悪に立ち向かう超越した清潔感、に触れることができる。お節介を承知で言うと、翻訳の英語は難しくない。
サーダット・ハッサン・マントは、
1947年のイン・パ分離独立にともなう混乱の悲劇を
書いたことで著名な作家だ。
自身も、舟でボンベイからカラチに逃れた経験をもつ。
この『ボンベイ・ストーリー』は、
それとは少し違う。
規格はずれの人間の、フェティッシュについて
―その多くは娼婦である―愛情深く透明感をもって語る。
それは、時として、まるでこの世の
奇跡を目撃するかのようだ。
カール・マルクスは「愛は愛のみと交換されるべきだ」と言った、と聞いたことがある。
南アジアの近・現代小説を読んでいくと、カースト問題が様々なかたちで提議されてくる一方で、なお多くの小説のいたるところで、遊女・娼妓・娼婦の登場・活躍に突きあたる。少しだけ記憶を辿ってみても、プレームチャンドの『横領』Munshi Premchand, Gaban (1931)に登場してくるムスリムの娼婦は、勇敢で、気高く、強く、正義であり、権力のなかに巣くう悪と闘うために恋敵との連帯をはたす。シャラットチャンドラの愛人も、自伝的作品『シュリカンタ』Saratcandra Cattopadhaya, Srikanta (1917-1933)によれば、もとは王侯貴族を相手にする高級娼婦であった。彼女の拠点、パトナでの豪族との宴会に紛れ込んでゆくシュリカンタは、場違いをとおりこして不思議の国を彷徨する、インド叙事詩における王子の再来を思わせた。もと高級娼婦の歌姫は、優しさと毒との両方をもってシュリカンタを迎える。そして、彼女自身について言えば、プレームチャンドの場合よりも、さらにナイーヴであり壊れやすい。捉えどころのない両義性に魅了された。・・・クシュワント・シンの『首都デリー』(結城雅秀訳勉誠出版、原著1990年刊)では、ジャーナリストの主人公が、ヒジュラ(半陰陽)の娼婦バーグマティへの愛を「わが生涯の情熱」と宣言する。それはこの世のすべての人種=宗教的緊張・対立・暴力を融和させ、和解への昇華を約束させる祈りのようでもあった。
なぜこのように娼婦(この文章の文脈では何と呼ぶのが一番適切なのか迷う、春をひさぐ者でもなく性労働者というのも違うと思う)のことを言うかと言うと、サーダット・ハッサン・マントの『ボンベイ・ストーリー』は、そのほとんどの短編が、ボンベイの娼婦たちに捧げられた物語だからなのだ。マントは、ボンベイに映画産業が興る頃、また繊維産業の隆盛が多くの働き手をこの都市が吸引していた頃の、つまり1930年代後半のボンベイに生きた娼婦たちを、リアルタイムで、あるいは少し時間をおいて書いている (ついでに言うと、当時ボンベイには3~4万人の娼婦がいた、そして現在は、少なくとも45万人もの娼婦いると推定されている、巻末の解説による)。この時代の違いは、決定的なことのようにも、あるいはとるに足りないことのようにも思える。なぜなら、サーダット・ハッサン・マントは、極めて例外的なものを描く志向性を本来的にもつ作家なので、30年代後半の例外が、現代の例外と通底しているかも知れないからである。
閑話休題。ボンベイは商工業の都市である。また、それはギャングと娼婦の街でもある。だから、ボンベイの有名な娼館ストリートについての写真集『フォークランド通り』がしばらく前に出版されているのは、ごく自然なことなのだ。写真家は、アメリカ人の女(性)で(マグナム所属)、彼女はこれらの写真を撮るために、数か月この界隈に住み、被写体となる女(性)たちとのある種の信頼関係をつくりながら写真を撮りためていった、と言う(路上の娼婦からトランスヴェスタイトへと信頼を広げていった)。今回『ボンベイ・ストーリー』を読んだのをきっかけに、この写真集のページを久しぶりにめくってみると、ある写真につけられたキャプションに眼がとまる。ある娼婦の言葉、「村には帰れない、罪多い業いのため、もう二度と両親には会えない」と書かれている。

写真集『フォークランド通り』の一ページ
