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65.アミタヴ・ゴーシュ『ガラスの宮殿』(小沢自然、小野正嗣訳、新潮社、原著2000年刊)

ガラスの宮殿アミタヴ・ゴーシュ『ガラスの宮殿』は
1885年のビルマ王国の滅亡から
アウンサンスーチーの民主化運動まで
およそこの100年間のビルマを語る
始まりは ベンガルからサンパンに乗って
マンダレーに辿りついた孤児の少年なのだ
少年の眼が瑞瑞しい冒険を捉える
チーク材事業における成功
運命的な恋の成就
さらに子供 孫にいたる三代の
また彼らにかかわる数家族について
僕らは楽しみながら
この大河小説を読み進むことができる
ビルマの艶やかな色合いと
そこに亀裂をいれる異常音によって
暖かで かすかに感傷的な物語に
少し酩酊してみよう


   『ガラスの宮殿』はいわゆる大河小説だ。
   この小説における大河は、インドのガンジス川でなくビルマを流れるイラワジ川なのだ。
   ラージクマール少年は、サンパンにのってベンガルからやってきた。疫病で家族全員を失ったからだ。孤児となりサンパンの雑役をしながらマンダレーに辿りついた。

   ところで、ベンガル人やインドの人々にとって、ビルマとはどんな土地なのか、と僕は思う。彼らにとりビルマという土地には特別な思い入れがあるとかねがね思っていた。
ミーラ・カムダール『祖母の彫りもの』Mira Kamdar, Motiba’s Tattoos, 2001を読むと、ビルマが、あるいはラングーンがインドの人々にとって何か幸福の別天地・楽園であったように思えてくる。苛酷な自然、人口稠密なインドでは得にくい成功のチャンスがビルマにはあったのかも知れない。また、『デーヴダス』(鳥居千代香訳、出帆新社、原著1917年刊)のシャラットチャンドラにしても作家的成功をおさめる以前、ラングーンに出稼ぎにでていた。自伝的作品『シュリカンタ』Srikannta, 1917~1933では、義理の母親にビルマの道は黄金でできている、と聞かされる。シュリカンタの愛妾は、ビルマに行って戻ってきた者はいない、とも嘆く。カーストが解消される土地・ビルマについてのシュリカンタの驚愕も興味深い。いいずれにしても、インドの人々にとって、ビルマは、とりあえず飢えずに食っていけるところであるとともに、場合によっては、成功のチャンスのある場所であり、さらにインドにはないある種の自由があったのだと思う。

   『ラーム神話と牝牛―ヒンドゥー復古主義とイスラム』(小谷汪之著、1993年平凡社)という本を読むと「ビルマ向け乾肉問題」を扱った章があってそれがずっと気になっていた。それは、牛の屠殺にたいするヒンドゥー系議員から問題提議・攻撃と、英領インドにおける自治権の問題をあつかっていた。しかし、僕の素朴な関心は、輸出された乾肉がどのようにビルマで消費されていたのか―食肉を輸入できるビルマの財力とどんな階層のビルマの人々がその乾肉を食していたのか―そのイメージが掴めないでいたのだ。この小説を読むと、肉を食することを好む人々(この小説ではより豚肉に比重があるか)なのだという一端を見ることができ、「ビルマ向け乾肉問題」が出来する背景をうまく理解できる。またその理解はインドとははっきりと異なる食文化、文化をビルマに感じられるのだ。諸文化におけるタブーは、まず食に関して集中的に現れる、という僕の印象からすると、ビルマにおける豊かな肉食のイメージはかなり重要に思えるのだ。

   『ガラスの宮殿』を読んでいると、作家の、あるいはインドの人々がもつ「ビルマはいいところだ」という感覚が伝わってくる。「ビルマはいいところだ」という思いには、ビルマでのさまざまな記憶が―人々の集合的な記憶も含め―おさまっているのだろう。柔らかくて、滑らかで、豊かで、美しく、明るく、優しく、そうちょうどインドのモンスーンの始まりの降雨のような、また、ラージクマールの運命的な伴侶ドリーのようでもある。

   『ガラスの宮殿』は、大河小説であるから、あまり物語の筋を説明する気がしない。ただ、年代的なことを言うと、1885年第三次英緬(えいめん)戦争から―すなわち、ビルマ王国の終焉―1980年代後半から始まるアウンサンスーチーの民主化運動までをカヴァーしている。地理的には、イラワジ川を中心に、インドのカルカッタ、ボンベイそして東にはマレー半島までの広がりをもつ。少しだけニューヨークも出てくる。孤児のラージクマールをとば口にして、孫、曾孫までのおよそ百年間の出来事とそこに生きた人たちの恋、チーク材事業、冒険、ゴム栽培農場経営、政治的アンガージュマン、戦争、夢、記憶などが交錯する。

