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58.ヴィジャイ・テンドゥルカル『カニアダーン』Vijay Tendulkar, Kanyadaan, translated by Gowri Ramnarayan , published by Oxford India Paperbacks in 2002.

Bijay1_convert.jpg 二十歳になる娘が 詩人のダーリット(不可触民)と
結婚すると突然言い出す 
進歩的な考を持つ父親は娘の意志をうけいれ
披露宴では祝福のダンスを踊る
結婚したジョッティはダーリットとの考え方のギャップ 
そして暴力に晒される

テンドゥルカルの芝居『カニアダーン』は
インドの漆黒の闇 
あるいは人間・人間社会のもつ闇に接触する 
その接触の感覚は 恐ろしくもあり 
また何か怖いものみたさの
好奇心をそそるようでもある
 



  インドの現代作家で、テンドゥルカルは、読んで「絶対に」ソンのない作家だ。インドの闇にふれつつ僕らの想像をふくらませ、またインドでなければ味わえない雰囲気をもっている。

  この芝居の舞台となる一家の主は、もうじき六十歳になる社会党の幹部で、州政府の議員だ。カースト制に対して、改革・廃絶の必要を信条としている。そんな父親に娘は、昨日あった男と結婚するのだと突然言い出す。その男はダーリットだと言う。

  娘の婿であるダーリットについても、この芝居におけるテンドゥルカルは辛辣だ。娘婿のアルンは、才能ある詩人なのだ。しかし、アルコール飲酒と暴力がついてまわる。アルンは実家に戻ったジョッティに自分がふるった暴力を酔って詫びるのだが、悪い自分の腕をこのナイフで切り落とす、と家族の前でひどく残酷な言い方をする。

  この芝居の、幕切れは、ダーリットに嫁いだジョッティが、決然と、ダーリットとして生きていく覚悟を宣言するところで終わる。「今、私はブラフマンの娘ではなく、死肉あさりアルンの妻だ。私はハリジャン(神の子)という言い方が嫌いだ。不可触民であり、死肉をあさる者なのだ」と。

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ヴィジャイ・テンドゥルカル
1928年マハーラーシュトラ州コールハープルに生まれる
2008年プネーで死去
テンドゥルカルはマラーティ語で書く作家だ
またアメリカの大学では劇作を教えていた、という

  この芝居を観る観客の良心は強度の揺さぶりを経験する。まず父親の理想主義的が笑われ、つぎにダーリットの残酷なまでの姿が寓意として示される。そして最後に、ジョッティが、ダーリットへの自己変革を、つまり虐げられたものへの連帯は、自分を安全地帯において可能なのか、ということを観客に迫る。

  テンドゥルカルの芝居は、インドの、あるいはこの世の闇を照らしだす。劇場は闇への通路を開き、芝居は闇との対話において観客を宙吊りにする。テンドゥルカルがしめす闇は、たとえば子供を誘拐し、腕や脚の四肢を潰し、物乞いさせるダーリットとジョッティが語るとき、僕らを充分に恐怖させる。しかし、それはまた何か怖いものみたさの好奇心をそそるようでもある。

  この芝居『カニアダーン』は、インドにおけるある社会変化を扱っている。その変化は、初めいくらか滑稽で、不条理にも見える。父親の理想は、軽やかに娘に転移し、娘がその負荷と痛みを一身に背負う。V. S. ナイポールなら、ヒンドゥー的調和に裏打ちされた社会がひび割れ、社会的規範を喪失した個人の姿を、ジョッティやダーリットのアルンに認めるだろう。ナイポールは、七十年代においてはそれらの個人を社会の異物として否定的に捉えていた。が、八十年代に入って彼らは自分自身の足で歩きだし、インド社会は躍動しだしたのだ、と評価を変える。ジョッティとアルンは、千年のヒンドゥーの静謐・不動・純潔・超然の退廃と後進性を超えてゆくことができるおのだろうか。僕には良くわからない。しかし、ナイポールはその胎動が確かに聞こえる、と繰り返し言う。社会変革は、月並みな仕方でなく、いつも過剰で異様、あるいは逸脱としてやってくるのかも知れない。

5. Vijai Tendulkar, Five Plays : Kamala, Silence! The Court is in Session, Sakharam Binder, The Vultures, Encounter in Umbugland, New Delhi, Oxford India Paperbacks 1995, First published 1992.

テンドゥルカルは、インドの闇に深く関わりながらも
インドにおける物語の楽しみと偉大な伝統を
正当に継承する者に違いない

   
V.S.ナイポールは、テンドゥルカルについて「狂暴」(violent)な作家であると言っている。ナイポールが言うヴィジャイ・テンドゥルカルの「狂暴」とは、何だろう。人身売買・間引き(嬰児殺し)・姦通、路上の者を拾ってきて情婦とすることを指しているのだろうか。しかし、テンドゥルカルの劇作の一番いいとこは、インドの凄惨な闇を取り上げていることではない。テンドゥルカルの劇作が、インドの闇と分離しがたいとしても、それはテンドゥルカルの劇作の本質ではない。

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表紙写真 “サカラム・バインダー”の舞台
ニューデリー2001年

  カマーラは、あるジャーナリストがビハール州の市場で250ルピーを払って買ってきて女だ。ジャーナリストは、その女を使って人身売買の実態を新聞紙上で暴こうとする。ジャーナリストの妻は、夫の記事作りに疑問を感じ、買われてきた女と会話を交わす。妻は奴隷の女の気持ちを無視する夫のやりかたに反発を覚え始める。そしてカマーラとの会話の中で自分もまた個の意思をもって生きる者ではなく、夫の奴隷にすぎないのかも知れないと思い始める。イプセンの『人形の家』にかなり近い雰囲気だ。