Mary Ellen Mark, Falkland Road, Alfred A Knopf Inc., New York 1981
カンタ(写真の女性)の言葉には、
娼婦という業についての罪意識が表明されている
(この写真集でもっとも美しい女(性)の写真に、「罪意識」
の言葉を添えるのは、編集者の作為、写真家の思い違い、
ではないかと、疑り深い私の心が動く)
娼婦というと(この場合は遊女あそびめ、と言うべきか)、『梁塵秘抄』の有名な歌についての中世史家横井清氏の寸言が、また思い起こされてくる(『現代に生きる中世』西田書店1981年刊)。つまり『梁塵秘抄』にある「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとやうまれけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ動(ゆる)がるれ」について、そのある種劇的な解釈の転回について横井氏は書いているのである。この歌の「我が身」が、遊女であることは定説になっているそうだ。しかし、長いことこの歌は、罪多い穢れた遊女が(仏教的な罪業意識による)子供らの純真に遊ぶ声を聞いて、こころ揺らぐ歌とされてきた。それに対しもう一つの解釈が可能であることを横井氏は指摘する。つまりこの歌は、遊女のやましい心というよりは、「無心に遊ぶ声(うたごえ)に応じて[・・・]、自分の体もおのずと動きだしてくる」ような、遊びに開かれた肉体の律動を歌っている、かも知れないと。どちらの解釈が、より正しいのかの決着はついていない。近年、「明るい中世」の見直しの機運が趨勢を占めるようになってきた。しかし、遊女が罪多いと思っているという解釈は、近代人の娼婦に対する思い、あるいは近世の為政者のイデオロギーの無自覚な流用であるかも知れない、と思うのだ。
サーダット・ハッサン・マントの『ボンベイ・ストーリー』における娼婦たちは、写真集『フォークランド通り』のある娼婦の言葉にある罪意識とは無縁である。罪意識がまったくないかどうかは分からない。しかし、罪の意識が表明されることはないし、また、まったく罪の意識とは無縁な娼婦たちも多く登場する。彼女達は、畑を耕したり、洗濯をするように仕事に精をだし、楽しく歌い、隣人への思いやりをもち、我儘を言い、時にナイーヴな悩みをもつ。己の身の不幸を嘆くよりも、彼女たちは、今、現に生きていること自体のなかにある。さらに言えば、彼女たちは、金銭を見返りに性をひさぐ者というよりも、何か癒しのようなものを客に与え続けているような存在にも思えるのである。
☆☆☆
第一話、“クシュシヤ” Kushushiyaは、娼婦の客引きの話。マンガロールから来たばかりの新人の娼婦のところに客引きが訪ねてゆくと、娘が半ば裸体でいる。客引きは、裸でいる娘を見つめ、裸の自分が(客引きが)娘から凝視されているような錯覚を覚える。僕は、この短編で完全にノックアウトされた。ボンベイの陋巷の光と暗闇、湿度と熱とが交差するところにうっすらと肉体が浮かび上がってくる。その肉体とは娼婦の裸体であり、同時に自分の裸体でもある。まったく素晴らしい短編小説だと思う。
第二話、“テン・ルピー”は、遊びざかりの娘に(ここで言う遊びとは、ケンケンとかオハジキとかの子供の遊びのイメージ)、金持ちの客がつき、ドライブに出かける。娘のサリータはドライブが楽しく、歌いだす。サリータの無邪気な幸福感が、欲望を抱えた男達に感染してゆく。非常に乾いた文章で描かれる。最終場面、海岸に着き、波と戯れる彼ら、彼女の姿が忘れられない。海の水は、男たちの汚れた欲望を浄化しえたのだろうか。
第三話、“不毛な愛”では、寂しい夜の街で、煙草の火を借りた男から彼の悲恋物語を聞く。それはまったくのウソ・デタラメの作り話だった。
第四話、“侮辱”も、僕は好きだなー。夜おそく客引きに起こされた彼女は、今更仕事はしたくないと思うが、隣人が金を必要としているので、ヒト稼ぎに出かける。客の車に乗り込もうとしたとき、客は奇妙な叫び・言葉を発し逃げ去る。彼女は、その言葉の意味が分からないのだが、傷つきいろいろに悩む。その悩みかたがとてもいいと僕は思うのだ。