   『ガラスの宮殿』という大河小説を読むのは楽しい。しかし、ここでは大河ように流れる物語ではなく、この小説における異常音、艶やかな肌の傷痕について触れてみたい。
まず、ラージクマールとドリーは孤児なのだ。
   インドの小説を読んでいると、多くの孤児と未亡人が登場する。孤児と未亡人は、いまだすぐそばにある苛酷で不幸な現実である、とあらためて感じる。孤児と未亡人は、インドや発展途上の国においては、冷徹な不幸だ(逆に、工業化・近代化の進んだ国においては、孤児や未亡人という言葉を耳にしなくなっている現実があるように思う)。ただ、アミタヴ・ゴーシュの孤児は、大きな成功のためのリセットでもあるようだ。ラージクマールの隠し子(これも小説の予定調和に亀裂を入れる異常音のひとつ)、イロンゴも父の不在によって社会的成功者になってゆく。
   機械文明に対する憧れと執着も際立っている。サヤ・ジョン(ラージクマールの親代わりのような人物)のアメリカに渡った息子マチューは車についてマニアックだ(彼は、車の事故で死亡する)。ラージクマールの心優しい息子ディヌ(彼の小児麻痺も滑らかすぎる物語における異常音)は写真(機)が大好きだ。恋人のアリソンは、自分よりも写真に夢中になっているディヌに嫉妬する。光輝く飛行機の到来については、インド人エリート行政官の未亡人を通して描かれる。
楽園を想像させる豊かなビルマに魅力にみちた機械文明が到来する。その異常音、火花の散りかたをアミタヴ・ゴーシュは巧妙に描く。
   もうひとつ忘れてならない異常音がある。日本軍侵攻による逃避行で、ディヌはアリソンを捨て姿をくらますのだ。アリソンは別の男(アルジャン)の子供をやどしていた。心優しいディヌはそれを分かっていて受け入れていたはずだ。しかし、ディヌはアリソンからすっと離れてゆく。優しい心にも、もっとも残酷な復讐が宿り得る、ということなのか。謎だ。アリソンは、日本軍への無謀な発砲により命をおとす。自死には思えない。

   また、マレーシアに侵攻してきた日本軍は、これもまたひとつの大きな異常音であって、これまでの彼らの築いてきた生活、財産、社会の調和を破壊する元凶である。しかし、アミタヴ・ゴーシュが描く日本軍の姿は、影のようにしか描かれない。その数少ないディティールが、自転車に乗った軍隊なのだ。イザベラ・バードは朝鮮に進軍した日本軍を小人の軍隊と呼んだけれども(日清戦争時)、この場合の自転車は、欧米の輝ける機械文明と比較して、アジアの、日本の野蛮な貧しさを表しているように思えてならない。

   インドの人々にとって、ビルマは、アメリカンドリームのような土地だった。そして、アミタヴ・ゴーシュの『ガラスの宮殿』という小説は、アメリカンドリームのような艶やかな煌めきと、にわかに立ち上がってくる異常音によって成り立っている、気がしてくる。それらの異常音に共通するのは、アミタヴ・ゴーシュが表徴しようとしているインド的なもののかずかずであるかも知れない。他方で、それら滑らかなもののうちの衝撃を何度か経験してみると、ある諦念のような儚い感情がやって来るかもしれない。つまり、少し飛躍して言うと、所詮ひとりの人間などは、イラワジ川の大きな流れからすると、いかにもちっぽけな存在に過ぎない、と。ラージクマールの冒険も、恋も、事業の成功も、稲妻の閃光に思えてならない。一人の人間の一生という時間の短さと、イラワジ川の流れ続ける時間の遠さを思いたい。しかし、ゴーシュは小説の最終段で、ビルマにおける希望を語っている。人の一生は短いが、夢は形を変えながらも引き継がれてゆく。・・・ビルマに少しでも関心のある人は、この本を読むとずっとビルマが近づいてくるに違いない。ビルマに関する知識が増えるというのではなく、熱帯の腐りかけた果物のニオイに似たビルマを想像してみたくなるのだ。

プロフィール

August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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