  テンドゥルカルの芝居を僕が飽きずに読んでしまうのは、ヒューマンなタッチではない。買われてきた女が、ジャーナリストの妻に向かって、「あんたはいくらで買われてきたのだ」と聞き、見ず知らずの偉そうな人々の集うコンファレンスにこんな汚いサリーでは出かけたくないと訴え、さらにここは居心地が良さそうなので、半月ずつダンナに仕えようと提案する、貧しい人々の言葉と論理だ。

  テンドゥルカルの芝居において貧者の言葉と論理は、強烈だ。金持ちは(より力と経済的余裕のある者達は)、貧しい者たちを支配しているようでいてコントロールできない。力のあるものは思うようにならない分、苛立ち、ある場合には残虐だ。・・・“サカラム・バインダー(製本工)”では、寺院で拾われてきた女ラクシュミーは、蟻に語りかけるによって主人を呪う。ラクシュミーは、主人のどんな仕打ちも怖れない。すでに生存を抹殺された幽霊のような恐ろしさが、むしろ拾われてきた女の方にあるのだ。

  ラクシュミーを追い出した後に拾われてきた女が傑作だ。お茶の入れ方も知らないし、お腹がすいたからナンを買ってこいと主人に命令し、ヒンドゥーの祭日でも泥酔し、もとの亭主が訪ねてくると、殴る蹴るの暴行を加える。しかし、ラクシュミーが甥のところを追い出され帰ってくると、優しい同情を示す。“カマーラ”におけるジャーナリストの妻が見せたヒューマンなタッチよりも、僕は三番目の女チャンパの示す同情の方が物語の造形において深い、と思う。

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ヴィジャイ・テンドゥルカル 1928年マハーラーシュートラ州
コールハープル生まれ 2008年没


  ナイポールは、テンドゥルカルの描く世界を「尊崇の念の消滅、家庭の終焉、独立独歩する個人、社会的混乱」という言葉で特長づけている。それは、輸入代替経済に終止符を打ち、規制緩和と開放経済の現代に繋がるインドの現実の先取りしている。その中でも、ナイポールは「独立独歩する個人」にとりわけ注目している。「独立独歩する個人」が、一番強く現れているのがチャンパだと僕は思う。チャンパは、必要であれば春を鬻(ひさ)ぐことを何とも思っていないからだ。

  テンドゥルカルが描く人々は貧しく残忍であるけれども、作家が何を告発しているのか、何がより悪であると言っているのか、僕には分らない。「社会的混乱」に翻弄され、途方にくれている姿を、あるいは熱も臭いもない乾いた極度の貧困を扱いながら、絶望とは少し違う、動揺を脱した魂の静寂・救済の秘密めいたありかを、私生児の詩人の呟きや拾われてきた女のラクシュミーの独白に、語らせている。テンドゥルカルは、社会正義の意識・観念を強く持つ作家なのだろうが、劇作においては徹底的に芸術家の魂を手放さない。テンドゥルカルの芝居にある闇は深い。しかし、同時にテンドゥルカルの芝居には、見ていて楽しく面白い物語がある。テンドゥルカルはインドの偉大な物語の伝統の継承者に違いない。

  “禿鷹”は、貧困ではなく富める人々の地獄(父親への暴力と嫁への力ずくの堕胎)を描いている。ナイポールの言う「尊崇の念の消滅、家庭の終焉、独立独歩する個人、社会的混乱」が、一所くたになったような家族だ。私生児の末っ子は詩人であり、閉じこもりがちのこの詩人と義理の妹(嫁)と関係が異色な輝きを放つ。この二人の初めの方のやりとりをナイポールは、印象深げに取り上げている。
  「・・・詩人は、心優しい義妹が『乞食に施しをするみたいにそっと』お茶をもってきたといって咎める。彼女は感情を害して答える。『義兄さんに施しとしてお茶をもってこなければならないほど、うちの門口には乞食が不足していませんよ。』しかしすでに、そうしたもの乞いに対する儀式的な態度は、もっと静かだった世界のもののようにみえる」(『インド―傷ついた文明』工藤昭雄訳、岩波書店)
  ナイポールは、詩人があらわす俗なる世界からの超絶、あるいはヒンドゥー的な退避がもはや有効ではない、と言いきっている。けれども、僕はそうかも知れないと思うとともに、繰り返し南アジアの小説に登場してくる、この種の俗世間との隔絶が繰り返しとりあげられる理由を、あるいは必然性を、現実が地獄であるならば、この種の隔絶・退避に対する思いを否定しきれないと思うとともに、それを許容するヒンドゥー教の懐の深さを思わないわけにはいかない。日本においては生存競争が平板化し、昔はあったこの種の逃避装置の多くを失ったのではないか。 

tendulkarBB.jpg     ナイポールの『インド―傷ついた文明』では、テンドゥルカルとナクサライトとの関わりが数ページを使って述べられている。ナクサライトの初期の運動に対する作家がしめした希望と、ナクサライト運動とカーリー崇拝との混淆についての作家の洞察を興味深く紹介しているのだ。しかし、この本『いつつの芝居』には、テンドゥルカルとナクサライトとの関係を敷衍するような内容は含まれていない。この問題については、また別の情報を得てから報告したい。

 

テーマ : 洋書
ジャンル : 本・雑誌

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August Party

Author:August Party
元気な南アジアの作家達をともに発掘してゆきましょう。気分でその他のジャンルも取りあげたい。
画、舟越直木作“微笑む少年”2009年

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