第五話、“匂い”は問題作で、巻末の解説によれば、この作品によって作家は法廷で裁かれることになる。また、進歩主義文学運動(IPWA、ムルク・ラージ・アーナンドも運動の中心にいた)からは、退廃的すぎるという烙印をおされる。話は、容易に想像される通り、ある娼婦の匂いを溺愛する男の物語だ。匂いへの偏愛があまりにストレートなので、猥褻なものへのほのめかしは消失している。
第六話、“お大人ゴピナトゥ”も奇妙な感覚をもった小説だ。金持ちは、延々と宴会を繰り広げ鷹揚に金を散財する。ただそれだけの物語に陰影を与えているのは、その宴会で人気の歌姫が、とある王侯の妻に嫁いでいくことなのだ。静かに歌姫が消えてゆく感覚と、皆んなが、何となく彼女の幸せを期待する風が、爽やかでさえある。
第七話、“ジャナーキ”、ペシャワールの美しい娼婦を、友人が映画俳優にしてやってくれと頼みこんでくる。この小説が味わい深いのは、娼婦がいかにして女優になってゆくか、いう点ではなく、病に倒れた者を、必死に看病する姿なのだ。それもいくつもの病がかさなり、愛する者の命を救うために盗みまで働く。少なくとも、この小説における愛とは、愛する者を、命がけで看病することなのだ。
第八話、“ペールン”は、パルシー(イラン系ゾロアスター教徒の末裔)の女だ。彼女を愛する男は、失業中で、彼女に会いにゆくのに“作家”から電車賃を借りてゆく。ペールンはツキをはずす女で、彼女と付き合うと職を失う、と男は信じている。男は、その不運を呼び込む彼女のパワーを愛している。
第九話、“不作法”は、共産主義者の女闘士・イデオローグおよびその連れ合いとの交流を描いた作品。・・・この短編を読むと、作家の共産主義に対するシンパシーが理解できるのだが、自分はよりアナキストに近いのだ、と言っていたようにも思う。いずれにしても、この短編は、ある誤解がクライマックスを用意する。日常の些細な思い違いが、堅固な思想の装いを疑う根拠にもなり得る、ということを語っているのかも知れない。
第十話、“ハミッドの赤ん坊”。ゴパルという男が、ラホールからボンベイに遊びにやってくる。彼は、小金をもっているが横暴だ。ハミッドは、ゴパルの相手をしていやいや娼館で遊ぶが、ある娘に惚れこんでしまう。ハミッドは、その娘に入れ込み溺れてゆく。そうこうしているうちにその娘に子供ができる。ハミッドは、自分の子供の誕生をはばもうとするのだが・・・。
第十一話、“ムーミー”。彼女の名前は、ステラ・ジャクソンというのだが、皆は彼女をムーミーと呼ぶ。彼女は、アングロ・インディアン、つまりハーフの年増の娼婦だ。ボンベイの映画産業が波に乗り出したころの、製作者や脚本家や俳優たちの、それもメジャーというよりは下請けや孫請けをするような、あまり豊かではないがエネルギッシュな映画人達の、ドンチャン騒ぎの毎日を綴っている。個性的というよりは奇妙な観念をもつ人々を、作家は本当に愛しているように思える。そんな映画人たちの日常に、事件がもちあがる。この事件にたいしても、ムーミーという娼婦の判断は的確で、事件の拡大を防ぎ、仲間を救う。
第十二話、“シラジ”。ある客引きが、シラジという娼婦に恋をする。シラジは、美人なのだが(マントは、どちらかというと不細工な女に共鳴する)、大変に風変わりな娼婦で、たとえば二月に一度しか髪を洗わない、客ともよく喧嘩をする。しかし、客引きのドゥーンドゥDhundhuは、彼女が好きなのだ、と照れながら告白する。シラジは、他の女と違って拝金教に犯されていないと言う。そう、彼女の中には、性の奴隷ではなく、聖なる自由が貫徹している。
第十三話、“モゼッル”。シークの男が、ベネ・イスラエル(ユダヤ系インド人)の娘に恋をする。彼女は表向き娼婦ではないようだ。当時のベネ・イスラエルの娘は木靴をはいていたんだなー、ということが分かる。彼女の言葉は辛辣で、情けがなく、身勝手だ。シークに、「そのふざけた髪を切ってくれば結婚してやる」と言うが、そのシークが覚悟を決め、髪を切ると、彼女は他の男と一緒に逃げてしまう。しかし、そんな彼女が、そのシークとともに、命をはって人助けの行動にでるのだ。
第十四話、“マーマッド・バーイ”Mammad Bhai。書き出しがいい。ボンベイのファラス通りをちょっと入ったところに、皆が白い小道と呼ぶ通りがあって、そこにある食堂は、娼婦たちが屯し、客引きをしているいわくつきの場所なのだ、と。そして、そのあたりににらみを効かしているギャングが、この短編の主人公、マーマッド・バーイなのだ。彼は伝説のナイフ使いであり、恐ろしくもあるが人助けもする義侠心あふれるギャングである。
・・・しかし、この短編における英雄像は、いささか型にはまっていて、退屈に思える。分かりやすいが奥行がなく、マントが得意とする例外的なものへの驚きがない。マントが売文に走った作品ではないのかと、疑いたくなる。つまり僕はこの短編を楽しむよりは不満をもった。

サーダット・ハッサン・マント
1912年ルディアーナ(パンジャブ州)近郊の村で生まれる
家は、カシミールムスリムの法律家の家系であった
学業については、紆余曲折があった
1936年にボンベイに移る
映画雑誌の編集に携わるかたわら、多くのヒンドゥー映画の台本を書く
1941~42年、デリーでウルデゥ語ラジオ放送の仕事につく
1947年、舟でボンベイからカラチへ脱出、ラホールに辿りつく
仕事は減り、とりわけ家族を養ってゆくのに困窮する
1955年、粗悪なアルコールの過渡の飲酒がもとで、42歳で没
☆☆☆
ペシャワールの美しい娼婦を、映画界に売り込もうとする第七話で、作家は、彼女ジャナーキと次のような会話を交わす。
「この業界には二つの人種がいるんだなー。自分の経験から痛みを理解する人間と、他人の苦しみから痛みを理解する人間とがね。どっちが本物だと思う?」
彼女は「自分の痛みの方」と答える。
作家は「まさしくその通り」と言う。
これは、他者の痛みをどう了解し、それに対していかなる行為をなし得るのか、という人間の倫理を問題にしているのではない。俳優の演技について、いわば表現論を語っているのである。
この挿話は、また、この作家の小説作りについて語っている、とも言える。ハッキリしているのは、マントという作家が、自分が経験した痛みについて書こうとしている、点だ。マントは、取材や研究によってではなく、自分の経験した痛みについて書き、ある場合にはそれを変形することはあっても、同時に彼の痛みを追体験している。マントは、直接的経験の迷宮に彷徨う作家である。そしてとても不思議なのは、読者はその痛みについての小説を読みながら、気持ちが大きく解放されてゆくことなのだ。
マントは、作家になっていなかったら犯罪者になっていたかも知れない、と言ったという(巻末の解説による)。ハッサンのこの言葉は、彼の小説を読む人々に衝撃という以上のものを感じさせる。なぜなら、彼の小説に誰も犯罪の匂いを感じないないからである(ただし、作家後期の短篇は、糊口を潤すためだったのか、犯罪小説仕立てのけれん味が目立つ)。そうではなく、犯罪者になっていたかも知れないという彼の言葉は、ありきたりのものでは満足できない作家の性向を非常に見事に表現している、と思える。
ハッサンという作家は、例外的なもの、極端なもの、計算不能なもの、不合理なものの表徴を、特別な愛着をもって描く。それは、ある種のフェティシズムを連想させる。そしてハッサンの場合、そのフェティッシュの対象はモノではではなく、人間の、人の生き方への、生命についてのフェティシズムであるのだ。
ハッサンは、あるべき生活・良風美俗のなかにしこまれた欺瞞に抗議しているのではない。そうではなく、ある種の至高性を、美の顕現を、宇宙への呼びかけを、聖なる表象を例外的で極端な不条理のなかに懸命に探しだそうとしているようにも見える。そのようなものが容易に見つかるわけではないにもかかわらず、である。そして、ハッサンの短篇小説の猥雑な形象のむこうには、透明に光輝く美しい魂がたしかに仄見えるときがあるのだ。それは、まるで奇跡を目撃するかのようでもある。